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2015-05-31

【澤田和弥さん追悼】澤田さんありがとう 佐藤文香

澤田和弥さん追悼
澤田さんありがとう

佐藤文香





澤田さんは早大俳研の先輩だ。

1日で100句つくろうと言い出したのはわたしではなかったのだが、たぶんわたしの東中野のマンションで、たしか目白の女子学生会館を出てすぐだったと思うから大学3年生のはじめごろだろう、何人か集まって俳句をつくるということになり、でも誰がいたかはあまり覚えていなくて、ただし澤田さんが来たのは覚えている。

なぜ覚えているかといえば、その夜結局皆家に帰らず、わたしの家でぐだぐだとしていたはずで、ベランダに出る側のカーテンに触れるか触れないかのところに、澤田さんは寝転がっていびきをかいていて、腹が少し見えていて、うわっと言うほど毛深くて、ほかのみんなと笑ったような気がするからだ。

翌朝皆を駅まで送るため全員で家を出て、あれはてっちさんだったか、何も考えずに信号待ちをしているわたしを斜めに誘導したようなおぼえがある。どうしたんですかと問えば、逆の斜めうしろで澤田さんがほぼ吐きそうな風にいて、うわっなるほどと思った、気がする。結局そのとき澤田さんは吐かなかった、それは確かだ。

寝酒して琥珀の網の内にゐる   澤田和弥




それから半年後くらいだろうか、些細な苦しさが重なって一定量を超えたらしくだめになってしまったわたしが、その日澤田さんに会うことに決めていたのは今思えば偶然で、澤田さんに会っても泣いていたように思うけれど覚えているのは早稲田の、地下鉄の出口のある交差点、わたしのバイトしていたカフェ華の見えるところの、秋の光の具合。

それは鬱というもので、そのあと躁鬱という症状に変わってわたしは今に至るわけだが、澤田さんが病院に行きなよと言ってくれなければ、もう少しだいぶだめな状態が続いていただろうと思う。




地方の県立高校で優等生、指定校推薦で大学に入り、しかし精神的に調子を崩して次の進路がうまくいかず、少しは東京で足掻いたけれども結局実家に帰り、地元の役所につとめるも辞めざるを得なくなり、無職。友達はみんな、結婚してゆく。

というのは澤田さんの人生の一部分であり、また、わたしの人生の一部分である。

誰にでもつゆだくの愛を注いだ澤田さんが、こんなに似てるところの多い5歳下の後輩に親近感を感じて愛してくれたことは言うまでもなく、わたしとしても澤田さんは恩人であったため、仲良くなった。

澤田さんとの大きな違いのひとつは恋人に困っているかどうかで、困っていなかったわたしの方は、実家に戻ったものの結婚するとかなんとか言って2年で東京に帰ることにした。しかしその彼とは上京して1ヶ月で別れたし、松山時代のバイト先のハム屋でつないでもらった東京の店では1ヶ月もたず、具合が良くなく、次に付き合いだした年下の彼の家で昼も寝ていた。その人とも別れ、そのあとも3人くらいと付き合っては別れた。なのでお互い、会うと恋愛がうまくいかない話をしていた。

プールからプールサイドに呼ばれけり   澤田和弥




最近は、銀座の小料理屋卯波が閉店するというので、澤田さんがキープして忘れていたボトルの焼酎を飲んでおいて、と連絡をもらったり、浜松の句会にゲストで呼んでくれたり、日本酒の一升瓶を送ってくれたりした。わたしは自分の仲間と飲んで、みんなで澤田さんありがとう写メを送ったり、無駄にかわいい礼状を書いて、「無駄にかわいいのが届きますが残念ながら差出人はわたしです」とメールしたりした。

そしてわたしの第二句集が出て、「天為」に句集評を書いてくれた。

第一句集『海藻標本』上梓後六年間の一六一句に佐藤文香の成長を、
 そして成長せずにいつまでも「さとうあやか」でいてくれる部分を見
 る思いがする。
            「天為」平成二七年二月号 「新刊見聞録」より

澤田さんのPCメールの表示名は「さわだかずや」なので、我々は「さ」と「か」と「や」が共通しているな、とこのとき気づいた。「さ」さいなことで「か」なしくなってしまう「や」さしいわたしたち。なんてね。

蠟梅は面会室を満たしけり   澤田和弥




わたしの句集の出版パーティーのメールを送ると、「年末から体調芳しからず、当日よもやのドタキャンの可能性もありますが、万難振り切ってなんとか参加させていただきたく存じます」とのことだったので、体調第一で、ご無理なさらず、と言ってあったが来てくれた。

ちょっと前のエキレビインタビュー(わたしの句集と双極性障害に関して)を読んだこと、澤田さんの一言がそのタイトルになっていることに気づいたことなどを話してくれた。うちの親も澤田さんにお礼を言ったらしい。

「文香ちゃん、それは病院に行きなさい」と言われて。俳人・佐藤文香「そううつ」と診断される 1
http://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20141222/E1419182685337.html

パーティーの最後のわたしの挨拶のとき、澤田さんはチャチャをだいぶ入れた。ふつうの人からすれば、調子に乗りすぎ、元気良すぎに見えるだろうが、かなり躁だな、調子わるいんだな、と思った。

終わってから「今日は勝手にピエロになって、ごめんね」とわざわざメールが来た。かわいい絵文字がたくさん使われていた。いつものことだ。心と体に気をつけてお過ごしください、と返事をした。集合写真をプリントしてみたら、澤田さんは一番うしろで『君に目があり見開かれ』にチューしていた。最高のパフォーマンスだった。




ゴールデンウィーク、恋人とどこかに遊びに行こうという話になったとき、浜松行って澤田さんに会おうか、という案もあって(結局群馬に行ったのは交通費が安いという理由だ)、実家に置きっぱなしにしていた澤田和弥句集『革命前夜』を恋人に貸すために取り寄せていて、だから澤田さんが亡くなったと聞いたとき、それは目につくところにあった。まだまだ家にたくさんあるから宣伝しといて、と言われていたのを思い出したし、同時に、わたしは寺山修司アレルギーがあって、修司忌のところで読みすすめられなくなっていたことも思い出した。

澤田さんとの大きな違いのふたつ目は、寺山修司が好きかどうかだ。さらに三つ目は、下ネタを俳句に持ち込むかどうかだった。わたしは、しゃべるのは好きだが俳句に入れるのは結構許せなかった。だから澤田さんには読んでもらうばかりで、わたしが澤田さんの作品をとりあげたりすることがなかった。申し訳ないけど、仕方ない。わたしが澤田さんくらいやさしかったらよかったかもしれない、でもここで、わたしは、何が愛なのかわからない。俳句なんてなければよかった、でも俳句があったから澤田さんに会えたんだった。

マフラーは明るく生きるために巻く  澤田和弥

わたしはもう、元気出しなよ、とはあまり言われなくなってきて、それは自分が元気そうに見えることが多いのもあるし、躁鬱のことを知ってくれている人も増えたからなんだけれど、がんばらなくていいんだよ、と言われるたびに、がんばりすぎないようにがんばって調整してこれなんです、と言いたくなるのを、がんばって言わないようにしていたりするんだけど、澤田さんはどうでしたか。わたしは、澤田さんのつらいときの話を、もっと聞きたかった。

結婚もいったん諦めたし、仕事ないし、もともと野望とかもないし(澤田さんは実は野心家でしたよね)、お酒はちょっと制限するようにしてるし、大好きな下ネタを話す相手も減ってきて、どうするのがいいですかねぇ、澤田さん。また時間あるとき聞いてくださいね。

今までありがとうございました、そっちではたくさんのやさしくてナイスバディな奥さんにおしくらまんじゅうされて過ごしてください。で、わたしがダメそうなときは、神の啓示を頼みます。いや、顔的に、仏か。





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【澤田和弥さん追悼】わたしの澤田くん 堀田季何

澤田和弥さん追悼
わたしの澤田くん

堀田季何



澤田和弥くんについて追悼文を書けという。

通夜や葬儀でのスピーチやお悔やみ状で使われる、きちんとした類の文章はわたしには書けない。元々駄文しか書けないし、散文が大の苦手だからである(正式な追悼文では「元々」というような重ね言葉は禁句であるらしい)。そのせいもあって原稿もよく落としてしまい、数少ない信用もついでに落としているわたし。

それでもわたしに何でお鉢が回ってきたかと云えば、彼と友だちだったからである。そう、友だちだった。間違いない。天国にいる彼もこの関係性の定義は肯定してくれるだろう。

でも、友だちなんだから何か書かなくちゃ、と思っていても、澤田くんには私よりももっと親しい友だちがたくさんいるし、わたしが面識のない読者も沢山いる「週刊俳句」で澤田くんとのエピソードを大親友面して開陳してもイタいことになってしまうし、半永久的に電脳空間に残る追悼のメッセージなんて到底書けやしないし、そもそも何を書けばいいのかわからない、とずっと思っていて先週は見送った。

その後、松本てふこさん、金子敦さん、上田信治さんの文章を読んで、変な言い方だが、少し気が楽になった。今週は、漠然とながらも、何か書いてみたい、何か書かねばと思った。

彼と何々をした思い出とか私よりも若かった彼を失って自分がいかに取り乱しているかとか、そういったことは不特定多数の読者のまえで語りたくないし、澤田くんも喜ぶとは思えないので、、とりあえず、わたしが俳句関係で澤田くんについて思っていることを断片的に語りたい。

[句材の好み]

句材の好みは、間違いなく似ていた。

二人とも社会や歴史を詠むのが好きだったが、更に好きだったのはタナトスとエロスに関する句材である。彼のこういった嗜好は、句集名『革命前夜』や第1回新鋭評論賞準賞に輝いた『寺山修司「五月の鷹」考補遺』というテーマからもわかるだろう。少女を扱った絵画史についても造詣が深く、「美少女の美術史」展に私が行きたいと云ったら、すでに一回観ていたはずの彼はついてきてくれて、怖ろしいまでの博覧強記ぶりを披露してくれ、わたしを大いに喜ばせてくれた。

そんな感じで、お互い嗜好が合う者同士、お互い同じ句材を扱った句をシンクロニティのごとく作っていた。私が歴史ネタで王の処刑を詠みこんだ句を本郷句会に出すと、有馬先生は(よく欠席投句してくれていた)澤田くんの句としばしば間違えた。澤田くんは同人誌「のいず」に多くのバレ句、社会性のある句、死に関する俳句を出していたが、わたしもそれらの句にある語彙のほとんどで句を作ったことがあったので、お互いそれを知って、二人して驚いたことがある。

いずれにせよ、彼は「のいず」に出した句が「卑猥」「露悪的」と一部の読者から言われていることを少し気にしていたが、その媒体では自由に句を出せることを喜んでいた(一般結社誌では内容的に無理だっただろう)。

彼のメールから二か所引用してみたい。

「そうなんですよ! エロスとタナトスなんですよ!」

「私が詠んでいるものは、そんな高尚なもの(筆者註:エロスとタナトス)ではなく、『エロ』と『死』という、もっと猥雑で露悪的なものかもしれません。私の句を『嫌がらせ』と捉える方もいますし、忌避される方もいます」

両方とも彼らしい文章だ。後者は彼らしい他人への心遣いの現れ。前者こそが本音だろう。彼は、遠慮するタイプの人間であったが、俳句だけでは、他人の意見やトレンドといったものに迎合することはなかった。「エロ」や「死」に接近することを躊躇しなかった(ただ、実生活でも「死」に接近しすぎていて、それが死因になってしまった感がある)。

[俳人として]

正直言えば、天才でなく秀才だった。それも、とびっきしの秀才で努力家で勉強家。作句にそつが無いタイプでなく、当たって砕けろタイプ。天がほほ笑んでくれるタイプではなく、天を無理矢理笑わせるタイプ。しかも、俳句の上では、他者に迎合せずに失敗を怖れない剛の者。

そういう澤田くんの代表句がどの句になるかは、歴史が決めることなので定かではないが、そういった句について他人が意識し始める前に逝ってしまった。実験や観念による失敗を怖れなかったので、残された作品は概ね玉石混淆だと思う。でも、その中には確かに珠玉つまり秀句が色々とあるので、彼の代表句が取りざたされるのは時間の問題かもしれない。

彼は同世代(二、三十代)の俳人の中でも豊かな実力があった。ただし、万人の認めるところ、彼は神童としてすでに俳句史に大きな遺産を置いていったわけではなく、俳人としては大成する前であった。そのかわり、彼の故郷浜松の英雄である家康並みの大器晩成型。大きな器と素質があり、大物の片鱗があった。句会では小粒の伝統的写生詠で高得点句を狙うよりも豪快な観念詠を出して撃沈することを喜ぶようなところもあり、数十年以内に大俳人になった可能性は、わたしの主観を抜きにしても、極めて高いと思う。

わたしは「豈」57号に寄稿した文章「リアルでホットであること」にて、澤田くんが五十歳以下の俳人で現代における戦争や政治を詠める数少ない一人、数人のうちの一人であることを指摘した。そう、そういう素材を積極的に詠んでいる若手を数えてみたら数人しかいないのだ。澤田くんとあと数人。

数十年後になったら、日本語俳句における社会詠、戦争詠、政治詠はわれわれの世代の誰が担っているのだろうか。そのときは誰がまだ生きていて、俳句という短い形式に深い認識を込めつづけているのだろうか。今の俳壇もすでに穏健な日常詠が支配するぬるま湯の世界といった感があるが、澤田くんが離脱してしまった以上、将来はまさに冷めた湯のごときかな。わたし自身、自分がよぼよぼになっている数十年後の俳壇など想像もできないが、澤田くんを失ったことで未来の俳壇がつまらなくなってしまったことは間違いない。

[評論家として]

俳論も開花する寸前だった感がある。

彼は同世代の中では元々(あ、同じ重ね言葉をまたもや使ってしまった!)文章が巧かった。わたしとは雲泥の差。「天為」20周年記念作品コンクールの随想部門で第一席を、俳人協会のコンテストでも第1回新鋭評論賞準賞を獲っているし、太宰治の『女生徒』が大好きなわたしのために、そして「美少女の美術史」展で塚原重義監督による『女生徒』のアニメを一緒に観た記念に、「女生徒」風の文章をフェイスブックに載せてくれたこともあった。

俳論は、愛する寺山修司論や俳句仲間たちの句集評が主だったが、「『ミヤコ ホテル』を読む」
「胡散臭い日本の私」といった面白い文章も「週刊俳句」に遺している。ありきたりのコメントだが、もっと読みたかった、それに尽きる。

[句友として]

いきなり死にやがって、ばかやろー
あやまってもゆるさんぞ
今回ばかりは、福助のようにおじぎしてもゆるさんぞ
おまえさんが死にたくなかったのはよくわかる
おまえさんは死が好きだったけど、死を本当におそれていた
もっともっと生きたかった、もっともっと生きていたかった、ぜんぜん死にたくなかった
でも、死がおまえさんのことを好きだったんだ。死がこっそりおまえさんにすり寄ってきて、キスして、放さなかったんだ
死みてえなやつと何でキスしてしまったんだ、こんちきしょー
あいつは巨乳でもないし、そもそもあいつはいつも浮気していてひとの命を盗んでく
洒落のようだけど、死じゃなくて詩なら良かったのに 
おまえさんはいい人間でいろんな輩から好かれていた。おまえさんが思っていた以上に
みんなみんな、おまえさんのことが好きだった。おまえさんが思っていた以上に
ああ、おまえさんも死んでみて気付いただろう
自分の人気ぶりに、自分のばかぶりに、自分の他人行儀ぶりに
おまえさんは死を恐れていればよかったのに、人ばかり恐れていた
でも、みんなみんな、おまえさんには帰ってきてほしいと思ってる
とはいっても、いま帰ってくるなよ
そして誰も連れて行くなよ
どうせいつの日かみんなそこに行って句会をするんだ
そしたらゆるしてやるよ
ほんとにばかやろー、だ

2015-05-24

【リンク集】週俳で読む「澤田和弥」

【リンク集】
週俳で読む「澤田和弥」



澤田和弥 妻がをり 50句 2007-10-28
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/10/blog-post_28.html

澤田和弥 一塊の肉 50句 2008-10-26
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2008/10/blog-post_8267.html

澤田和弥 教養 50句 2009-10-25
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2009/10/2009_1206.html

澤田和弥 艶ばなし 10句 2010-09-26
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2010/09/blog-post_325.html

澤田和弥 還る 50句 2011-10-30
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2011/10/2010_407.html

澤田和弥 草原の映写機 50句 2013-11-03
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/11/20135.html

さわだかずや ふらんど 50句 2014-11-02
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/11/201412_1.html



澤田和弥:覚悟 陶工・國吉清尚を通して(「天為」2008年5月号より転載) 2008-08-17
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2008/08/blog-post_3164.html

澤田和弥:早大俳研のこと 2009-02-01
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2009/02/blog-post_3219.html

澤田和弥:交差点 石原ユキオ『俳句ホステス』評 2011-04-24
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2011/04/blog-post_24.html

澤田和弥:胡散臭い日本の私 2011-07-10
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2011/07/blog-post_9396.html

澤田和弥:〔句集を読む〕真剣なる遊び 佐山哲郎『娑婆娑婆』を読む 2011-08-21
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2011/08/blog-post_21.html

澤田和弥:「ミヤコ ホテル」を読む 2012-07-29
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/07/blog-post_29.html

澤田和弥:加本さんをご紹介します 2012-09-02
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/09/blog-post_1850.html

澤田和弥:加本さん、お疲れ様でした 2012-10-07
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/10/blog-post_7.html

澤田和弥:父還せ 寺山修司「五月の鷹」考 2013-05-12
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/05/blog-post_3812.html

澤田和弥:ワタリウム美術館「寺山修司ノック展」テラヤマonリーディング
寺山修司と関わりし或る日の日記 2013-09-01
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/09/blog-post_289.html

澤田和弥:【週俳1月の俳句を読む】レース 2014-02-02
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/02/1.html

澤田和弥:誤読 金子敦第四句集『乗船券』を読む 2014-02-16
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/02/blog-post_15.html



澤田和弥:前略 上田信治様 2011-03-27
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2011/03/blog-post_6902.html

上田信治:拝復 澤田和弥様 2011-04-03
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2011/04/blog-post_5038.html



山田露結:新幹線に乗る直前にとりあえず手軽に買うことの出来る無難な東京土産 澤田和弥句集『革命前夜』の一句 2013-07-14
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/07/blog-post_14.html

西原天気:後衛の魅力 澤田和弥句集『革命前夜』の一句 2013-07-14
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/07/blog-post_5979.html

谷口慎也:爆発寸前の静けさ 澤田和弥句集『革命前夜』 2014-01-19
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/01/blog-post_19.html



関悦史 水曜日の一句 2013-07-17
正義の味方仮面のみにて裸 澤田和弥
http://hw02.blogspot.jp/2013/07/blog-post_17.html

相子智恵 相子智恵 月曜日の一句 2013-07-22
羽蟻潰すかたち失ひても潰す  澤田和弥 
http://hw02.blogspot.jp/2013/07/blog-post_22.html

〔人名さん〕むらかみさん 2013-09-12
村上龍村上春樹馬肥ゆる  澤田和弥
http://hw02.blogspot.jp/2013/09/blog-post_12.html

【俳誌拝読】『あすてりずむ』第4号 2013-12-26
闇汁の半分がまだ生きてゐる 澤田和弥
http://hw02.blogspot.jp/2013/12/420131223.html

相子智恵 月曜日の一句 2013-12-30
闇汁の半分がまだ生きてゐる 澤田和弥
http://hw02.blogspot.jp/2013/12/blog-post_30.html

関悦史 水曜日の一句 2015-05-20
冷蔵庫にいつも梨ゐて父と話す  澤田和弥
http://hw02.blogspot.jp/2015/05/blog-post_20.html


ラベル(タグ)澤田和弥




【澤田和弥さん追悼】 澤田さんのこと 松本てふこ

澤田和弥さん追悼
澤田さんのこと

松本てふこ


澤田さんの作品というか、句集に関して一昨年に文章を書いた。

私が彼の句に対して思っていることはここであらかた書けてしまった気もするので、リンクを貼っておく

小さな革命としての俳句~澤田和弥句集『革命前夜』
https://note.mu/tefcomatsumoto/n/n2fc68a9b5e95

この文章では、ただただぼんやり澤田さんとの思い出を振り返っていこうと思う。

澤田さんと初めて会ったのは、大学一年の頃。俳句研究会の一学年上に、澤田さんがいた。

亡くなる少し前の丸々とした面影は出会った当時は全くなく、ちょっと丸顔かな、というくらいだった。別のサークルが忙しそうで俳句研究会の活動にはそれほど積極的に参加してはいなかった。時々大学周辺で見かけると、くるりの「世田谷線旧型車輌を残そうキャンペーン」ツアーのTシャツを着て颯爽と自転車で走っていたりした。

寺山がとても好きなことは彼自身から聞いていたし、私もくるりと寺山が大好きだったので(小学生の頃に読んだ『スポーツ版裏町人生』で袴田事件を知った)、色々話したらきっと楽しいだろうな、と思いつつそんな機会もさほどないまま、彼は大学院に進学した。

大学院進学後、澤田さんに何か転機が訪れたようで俳句研究会に顔を出すことが多くなった。超結社の句会に顔を出すと、彼がニコニコと手を振っていた、ということが増え、自然と二次会などでも話す機会ができた。

彼は、当時mixiに毎日のようにすごい分量の日記を書いていたけれど、内容がどうこう、というよりは「書きたい」という欲求が活字のかたちで溢れ出ている印象で、社会人になったばかりでひたすらくたびれていた私にはそのエネルギーがまぶしく見えた。

…と、このように書いていくとどうもしゃらくさくなる。

まあその後は、そんなに頻繁に会う訳ではないが、会えば酒を飲み俳句の話をして盛り上がった。彼と飲むとアハハハハハハハ!と威勢良い笑い声が聞けるのが楽しかった。

彼はいつも誰かを心配していた。でも誰かを心配する気持ちと同じくらい強く、その誰かに自分ができることはごく限られていると感じているようでもあった。

綺麗なお店、オシャレなお店で一緒に飲んだ記憶はない。見栄えはそれほどよくないけど、何でも美味しくて気楽なお店がよく似合った。

澤田さんとの思い出は基本的に楽しいものばかりだったが、楽しい、とは少し毛色の違う思い出があるので書いておこうと思う。

ひとつは、彼が故郷である浜松に帰る直前に行われた徹カラだ。

浜松に帰るし失恋もしたから徹カラしてるよ、おいでよ、と連絡がきて仕事帰りに合流した。当時まだ学生だった谷雄介くんや山口優夢くんがいて、賑やかだった。

私は彼がどうして浜松に帰ることにしたのか当時よく知らなかったのと、失恋したからと言って彼らが相手を悪者に仕立てて騒いでいるように見えてちょっとイラっとしてしまい、つらいつらい恋愛の歌を歌ってやろうとチャットモンチーの「恋愛スピリッツ」を入れた。

歌いながらちらっと澤田さんを見たら、心なしか笑顔が固まっていて、あ、悪いことをした、傷口に塩を塗ってしまった、と気付いて反省した。

ふたつめは、2年前のGWに彼が上京して、六本木で「LOVE展:アートにみる愛のかたち」を私たち夫婦と観たときのことだ。

私の家族は澤田さんと彼の句に興味があったようで、自分のHPで句を引用したりしていた。

澤田さんが、是非ふたりと観たい、と言ってくれたので六本木で待ち合わせた。その年のエイプリルフールに入籍したので、結婚祝いのつもりだったのだろうか。

やってきた彼は、病気のため杖をついていたのにものすごい大荷物だった。聞けば、ブックオフで美術関係の資料を買い漁っていたという。ブックオフのビニール袋は破れかけ、カートは重たい、GWのなかなか手強い陽気というか暑さ、そんな中を本調子ではないのにこんな大荷物でやってきたことや、彼の中にあり続ける美術の世界への熱意や欲求を思うと無性に切ない気持ちになった。

もちろん彼はいつも通り明るく、初対面である私の家族ともびっくりするほど普通に、そして和やかに話していた。展覧会を存分に楽しみすぎて新幹線の時間が危うくなり、大慌てで彼をタクシーに押し込んだ後の、しんとした感覚を今も覚えている。

彼の最期の日々を私は知らない。でも、彼が寺山と同じ五月にこの世からいなくなってしまうなんて、あまりにも出来過ぎている。そんなところ、うまく出来ていなくたっていいのに。本当に、本当にさみしい。

【澤田和弥さん追悼】和弥くんが亡くなった 金子敦

澤田和弥さん追悼
和弥くんが亡くなった

金子敦


澤田和弥さんのことを、僕はいつも、和弥くんと呼んでいた。

初めて知り合ったきっかけは、「週刊俳句」である。それは、2007年10月28日号に掲載された、角川俳句賞の落選展。僕の作品は、「チェシャ猫」というタイトルの50句。

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/10/blog-post_3407.html

このコメント欄に登場している、さわDさんが和弥くんである。この拙い句群に対して、「一読して心地よい戦慄が全身に流れました。体内に電流を感じました」と、身に余るようなお褒めの言葉をいただいた。

その後すぐに、和弥くんからメールを頂き、急速に親しくなった。和弥くんはいつも、「敦さんの俳句を読むと、とても心が癒されます」と言ってくれた。

お互いに、精神的疾患を持つ身として、心から通じ合うものがあったのだろう。何が原因だったか。どんなふうに発病したか。病院には通っているか。医師の対応はどうか。どんな薬を飲んでいるか。などなど、事細かく語り合った。健常者相手には、とても出来ない話である。

僕は、「パニック障害」という不安神経症である。

パニック発作を怖れるあまり、様々な症状を引き起こす。その一例として、電車に乗ってドアが閉まる瞬間に、息が詰まって窒息しそうになる。本当に死ぬかと思うくらい苦しいのだ。この症状を健常者に話すと、「何を大袈裟な!」と言って、鼻で笑われるのがオチだった。「そんなのは、単なる気のせいだ!」とか「意気地なし!」とか、何度も言われ、何度も悲しい思いをした。

そういう僕の思いを、和弥くんはきちんと理解して接してくれた。僕は、何もかも包み隠さず話せる友が出来たようで、とても嬉しかった。僕のこれからの人生において、「心の支え」になってくれるような気がした。

2013年7月に、和弥くんの第一句集『革命前夜』が上梓された。

数々の秀句が収められているのは言うまでもないが、僕が一番驚いたのは、寺山修司の忌日俳句だけを纏めて、一つの章して収録していることである。第一句集の場合は、色々と制約が多いので、このような大胆なことはなかなか出来ない。何としてでも、修司忌の章を入れたい為、かなり自己主張を通したのではないかと思われる。そのことだけでも、彼の信念の強さと、ひたすらな純真さが伺える。

この句集のあとがきには、「これが僕です。僕のすべてです。これが澤田和弥です」という一文がある。まさしく、その通りだと思った。僕は、お礼の手紙と共に、僕の第四句集『乗船券』を送った。

すぐさま、和弥くんは『乗船券』の句集評を書いてくれた。それは、「週刊俳句」2014年2月16日号に掲載されている。

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/02/blog-post_15.html

この句集評は、和弥くん自身の体験に基づいて書かれた、とても深い鑑賞文だった。ここまで深く踏み込んだ文章を発表するのは、和弥くん自身にとっても、かなり辛かったのではないだろうかと思う。涙が出た。涙が溢れて止まらなかった。

その日の午後、和弥くんから電話がかかってきた。
「少し深入りし過ぎた鑑賞でした。ごめんなさい・・・」
 「そんなこと無いって! こんなに深く鑑賞してもらったのは初めてだから、とても嬉しいよ!」
 「敦さんの心を、傷つけてしまったのではないかと心配で、電話してしまいました」
「傷つくどころか、むしろ大感激しているよ!本当にどうもありがとう!」
 「そうですか。よかったです。それを聞いてほっと安心しました」

和弥くんは、そういう細やかな心配りの出来る、とても優しい人だった。

そんな或る日、「敦さんが、電車に乗ることが怖いようでしたら、僕の方から逢いに行きます!」というメールが届き、わざわざ浜松から大船まで来てくれた。

改札口を出てきた彼の姿を見て、僕は驚いた。なんと、和弥くんは松葉杖を使って歩いて来たのである。精神疾患の影響で、足が痺れたような状態になり、思うように動かすことが出来ないと言っていた。松葉杖を使ってまで、わざわざ逢いに来てくれたことに感激して、僕は思わず涙ぐんでしまった。

その日は、カラオケ店に直行して歌いまくった。

何曲目だっただろうか。突然、和弥くんの顔つきが変わり、何かに挑むような鋭い眼差しになった。その曲は、桑田佳祐の「真夜中のダンディー」である。おそらく、この曲の歌詞のどこかに、琴線に触れるものがあったのだろう。心のこもった、素晴らしい歌唱だった。音程が正確であるとか、そういう問題では無く、本当の「魂の叫び」であるように感じられた。

カラオケ店を出て、僕が「真夜中のダンディー、情感がこもっていて、とてもよかったよ!」と言ったら、少し照れたように笑っていた。

その後、居酒屋で一緒に酒を飲んで、俳句の話で盛り上がった。

和弥くんの、俳句に対する情熱に、僕はただ圧倒されるばかりだった。結社のことについて、色々と話している途中、酔いが醒めたかのように、和弥くんの眼差しが真剣になった。

「今度、『のいず』という俳句同人誌を出します! 敦さんも、参加していただけませんか?」と誘われた。「もちろんOKだよ!」と、即答したのは言うまでもない。

『のいず』の発行について語る和弥くんの眼は、きらきらと輝いていた。それはまるで、何億光年も輝き続ける星が宿っているようだった。

居酒屋を出て、「また一緒にカラオケしましょう!」と言いつつ、固い握手を交わした。

2回目に逢った時、和弥くんは松葉杖無しで普通に歩いていた。病気が好転している証拠である。僕はとても嬉しかった。このまま順調に、病気が回復すると思っていた。その時、僕の第三句集『冬夕焼』をプレゼントした。彼のとても喜んだ顔が、今でも忘れられない。「どうもありがとうございます! 本当に嬉しいです! この次は、この句集評を書かせていただきます!」とまで言ってくれた。

だが、2015年2月頃、「体調が悪いため、しばらくフェイスブックをお休みします」という書き込みがあってから、ぷっつりと音信が途絶えてしまった。

僕はとても心配で、何回か電話をかけたのだが、一回も繋がらなかった。後から聞いた話によると、医師の指示により、インターネットや電話は一切禁止されていたらしい。せめて、一度でも話をすることが出来ていたらと思うと、本当に口惜しい。無念である。

この殺伐とした世の中で、和弥くんのような純真な人間は、どんなにか生きづらかったことだろう。けれども、どんなに辛くても、もっともっと、長生きして欲しかった。『のいず』の発行を、もっともっと続けて欲しかった。和弥くんはこの世を去ってしまったけれど、僕はこの世に生き残って、これからも「癒される俳句」を詠み続けていきたいと思う。それが、和弥くんに対する供養になるような気がしている。

澤田和弥様のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。合掌。

【澤田和弥さん追悼】 ごめんね 上田信治

澤田和弥さん追悼
ごめんね

上田信治


水泳帽よりちくちくと毛が飛び出す 2007

毛深い人だった。手の甲や二の腕に手強い毛が生えていて、張りのある胸乳やお腹には、それどころではなく黒い毛が渦巻いているという噂だった。眉毛もまつげも濃いのだった。濃いまつげに囲まれた瞳はいつもうるんでいるのだった。

太宰忌やびよんびよんとホッピング 2007

可笑しな人だった。人に笑われがちであることは受け入れ済みですという顔をしているのだった。書くものは自嘲ネタが多かった。××とか、△△とか、すぐそういうことを、mixiの日記などに書くのだが、その日記はあまりに大量で、むく犬が自分の皮を嚙んで狂い回っているようで、愛らしくも暑苦しいのだった。

そして何が何だか分からなくなって吐く言葉に哀しみがあって、それがいちばん美しいのだった。彼には太宰なども、わけが分からなすぎて「びよんびよん」飛んだ果てに地面にばったり倒れる仲間に見えていたに、違いないのだった。

右攻めしラガー左へ駆け抜ける 2008

高校では剣道部だったと聞いた。主将だったと聞いた気がする。体が良く動く人だったのか。何かと優れた人だったと聞いたような気がする。いや、それはよくある伝説の類だったか。

ぼくが会ったころ、澤田さんはもう、澤田さんだった。句会後こっそり今日は澤田さん調子悪かったのかなあと言うと、彼の口の悪い後輩は、澤田さんはいつもあんなですよ、と言うのだった。澤田さんは、ひどく不器用だった。というか、いつもわざと、失敗必須の書き方で書いているように見えた。

男娼の錆びたる毛抜き修司の忌 2007
水番の叔父と女体を語り尽くす 2008

ふつうに書けないからああ書くのだろうかと、失礼なことを思わないではなかったが、むしろたぶん、澤田さんは、無条件にめちゃくちゃに愛されたい人なのだった。まず第一歩としてそうでなければ、はじまらないのだった。人として、そんなむりな望みがあるか。

めちゃくちゃに愛されるために、よくできた俳句など書いていられないのは当然のことだった。澤田さんは、とても愛せないような自分を仮構して、まずそれを愛せと示すことが多いのだけれど、その、愛せなさ加減すらたいしたことなかったりすると、受け取る側は困るのだった。

でも、ときどき、すごく愛せる。

澤田さんが早稲田で百句出しの句会を企画したことがあって、櫂未知子さんとか神野紗希さんが来ていて、百句出しだから流して書いたような句も多かったけど、澤田さんのは、そりゃあもうひどかった。ほとんど下ネタで、片目で見ても澤田さんのって分かる。あんまりひどいんで「あらかじめバツつけて回しましょうか」と言ったら、みんな笑った。

ママ今日の松茸が大きすぎるよ 2010
爽籟や胸の谷間にボンジュール 2010

あははは。

澤田さん、懐かしいね。めっちゃ面白いじゃん。ひどいこと言ってごめんね。

喜びは風船を割ることばかり 2009

澤田さんが、いろんなことをちっともあきらめていなかったことは、みんなよく知っている。

澤田さんはいつもまわりの人のために尽くして、そしてふさわしく愛されたと思う。思うけれど、澤田さんはこの世でもっといい目を見たらよかったのに、と本当は、そう思う。

澤田さんはたいへんだった。本当にたいへんだったですね。

春の夜のカフェオレふうふうされ困る 2011
のどけさのなんとさびしき空の上 2011
春惜しむ振ればカラカラ鳴る缶と 2011
新緑の底に沈みし船のごと 2011
看板のどれもさびしき春なりけり 2013
さびしさの乳首をつまむ春の宵 2013
草原に映写機ひとつ修司の忌 2013
目つむれば風かすかなり花の雨 2014
カーテンよりわづかに春の雲拝む 2014
精神病んで杖つき歩く花ざかり 2014

もっと読みたかったですよ。

心から。

みんな、あなたの句がもっと読みたかったですよ。

ずんべらずんべらと冬の川に板 2008



引用はすべて週俳で読む「澤田和弥」から。