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2023-10-15

秋谷美春【澤田和弥の一句】短夜のチェコの童話に斧ひとつ

【澤田和弥の一句】

短夜のチェコの童話に斧ひとつ

秋谷美春


短夜のチェコの童話に斧ひとつ  澤田和弥

澤田和弥氏に強い影響を与えた寺山修司の詩の世界を感じさせる一句である。寺山修司の俳句や短歌、演劇に象徴的に登場する斧は、津軽地方一帯に向けて振り上げられた下北半島であり、その切先は老木の脳天や向日葵、姉といった存在へと振り下ろされる。

人類にとって馴染みの深い道具である斧は、物語の世界においてもしばしば場面転換を促す道具として登場する。掲句のうちで氏が繙いていたチェコの童話がいかなるものであったかは分からないが、短い夏の夜、氏が書物のうちに発見した一本の斧は、夜すなわち死の世界に属する斧を想像させる。それは昼間の森で振るわれる木樵の斧ではなく、赤い靴の少女カーレンの両足を切り落とした首切り役人の斧のような、物語に犠牲と秩序とをもたらすものであったに違いない。

詩として再構成するのための言葉の解体という意味において、詩人は誰しも一振りの斧を携えている、とも言えるかもしれない。「短夜」という、どこか濃密であり儚くもある時空に対し、詩人としての澤田和弥氏が斧を振り下ろす刹那、チェコの童話世界と寺山修司の詩の世界とが交差する。


2023-10-08

嶋村耕平【澤田和弥の一句】氷瀑や数千兆の注射針

【澤田和弥の一句】

氷瀑や数千兆の注射針

嶋村耕平


氷瀑や数千兆の注射針  澤田和弥

氷瀑の水滴が凍結し、鋭角な形状を形成する瞬間を、「数千兆の注射針」という非現実的な隠喩で捉えている。単に針金や物質的な金属ではなく、注射針としたところで、冷たさを超え、生々しさというこれまでの「氷瀑」の句群にはない新たなイメージが付与されているように思う。

和弥さんの一連の作品を数年ぶりに改めて読ませていただくと、血の通った暖かさと冷たさの温度差、血なまぐささは一連の句のテーマになり、西村賢太の小説を読んでいるような雰囲気がある。冒頭の句もそうだが、「干首のごとく曼殊沙華萎る」や「葉牡丹がやがて胎児となる日まで」など伝統的な俳句の対象も和弥さんのフィルタを介せば肉体的な温度を与えられている。俳句のフォーマットを守りつつも現代を読み込む様々な実験的な試みが成されており、それらは今なお新しい。ときに風俗的な生々しさや現代を生きる苦悩が赤裸々にあり、同世代を生きた私にとっても共感できることが多かった。


2023-10-01

手銭誠【澤田和弥の一句】手袋に手の入りしまま落ちてゐる

【澤田和弥の一句】
手袋に手の入りしまま落ちてゐる

手銭 誠


手袋に手の入りしまま落ちてゐる  澤田和弥

「手」とは不思議なものである。同じかたちをした二つが、毎日私たちの目の前で動いている。箸を持つのは右手、茶碗を持つのは左手といった具合にそれぞれ役割を与えられている。一方で、両手をあわせてみると、右手が左手に触れている感覚と、左手が右手に触れている感覚が溶け合って、どちらがどちらを感じているかよくわからなくなったりする。考えれば考えるほど、不思議な「手」である。

さて、掲句である。澤田和弥氏の第一句集『革命前夜』より。作者が見ている「手」は少し違う。「手袋」である。それはおそらく片方の手袋で、右手であるか左手であるかは分からない。手袋は、もちろん手そのものではないが、作者には眼前の手袋の中に「手」が入っているように見えたのである。

冬の季語「手袋」は本来、寒い日に手を温めるために装着するものである。しかし掲句の手袋に、その温かさは感じられず、寒々と路面に落ちているのである。それでも、作者はその中に「手」を感じたのである。「温かさ」を感じたのである。落ちるまでは、誰かの手を温めていたそれは、その手の記憶とともにそこに落ちているのである。あるいは、すべての「残されたもの」には、それを残した主の軌跡のようなものも一緒に残されているのかもしれない。そのことに作者は気付いたのである。

今、この稿を書くために、私は久しぶりに『革命前夜』を開いている。句集の頁の中に、澤田和弥という俳人が「入りしまま」私の眼前に置かれている。この本を開けば、私はいつでも彼の体温を感じることができるのである。


杉原祐之【澤田和弥の一句】二度ともう会ふ事はなく成人式

【澤田和弥の一句】

二度ともう会ふ事はなく成人式

杉原祐之


二度ともう会ふ事はなく成人式  澤田和弥

『早大俳研』第3号 「二十歳の月」より。

澤田和弥さんは1980年生まれ、私は1979年生まれなので一歳下の関係であった。澤田さんは「早大俳研」、私は「慶大俳句」に所属しておりこの時から「早慶」で俳句会を行っていた。この時はまだ「俳句甲子園」出身者は少なく、私たち「慶大俳句」インターカレッジ的な活動は少なく「早大俳研」メンバーとの交流くらいであった。

そんな中、澤田さんとの一歳の差は非常に大きく先輩面して色々と会話をしてしまった。今になってはなんて恥ずかしいことをしたと思う。

『早大俳研』第3号は2011年4月の発行とのこと。「二十歳の月」には、まさに澤田さんが20歳を迎えたころの俳句24句が3句組×8頁で収録されている。掲句はその中の一句。如何にも地元の高校から東京に進学した文学少年としての心意気というか、冷めた目で見た地元の様子が描かれている。澤田さんは中学のころいじめにあい不登校になったことなどを告白している。高校は進学校として有名な浜松北高校でそこで高柳克弘さんと同窓となっている。澤田さんも高柳さんも俳句と出会ったのは早稲田大学進学後のこと。

「俳句」という新しい表現方法と出会って勉強していた澤田さんの目には、成人式という名の地元の呼び出しはどのように映ったのか、酔っぱらいながらご実家のお寿司屋に友人たちと流れていったのだろうか。この場限りでそれぞれ別の道を行くことを冷めた視点で、淡々と表現しているからこそ「二十歳の若者」の感情が連想される。

30代で命を絶った澤田さんが、40代、50代と年を重なるにつれどのような俳句、評論を残していったのだろうか。同世代で俳句を通じて関わりのあったものとして彼の作品を何とか遺していきたいと思う。