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2024-01-14

醤油の国 仲寒蟬句集『全山落葉』の一句 西原天気【句集を読む】

 【句集を読む】

醤油の国
仲寒蟬句集『全山落葉』の一句

西原天気


冷奴に粗塩をふりかけるのを見て、皮肉屋の友人が意地悪そうな目を向けて、笑う。通ぶった俗物主義と映るのだろう。とんかつにはソース、冷奴にはだんぜん、醤油なのだ。彼にしてみれば。

しかしながら、美味しい豆腐、とくに寄せ豆腐とかいう、整形もしていないのに通常の木綿豆腐、絹ごし豆腐よりもランクが高いらしいこの豆腐には、醤油よりも塩が合う。私自身、とんかつの横に盛られたキャベツの千切りにも、ドレッシングでもソースでもなく塩を振る。べつに「通」を気取るわけではない。

日本に醤油ありけり冷奴  仲寒蟬

醤油の偉大さは、私も理解している。食卓の味付けは醤油だらけ。焼海苔は醤油なくしては存在し得ない。

この句、「ありけり」の格調の高さに支えられて、反論を許すところがない。というのは、嗜好だけでなく、句としての姿に。

醤油を愛する日本人たる私は、同時に、醤油から逃れられない土俗の悲しみのようなものも抱えつつ暮らしている。「日本に」と切り出す掲句が、ナショナリズム、エスノセントリズム(わざわざ英語を使ってみたよ、自民族中心主義)の色濃いわけでないが、その国はその国の匂いがある。外国から日本に降り立った人がまず思うのは、醤油臭さだと、聞いたことがある。日本は醤油の匂いに包まれた列島なのだろう。

ああ、待ち遠しい。豆腐の上に、その日その日の薬味をのせて、うえから醤油を垂らす季節が来るのが待ち遠しい。


仲寒蟬句集『全山落葉』2023年7月/ふらんす堂

2016-10-23

【落選展2015を読む】 (2)「塔」から「一睡」まで ……仲寒蟬 × 上田信治

【落選展2015を読む】
(2)「塔」から「一睡」まで

仲寒蟬 × 上田信治




19. 折勝家鴨 「塔」 予選通過作品

信治選
 冬立つやひとりひとつの顕微鏡
 臘梅や水を掃きたる竹箒 
 理科室の棚に鍵あり梅の花
 鳥雲に入る半地下の文芸部
 紙折つて塔の立つなり夏はじめ 
 足首の無防備にある泉かな 
 蟬時雨腕立て伏せの胴長し
 星と星引つ張り合ひて涼しさよ
 虫の夜や遅れて消ゆる車内灯 

寒蝉選
 冬立つやひとりひとつの顕微鏡
 寒柝の耳にイヤホンありにけり
 蝋梅や水を掃きたる竹箒 
 紙折つて塔の立つなり夏はじめ 
 足首の無防備にある泉かな 
 虫の夜や遅れて消ゆる車内灯 
 雁渡し本棚本と共に古る

*「俳句」2015年11月号掲載句

信治:
取合わせのメソッドに「忠実」と言ってよいほどに、手堅く書かれています。人間的な一シーンが、スナップ的に切り取られていて、そこに季語が取り合わされている。

でも、蝋梅と竹ぼうきくらい、計いの見えにくい取合わせの方が面白いのになーと、思わないでもないです。

寒蟬:
7句しか取ってないのに信治さんと5句まで一致するとは!

実は今回論じる中では一番評価の低かった作品なんです。☓をつけたのは「雪解や轍やくかいにして愉快」「丸まつて眠る地球や栗の花」くらいなのですが余り面白いと思った句がなかった。

選んだ7句にしても寒柝の人がイヤホンしてるとか車内灯が遅れて消えるという発見はそれなりに面白いけれど「おおっ」という感じではない。

信治:
きびしいですね。

「車内灯」の句、車内はさっきまで自分がいた場所で、虫の夜は、いま自分が包まれている空間、という対比がいいです。車はそこにとり残されたように、いっしゅん遅れて車内灯が消え、そして、自分はこれからすこし歩く。という時間の幅に対する意識もあって、僕はこれは好きな句でした。

寒蟬:
顕微鏡の句は研究室か何かでしょうか、視点がちょっと新鮮でした。題名になった「塔」の句もいい句です。足首の無防備は既視感があるなあ。

出だしの2句が大雑把すぎて入って行くのがためらわれました。顕微鏡が1句目でもよかったのに。

信治:
二物衝撃は、無意識をひっぱりだすための手法だと思いますが、意識の範疇でつきすじが見えてしまう句については、ぼくも不満です。銀河→子守唄、水仙→頭痛とかですね。

でも、取り合わせの前提として、現実を12音で切り出す視線に、どこ見てんのこの人っていう面白さがあって。

顕微鏡がいっぱいとか、半地下の部室とか。あとは折紙の塔とか。それだけで面白いですよね。

 理科室の棚に鍵あり梅の花

この梅の花の、審美的じゃないかんじ、好きですね。
窓には白いカーテン。

 鳥雲に入る半地下の文芸部

上昇/下降という対比は見えやすいところですが、憧れをもっぱらとする文芸部が、地面にめり込んで(脳内で)空を見上げていると思うと、おかしいです。

 紙折つて塔の立つなり夏はじめ

紙と夏はじめは、かなり近いですけど、これはきれいさを狙った句なのでOKです。とうぜん初夏の風と光線を受けて、ちょっとピカピカするわけです。

 蟬時雨腕立て伏せの胴長し

あはは。この蟬時雨も、梅の花とおなじくらいいいな。夏休みで畳、ってことですか。

寒蟬:
ああ、なるほど。信治さんの読みを聞いて思ったのですが「半地下」の句は面白いかもしれません。

ただ選ばなかった句が大きな瑕はなくとも惹かれもしなかった。日常の細かい所を描写する力はあるんだけれど、そこから飛躍する時に力不足というか、うまく行ってない印象でした。


20. 高梨 章 「明るい部屋」

寒蝉選
 飯食ひながら夕焼のことばかり
 蝿がきてそのまま奥に消えにけり
 夜濯や母の手くびの輪ゴム跡
 がまぐちの口金ゆるし緑の夜
 目刺くふ子もくはぬ子もきて坐る
 靴下をはき靴をはき初氷
 一気にファスナーひきおろすやうに鵙啼けり
 うろこぐもうまくつまめぬオブラート
 山の名もわからぬままに冬の山
 鳥帰る屑籠に屑しづかなり

信治選
 春の月ぐいとキヤベツの葉を剥がす
 蝿がきてそのまま奥に消えにけり
 靴先を内側に向けしやぼん玉
 ずるいなあと母のつぶやく春の山
 口あけてはるばる春のしじみ汁
 鳥帰る屑籠に屑しづかなり


信治:
全体に、自由に読もうとされていることに、好感を持ちました。

 春の月ぐいとキヤベツの葉を剥がす

中七下五は、100%のフレーズではないんですが、春の月がおもしろい。
50句ラストの「透明な夏のいちにち非常口」も、上五中七はともかく「非常口」がかなりいい。

 靴先を内側に向けしやぼん玉

なにか、この人のおもしろさの核みたいなものは、既につかまれていて、
こういう句には、わかりやすく、それがあらわれるんだろうなという印象。

 ずるいなあと母のつぶやく春の山

この句はすごくいいですね。お母さんの心には、なにが通りすぎたんでしょうか。

春の山が、母にとっての過去と現在の(同時にそれがただあることの)象徴のようにも見える。それは、語り手にとってもまた、思い出であり、同時になまなまとただある現実としての母の象徴のように見える。

 口あけてはるばる春のしじみ汁

この「はるばる」は、はるばると来つるものかな、という感慨だと思うんですけど、そう読むと「口あけて」が、口開けたままはるばる来たように読める。ちょっと置き方、むずかしいなという。

寒蟬:
しかし、俳句賞の応募作としては失敗していると言わざるをえないところがある。

たとえば6句目、8,9,12句目に母が出てくるけれども最初の母

 夜濯や母の手くびの輪ゴム跡

が生きて活動している母なのに

 あれは母ではなく冬の夕焼
 母からこぼるるこなごなの枯葉よ

ではだんだん抽象的な存在になって行く。

 床下に夕焼さはぐと母のいふ

となると夕焼自体が主題のようで、しかも現実の夕焼ではないようで、よく分らない世界。季節も夏からいきなり冬に飛ぶ。その後また夏に戻る。もうめちゃくちゃ。

でも嫌いかというと嫌いじゃないんです。必ずしも成功していないけれども何かやってやろうという感じがする。

独特の世界観、感性を持った人だと感じました。

信治:
そうですねえ……。

これ、誤解される言い方になるかもしれませんが、賞は別にもう受賞しなくても、それはそれで。仮のハードルでもいいような気がするんですよ、その一年の自分の最高到達点を可視化し実現するためには、棒高跳びのハードルを棒なしで越えるくらいの気持ちの設定が必要な気がして。

そんなことを言ってるから、ぼくも予選すら通過しないのかもしれないですけどw

22. 堀下 翔 「鯉の息」

信治選
 夏が始まる羊羹のつまやうじ
 また中へ戻るはちすのうへの蠅
 柿の花石白く水湧きにけり
 日時計の石痩せにけり秋燕
 胡桃割るとき実の中をとほる音
 空腹を木の葉の降りしきる日かな
 侘助や本棚見えて教授棟
 いくたびか氷りてしはしはとなりぬ
 切株の根にたんぽゝの短き首
 こひいつもその日のことの燕かな
 パンジーの黄やうらがはにその黄透く
 林が疎まつすぐ行けば水芭蕉
 深秋やさうかと思ふ竹林
 散らばつてゆく春雲に空が出る
 春を唄へば浅草の筈である

寒蝉選

 濠めぐる大きな水よ夏薊
 夏が始まる羊羹のつまやうじ
 エアコンをとりつけて目を動かして
 葉をきはめたる尺蠖のをどりかな
 胡桃割るとき実の中をとほる音
 裸木の分厚くめくれたるところ
 蟻穴を出てすぐ横にちがふ穴
 春を唄へば浅草の筈である
 パンジーの黄やうらがはにその黄透く
 紙は日に焼けその春の惜しまるゝ

寒蟬:
かなり大胆で冒険的なスタートだと思いました。

1句目の「麦が笛になる」とか3句目の「池のをはりは流れ出す」など日本語の文法の範囲ギリギリのところですごくアクロバティックなことをやっている。

そう言う意味では私の取った句はこの50句の中ではやや常識的な部類に入ってしまうかもしれません。
この行き方、最初の方では成功していますが、

 峰雲のつゞきの空ぢやないかなあ

という口語が突然出て来たり

 別巻を欠き観月に出でにけり

みたいに省略が利きすぎて作者の意図を途中で追えなくなるような句に出会うとちょっと首をかしげてしまいます。

信治:
堀下さんのはじめの3句は、ふつうに失敗しているのでは?

「肉声の」は、前半後半の内容がジャマしあってるような気がします。「濠」をめぐる大きな水というのは、二重の濠を想定してる? そうでなかったら流れるプールのように、水が濠の中を回っていることになる。三句目は、人工の「噴水池」が人工の川につながっている?

ぼくも、自分の句では、最近、わざと日本語として失敗するということをするのですが、そういうのとも、ちょっと違うのかな。

寒蟬:
いや、「濠めぐる大きな水」はイコール濠の中の水なんですよ。大きな水のかたまりが濠という容れ物の中を廻っていると、そういう把握ではないでしょうか。「噴水の池のをはり」は噴水の水をためておく池から水が溢れ出している様でしょう。

確かにちょっとまだるっこしい表現で、これらが最初に置かれると読んでいる側はイラッとするかもしれませんね。その意味では並べ方が下手だ。こういう句は真ん中辺の読者の読むスピードが定まってきたあたりに置いた方がいい。

信治:

 エアコンをとりつけて目を動かして

これは「いい失敗」かも。
一読して、行為の主体が自分か他人か特定しづらくて、でも、エアコンてあんまり自分でつけないから、他人か、と。でも目を動かすのって、じつは内的な感覚じゃないですか。そこのズレが気持ち悪い。

でも、主観とか視点が浮遊するこの気持ち悪さは、写生の眼というものの非人間性と通じるものかも知れず、まぐれあたりかもしれませんが、読み直すと、いちばん好きかも、となってしまいました。

噴水の句は「をはり」が引っかかるんですよね。あと、噴水池から、水があふれるかなあ・・・。あとお濠の水は、めぐりますかねえ。「城めぐる」ですよね、ほんとは。

いや、ぼくは、言い損なって面白くなることには賛成で、作者もここで、勝負してきてると思うんですよね。

ただ語の結合をあいまいにゆるく取っただけの書き方は、ただの失敗におちいりがちなので、もうちょっとこう上手く転ばないとw と思うんです。

寒蟬:
実は「エアコン」の句、気になっていたんですが最初はここから外していました。見直して「やっぱり入れておこう」と(笑)。エアコンをこんな風に詠んだ俳句ってないでしょう?しかも取り付けて、その取り付けた人が「目を動かして」いる。何なんだ、これは??当たり前と言えば言えるが意図のない馬鹿馬鹿しさというか・・・。この一句だけポンと置かれていたら私は信治さんの句かな?と思ったかもしれません(笑)。

私は「濠めぐる」は「大きな水」の把握が大づかみで好きでした。でも他の2句は失敗ですね。だから50句としては損をしちゃってる。

信治:

 夏が始まる羊羹のつまやうじ

この抒情性、すばらしい。オブジェとしてきれいだし。

 また中へ戻るはちすのうへの蠅

すごくくだらないことを、キレイな韻律で歌ってたり。

柿の花石白く水湧きにけり

三段切れの間の空白が、自然観照的うっとり感に通じてる。いい。純粋の自然詠で、言葉であたらしいことをやって成立させてるという行き方、いいですよね。攻めてる。

 侘助や本棚見えて教授棟

いい構図。広くてきもちいい。つつましい花と老(?)教授を響かせている。

寒蟬:
つまようじの句はとてもいい。信治さんの意見に賛成です。
蠅の句の馬鹿馬鹿しさはどこか「鳥の巣に鳥が入つてゆくところ」に近いものがある。とても面白い句だと思いました。気合の入った(縦令失敗していようと)句の後にこういうふっと気の抜ける句を持ってくる配置の仕方はいい。

蟻穴を出てすぐ横にちがふ穴

これは「はちすのうへの蠅」に近い馬鹿馬鹿しさ、そんなことわざわざ俳句で言うか?と突っ込みたくなる面白さがあります。

春を唄へば浅草の筈である

この強引な断定。嫌な人は嫌と思うでしょうね。そういう反対意見をものともしない勇猛果敢さ、その意味ではすごく若さを感じさせる句です。「上手いなあ」と思わせる種類の俳句とは全く違った行き方、私にはこの辺にこの作者の将来性を見た気がします。

パンジーの黄やうらがはにその黄透く

これはどちらかと言えば「上手いなあ」という類。まず観察が緻密、皆が見ているはずの光景を皆が見ているのとは違う方向から描いてみせる。「や」を持ってくるところとか「その」の使い方とか、テクニシャンですね。

紙は日に焼けその春の惜しまるゝ

惜春の句として、50句の最後を飾る句としてなかなかいいんじゃないでしょうか。「その春」に籠められた余韻、作者はどんな春を送ったのだろうと想像が膨らみます。ただ直前のパンジーの句にも「その」があるので、ちょっと違う使い方と言うことを割り引いても気にはなりますね。

信治:
春を唄へば浅草の筈である」これ、かわいいですね。浅草オペラかw
レトロにもほどがあるw

2015年、堀下さん他こちらで読ませていただいた若手数人は、予選通過してもぜんぜんOKだったと思いますけどね。小野あらた、青木ともじ、青本瑞季と、三人通過しているので「学生枠」的配慮もあったと思います。

ただ、堀下さんでいえば「肉声の」「峰雲の」のような、埒を踏み出ようという句があって、それが疵とみなされただろうという気はする(予選通過の人たちが攻めてないというわけでは、もちろんないですが)。

寒蟬:
かなりの冒険作、野心作と見ましたが必ずしも成功していない。大いに暴れるのはいいのです。ただ勝負に出た句が必ずしも成功していないのが残念。


27. 利普苑るな 「否」

信治選

 漕ぎ出せば川岸長き薄暑かな
 母の日やベンチに並ぶ松ぼくり
 盆波の犇いてゐる板の下
 用水路跨ぎ花野に入りにけり
 てのひらに硬き切符や冬ぬくし
 春落葉日当るものはくれなゐに
 少年のまなじり赤し磯巾着


寒蝉選

 漕ぎ出せば川岸長き薄暑かな
 母の日やベンチに並ぶ松ぼくり
 木犀やわれ亡きあとの太陽系
 用水路跨ぎ花野に入りにけり
 和紙にある草のぬくみや時雨来ぬ
 流氷より戻りし人に灯せり
 抱き戻りけり朧より出し猫
 死神に否と応へし春の夢

信治:
利普苑さん、今年、亡くなられたんですよね。
闘病のあったことを感じさせる句はありましたが、まだお若いので驚きました。

寒蟬:
FBの友達でしたが亡くなったという発表が御主人からあって、本当に驚きました。長い間G(癌のことを彼女こう書いてました)と闘っておられたようですが。今から思えば

 熱帯夜病棟に棲む黄泉神
 木犀やわれ亡きあとの太陽系
 花野道死は弾丸となりて来る
 白線の向かう黄泉らし蚯蚓鳴く
 死神に否と応へし春の夢

などは死を予感して、或いは死と向き合っている毎日だからこそ作れたのかなと。

信治:

 漕ぎ出せば川岸長き薄暑かな

川筋に沿って漕ぐかぎり、川岸が長いのはあたりまえなんですが、でもふしぎな実感があります。漕ぎ出したら、長い川岸の長さに、かすかな感情のざわめきを感じながらこぎ続けなければいけない。「薄暑」が祝福であり、救いであり。いい句だな。

 用水路跨ぎ花野に入りにけり

花野は異界なので、結界があるという発想はあるとは思いますが、用水路跨ぎ、というこのざっかけなさに好感。

 春落葉日当るものはくれなゐに

これは、夕日ってことですよね。春で、落葉で、没日で、それはあかあかと、はかなく美しかったと。

 少年のまなじり赤し磯巾着

ちょっとエッチでいいですね。

闘病を感じさせる句については、この作者の自分へのはげましだったろうと思います。
それでいいんだろうと。


28. 小池康生 「一睡」

信治選
 閉館のキネマの隣布団干す
 海に浮くごとくに聴いて除夜の鐘
 外出はせぬがよそゆき大旦
 地の雪と五重塔に載る雪と
 マフラーに普段着のありそればかり
 花水木住めば覚える人の顔
 たけのこの白きところに値の書かれ
 我ながら大きな文字や夏見舞
 黒南風や五人で守る草野球
 釣り人を離れぬ鷺や秋の昼  

寒蝉選
 閉館のキネマの隣布団干す
 男湯と女湯代はる去年今年
 お水取り巨きな夜を燃やしけり
 啓蟄の秘仏の腹のレントゲン
 青空を眺めに出掛け落第す
 鳥交る片方だけが無表情     
 苗札のなきものばかり咲きにけり
 たけのこの白きところに値の書かれ  
 台詞なき場面のつづく涼しさよ
 バナナ剥く北に東に南西に
 唐辛子売るや辛さを詫びながら

寒蟬:
ちょっとレトロな感じのこの作者の示す世界が割と好きでした。

 閉館のキネマの隣布団干す

こういう場末の映画館、今はあまり見かけなくなりました。「キネマ」という表現も古いけれどそれが閉館しちゃっている、その横では時代の流れと関わりなく「布団干す」庶民の生活が続いている。

 男湯と女湯代はる去年今年

ありますよね、午前零時になったら男湯と女湯が入れ替わる温泉。それが大晦日と正月であっても普段と同じように続けられているという発見。「色々あるけど時間は流れて行くんだよ」という感じです。

 お水取り巨きな夜を燃やしけり

お水取りは火の祭、私は見に行ったのが幼い頃だったのであまり覚えていませんが「巨きな夜」との把握にはしっかりと見てきたものの強みを感じます。

 啓蟄の秘仏の腹のレントゲン

秘仏の胎内をレントゲンで探るという技術。啓蟄との取合せが面白かった。

 青空を眺めに出掛け落第す

これも落第という人生の一大事に関わりなく青空は常にあるとの思いがベースにある。ただこう書くと「青空を眺めに出掛け」たという能天気な行為が落第を招いたようで面白い。それでもいいじゃないか、と言っているようで。

 鳥交る片方だけが無表情

本当なのかな、でも本当かも知れないなと思わせる。つい人間同士の行為になぞらえてしまうからなのでしょうね。

 苗札のなきものばかり咲きにけり
 たけのこの白きところに値の書かれ

いい所に目を付けたなという句です。これまで挙げた句のような時間の流れはあまり感じさせませんが 箸休めとしてはいい。

 台詞なき場面のつづく涼しさよ

ああ、この人はこういう場面から涼しさを感じ取るんだなと。この感性は作者の時間に対する「仕方ないじゃん」という思いと無縁ではないでしょう。

 バナナ剥く北に東に南西に

いいなあ。何だか馬鹿馬鹿しいことに夢中になっているいい歳したおじさん的で、好きですね。

 唐辛子売るや辛さを詫びながら

詫びているのは唐辛子売りなんだけど作者も唐辛子売りに共感していて決して腹立てたりはしていない。いいよ、いいよ、仕方ないよ、この優しさのトーンが全体を覆っていると思うのです。

信治:

 閉館のキネマの隣布団干す

これは、こてこてですねw。かつての昭和モダンが失われて、庶民の町の素地が露呈している。日当たりがいいのが救いで、この国の青春時代を思いながら、老化した町がいねむりをしている、という景。「隣」は、リアルというより、すこし簡単すぎる気もしましたが。

 海に浮くごとくに聴いて除夜の鐘

なかった比喩ではないかもしれないけれど、除夜の鐘をきくのに、波の間に間にたゆたってるような気持ち、暗いような、あの世のような気持ちになっているというのは、とても、よくないですか。渚男の「船」の句を思い出したりもして。

 外出はせぬがよそゆき大旦

一転、日常としての正月風景。寒蟬さんの選んだ「男湯と」の句にも通じるところがあります。
ぼくの父はこういう人でした。

 地の雪と五重塔に載る雪と
 たけのこの白きところに値の書かれ   

写生あるある。どうでもいいことを言いがち。些事が言葉になっていくときの、なんというんでしょう、無差別、無分別の楽しみがある。タケノコの皮に、白っぽいところと毛の生えてるところがあるということですねw

五重塔の句は、視点、空にあると思いましたけど、むしろ下からですかね。

 マフラーに普段着のありそればかり 
 花水木住めば覚える人の顔
 我ながら大きな文字や夏見舞     
 黒南風や五人で守る草野球        

人間にいちばん興味がある。それも、日々の、ふつうの精神状態の人に。それがこの50句、というより、小池さんのいちばんの特徴だと思います。

 釣り人を離れぬ鷺や秋の昼      

この鷺のひとなつっこさには、微量の謎があって。お魚もらえるのかしら、とも思いますが、意味もなく近くにいるというほうがいいな。

寒蟬:
久し振りに読み返してみたら信治さんの取った

 外出はせぬがよそゆき大旦
 地の雪と五重塔に載る雪と

ものすごくいいですね。大したことは言ってないんだけれども気持ちが入って来るというか時間とともにしみじみいいなと思えてくる。

 たけのこの白きところに値の書かれ

は選んでいながら前回コメント入れ損ねていました。この発見はいい。滑稽さもあるし実に生活に即しているし「あるある」なんだけど陳腐じゃないですね。全体の中でも評点の高い作品でした。

信治:
寒蟬さんの取られた、

 啓蟄の秘仏の腹のレントゲン
 青空を眺めに出掛け落第す
 鳥交る片方だけが無表情     
 バナナ剥く北に東に南西に

とかは、すこしサービスよすぎるのでは、とも思うのです。
エンターテイナーなんですね。きっと。


新人賞について

信治:
保坂和志がどこかの講演で話していた逸話です。小島信夫に、保坂和志が「小説家も、選考委員になると、評論家みたいになっちゃうから」と言ったら、小島信夫が「それならまだいい。彼らは、選考委員になってしまうのですよ」と言ったというw

作家も、選考委員という立場になると、文学の代理人として読む、のではなくて、業界の代表者として、賞のそういう性格を無意識に反映して、読み、選別するように、なりがち。それって、たとえば、新人賞が、入社試験みたいになるということですよね。

寒蟬さんはそのへん、どういうふうにお考えでしょう。

寒蟬:
よく分んないけど俳人も選考委員になったら評論家、もしくは「選考委員という人」になってしまうということでしょうか??

信治:
作家は文学とサシの関係であり、文壇に(必ずしも)従属するものではないですが、選考委員になってしまうとは、文壇という業界の機能に、なってしまうということだと思います。

寒蟬:
私のここでの発言がどう取られるかはわからないしどうでもいいですが、私自身は業界(俳壇というものがあればの話)を代表しているつもりもないし新人を送り出そうというつもりもありません。ただ俳句の作者兼読者として思う所を自由に述べさせていただいているつもりです。

先日、小澤實さん、筑紫磐井さんと3人で第1回姨捨俳句大賞という句集に与えられる賞の審査員をやりました。面白かった!自分の俳句観をぶつけて小澤さんとガチでやり合いました。(杉山久子さんの『泉』が受賞)

私は姨捨俳句大賞の公開審査でもここでの信治さんとの対話でも、言っていることにブレはないつもりでいます。

信治:
寒蝉さんが、「賞応募作としては」と言われるとき、彼らに受かって欲しいという、気持ちで言われているのだと思うのですが。

でも、「賞応募作」として、何かを書くというのは、そうとう難しい。
そんな席題が出たら困りますでしょう?

寒蟬:
ああ、そのことですね。言葉が悪かったかもしれない。賞に応募する人は応募するからには賞を取ろうと思っているのでしょう?こちらは読者としてそれを読む時に俳句の並べ方はどうか、統一されたテーマみたいなものはあるか、などと一つの作品として読もうとするということです。それは仕方のないことだと思いますが。

信治:
なるほど。50句トータルでの見せ方ということですね。
たしかに、それはかなり大きな影響あるかもしれません。

ただ、完成度や疵のない作品を、ついつい求めてしまうのは、賞というものが、業界メンバーを選ぶ選別装置であるという前提があって(文芸誌の新人賞だって、芥川賞だってそうですよね)、選考委員となった作家は、無意識のうちに、その関所の門番として機能してしまう。

寒蟬さんも、角川の選考委員の諸先生も、いつもはそういう人じゃないのに。

寒蟬:
まあ立場が人を作るし人を変えてしまうのは致し方ないと思っています。

例えば私は医者として一人の臨床医のつもりですが、同時に病院の地域医療部長でもある。ただ部長として行動する時にも一人の臨床医であることを忘れたくないし忘れないようにしているつもりです。誰かから「お前は一人の臨床医としての立場を忘れている」と指摘されたら恥じ入るし反省するでしょう。

俳人としても同じだと思っています。分って頂けます?

信治:
もちろん分かります。

寒蟬:
「賞応募作として」なんて考える必要はないと思います。自分が俳句でやりたいことを決められた50句なら50句の中で存分にやればいいのです。それが読む側の琴線に触れれば受賞ということになるのでしょう。





【落選展2015を読む】
(1)「水のあを」から「梅日和」まで
……仲寒蟬×上田信治 ≫読む


補遺 全応募作より印象句 ≫読む

【落選展2015を読む】 補遺 全応募作より印象句 仲寒蟬 × 上田信治

【落選展2015を読む】
補遺 全応募作より印象句

仲寒蟬 × 上田信治



2. 青島玄武 「おしりの人」

仲 寒蟬 選

神様が旅立つ二両列車にて
爪先を辺境と思ふ霜柱
をさな子の尻の重たしあたたかし
おにぎりも子供も山も笑ひをる
晴れ晴れと象の交める涼しさよ

上田信治 選   

木枯しをくしやくしやにしてポケツトへ
冬帝に体毛といふ体毛を
山越えてまた菜の花となりにけり
躑躅たることを嬉しく唄ひをり
お日さまがよいしよつと夏来たりけり


5. 青山青史 「死海」

仲 寒蟬 選

閻魔蟋蟀夢なきころは殺めけり
月面の海しづかなる鵜舟かな

上田信治 選   

海豚抱くほかなき海の青さかな
あとずさる猿に後光を大旦
戦士の休息南方系の蝶放ち
籐椅子や特許許可局廃墟とし
虹を指さすたび喜びの世界


9. 奥村 明 「ZARAにあるLOVE,ないLOVE. 」

仲 寒蟬 選

水のなき初夏のプールの中歩く

上田信治 選

水のなき初夏のプールの中歩く
朝涼のパンを焦がせし蝉の声
冬近し道路横切る鹿の王


10. 葛城蓮士 「終末論」

仲 寒蟬 選

水洟をすする眼の鋭さよ

10. 葛城蓮士 「終末論」

上田信治 選

サングラス煙草手向ける花の白
路地裏の八百屋の留守や冬ひでり


11. 加藤絵里子 「ものの芽」

上田信治 選

春を読みさして海までささくれる
梅干しの苦手な人の背中かな
星瞬く自分の靴をはいてをり


12. 加藤御影 「蛇苺」

上田信治  選

倒れたる空壜の先虫の闇


13. きしゆみこ 「まつはる色」

仲 寒蟬 選

門番の薄紫の午睡とも

上田信治  選

遠目にも広場が見えて鐘涼し
街の灯の中を明るき涼み船
蜘蛛が囲を張るやうに池凍りたる


16. 吉川わる 「アディオス」

仲 寒蟬 選

プラタナスらせんとなりて芽吹きけり
黙黙と天ぷら食らふ夕立かな
鉄棒の匂ひ残るや曼珠沙華
耳の穴きれいに見えて春着かな

上田信治  選

おとなしく傘たたまれて花の冷


17. 杉原祐之 「日乗」

仲 寒蟬 選

畦塗の準備のままの猫車
明らかに人手不足の神輿来る

上田信治  選

遠足の子の聖堂に静まれる
海の日や海岸倉庫飾らるる
キャタピラの轍の残り厚氷


18. すずきみのる 「初扇」

仲 寒蟬 選

とかげ息せりあまた罅あるつち壁に
新聞の厚みうれしき初景色

上田信治  選

抜く腸もぷりぷりとして春鰯
天井より涅槃図床へ垂れゐたる
花芯よりつまみてはなむぐりを剥がす
とかげ息せりあまた罅あるつち壁に


21. ハードエッジ 「ブルータス」

仲 寒蟬 選

枯草は倒れ枯木は立てりけり
大根も抜きたる穴も濡れてをる

上田信治  選

新聞も三月三日ひなまつり
空蝉と例へば空の段ボール
水槽のびくともせずに夏の夜
たまりたる落葉の下の水たまり
息のあるものが生きもの雪ふりつむ


23. 前北かおる 「光れるもの」

仲 寒蟬 選

イーゼルを倒して風や立葵
避雷舎に入れば真昼のほととぎす
牛乳を飲んで朝顔数へけり

上田信治  選

イーゼルを倒して風や立葵
五月雨の甘く匂へる板廊下
吊り橋をとほり抜けたる螢かな
奥山に金湯館や霧を積む
牛乳を飲んで朝顔数へけり
夕紅葉家族を置いてきたりけり


25. 宮﨑玲奈(宮﨑莉々香)「眠る水」

仲 寒蟬 選

鳥来れば泉の泉らしくなる
オムライスの丘を崩せば春はじまる
レガッタの一人遅れて櫂を取る

上田信治 選

古本は菓子の香マスカットが近い
蔦である或るいは図絵の窓である
卒業や写真にうつる大きな木
あげまんぢゅうのぢが好きなのだ春の虫
教室に蝶いて先生がやさしい
金魚泳げばうしろを眠るような水

 26. 薮内小鈴 「声真似」

上田信治  選

炎昼や蛸も狐もビルかげに
ふと止まりふと動きだす団扇の手
傘よりも明るき脚で鴨およぐ

しましまの街もあるらん花曇





2016-02-21

【落選展2015を読む】 (1)「水のあを」から「梅日和」まで ……仲寒蟬 × 上田信治

【落選展2015を読む】
(1)「水のあを」から「梅日和」まで

仲寒蟬 × 上田信治



信治:
上田です。このたびは、仲寒蝉さんをお迎えして、「2016落選展」にご応募いただいた各作品を読み進めていきたいと思います。

寒蝉さんよろしくお願いいたします。

寒蟬:
よろしくお願いします。以前「里」でこのようにネット上の掲示板に書き込んで対談したことありましたね。なるべくうまくつながるように進めて行きたいと思います。

信治:
はい。掲示板対談なので、噛み合わい切ってないところはご愛敬で。

まずは、二人それぞれ、27人の方の応募作から、10作品を選びました。
僕も寒蝉さんも、27作を通して読んで、○の多かった10作品をピックアップしています。


寒蝉10作品選

1.青木ともじ  「水のあを」
3.青木瑞季  「鰭の匂ひ」
4.青本柚紀  「飛び立つ」
6.上田信治  「塀に載る」
7.大塚 凱  「鳥を描く」
15.北川美美  「梅日和」
20.高梨 章  「明るい部屋」
22.堀下 翔  「鯉の息」
27.利普苑るな  「否」
28.小池康生  「一睡」

信治10作品選
1.  青木ともじ  「水のあを」
3.  青本瑞季 「鰭の匂ひ」
4.  青本柚紀 「飛び立つ」
7.  大塚 凱  「鳥を描く」
14. 仮屋賢一 「鷲掴む」
19. 折勝家鴨 「塔」
20. 高梨 章  「明るい部屋」
22. 堀下 翔  「鯉の息」
27. 利普苑るな 「否」
28. 小池康生 「一睡」


信治:
なんとそれぞれ10作中8作品が、同一になりました。寒蝉さんは、本選の審査員と同じく、作者の名前を隠して、読んでいただいたんですよね。ぼくは、作者名を隠さず読んでしまったので「この人だったら」「この人としては」とかそういう観点も入ってしまったかも知れません。

寒蟬:
それにしても、私の中には信治さんの作品が入っているからそれをのぞくと、8/9まで一致してしまったんですねえ。

信治:
堀下・大塚組もふくめてのこの一致は、ちょっと予想外でした。寒蝉さんと僕、あるいは彼らと、そんなに俳句観が一致する方でもないでしょうにね。

寒蟬:
ただ、「里」で牙城と一緒に選をしていて、こいつとは全然価値観も経験の内容も違うはずなのに、現に取る句も大分違うのに、或る部分だけはかなり共通しているという経験をよくします。

これは、俳句に対する考え方は微妙に異なっていても所謂「取れる句」というものは、一定レベル以上の俳句経験を有する者の間でさほどずれはしない、ということではないか。年齢や経験年数は大して関係なく。そう思うのです。

信治:
二人の選んだ12作を鑑賞し終わったら、せっかくですから、他の作品についても、取った句、感想などを書いていきましょう。


1. 青木ともじ 「水のあを」

寒蝉選
スティックシュガー音たてて出る立夏かな
青葉風ベンチはひとつづつあけて
繁華街の色をしてをり夜の金魚
ハンカチを返すとき手をすこし高く
重力のかすかにありぬ花野道
集金の人と小鳥の話など
秋の蚊をしばし相談して打ちぬ
冬めきて本の挿絵の蓄音器
地球儀は高いところへ煤払
背もたれに余るコートの長さかな
風光りチーズケーキは砂丘めく
喰ふ舌の先まで恋の猫である
田楽を串の出でゆく力かな

信治選
スティックシュガー音たてて出る立夏かな
風にほぐるる鹿の子の耳の先
犬ゐれば声をかけけり黄落期
背もたれに余るコートの長さかな
人日やただまつすぐにバス通り
みな同じ岩を踏みゆく磯遊び

寒蟬:
実はこの50句はけっこう評価の高かったもののひとつです。

最初の2句は気持ちよく入れました。

全体的に上手い感じはしましたがあまり冒険した感じはなかった。「集金」や「本の挿絵」みたくさらっと詠んだように見える句にいいのがありました。

反対に「花の野の果て」はまどろっこしくて成功していないし「イオマンテ」がいきなり出て来るのもどうか。「亡国の名の酒場」は何か言いたそうなんだけど伝わってこなかった。

信治:
「スティックシュガー」や「鹿の耳」の感覚的なよろこび。「コートの長さ」、まっすぐな「バス通り」、磯遊びのみんなが踏む「岩」……「ベンチ」「待ち針」の、ちょっと正確な把握。

ただ、ある範囲のなかで詠まれているという、物足りなさはある。

悪くなくて「ほどがいい」。でも、ものすごく「ほどがいい」というところまではいかないので、そこはやや残念かも。安全な作り方を離れて、言葉自体になにかさせようとすると、まだちょっとうまくいかないというか。

あと既存の俳句にある作り方ですけど、「力」とか「温度」とか言って、なにか言ったような感じになってる句は、もういいんじゃないかという気がする。

ぼくのイチオシは、
風にほぐるる鹿の子の耳の先
みな同じ岩を踏みゆく磯遊び
この二句なんですけど、青木さん自身を、いちばん喜ばせるのはどういう俳句なんだろう。いろいろ作れてしまっているので、この50句からはそれが少し見えにくい。

寒蟬:
まあ器用なんでしょうね。色々と出来てしまう。だから「これ」という句が見当たらないのかもしれません。

「磯遊び」はいい目の付け所だけれど同工異曲の句があるような気がします。「鹿の子」の方がオリジナリティがありそうです。私のイチオシは先にも少し触れましたが
集金の人と小鳥の話など
冬めきて本の挿絵の蓄音器
かな。
風光りチーズケーキは砂丘めく
も好きでしたがどこか櫂未知子さんの「南風吹くカレーライスに海と陸」を思い起こさせるところが不利ですね。

「力」確かに重力入れると2句も出てきている。でも田楽の句とか悪くはない。

信治:
ちょっとだけ概念をかませて一句というレトリックですよね。近年かなりたくさん試されてる気がして、僕は食傷気味に感じました。


3. 青本瑞季 「鰭の匂ひ」

寒蝉選
三月のひかりに壜の傷あらは
涅槃の日鸚鵡少女の声を出す
藤房は垂るるものなり足もまた
蛍烏賊青菜に目玉こぼしをり
惜春の傘襞深く閉ぢらるる
言葉より疾し目高の逃げゆくは
耳栓のうちに大暑の機械音
きちかうの高さを煙とほりけり
毛糸玉とはもう言へぬ平たさよ

信治選
三月のひかりに壜の傷あらは
雪解川遠くの橋の昏くあり
蛍烏賊青菜に目玉こぼしをり
麦秋や絵に神々の憎みあふ
水かげろふ日傘のうちを照らしけり
涼しさや龍をふちどる金ひとすぢ
炎天をかりかりと蝶登りをり
劇場の裏の木屑や小鳥来る
きちかうの高さを煙とほりけり
玻璃すこしみづに汚れて秋の声
藻は水の流るるかたち雁渡し
白菊に喉の渇きを思ひ出す
枇杷の花牛乳揺らしつつ帰る
毛糸玉とはもう言へぬ平たさよ
林開けて向かひあはずに椅子がある

寒蟬:
4句重なりましたね。

信治:
イチオシはどれですか?

寒蟬:
毛糸玉とはもう言へぬ平たさよ
かなあ・・・。毛糸玉をこんな風に詠んだ俳句を知りません。毛糸玉=球体という常識をさわやかに覆してくれました。
三月のひかりに壜の傷あらは
50 句揃えるとなると最初の5句くらいはとても大切です。ここにいい句がないとあとは読んでもらえません。その意味でこの1句目は成功している。まだ春浅いけ れども徐々に強くなっていく日光に、壜の細かい傷が浮かび上がって見えるのですが、それを掬い上げて俳句にする感性は非常に繊細なものです。「あらは」と いう止め方も上手い。
涅槃の日鸚鵡少女の声を出す
涅槃会との取合せに驚いた一句です。鸚鵡が人の声を出すというのは当た り前でしょうが、敢えて「少女の声」と言うことで妙にリアリティーが出て来る。涅槃会というと釈迦の入滅を悲しむ衆生の泣き声とか動物たちの咆哮といった詠まれ方をすることが多いけれど、この鸚鵡の声はちょっとずらしてあって意図が読めないだけに不思議な句となっています。

信治:
三月のひかりに壜の傷あらは
光線、瓶、傷という組み合わせは、ちょっと常識的。なので、この句には全面的に賛成というのではないですが。瓶の色、書いてないけど緑色のような気がするんですよね。「三月」の芽吹きのイメージにひっぱられて、だと思うんですけど、そこが面白かった。あと「傷あらは」に、すこし心理的な思わせぶりがありそうで、このナイーブさは、プラスにカウントしましょう。
雪解川遠くの橋の昏くあり
明るさと音に包まれて、遠くの橋という、小さくて動かないものが「昏い」。
この対比、見え見えと言われればそうかもしれませんが、自分も橋の上にいて、上流の橋を見ているのかな、と思うと、ほんとうにその明るさにあらがうようにして、昏い橋を見つめている本人が、浮かび上がってくる。
蛍烏賊青菜に目玉こぼしをり
あーあ、っていうねw これ、かなり好きですね。
毛糸玉とはもう言へぬ平たさよ
これは、認識の句ですね。こういうのは無季句で作るといいと思うなw
林開けて向かひあはずに椅子がある
椅子が2つあるわけでしょうね。そこを言わないことで、心理的なことを伝えるてるのがいいな、と思いました。

ボキャブラリーが俳句の埒内にあるので、分かりやすく見えますけど、この人の本丸はたぶんかなり理解しにくいような心理的なところにあって、繰り返しにな りますけど、それが抑制されつつ見えている感じが面白い。ヒリっとくる痛みがある。内面的になりすぎないように選ばれたであろう抑制された書き方、モチー フが、心理的なものに力を与えていると思いました。

寒蟬:
傷の少ない50句という感じでした。ただ
鰭の匂ひか南風蔵の中へ入る
という表題の句、「鰭の匂ひ」の表現は面白いけれどどうかなあ。詰め込み過ぎの気がしました。結局「みなみ風蔵の中へと入りにけり」に「鰭の匂ひか」をくっつけただけで、そのくっつけ方があまり成功していないような。

「蛍烏賊」いいですね、私も好きです。「惜春の傘」はやや狙いが見える気もしますが何とも言えぬ陰翳がいい。

信治さんの感想とダブるかもしれないけどこの作者は光と影の両方に惹かれながらもより良い部分は影の方にあるのかもしれないと思ったりします。レンブラントほど強烈ではないが光と影のメリハリを感じました。


4. 青本柚紀 「飛び立つ」

信治選
鳥飼つて二月の空を明るくす
蝶よりも薄く図鑑の頁あり
風船に透けて十指のふかみどり
木の芽風つよし病棟より出れば
鳥なくて鳥の巣に日の真直ぐなり
紫となりて鳩発つ晩夏かな
雪の木に雪を解かさぬ光かな
嘘よりも口は小さし水仙花
鳥の骨春風に満たされてゐる
たとへば刃蛇這ふ音の重さとは
夏川に冷え千層の岩なりき
ふと遠いひとと白鷺と飛び立つ

寒蝉選
鳥飼つて二月の空を明るくす
風船に透けて十指のふかみどり
鳥なくて鳥の巣に日の真直ぐなり
目を閉ぢてをれば眼の浮く五月
夜店てふ小さき牢のごときもの
みちのくの林檎しづかに尖るなり
手の冷えを重ね遠くに巴里のある
嘘よりも口は小さし水仙花
冬の川舌のごとくに夜が来る
四五匹のみんな恋猫みな濡れて
駆け抜けて胸の高さに夏の草
馬を彫る泉につけて来し両手
よく鳴る森木に空蝉の夥き森

信治:
「木の芽風」の句、倒置法によって、明暗の明にはっきりウェイトをかけて、かつ、その明るさの過酷さを暗示している。暗いものの内部にいた自分が明るさにさらされて、今度は自分の内部にその暗さの残響を抱え込んでいる。

他にも「紫と」「嘘よりも」「鳥の骨」「たとへば刃」など、わりと力技でポエジーを説得してしまう剛腕に、魅力を感じました。

寒蟬:
鳥飼つて二月の空を明るくす
50句の始まりとしてまことに明るく余韻に富んだ俳句。これなら句集の巻頭句としても行けそうです。信治さんの「明るさの過酷さ」という把握はすごいなと思いました。二月の痛々しさみたいなものが表面でなく深い所に蔵されているからかもしれませんね。
風船に透けて十指のふかみどり
なるほど風船を透かして見るとその向こうに持っている手の指が映っている、そういう経験はあります。しかしその指を「ふかみどり」と看破した感性は真に鋭い ものがあります。全然そうは思わなかったけれど、こう言われてみればそうかもしれないと思わせる強さがこの表現にはありますね。
たとへば刃蛇這ふ音の重さとは
これは私には成功しているとは思えませんでした。「刃」は鋭いでしょう?蛇の這う音はどちらかといえば鈍い。作者自身も「重さ」と言ってしまっている。これは矛盾ではないでしょうか?
四五匹のみんな恋猫みな濡れて
うまいなあ。「みんな」「みな」のリズム感。恋猫たちのそれぞれの姿態が見えてくるようです。
駆け抜けて胸の高さに夏の草
こう言う句は若い人、それも女性にしかできないんじゃないか。年とると駆け抜けられないんですよ。それに男は「胸の高さ」を感覚よりも理性的に理解しますが女性は感覚的に感じるんだと思うんです。それはひとえに乳房のあるなしによるのかもしれませんね。
馬を彫る泉につけて来し両手
この句には驚きました。彫刻家でもない限りいきなり「馬を彫る」とは言えないでしょう。しかも「泉につけて来し両手」が妙に生々しい。実際にやったことのある人でないと詠めないんじゃないかと思わせる臨場感があります。

信治:
ドスがきいてるんですよねw迫力がある。下五に重心の来る句が多くて、流した言い方をしない。

モチーフも一貫性があって、こう、かたちを与えたいものが、もどかしくありますよね。たとえば簡単にことばを与えしてしまうと、それはこの人だけのものではなくなってしまうような性質のモチーフがある。だから、心理的はものは、苦闘の跡をとどめてもどかしくなる。
鳥飼つて二月の空を明るくす
二月の空はもうだいぶ明るいんじゃないかと思うんだけど、それを意志で明るくすと言わせるのは、なんだか鳥のようなものを抱え込んでしまっている本人の内面の事情でしょう。
風船に透けて十指のふかみどり
これ、風船をわしづかみにしてるんですよね。そして手放せないで、ただ持ってるw この動作から伝わるものがあります。
たとへば刃蛇這ふ音の重さとは
この音の重さは、斬られちゃってるわけじゃないでしょうか、効果音つきで、自分がw
鳥の骨の句と並んで大げさといえば大げさ。でも、ガンガンいけばいいと思う。
夏川に冷え千層の岩なりき
好きな句です。
ふと遠いひとと白鷺と飛び立つ
この不安定なリズム、若い世代の共有財産になりつつある。絶句すれすれで13音目までたどりついて、間白が入るから、飛べるんですね。


6. 上田信治 「塀に載る」

寒蝉選
寒晴のかばんの蓋の磁石鳴る
夜の梅テレビのついてゐるらしく
空はいつもの白い空から花の雨
白きもの食べれば独活や雨の香の
一人は立ち一人はしやがみ梅雨の浜
炎昼に半月がありずつとある
自転車の錆びたベルから秋の蝶
ワイパー二本に軍手引つかけ雲の秋
たてものに秋の公孫樹の影はんぶん

寒蟬:
本人を前に言いにくいんですが、この50句最初の掴みが弱い気がしました。まずぐいと作者の世界に引きずり込む強引なほどの力を感じなかったんです。
寒晴のかばんの蓋の磁石鳴る
ただこの辺になってさりげない日常のさりげない、見逃してしまいそうな事物にこの人はていねいな目を向けているなと感じさせ好感を持つようになります。ここまで来て振り返ると2句目の「濡れた板」も結構面白く思えてきます。
夜の梅テレビのついてゐるらしく
不思議な梅の句です。伝統的な「梅の香」を全く感じさせない。どちらかと言えば視覚からのアプローチですね。梅を視覚から詠むのは大抵昼間です。だって夜は 見えないんだから。それで「夜の梅」と言えば嗅覚の句になってしまうんです。でも作者は「テレビのついてゐるらしく」と言うことでほんのりした明るさを持ち込んだ。これが夜の闇に浮かび上がる梅の白さを感じさせる仕組みです。「らしく」なので本当にテレビがついているのか分からない。ちょっと変わった見立ての句のようになっています。
空はいつもの白い空から花の雨
「空」と言う語の繰り返しが眼目ですね。しつこい、余計だと思うか・・・。現に最初の「空は」を取っても意味は十分通じますから。ただこの「空は」が一句全体をそれこそ空のように包み込んでいると取ると俄然素晴らしい表現に思えてくるんですよ。
白きもの食べれば独活や雨の香の
このレトリックはすごいなあ。「や」で「あ、何かと思ったらこの白いものは独活だったんだ」という驚きを表わしていますし、最後の「雨の香の」と言う付け方、余韻を持たせた終わり方は実に心憎い。
一人は立ち一人はしやがみ梅雨の浜
これ、いいですねえ。よくある風景だし、何も特別な言葉は使っていない。でも立ってる人としゃがんでる人、2人が浜辺で何らかの関係を持って関わり合っていて梅雨の雨が風景全体をけぶらせている、そういう一幅の絵が有無を言わせぬ実在感を以て立ち現われて来るのです。
炎昼に半月がありずつとある
これもよくある風景をちょっと変わった表現で描き直して見せた句ですね。先ほどの「空」の繰り返しや「雨の香の」のダメ押しにも似て「ずつとある」が使われている。意味を伝えるのなら上五中七だけでいい訳ですよ。でも作者は「ずつとある」と言わずにはおられなかった、言いたかった。この措辞によってはかな 消えそうな真昼の半月が永遠に詩の上に定着されたのです。
自転車の錆びたベルから秋の蝶
これはちょっとした驚きを掬い取った俳句らしい俳句。「錆びたベル」がリアリティーを高めています。ただ「錆びた」と「秋の」が付き過ぎかも知れない。
ワイパー二本に軍手引つかけ雲の秋
ありますね、ワイパーに軍手をひっかけてある光景。でも「ワイパーに」でなく敢えて字余りにしてまで「ワイパー二本に」とした細部描写にこの作者のこだわりを感じます。「雲の秋」という聞きなれない下五の表現が細部から一気に大きな空間へと読者を持って行く、そこが見事です。
たてものに秋の公孫樹の影はんぶん
この句の眼目は「はんぶん」でしょうね。「たてもの」という漠然とした、いい加減な表現の後に妙に正確を期したような「影はんぶん」を持ってくる。そのギャップがおかしい。作者は大真面目でも読む側はくすっと笑ってしまうんです。

信治:
ていねいに読んでいただき、本当にありがとうございます。

角川「俳句」掲載の作品も含めて、候補作を読ませていただいて、思ったんですけど、50句を通じて、その人のやっていることの文脈が伝わるかどうかということは、重要だなと。
自動車はシンメトリーで冬の海
日のひらめく海の若布を食べにけり
空はいつもの白い空から花の雨
著莪の花つめたいペットボトルかな
ねぢ花を見てゐる顔や空の雲
芋虫のまはりを山の日が透きつ
今回の50句で、僕が勝負に行ってるのって、このあたりの句なんですけど、必ずしもwそれは伝わってないんだろうなと。そういう意味での、力不足だなと。

読む側あるいは選ぶ側としては、今、俳句を、作家それぞれのコンテクスト抜きで読んで評価しようとしたら、単なる技術的評価か好みの押しつけになる。技術と好みだけでは、こういう賞のような共通領域としての俳句の場を成立させることが、できないんじゃないか。

一句一句ではなく、作家と出会うためには、句会とは違った「読み」筋が必要なのではないかと感じます。

寒蟬:
それは賞というものをどう位置付けるかでしょう。

角川俳句賞はいちおう新人賞的な位置づけらしいので一番は作者の将来性を見るのでしょうが、それが言葉ほどたやすくはないのですね。だって「こいつは将来性がある」って、仮令50句並べたからってどこまで分かりますか?

私はやはりまず1句1句をきちんと読んでいって、そこから立ち上る作者の世界観みたいなものを感じ取り、それを評価するしかないと思います。

例えばすごくまとまったかっちりした世界を提示する人もいるでしょう。反対にどっち向いてるのかわからないような、でも1句1句は面白いという独特の世界を見せてくれる人もいるかもしれない。それはどちらがいいとかどちらを勝ちとするかでなく、或るときは甲をよしとし、或る時は乙を、その判断基準はある程度相対的なもの、言ってしまえば「作者による」ものではないか。曖昧かもしれませんがそう言う他ない気がします。

それに作者の意図なんてそのまま読者に伝わる筈もないので・・・。

例えば信治さんが挙げた
自動車はシンメトリーで冬の海
日のひらめく海の若布を食べにけり
空はいつもの白い空から花の雨
著莪の花つめたいペットボトルかな
ねぢ花を見てゐる顔や空の雲
芋虫のまはりを山の日が透きつ
ですが、これらは必ずしも私にとって50句の中で光っている句ではありませんでした。自転車の句は「可愛くない子供で春の夕焼で」にも使われている「で」という語の使い方に違和感を感じましたし、「日のひらめく」はこの作者のいい部分とは感じられなかった。

この中ではすでに述べたように「空は」が圧倒的にいい。そうしてこの句の差す方向は「雨の香の」とか「ずつとある」と共通しているという私の考えは変わりません。

信治:
ぼくは実は、新人賞は、将来性を見るものでも、達成度を見るものでもないと思っているのですが。ま、そこは長くなるかもなので、後編にとっておきましょう。

寒蟬:
新人賞に対する信治さんのご意見をぜひ後半にでも聴かせていただきたい所です。私もいちおう新人賞(本来50歳未満のはずなのに諸事情でいただいた芸術選奨文部科学大臣新人賞というやつ)を戴いたばかりなので、自分の中でこの「新人」の意味をどう考えようか悩んでいましたから。

信治さんの 50句は各句の観賞の部分でも触れましたが「ダメ押し」感が際立っている気がします。そこが作者の行きたい方向かなと思った訳です。デフォルメされた細かさというかしつこいくらいの細部表現。そうは言っても所謂写生の細かさとは違って、画家がモデルを別の角度から見て筆を足すような、やっぱり「ダメ押し」 というのが一番近い。
さっき違和感を感じたと言った「・・・で・・・で」という表現もそこから生まれて来る訳ですよ。

でもこういう所を追求して成功するととても面白い世界が開ける気がします。「空は」の句なんかはそういう面白さを垣間見せてくれてるんじゃないかな。

信治:
五七五は言葉のはめっこになりがちなので、意味的にも言葉的にも、過不足なくはめるのではなく、わざときれいに収まらないようにはめるということを考えています。その結果としてのだめ押し感、たしかにそうかもしれません。

ていねいに読んでいただき、感じ入りました。
ありがとうございます。


7. 大塚 凱 「鳥を描く」

信治選
冬晴の赤い実があり怪しい実
冬帽のてつぺんどうしても余る
受験子が駅のおほきな風に立つ
冷蔵庫ひらき渚に立つこころ
割箸にくれなゐ残る子規忌かな
鶏頭の襞の深きを蟻が這ふ
おでん屋のテレビの中を兵歩む
小雨ならコートに光る逢ひにゆかう

寒蝉選
太陽はもはや熟れごろ初詣
冬帽のてつぺんどうしても余る
残雪の厚みの辞書を父より享く
いもうとをのどかな水瓶と思ふ
パンジーも選挙事務所も消えてゐる
何の木と知らねど夕焼に似合ふ
眼は次の草を見てゐて草むしり
水に影おとさぬ高さ鬼やんま
おでん屋のテレビの中を兵歩む
古暦つまり風葬ではないか
しんしんと大つごもりの油濾す
夢の島除夜のおほきな闇が来る

寒蟬:
一番安定している感じがした、というか安心して読めた50句でした。まんべんなくいい句が配してある。いやそうじゃなくて意図的でなくとも結果的にいい句が散りばめられる形になる、ということは実力があるのでしょうね。

最初にぐっと惹きつけておいて中弛みもなく最後もきちっと締められれば50句としては大成功ですから。

信治:
オーソドックスな感情入りの叙景と、そこに一つジャンプを飛躍を入れで書く、という、二つのメソッドで、書かれている、と見ました。

オーソドックスなほうは、着眼とか感情がすごく普通。「受験子が」とか。

飛躍のあるもののほうが、ぼくは楽しい。そのジャンプによって、書かれる前には気づかれていなかった感情に到達したよう見えるものもあった。「冷蔵庫ひらき」とかw

書く前から分かってたところに着地するタイプの句が多く見えたのは、「賞」に出す作品だからかもしれませんね。

ちょっと首肯しがたい行き方の句もあって。
太陽はもはや熟れごろ初詣
残雪の厚みの辞書を父より享く
「もはや熟れごろ」「残雪の厚み」は、単なる言い方ではないか。こういうのはなんとなく信用できないw

寒蟬:
「太陽は」「残雪の厚み」は技巧に走り過ぎたきらいがあるので胡散臭さが拭えないという向きもあるかもしれませんね。私はこういうレトリックもありだと思いました。

ただ
母の日の父と来てゐる楡のかげ
はないなあ。狙いが見え透いてしまう。
不平等なからだと紺の水着かな
の「不平等な」も才に走り過ぎた感がある。

信治:
寒蝉さんの評価されたポイントは、どのあたりですか?

寒蟬:
一方で「太陽は」とか「いもうとを」のような意表を突いた才気煥発さを示しながらも、冬帽子のたしかに余ってしまいがちな天辺に気付いたり、パンジーは花時が終わることによって、選挙事務所は選挙が終了したことによって消えてしまうという、そういうありふれた日常の中の「おっ?」と思う出来事にちゃんと注目して一句に仕立てる力量がある作者だなと感心したわけです。

信治:
ここで寒蝉さんの言われる「日常」は、人間の生活意識で見る世界、ということですよね。人間の平常運転の世界。

それは、禅僧が太い字で「日々」と書くような人間の究極層としてのそれとは対極にある、なんというか、ベタな日常意識。そういう人間の普通の感情に詩を見出すっていう行き方もたしかにありますよね。たしかに、ありなんですよ。
受験子が駅のおほきな風に立つ
単なる「共感」のやりとりのレベルで書かれ読まれて消費されてしまうのではないか、という危惧もあるのですが、でも、このちょっとしたやさしさには、ちょっと奥行き感がある。
割箸にくれなゐ残る子規忌かな
あんまりいい割り箸じゃない。でも、健啖のかなしき子規の忌であれば、供養と思って美味しく食べてやろうという。ちょっと構図にはめたおもむきもありますが、いい句ですよね。

寒蟬:
「人間の生活意識で見る世界」そうです、そうです。詩なんかなさそうなところに詩を見出すのが俳のこころなんじゃないかと常々思っているのでこういう書き方になってしまいました。

受験子の句は風を「おほきな」と感じたところに眼目があるのでしょう。その一点においてのみ日常から少しはみ出ている。

割箸の句は何か(例えば紅生姜)をつかんだ時の紅色が箸に残っていると気付く、その「おっ?」という感じを掴み取ったところが手柄。ただし紅=赤から喀血した子規につなげるのはちょっとイージーかな。

冷蔵庫の句は最後の「こころ」が要らないなあ。

信治:
今回、作品を寄せてくれている、青本姉妹、大塚、堀下、宮﨑さんは同学年で、寒蝉さんも所属している「群青」のメンバーですよね。僕は、彼らのこれからをとても楽しみにしています。

彼らはいわゆる「石田郷子ライン」的限界(という話を最近また蒸し返しているのですが)の内にいることを、拒否しようとしているのではないか。それは、角川俳句賞的には、取りにくくなるほうへダッシュで駆け出すような方向性なんですが。大塚さんのこの50句は、多少、賞というものに対する気づかいがあるような気がする。

でも、
冬晴の赤い実があり怪しい実
冷蔵庫ひらき渚に立つこころ
小雨ならコートに光る逢ひにゆかう
といった句にあらわれる、語操作の恣意性とでも言うべきもの、わがままな書きぶりに、僕は、今後何年か分の、俳句の可能性を感じます。

寒蟬:
信治さんの言った「賞というものに対する気づかい」は「角川俳句賞の応募作なんだからいい句を揃えてやろう」という気概でしょうか。まあ応募するからには皆そういうものは抱いている訳ですが、信治さんの言いたいのは「敢えて自分の行きたい方向性を曲げてでも」という意が籠められているのでしょうか?私自身、他の人の作品と比べて確かにこの作者は実力があるんだからもっと冒険してもいいのでは?という感じがしないでもなかった。

若い人にはまずは自分の俳句でできる最上と思われる世界を構築することに全力を傾けよ、と言いたい。その上でそれが賞を取れれば素晴らしいこと。取れなくても自分がやりたいこと、表現したい世界が書ききれていればそれでいいいじゃないか。私は句会でもそういう気持ちで投句していますので・・・。角川俳句賞に応募した時は その気持ちにぶれはありませんでした。


14. 仮屋賢一 「鷲掴む」

信治選
新緑や鬣かたきチェスの馬
小道具のパンはほんもの聖夜劇
勝独楽の立ちたるままを鷲掴む
万札の上に銭投げ残り福
春の日や吊りて仕舞へる一輪車
花水木けふは午後よりはじまる日

信治:
これらは、句意がよく分かる、誰にも異存はなかろうという句。

物を、感覚情報の提示によって、はいこれ、と見せる。「鬣固き」とか「パンは本物」とか。で、それは同時に、人間の関わる場面だったりするので、そこで「感じるべき内容」も明確。

どこも悪いところがない。というのは、1の青木さんや7の大塚さんの句からも感じたことです。ただ、もともと打率の上がりやすい作り方なんだから、こういう書き方なら百発百中であってほしいという気もします。

百発百中が実現すると、その先に、誰も書かなかったような句とか、自分も二度と書けないような句が、ぼんぼん出るようになるんじゃないかと。そこからが書き手としての勝負かな、と。

寒蟬:
10作には入れていませんが、取った句は
新緑や鬣かたきチェスの馬
大学の鬼門に実家天の河
セスナ機も花野もおなじ風のなか
終ひには紐いきいきと猿まはし
春の日や吊りて仕舞へる一輪車
水性の朧油性の朧かな
あのー、ちょっと厳しいこと書きますけど、例えば
方違して竹馬を片付けり
古暦すこし汚してより捨てり
人日のニュースは人を呼び捨てり
「片付く」「捨つ」を他動詞として使う時は下二段活用ですから、持続・完了の助動詞「り」は四段活用の命令形とサ変の未然形にしか付かない訳ですよ、絶対に。だからこれらの句は文法的に間違っている。

賞に応募する時やっちゃいけないこと、そりゃ剽窃は論外として文法の間違いと仮名遣い、漢字の間違いです。そこをクリアしていない作品を読む必要はない。時間がもったいないですから。

信治:
そうか。片付けり、捨てり、は、まずいですね。

なんとなく表現の収まりが悪いなと思ったら、「俳句検索」 のページで、言い回しを検索してみたりするといいですよ。作例がなかったり、少なすぎる言い方はあやしい。 

寒蟬:
それと、表題になっている
勝独楽の立ちたるままを鷲掴む
ですが「鷲掴みにする」とは言うけれど「鷲掴む」という動詞はあるのか?「夕焼くる」という表現ですら、有名な俳人が何人も使っているにも拘らず認めないとおっしゃっている俳人もいる。況してや「鷲掴む」はダメでしょう。

信治:
鷲掴む も、たしかにまずいか。鷲づかみにする、とか、鷲づかみに掴む、という言い方ができるわけですからね。これは、選んで申し訳なかった。

でも、この句の語勢はとてもいいので、なんとか推敲してものにしてほしいです。


15. 北川美美 「梅日和」

寒蟬選
隣人に挨拶をする梅日和
春風や拳は素手で作るもの
野を焼いて水を飲み合う男たち
昼つづく昼の麦酒を開けおれば
隕石を重し重しと十三夜
駅伝のテレビに映る近所かな
初場所のひかりをはなつ水と塩
駅伝のテレビに映る近所かな
初場所のひかりをはなつ水と塩
夏の馬川がひとつになるところ

寒蟬:
隣人に挨拶をする梅日和
いきなり表題の句を持って来た。題をどうするか?というのは結構大切だと思うんです。それが代表句であろうとなかろうと、いわば50句の顔になるのですか ら。その意味でこの第1句はよかった。気負っていなくて、他人への優しさもあって、これから始まる作者の俳句世界への誘いの句になっている。
春風や拳は素手で作るもの
「拳」という堅そうな怖そうなものと「春風」という柔らかく優しそうなものとの取合せ。俳句らしいと言えば言えるけれど、あまりわざとらしさを感じない、それは「拳は素手で作る」というアホらしいほど当たり前のことを言挙げされて、そっちに意識が行ってしまうからなんでしょう。
野を焼いて水を飲み合う男たち
これ、いいですね。野焼の光景が活写されている。野焼というイベントは確かに男のするものかもしれない。火の熱と流した汗のために喉が渇いて水をがぶがぶ呑む男たち。「飲み合う」という表現の中に連帯感を感じます。

信治:
隣人に挨拶をする梅日和
この句は、「隣人」という言葉があまりに概念的で悩みました。。わざと日常意識の雑さみたいなものを、無造作なざらっとした言い方で表しているのかなあ、と。 日用雑器のよさというか。「暖房や硝子に映る我等あり」「怪我をした男に運ぶ氷水」なんて句もあって、氷水はかき氷なんで、季語じゃないんですけど、
春風や拳は素手で作るもの
舟底より水面は高し燕子花
当たり前のこと言ってるシリーズ。でも、かすかな発見はある。
拳にしても、素手は素手だし。(虚子の「闘志抱きて」や、敏雄の「義歯確に」をふまえてるんでしょうね)。

乗っている自分たちの重さで(とは書いてないけどそうだと思う)舟底がさらにすこし低くなっていて、水面よりすこし自分の尻が低いという実感。
歩き来て足が真つ赤ぞ鳥曇
鉄橋や高きを揺れる山の藤
夏の馬川がひとつになるところ
いいですね。世界が安定してて。

予選でそんなにたくさん○をつけたわけではないんですけど、いただいた句は、味があるなと、思いました。

寒蟬:
いや、「隣人」でそんなに悩む必要はないのでは?もちろん「汝の隣人を愛せ」というイエスの言葉にあるような使い方もあるのですがこの場合は普通に「お隣のおばさん」くらいでいいのでは?

信治:
考えすぎでしょうか。僕は俳句で「隣人」てすごく使いにくいです。怪人と同じくらい使いにくいw

寒蟬:
頭を上げて啼く鳥を見る春の昼
この「頭」、「づ」と読ませるのかな。それはやめてほしい。字余りでいいから「あたま」と読ませてほしいなあ。

「舟底より」の句、私もいいと思いました。でも「燕子花」を付けられると「ああ、潮来の水郷巡りね」とオチが付いてしまってつまらない。


(後編につづく)


2013-02-10

【週俳1月の俳句を読む】仲寒蟬 すごい発見

【週俳1月の俳句を読む】 
すごい発見

仲 寒蟬



●新年詠より

探偵のいなくなる初日の出かな   岡田知昭

さっきまで一緒に「さあ初日の出だぞ」などと言いながら待っていた探偵さんがいつの間にかいなくなった。どこへ行ったのだろう。元日から仕事だろうか。初日を見ている観客の中にターゲットを見つけたか。いや、そもそもなぜその人が探偵だと分かったのだろう。知り合いだったのか、初日を待つ間にお喋りをしていて分かったのか(自分から「探偵です」という探偵は余りいないと思うが)。いずれにせよ、さりげなく詠まれているけれども様々なドラマが背景に感じられる句である。余りめでたさと関係のない所が初日の句として新鮮。


うろうろす読初の書に指挟み   小川春休

何ともかっこ悪い正月風景、しかし昔の格式ばった正月とは違って、最近は誰しもこんなものではなかろうか。読みかけの本に指を挟んで家の中をうろうろするのは何も正月に限ったことではない。「ちょっとお父さん、邪魔だからどいてくださいよ」などと言われながら・・・「その~オレのあれどこいった?ほら、あれさ」などと間抜けたことを口走りながら・・・。しかし正月だからこそ俄然こういう日常の光景が面白くなる。読初の有り難さも何もあったものではない。


満ち足りてゐない群集初詣   小澤十豬

ああそうか、満ち足りていないから初詣なんかするのだ、と気付かされた。それも群衆で・・・こんなに不満がくすぶっていてこの国は大丈夫か?などと思ってしまう。これまでは初詣にいそいそと出かける人たちは皆幸せなんだなと羨ましく思っていたがそうでもなさそうだ。「目から鱗」的な俳句。


蒲鉾板に残るかまぼこ寝正月   越智友亮

かまぼこをかまぼこ板から剥がす。質のいいのはすぐ剥がれるが安ものはなかなか剥がれない。最後は包丁で削ったりしてあまり気持ちのよいものではない。それと寝正月。正月くらいはゆっくり寝ていたい。でもどこか決まりが悪い、後ろめたい、その気分がかまぼこ板に残るかまぼこみたいだ。と、その様にも取れるし、いつまでも寝ている自分といつまでも板に貼り付いているかまぼことの相似を詠んだとも取れる。いずれにせよ面白い取合せだ。


年賀状束ねて輪ゴム細くなる   金子 敦

年賀状は投函する時も送られてくる時も輪ゴムで束ねられている。分厚くなると輪ゴムは細くなる。当り前のことである。当り前のことをことさらに俳句にすると滑稽感が生ずる。こういうのを只事と言って批判する向きもある。でも只事でいいのである。世の中そんなにドラマや奇抜な発想がごろごろ転がっている筈もないのである。年賀状なんてこのくらいに詠むのがちょうどいい。


破魔弓や座椅子に居続ける力   北大路翼

なるほど、座椅子に居続けるにも力がいるんだな。そりゃ坐っている時にも背骨を支える筋肉は緊張しているから当り前か。でもこう詠まれると必死で座椅子にしがみ付いているようでおかしい。それと破魔弓とが取り合わされている。破魔弓の凛とした佇まいとがどこか通底する。破魔弓もただ置かれているように見えても邪気を払うためにいつも緊張を強いられているのだ。


坐りても立ちても四方に今年かな   小池康生

作者はいま正月が来たなあ、と実感している。立とうが坐ろうが寝ようが屁をひろうが、もう去年には戻れない。どこもかしこも今年になってしまったのである。テキストからはそこまでしか読み取れないが、踏み込んで考えると作者は取り返しのつかない去年を行かせてしまったと後悔しているのかもしれない。だから立ったり座ったりじたばたしている。でもどうあがいても今年は今年なのである。


七草のすずなすずしろ鳴りさうな   小林苑を

まことに語呂がいい。正しく「鳴りさうな」リズム感と語の響きである。昔から「せりなずなごぎょうはこべらほとけのざ・・・」とお呪いのように唱えながら日本語の美しさにうっとりとなっていた。そういう経験があるのは私だけだろうか。ああ、それならこの句も「七草の」ではなく「せりなずな」でもよかったのでは?と要らぬお節介を言いたくなる。


脱がさずに乱すが愉し春着の子   澤田和弥

これはエッチな句である。そうに違いない。春着というのはおおむね女性が着るもの。それを「脱がさずに」と言っているがこの時点で脱がせてみたいという心の底が見える。しかもあろうことか脱がさない代りに乱すと言う。これはもう破廉恥の極みである。況やそれを「愉し」と言挙げするに及んでは。俳句の名を借りた猥褻行為と言えよう。だがこの句をにやにやしながら読んでいる筆者も同罪なのである。


あばら家のあばら眼前今朝の春   田中悠貴

あばら家というからにはあばらがある、と作者は思っている。「あばら」を広辞苑で引くと「荒れはててすきまの多いさま」とある。その状態が眼前にあると言うのだ。しかしうかつにもこの「あばら」から肋骨の「あばら」を連想してしまった。いや、うかつではなくこれは作者の仕掛けた罠なのである。あばら家の隙間だらけの空間にまるで肋骨のような柱や鴨居が残っている様子が浮かぶ。ちっともめでたくない初景色に「今朝の春」と付けるのは何とも言えぬアイロニー。


初空や出すといふこと気持ちよき   羽田大佑

何を出すのかは読者の想像に委ねられている。だが排泄にせよ、放屁にせよ、射精にせよ、閉じられた空間から放出する、解放するのはどれも気持ちがいい。嘔気のある間は不愉快だが嘔吐してしまえば一時的にせよ気持ちがよくなる、ということを思い起こしてみればいい。さて、初空である。初空の下で何かを出した、とも取れるが初空自体が出されたものであるという見方もあり、この方がいい。つまり明けるぞ明けるぞと我慢していた去年が今年になった途端に初空を吐き出したのである。


巫女ちらっと手鏡それが初鏡   宮崎斗士

言い回しが何とも上手い。巫女さんはたぶん女子高生か女子大生のバイト、もともと神に仕えるつもりはさらさらない。化粧も(薄化粧だろうが)するし自分が初詣客から、とりわけ破魔矢やお守りを買いに来たイケメンからどう見えるかが気になりもする。だから気付かれないようにさりげなくちらっと手鏡を見るのである。それがその巫女さんにとっては初鏡であると言う。物の見方の面白さもあるがその手鏡を見つけたぞと言わんばかりの、どことなく糾弾するかのような言い方がまたおかしみを誘う。


正月のすき家一家のゆるぎなし   村越 敦

吉野家ではなくあの「すき家」である。通俗である、庶民的である、「ふつう」である。だが正月に置いてみると俄然その「ふつう」さが輝いてくる。正月だろうが何だろうがすき家はすき家だぞ、もんくあるか、と居直っているかのような「すき家一家」、この一家を付けたところにまた滑稽味がある。普段と変わりなくすき家があるという「ゆるぎなさ」、「ふつう」の強みである。


はにほへといろはにほへとふくわらひ   山下彩乃

「いろはにほへと」に「は行」の字が3つある。「ふくわらひ」にも「は行」の字が2つある。お互い重なっていない。これはすごい発見である。だから「いろはにほへと」と「ふくわらひ」を続けると「は行」が全部揃う。「は行」は笑う時に出す声である。だからこの句には笑い声が満ちている。実にめでたいではないか。全部平かな書きにしなければこの句のよさは出ない。


●鈴木牛後「蛇笑まじ」より

やる栗を見ず寝る鼠下り来るや

回文というのは難しい、でも読者からすると面白い。宮崎二健さんのように破調が当り前というのを作る人もいるが牛後さんは原則定型で作られるようである。回文だけでも大変なのにそれを定型で作るとなると至難の業である。ただ回文俳句を読むといつもどこか「無理目」な感じが漂っている。あ、ここはちょっと苦しい言い回しだな、とか、この漢字を強引にこう読ませたな、とか。また意味が通らないことは普通と思った方がいい。何しろ単語を並べるだけでも大変なのだ。それは致し方ないことなのだが、そうじゃない表現や言い回しに出会うと「おおっ」となる。思わず拍手したくなるのである。
この句など無理目度が低い方だ。誰かが鼠に栗をやった。その栗を見ないで寝るために下りて来るのか?この鼠め、という訳である。読後感は「おおっ」であった。スマートである、見事である。滑稽感もある、意味も十分取れて共感できる。いいものを読ませてもらったという感じがする。

志摩海老へ恋知りし以後蛇笑まじ

題名の由来となった句。「シマエビ」は漢字では「縞海老」かと思ったら「志摩海老」と書かれていたのにまず惹かれた。蛇が志摩海老に恋したんだな。そういう恋を知ってしまってから蛇は笑わないであろうと。何だかこの蛇、いじらしいではないか。生真面目な蛇なんだな。

雪質ひらひらひらひら羊消ゆ

これはちょっと破調。きれいな雪の句である。雪が降り積もって、或いは視界が雪だらけなので同じ色の羊は消えてしまうというのだ。幻想的な風景だ。

きりきりと二月二十日に鶏切りき

これも「お見事!」という他ない回文のテクニックである。「鶏切りき」が潔くていい。何で二月二十日なんだ?と野暮なことを問うもんじゃない。ちなみにこの日は歌舞伎の日、旅券の日、多喜二忌、などだそうである。

逆目の子知らぬ犬らし木の芽傘

逆目の子がちょっと恐い。木の芽傘という造語も余り無理なく美しい(木の芽雨があるからそれにさす傘のことだろう)。逆目の子と犬と傘と、三位一体となっている。

以上のように牛後氏の回文俳句は無理目感がなく普通の俳句として楽しめた。茨の道であるが構わず進んで行って欲しいものである。


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2009-03-22

仲寒蟬 桜並木 5句

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「週刊俳句」第100号・仲寒蟬「桜並木 」テキストはこちら