ありえない音楽が聞こえる 青本瑞季
夜ゆゑに文月は草木はれやかに
澄む秋はあばらのこゑで軋みつつ
荻の袖眼の奥を歌たちのぼる
てのーるてのーる小鳥来るくちびるは熱
萩に衣服を歌ふ手つきでこぼれだす
孔雀から梵字あふれて秋の風
菊日和まばたくたびに褪せて背は
パラフィン紙ひよの盛りを入日して
焦がれては舟が芒となる夜か
燃えるたび鹿は麓をかきくらす
泪声ほやほやと野の鶉なる
来る鶴に糸巻きなほすぬるい部屋
秋虚ろ祝祭の首重くのべ
ぱれーどよ棗が舌に瘦せてゆき
感光の渦の鰯よさやうなら
毎週日曜日更新のウェブマガジン。
俳句にまつわる諸々の事柄。
photo by Yuki OKADA
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かわいい鳥類
青本瑞季
都民の日に上野動物園でペンギンを見た。秋になってもまだ暑い日が続いたからか、彼らはとてもだるそうで、腹ばいになって日陰で休み、腕をだらりと垂らしているやる気のなさがとてもよかった。ずんぐりむっくりな体躯、動きのつたなさ、どこをとってもペンギンは良い生き物だと思う。
ここ何年かでコウペンちゃんというキャラクターが少し流行ったり、全く言うことを聞かないペンギンショーの様子がSNSで拡散されたりと、ペンギンは確実にかわいい動物としての市民権を得ている。コウペンちゃんは最近出てきたキャラクターだけれど、タキシードサムやピングーといった古株の存在はペンギンのかわいさがずいぶんと前から知られていたというなによりの証拠だ。
タキシードサムは1978年から、ピングーは日本での放送は1992年からなので、ペットに出来ないぶん犬や猫ほど絶大な人気はなくても、かわいい動物としてのペンギンの表象はそれなりに息が長い。とはいえ元をたどればせいぜい戦後からなのだろうとなんとなく思っていた。
ところがペンギンのかわいさへの言及はどうやらもっと古いらしい。つい最近、1910年のの朝日新聞にペンギンについての連載を偶然見つけた。その連載ではペンギンの生態や特徴について紹介してあり、〈ペンギンの味は魚と鳥の合子みたいだといふ〉(1910年9月20日の朝刊)だとか、ペンギンは音楽が好きで船上で演奏される音楽におびき寄せられたペンギンを捕まえて食べた人の話だとか、今ではあまり聞けなさそうなペンギンを食べた話まである。ペンギンの風貌についての描写は、
ペンギンほど大納まりに納まつた奴は餘りあるまい、僕の見たのはアデリー種の一尺位之ものだが之が例の燕尾服白短褐ですまし返つて水際をうろついてゐる所はいやはや呑み込んだもので有つた、身の丈三尺もあるといふエムペロル種の納まり方が思いやられる(1910年9月21日)
と言った具合で、また挿絵の横に〈ペンギンは可愛い恰好の鳥である上に雪に埋もれたペンギン〉(1910年9月20日)と書かれているところからも、あの形は当時からかわいいものとして認識されていたようだ。とはいえ当時の感覚は今とは違って、探検隊の一員が餌付けして愛玩していたという記述の後に、ペンギンの用途として愛玩だけでなく、卵が貴重な食糧であり、オムレツやハムエッグ、玉子酒に用いられたというエピソードが続く。
ペンギンを食べることとペンギンをかわいいと思うことは決して両立しない訳ではない。それはわたしが鴨はペンギンの次にかわいい鳥類だと思いながら鴨肉を好んで食べることと同じことなので。食べ物として認識されなくなり、条約に守られる存在になったことはペンギンたちにとっては良いことなのだろうけれど、庇護対象でなくても今も昔もペンギンはかわいいことに変わりはない。
○
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Labels: 青本瑞季
青本さんたちに、二人で出てもらった理由
上田信治
青本瑞季さんと青本柚紀さんの姉妹を、自分は、ほとんどいつも、とり違える。
「えーと、ミヅキさん?」「ユズキです」(または、その逆)というやりとりを会うたびに繰り返していて、しばらく話していると、もう大丈夫、見分けがついたと思うのだけれど、彼女らは、だいたい一人づつ現れるので、また二分の一以上の確率で、失礼をしてしまう。
そんな二人をセットのように見なすことは(人権的に)よろしくないのだけれど、この人たちを含めた何人かの書き手が、それぞれの方法で新しいことをやっていて、しかも、なぜか、よく似たあたりを攻めていることが、とても面白く、そのことが広く知られるといいと常々思っていたので、今回(偶然もあって)お二人で作品欄に出ていただくことになった。
○
二人のやっていることの共通点を言えば、言葉の音やはたらきを、細かく分節し再構成するというアプローチだ。5・7・5を、さらに細分化した上で17音プラスαに構成するといような。
荻の袖眼の奥を歌たちのぼる 青本瑞季
萩に衣服を歌ふ手つきでこぼれだす
銀色の荻と衣服を幻視することから、歌が「たちのぼる」という内的感覚にスライドさせるわけだけれど、そのとき「眼の奧を」がパサーのように働いていること。「萩に衣服を歌ふ手つきで」の、3/4・3/4、というリフレインによって、七七五の頭のおもさが、歌謡のリズムに流れて(こぼれて)いくこと。二句目は、一句目と同じモチーフのバリエに見えるけれど(荻と萩で切り変えてある)一句目に見えていた主体が、二句目を読んでいく途中で消えていく、この浮遊感。
満ちて野の花さいごの水の輪を鳥が 青本柚紀
浮舟よ口に棗の緋を交はし
「満ちて野の花」同じ七七五でも、3/4・4/3と入って「(水の)輪を鳥が」(3/2/3)と、譜割りが細かくスタッカートのようであること(「水の」の3音は両側につながっている)。「浮舟」にはじまるエロティックなイメージが、口・棗・緋と連鎖していき、さいごに交歓の対手を見せずに、色+動作という抽象で終わること。
ここ数年、ものすごく複雑に分節するリズムを叩くドラマーが、新しい音楽をリードしていたようだけれど、そういうことを連想させて、どうしてこんなに、細かく感じながら書けるのかと、驚かされる。
佐藤文香や生駒大祐が示してきたような、新しい「書法」を、また先へ進めていこうという人たちがいるということを、知ってほしかったわけです。
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2017落選展を読む
3「青本瑞季 みづぎはの記憶」
上田信治
青本瑞季 みづぎはの記憶 ≫読む
野遊びのきれいな耳についてゆく
髪を短くしている人の、後ろから見るとめだつ耳。耳は皮膚がうすくてエロティックなパーツであり、季語「野遊び」のウラ本意は「ちょっと異界まで」なので、この人は、コミュニケーションがとれないその人のあとを、奧へ奧へとついていってしまう。
痣がちの四肢を余せり夏館
四肢をもて余すとは思春期の謂いであって、その皮膚が白く痣がちであるゆえに、夏館を出られず退屈をしているとなれば、それはほとんど「お嬢様」と言っていいような、いたいたしく、ナルシスティックな主人公である。
虹見せてくる眼球はすこし丘
眼球は、たしかにひとつの光学的機構であって、わたしよりもセカイの側に属するのかもしれない。「丘」すなわち地形的スケールの巨大な眼球によって、わたしはセカイの一部として、放下したように虹を見せられている。
むずかしいことを勇敢に試みている書き手。
現実と半ば切れ、半ばつながった言葉で、心理的なものや抽象的なものを描こうとしている。
上に挙げた句は、肉体のパーツをてこに、「それ」を架構し、手渡すことに成功している。
「それ」とは、言葉でたちあげた、この世にない、あやうい細工物のようななにかだ。
いまアニメでやってる市川春子の「宝石の国」みたいな(ト言ったらほめすぎかもしれないけど)つくりものの世界。
夕暮れの桜海老なり目をなくし
灼けながらばらばらに来る犬の脚
風車西の市場の違ふ匂ひ
こゑは鋭利にくちびるを濡れ夏終はる
逝く秋がまぶしい海としてわかる
目をなくした桜海老や、ばらばらの犬は、かわいい。西の市場の書かれていないストーリーは、おもしろそう。「鋭利に…濡れ」「まぶしい…わかる」のつながりはよく分かる。
ただ、ほんとうにバランスだけで成り立っているような書き方なので、ひとつミスると世界が立ち上がらないし、読み手によりかかる部分も大きくなる。〈春の雷本の屍臭が書庫の中〉〈描きぶりが絵になる人で花のまへ〉〈ぼんやりと蟻の集まる墓のうら〉などは、この人にしてはベタだろう。逆に〈青鷺はビル光のなか展けてゐる〉などは、読み切れなかった。
打率とか、歩留まりを言い出したら、はじまらない方法なのかもしれないけれど、この人の「読める」句で数がそろったら、そりゃあすごいんじゃないかと期待させるスケールの大きさがある。
永き日を部屋まで海が照つてゐる
永き日「を」と書いたら、主体が現れなければいけないところを、肩透かしして、これも放下の感覚。「逝く秋が」と対句になっていて、海光が、春は部屋まで来てくれて、秋はまぶしく行ってしまう。これはおぼえてしまいそうな、二つの句。
2017角川俳句賞「落選展」
●
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■2017角川俳句賞「落選展」第1室■
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1. 安里琉太 式日
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■2017角川俳句賞「落選展」第1室■
テキスト
1.安里琉太 式日
摘草やいづれも濡れて陸の貝
かげろふの砂ずりが来て匂ひたつ
花守のさらさらと字を書かれたり
花疲れたちまち花のうへに出て
大波の砂もちかへる花明り
春昼やこゑの吹かれて橋の上
忘れゐしもののひとつに小鳥の巣
うたうらははげしき雨に桜漬
春筍のにはかに影を長じたる
起きぬけの枕を均す立夏かな
ぼうたんにありやなしやの日の掛かる
道すがらあをみなづきのさみしき繪
蛇苺川瘦せてより濃く匂ふ
貼りつきし花びらの朱に蛭乾く
鎌倉はどつかと晴れて夏料理
炎昼の花に匂ひのなかりけり
蜘蛛の囲のしづもりに滝掛かりたる
鴫焼やひとりの家に傘を増やし
枇杷の毛のさはさはと日をかへしけり
思ふこと早瀬をなせる端居かな
蟻地獄覗いてをれば聞こえくる
涼しさやひとしく竹の起きなほる
祭から離れたる燈を蛾が叩く
空つかふ遊びをしたり茄子の花
みづうみは羽ばたくものの秋暑かな
まどろみの窓にカンナの濡れてをり
ぼんやりと鯉に似てをり生身魂
椎茸に仏師の夢のなんやかや
くれなゐの椀落ちてゐる秋の川
葛咲くや淋しきものに馬の脚
ひとり寝てしばらく海のきりぎりす
折鶴にかりそめの魂秋ともし
式日や実柘榴に日の枯れてをる
火恋しいつかの鳥の白を想ふ
匂ひよき葉をふところに日短
金閣の雨を思へる湯ざめかな
耳あてが籠をこぼれて雲の影
湯気立てて天金の書に蝶の國
太陽の平たく曇る蓮の骨
足の裏ぶ厚く歩く冬至かな
毛皮の毛揺れてここにも蟻の道
墨磨つてをれば晩年枇杷の花
埋火の美しければ海の音
うすうすと冬枯の実の鳴りにけり
ねむる間も海のうごいて鏡餅
蠟梅をきれいな川の照りかへす
とほく来てまひるの奥の鮟鱇へ
鏡割居間まで晴れて来たりけり
徒花の掃き寄せてある冬田かな
しんしんと手鞠を置いてゆふべの手
●
2. 青島玄武 優しき樹
花は葉に花は優しき樹となりぬ
身体の皺とふ皺へ西日射す
雷の奥から松葉杖の音
北斗よりひとつ零れし蛍かな
新樹よりみな高々と手を挙ぐる
合歓の花ブルーシートのやうな空
魂を鳴り響かせて玉の汗
半ズボンたしか大病だつたはず
川風はやがて蝶々へ花菖蒲
一息に万物啜る冷素麺
日焼子も尻は真つ白大浴場
わわしきよ西瓜食ふのか喋るのか
四方から教会の鐘白木槿
しばらくは赤子をあやす赤い羽根
林檎とふバベルの塔に噛り付く
行く秋や唐揚げ匂ふ商店街
玲瓏と冬の楓の明らけき
雨音のやがてせせらぎ冬紅葉
冬の陽の翼の下の美術館
風邪心地みんな機械のせいにして
凍る夜や「空」の字掲ぐ駐車場
二分後の自分に出逢ふ嚏かな
人の世は火より興れりクリスマス
十悪も古き仲なり葱鮪鍋
晦日蕎麦どの窓からも星空が
仕舞湯や悲喜こもごもの浮かみをる
春永や鼻より出づる飯の粒
門松が阿蘇の五岳を迎へけり
初参り老神主の痰絡む
青空に溺れながらの玉競り
初空や寝癖の髪をそのままに
上古より女姦し初電車
ぞんぶんに空をいただく初湯かな
臘梅と闇が格闘してゐたり
省略のよく効いてゐし冬籠
白々と心臓息を吐きだせり
焼藷のなんと楽しき地獄かな
独りとは一人にあらず寒の海
はつかなる脈のありけり寒牡丹
立春や嫌ひな人とけふも会う
マネキンの右手が五本春寒し
七色の家七色の余寒かな
春炬燵から厠まで三千里
鳶はいま焼野の風を掴みけり
葬儀屋の前が病院うららけし
釈尊と雨宿りする花御堂
傾ぎゐし城を支ふる桜かな
伊勢の子は伊勢の桜に遊びけり
風も木も土も神さま初音聞く
遥かまで花降りやまぬ行者道
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3. 青本瑞季 みづぎはの記憶
永き日を部屋まで海が照つてゐる
春の雷本の屍臭が書庫の中
傘の骨打ち寄せらるる二月尽
野遊びのきれいな耳についてゆく
立子忌や家の南が硝子張
夕暮れの桜海老なり目をなくし
風車西の市場の違ふ匂ひ
描きぶりが絵になる人で花のまへ
音楽にうごめく藤のむらさきは
はつなつの陰を排せる琴の部屋
草刈りの音窓辺の壜にたまりゆく
読唇のはやさに青葉ひらひらす
十薬跨ぐ靴擦れは熱を帯び
滝壺にあるなまぐさい手足かな
くちなはのかぼそい赤につづく舌
小満やひるがへるとき魚は銀
青鷺はビル光のなか展けてゐる
灼けながらばらばらに来る犬の脚
もうろうと昼顔だけがある景色
ががんぼの脚途中なるその感じ
盗品めくプールサイドの荷物かな
くらがりをみづに呼びこむ未草
沼はおほきな樟脳の昼寝覚
水無月晴れて花の名前の若くあり
蟹の死よ浮きて明るき影つくる
人々のそびえ蝙蝠わたる水
立葵葉の荒れて有線放送が来る
金網の奥のまなこを見る暑さ
汗ばむと檻の家鴨のさわぎこゑ
あたたかくくづれてゐたる螢かな
夏鴨とおなじ湿りにある木椅子
いつまでもくらげはみづにつきあたる
虹見せてくる眼球はすこし丘
痣がちの四肢を余せり夏館
絵葉書のこちらへ蜘蛛歩む真昼
ぼんやりと蟻の集まる墓のうら
ほたるぶくろ手をひきながら呼びに来る
こゑは鋭利にくちびるを濡れ夏終はる
初秋の山羊つながれて暗い井戸
空堀に耳のびんかん鰯雲
カンナが黄芯のなだらかなる眩暈
ぱらぱらと玻璃に映りて椋鳥瘦せる
ゑのこ草川の疲れの絶え間なく
川なかに小さき花野として浮かぶ
子規の忌の下草に花混じりをり
総立ちの秋草となる古墳かな
喉の渇きを茸は糸に裂けてゆく
をなもみよ野原の磯に似るところ
逝く秋がまぶしい海としてわかる
小春の海遠くに暗い写真となる
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4. 今泉礼奈 熱がうつる (*)
ふらここのおくれてひとつ高くゆく
すつぽりと鳥影に入る菫かな
立ち枯れの幹をてふてふ過ぎにけり
蝶来ては去り来ては去り蝶の昼
白木蓮や病院の窓ひとつ開き
白木蓮の木の黒々と曇りけり
春疾風首長くして鴨が飛ぶ
風船を朝の光の滑りをり
あたたかや賞状に桐生ひ茂る
美術館のおほきな窓の桜かな
入学や色濃き土のやはらかく
花冷の街がジグソーパズルの中
花冷の白馬の白き睫毛かな
青空に放たれ花の枝の先
春昼を熱帯魚店ひんやりと
蜂蜜は光溜りや春の風邪
鳥ごゑに遅れ花びら降りてきし
残業のビル高くあり桜の夜
あたたかに頁の端の頁数
花ぐもり体温計に熱がうつる
桜散る閉店の椅子重ねられ
湖のはじまりは川桜散る
春暑し手鏡に顔収まらず
たんぽぽの咲き慣れてゐる鴨場かな
山藤を辿れば空に近付けり
藤揺れて夜の雲と雲はなれけり
メーデーの吊革に腕並びけり
退屈な顔が窓辺に花は葉に
葉桜や友ほつそりと欲少な
ジンギスカン鍋に丘あり五月来る
新緑や列が後ろに伸びてきし
若楓薄く冷たく光りけり
白日傘に囲まれ歩く男かな
薫風や写真家に時止まりたる
あをぞらのけふを愛して山法師
絵の中の一人となりて青葉かな
萍のあひだ真昼の淀みけり
嘘をつく目をして亀の子が歩く
遠雷や浮世絵のみな肌白し
地図の海も深さ持ちたり南風
ゆふぐれや梅雨の終ひの橋長し
滝強く昨日の雨の匂ひせり
河骨のその黄日射しに疲れたり
炭酸の音にはじまる帰省かな
どこか見てゐる草笛をはじめる目
前を泳ぐ人の飛沫を泳ぐなり
夏負や消火器に塵積もりたる
蜘蛛の巣の眩し喪服の人遠し
蝉の穴閼伽桶を置く音が乾く
蝶ふはと葉を揺らしたり終戦日
●
5. 岡田由季 手のひらの丘 (*)
一〇〇〇トンの水槽の前西行忌
梱包の中身はギター春休み
金箔を少し呑み込み花の宴
モノポリー蜆が砂を吐く間
猫の仔に小学校のチャイム鳴る
菫見てゐるうち口の尖りをり
球根の天地を問ひぬ初蛙
花槐留学生の集ふカフェ
青葉山人と猿とが怯え合ひ
露台より芦屋の街と海すこし
山椒魚眩し眩しと言うてをり
水無月のホテルの窓に浮かぶ城
噴水の横に楽器を組み立てる
複雑な岸を辿りて睡蓮へ
少しづつ家族のずらす扇風機
百日紅雌ライオンの寝返りす
熱帯夜骨煎餅を齧りをり
老人が額を寄せて氷果食ぶ
浴衣着て店員ふたりぎこちなし
白靴の吸ひ込まれゆくレイトショー
中国語話せさうなる昼寝覚
立秋の水槽真上から覗く
パレードの時々途切れ黄のカンナ
蒲の絮むかしの音を拾ひけり
音楽をつけずに踊り黒葡萄
気の付かぬほどの勾配赤蜻蛉
色見本帳から抜いて吾亦紅
能面は顔より小さしきりぎりす
栗を剥く母の近くに座りけり
松手入終へてしばらく上にゐる
バーテンダーついでに檸檬磨きをり
象の眼に微かなる酔ひ秋の暮
木琴のとなり鉄琴秋日差す
退色の壁画に添へる一位の実
手のひらの丘に綿虫留まりぬ
アヴェマリア風花口へ飛び込みぬ
木枯に象の手触り残りをり
光源の方へ歩けば蕪かな
頭蓋骨同士こつんと冬初め
アルトから揺れはじめたり聖歌隊
灯台の小さき敷地や冬の鳥
走り出しすぐ消灯にスキーバス
餅を待つ列の静かに伸びてをり
鳥籠に指入れてゐる三日かな
末黒野と運転席の見ゆる場所
ばらばらの向きにペンギン立つ日永
遠足の博識の子についてゆく
バレンタインデー吹替の笑ひ声
古道具売れれば拭いて春の昼
めくるたび次の頁のある春田
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【週俳8月の俳句を読む】
一度はなれて
青本瑞季
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2016「角川俳句賞」落選展■第1室
Posted by wh at 0:45 0 comments
あふれでるもの
碧梧桐の長律句について
青本瑞季
赤い椿白い椿と落ちにけり 『新俳句』(明治29年)
白足袋にいと薄き紺のゆかりかな (同)
この道の富士になり行く芒かな 『春夏秋冬』(明治33年)
虚空より戻りて黍の蜻蛉かな 『新傾向句集』(明治39年)
思はずもヒヨコ生まれぬ冬薔薇 (同)
木蓮が蘇鉄の側に咲くところ 『新傾向句集』(明治44年)
林檎をつまみ云ひ尽くしてもくりかへさねばならぬ 『八年間』(大正7年)
曳かれる牛が辻でずつと見廻した秋空だ (同)
ポケツトからキヤラメルと木の葉を出した 『碧』(大正13年)
チゝアン女像にミモーザはローマの春のゆたに挿し (前書きに「ローマ回想」) 『三昧』(昭和5年) *原文は「女像」に「ヲンナ」とルビ――引用者注
紫苑野分今日とし反れば反る虻音まさる 『三昧』(昭和6年) *原文は「野分今日」に「キノフケフ」、「反」に「ノ」、「虻音」に「ネ」とルビ――引用者注
老妻若やぐと見るゆふべの金婚式に話題りつぐ 『海紅堂昭和日記』(昭和12年) *原文は「金婚式」に「コト」、「話題」に「カタ」とルビ――引用者注
これらは子規生前から新傾向俳句や自由律化を経てルビ俳句から俳壇引退後の絶筆にいたるまでの河東碧梧桐の俳句だ。ざっと眺めわたしても碧梧桐の句風は大きく変わっていてどれか一つからその作家性を語るのはむずかしい。統一された碧梧桐らしさというものがあるなら、作品そのものよりその作句姿勢に通底する理念のうちにあるだろう。
『新傾向大要』(明治41年)の最後に、
文学の堕落は多く形式に拘泥するに始まる。〔…〕当代の俳句も多数作者の句を見ると、已にある形式に囚われた感がある。陳腐山をなし、平凡海をなす。この現状の打破は矢張「真に返れ」の声より外にはない。個性の研究はやがて事相の真を捕えることである。とある。また、『二十年間の迷妄』(大正14年「三昧」創刊号)では、定型から離れ始めた時期を振り返って、
俳句の堕落した前轍をふむ径路に気づかなければ、明日にでも天保調とは別な、形を変えた明治の月並みになってしまう、というのが私の最初の悩みだった。〔…〕と書いている。『新傾向大要』『二十年間の迷妄』の間には十七年経っているが一貫して”個性”、”真の追求”というものを重要視している。同じく『二十年間の迷妄』に〈真を求めることは、我々の生活に流れている感情の実体を求めることである〉ともあるので、自己の感情を純化して表現したところに個性があらわれるような書き方を理想としていたといえるだろう。その俳論を追っていくと、碧梧桐の俳句に真骨頂というものがあるとすれば、型の遵守をやめて自己感情を書くことに重きを置きだしたところ、抒情があふれるように韻律もまた定型をあふれていくような俳句を書くようになったところにあるのではないだろうか。
始めて光明を認めたような気がしたのは、それまで絶対であった、五七五の定型を破壊し突破する運動だった。つまり私の悩みは、既成芸術の伝統性が爛熟した権威を持つようになれば、そこに自己を無視した概念化が生れ、同時にその滋味に溺れる遊戯化が匂って来る。自己の心情を詐わり、自己の要求を抛棄しても、それは詩に対する当然の犠牲だと考える、その危険性に対する目覚めだった。自己表現の芸術の要諦に立って、我が個性を純化する要求に萌していた。一言にして尽くせば、真を求める心だった。
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【落選展2015を読む】
(1)「水のあを」から「梅日和」まで
仲寒蟬 × 上田信治
スティックシュガー音たてて出る立夏かな
青葉風ベンチはひとつづつあけて
繁華街の色をしてをり夜の金魚
ハンカチを返すとき手をすこし高く
重力のかすかにありぬ花野道
集金の人と小鳥の話など
秋の蚊をしばし相談して打ちぬ
冬めきて本の挿絵の蓄音器
地球儀は高いところへ煤払
背もたれに余るコートの長さかな
風光りチーズケーキは砂丘めく
喰ふ舌の先まで恋の猫である
田楽を串の出でゆく力かな
スティックシュガー音たてて出る立夏かな
風にほぐるる鹿の子の耳の先
犬ゐれば声をかけけり黄落期
背もたれに余るコートの長さかな
人日やただまつすぐにバス通り
みな同じ岩を踏みゆく磯遊び
風にほぐるる鹿の子の耳の先この二句なんですけど、青木さん自身を、いちばん喜ばせるのはどういう俳句なんだろう。いろいろ作れてしまっているので、この50句からはそれが少し見えにくい。
みな同じ岩を踏みゆく磯遊び
集金の人と小鳥の話などかな。
冬めきて本の挿絵の蓄音器
風光りチーズケーキは砂丘めくも好きでしたがどこか櫂未知子さんの「南風吹くカレーライスに海と陸」を思い起こさせるところが不利ですね。
三月のひかりに壜の傷あらは
涅槃の日鸚鵡少女の声を出す
藤房は垂るるものなり足もまた
蛍烏賊青菜に目玉こぼしをり
惜春の傘襞深く閉ぢらるる
言葉より疾し目高の逃げゆくは
耳栓のうちに大暑の機械音
きちかうの高さを煙とほりけり
毛糸玉とはもう言へぬ平たさよ
三月のひかりに壜の傷あらは
雪解川遠くの橋の昏くあり
蛍烏賊青菜に目玉こぼしをり
麦秋や絵に神々の憎みあふ
水かげろふ日傘のうちを照らしけり
涼しさや龍をふちどる金ひとすぢ
炎天をかりかりと蝶登りをり
劇場の裏の木屑や小鳥来る
きちかうの高さを煙とほりけり
玻璃すこしみづに汚れて秋の声
藻は水の流るるかたち雁渡し
白菊に喉の渇きを思ひ出す
枇杷の花牛乳揺らしつつ帰る
毛糸玉とはもう言へぬ平たさよ
林開けて向かひあはずに椅子がある
毛糸玉とはもう言へぬ平たさよかなあ・・・。毛糸玉をこんな風に詠んだ俳句を知りません。毛糸玉=球体という常識をさわやかに覆してくれました。
三月のひかりに壜の傷あらは50 句揃えるとなると最初の5句くらいはとても大切です。ここにいい句がないとあとは読んでもらえません。その意味でこの1句目は成功している。まだ春浅いけ れども徐々に強くなっていく日光に、壜の細かい傷が浮かび上がって見えるのですが、それを掬い上げて俳句にする感性は非常に繊細なものです。「あらは」と いう止め方も上手い。
涅槃の日鸚鵡少女の声を出す涅槃会との取合せに驚いた一句です。鸚鵡が人の声を出すというのは当た り前でしょうが、敢えて「少女の声」と言うことで妙にリアリティーが出て来る。涅槃会というと釈迦の入滅を悲しむ衆生の泣き声とか動物たちの咆哮といった詠まれ方をすることが多いけれど、この鸚鵡の声はちょっとずらしてあって意図が読めないだけに不思議な句となっています。
三月のひかりに壜の傷あらは光線、瓶、傷という組み合わせは、ちょっと常識的。なので、この句には全面的に賛成というのではないですが。瓶の色、書いてないけど緑色のような気がするんですよね。「三月」の芽吹きのイメージにひっぱられて、だと思うんですけど、そこが面白かった。あと「傷あらは」に、すこし心理的な思わせぶりがありそうで、このナイーブさは、プラスにカウントしましょう。
雪解川遠くの橋の昏くあり明るさと音に包まれて、遠くの橋という、小さくて動かないものが「昏い」。
蛍烏賊青菜に目玉こぼしをりあーあ、っていうねw これ、かなり好きですね。
毛糸玉とはもう言へぬ平たさよこれは、認識の句ですね。こういうのは無季句で作るといいと思うなw
林開けて向かひあはずに椅子がある椅子が2つあるわけでしょうね。そこを言わないことで、心理的なことを伝えるてるのがいいな、と思いました。
鰭の匂ひか南風蔵の中へ入るという表題の句、「鰭の匂ひ」の表現は面白いけれどどうかなあ。詰め込み過ぎの気がしました。結局「みなみ風蔵の中へと入りにけり」に「鰭の匂ひか」をくっつけただけで、そのくっつけ方があまり成功していないような。
鳥飼つて二月の空を明るくす
蝶よりも薄く図鑑の頁あり
風船に透けて十指のふかみどり
木の芽風つよし病棟より出れば
鳥なくて鳥の巣に日の真直ぐなり
紫となりて鳩発つ晩夏かな
雪の木に雪を解かさぬ光かな
嘘よりも口は小さし水仙花
鳥の骨春風に満たされてゐる
たとへば刃蛇這ふ音の重さとは
夏川に冷え千層の岩なりき
ふと遠いひとと白鷺と飛び立つ
鳥飼つて二月の空を明るくす
風船に透けて十指のふかみどり
鳥なくて鳥の巣に日の真直ぐなり
目を閉ぢてをれば眼の浮く五月
夜店てふ小さき牢のごときもの
みちのくの林檎しづかに尖るなり
手の冷えを重ね遠くに巴里のある
嘘よりも口は小さし水仙花
冬の川舌のごとくに夜が来る
四五匹のみんな恋猫みな濡れて
駆け抜けて胸の高さに夏の草
馬を彫る泉につけて来し両手
よく鳴る森木に空蝉の夥き森
鳥飼つて二月の空を明るくす50句の始まりとしてまことに明るく余韻に富んだ俳句。これなら句集の巻頭句としても行けそうです。信治さんの「明るさの過酷さ」という把握はすごいなと思いました。二月の痛々しさみたいなものが表面でなく深い所に蔵されているからかもしれませんね。
風船に透けて十指のふかみどりなるほど風船を透かして見るとその向こうに持っている手の指が映っている、そういう経験はあります。しかしその指を「ふかみどり」と看破した感性は真に鋭い ものがあります。全然そうは思わなかったけれど、こう言われてみればそうかもしれないと思わせる強さがこの表現にはありますね。
たとへば刃蛇這ふ音の重さとはこれは私には成功しているとは思えませんでした。「刃」は鋭いでしょう?蛇の這う音はどちらかといえば鈍い。作者自身も「重さ」と言ってしまっている。これは矛盾ではないでしょうか?
四五匹のみんな恋猫みな濡れてうまいなあ。「みんな」「みな」のリズム感。恋猫たちのそれぞれの姿態が見えてくるようです。
駆け抜けて胸の高さに夏の草こう言う句は若い人、それも女性にしかできないんじゃないか。年とると駆け抜けられないんですよ。それに男は「胸の高さ」を感覚よりも理性的に理解しますが女性は感覚的に感じるんだと思うんです。それはひとえに乳房のあるなしによるのかもしれませんね。
馬を彫る泉につけて来し両手この句には驚きました。彫刻家でもない限りいきなり「馬を彫る」とは言えないでしょう。しかも「泉につけて来し両手」が妙に生々しい。実際にやったことのある人でないと詠めないんじゃないかと思わせる臨場感があります。
鳥飼つて二月の空を明るくす二月の空はもうだいぶ明るいんじゃないかと思うんだけど、それを意志で明るくすと言わせるのは、なんだか鳥のようなものを抱え込んでしまっている本人の内面の事情でしょう。
風船に透けて十指のふかみどりこれ、風船をわしづかみにしてるんですよね。そして手放せないで、ただ持ってるw この動作から伝わるものがあります。
たとへば刃蛇這ふ音の重さとはこの音の重さは、斬られちゃってるわけじゃないでしょうか、効果音つきで、自分がw
夏川に冷え千層の岩なりき好きな句です。
ふと遠いひとと白鷺と飛び立つこの不安定なリズム、若い世代の共有財産になりつつある。絶句すれすれで13音目までたどりついて、間白が入るから、飛べるんですね。
寒晴のかばんの蓋の磁石鳴る
夜の梅テレビのついてゐるらしく
空はいつもの白い空から花の雨
白きもの食べれば独活や雨の香の
一人は立ち一人はしやがみ梅雨の浜
炎昼に半月がありずつとある
自転車の錆びたベルから秋の蝶
ワイパー二本に軍手引つかけ雲の秋
たてものに秋の公孫樹の影はんぶん
寒晴のかばんの蓋の磁石鳴るただこの辺になってさりげない日常のさりげない、見逃してしまいそうな事物にこの人はていねいな目を向けているなと感じさせ好感を持つようになります。ここまで来て振り返ると2句目の「濡れた板」も結構面白く思えてきます。
夜の梅テレビのついてゐるらしく不思議な梅の句です。伝統的な「梅の香」を全く感じさせない。どちらかと言えば視覚からのアプローチですね。梅を視覚から詠むのは大抵昼間です。だって夜は 見えないんだから。それで「夜の梅」と言えば嗅覚の句になってしまうんです。でも作者は「テレビのついてゐるらしく」と言うことでほんのりした明るさを持ち込んだ。これが夜の闇に浮かび上がる梅の白さを感じさせる仕組みです。「らしく」なので本当にテレビがついているのか分からない。ちょっと変わった見立ての句のようになっています。
空はいつもの白い空から花の雨「空」と言う語の繰り返しが眼目ですね。しつこい、余計だと思うか・・・。現に最初の「空は」を取っても意味は十分通じますから。ただこの「空は」が一句全体をそれこそ空のように包み込んでいると取ると俄然素晴らしい表現に思えてくるんですよ。
白きもの食べれば独活や雨の香のこのレトリックはすごいなあ。「や」で「あ、何かと思ったらこの白いものは独活だったんだ」という驚きを表わしていますし、最後の「雨の香の」と言う付け方、余韻を持たせた終わり方は実に心憎い。
一人は立ち一人はしやがみ梅雨の浜これ、いいですねえ。よくある風景だし、何も特別な言葉は使っていない。でも立ってる人としゃがんでる人、2人が浜辺で何らかの関係を持って関わり合っていて梅雨の雨が風景全体をけぶらせている、そういう一幅の絵が有無を言わせぬ実在感を以て立ち現われて来るのです。
炎昼に半月がありずつとあるこれもよくある風景をちょっと変わった表現で描き直して見せた句ですね。先ほどの「空」の繰り返しや「雨の香の」のダメ押しにも似て「ずつとある」が使われている。意味を伝えるのなら上五中七だけでいい訳ですよ。でも作者は「ずつとある」と言わずにはおられなかった、言いたかった。この措辞によってはかな 消えそうな真昼の半月が永遠に詩の上に定着されたのです。
自転車の錆びたベルから秋の蝶これはちょっとした驚きを掬い取った俳句らしい俳句。「錆びたベル」がリアリティーを高めています。ただ「錆びた」と「秋の」が付き過ぎかも知れない。
ワイパー二本に軍手引つかけ雲の秋ありますね、ワイパーに軍手をひっかけてある光景。でも「ワイパーに」でなく敢えて字余りにしてまで「ワイパー二本に」とした細部描写にこの作者のこだわりを感じます。「雲の秋」という聞きなれない下五の表現が細部から一気に大きな空間へと読者を持って行く、そこが見事です。
たてものに秋の公孫樹の影はんぶんこの句の眼目は「はんぶん」でしょうね。「たてもの」という漠然とした、いい加減な表現の後に妙に正確を期したような「影はんぶん」を持ってくる。そのギャップがおかしい。作者は大真面目でも読む側はくすっと笑ってしまうんです。
自動車はシンメトリーで冬の海今回の50句で、僕が勝負に行ってるのって、このあたりの句なんですけど、必ずしもwそれは伝わってないんだろうなと。そういう意味での、力不足だなと。
日のひらめく海の若布を食べにけり
空はいつもの白い空から花の雨
著莪の花つめたいペットボトルかな
ねぢ花を見てゐる顔や空の雲
芋虫のまはりを山の日が透きつ
自動車はシンメトリーで冬の海ですが、これらは必ずしも私にとって50句の中で光っている句ではありませんでした。自転車の句は「可愛くない子供で春の夕焼で」にも使われている「で」という語の使い方に違和感を感じましたし、「日のひらめく」はこの作者のいい部分とは感じられなかった。
日のひらめく海の若布を食べにけり
空はいつもの白い空から花の雨
著莪の花つめたいペットボトルかな
ねぢ花を見てゐる顔や空の雲
芋虫のまはりを山の日が透きつ
冬晴の赤い実があり怪しい実
冬帽のてつぺんどうしても余る
受験子が駅のおほきな風に立つ
冷蔵庫ひらき渚に立つこころ
割箸にくれなゐ残る子規忌かな
鶏頭の襞の深きを蟻が這ふ
おでん屋のテレビの中を兵歩む
小雨ならコートに光る逢ひにゆかう
太陽はもはや熟れごろ初詣
冬帽のてつぺんどうしても余る
残雪の厚みの辞書を父より享く
いもうとをのどかな水瓶と思ふ
パンジーも選挙事務所も消えてゐる
何の木と知らねど夕焼に似合ふ
眼は次の草を見てゐて草むしり
水に影おとさぬ高さ鬼やんま
おでん屋のテレビの中を兵歩む
古暦つまり風葬ではないか
しんしんと大つごもりの油濾す
夢の島除夜のおほきな闇が来る
太陽はもはや熟れごろ初詣「もはや熟れごろ」「残雪の厚み」は、単なる言い方ではないか。こういうのはなんとなく信用できないw
残雪の厚みの辞書を父より享く
母の日の父と来てゐる楡のかげはないなあ。狙いが見え透いてしまう。
不平等なからだと紺の水着かなの「不平等な」も才に走り過ぎた感がある。
受験子が駅のおほきな風に立つ単なる「共感」のやりとりのレベルで書かれ読まれて消費されてしまうのではないか、という危惧もあるのですが、でも、このちょっとしたやさしさには、ちょっと奥行き感がある。
割箸にくれなゐ残る子規忌かなあんまりいい割り箸じゃない。でも、健啖のかなしき子規の忌であれば、供養と思って美味しく食べてやろうという。ちょっと構図にはめたおもむきもありますが、いい句ですよね。
冬晴の赤い実があり怪しい実といった句にあらわれる、語操作の恣意性とでも言うべきもの、わがままな書きぶりに、僕は、今後何年か分の、俳句の可能性を感じます。
冷蔵庫ひらき渚に立つこころ
小雨ならコートに光る逢ひにゆかう
新緑や鬣かたきチェスの馬
小道具のパンはほんもの聖夜劇
勝独楽の立ちたるままを鷲掴む
万札の上に銭投げ残り福
春の日や吊りて仕舞へる一輪車
花水木けふは午後よりはじまる日
新緑や鬣かたきチェスの馬あのー、ちょっと厳しいこと書きますけど、例えば
大学の鬼門に実家天の河
セスナ機も花野もおなじ風のなか
終ひには紐いきいきと猿まはし
春の日や吊りて仕舞へる一輪車
水性の朧油性の朧かな
方違して竹馬を片付けり「片付く」「捨つ」を他動詞として使う時は下二段活用ですから、持続・完了の助動詞「り」は四段活用の命令形とサ変の未然形にしか付かない訳ですよ、絶対に。だからこれらの句は文法的に間違っている。
古暦すこし汚してより捨てり
人日のニュースは人を呼び捨てり
勝独楽の立ちたるままを鷲掴むですが「鷲掴みにする」とは言うけれど「鷲掴む」という動詞はあるのか?「夕焼くる」という表現ですら、有名な俳人が何人も使っているにも拘らず認めないとおっしゃっている俳人もいる。況してや「鷲掴む」はダメでしょう。
隣人に挨拶をする梅日和
春風や拳は素手で作るもの
野を焼いて水を飲み合う男たち
昼つづく昼の麦酒を開けおれば
隕石を重し重しと十三夜
駅伝のテレビに映る近所かな
初場所のひかりをはなつ水と塩
駅伝のテレビに映る近所かな
初場所のひかりをはなつ水と塩
夏の馬川がひとつになるところ
隣人に挨拶をする梅日和いきなり表題の句を持って来た。題をどうするか?というのは結構大切だと思うんです。それが代表句であろうとなかろうと、いわば50句の顔になるのですか ら。その意味でこの第1句はよかった。気負っていなくて、他人への優しさもあって、これから始まる作者の俳句世界への誘いの句になっている。
春風や拳は素手で作るもの「拳」という堅そうな怖そうなものと「春風」という柔らかく優しそうなものとの取合せ。俳句らしいと言えば言えるけれど、あまりわざとらしさを感じない、それは「拳は素手で作る」というアホらしいほど当たり前のことを言挙げされて、そっちに意識が行ってしまうからなんでしょう。
野を焼いて水を飲み合う男たちこれ、いいですね。野焼の光景が活写されている。野焼というイベントは確かに男のするものかもしれない。火の熱と流した汗のために喉が渇いて水をがぶがぶ呑む男たち。「飲み合う」という表現の中に連帯感を感じます。
隣人に挨拶をする梅日和この句は、「隣人」という言葉があまりに概念的で悩みました。。わざと日常意識の雑さみたいなものを、無造作なざらっとした言い方で表しているのかなあ、と。 日用雑器のよさというか。「暖房や硝子に映る我等あり」「怪我をした男に運ぶ氷水」なんて句もあって、氷水はかき氷なんで、季語じゃないんですけど、
春風や拳は素手で作るもの当たり前のこと言ってるシリーズ。でも、かすかな発見はある。
舟底より水面は高し燕子花
歩き来て足が真つ赤ぞ鳥曇いいですね。世界が安定してて。
鉄橋や高きを揺れる山の藤
夏の馬川がひとつになるところ
頭を上げて啼く鳥を見る春の昼この「頭」、「づ」と読ませるのかな。それはやめてほしい。字余りでいいから「あたま」と読ませてほしいなあ。
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3. 青本瑞季 「鰭の匂ひ」
三月のひかりに壜の傷あらは
卒業の椅子床下にをさまりぬ
雪解川遠くの橋の昏くあり
涅槃の日鸚鵡少女の声を出す
杖の人透かし野焼の炎かな
吹かれやすくて青柳の下の水
鳴く亀のあれは中国語の高さ
藤房は垂るるものなり足もまた
蝶の昼糖にざらつく壜の口
蛍烏賊青菜に目玉こぼしをり
惜春の傘襞深く閉ぢらるる
蝶の死のひらたく風に返らざる
とねりこのそよぎに夏の兆しけり
聖五月樹は回廊に囲まるる
言葉より疾し目高の逃げゆくは
麦秋や絵に神々の憎みあふ
青嵐くらがりに螺子捨てらるる
板の穴より見ゆる遠くの茂りをり
遠く鳴く雉鳩梅雨の夜の冷えて
鰭の匂ひか南風蔵の中へ入る
夏シャツに見ゆる背骨のありどころ
水かげろふ日傘のうちを照らしけり
涼しさや龍をふちどる金ひとすぢ
炎昼のふと肉球の話かな
耳栓のうちに大暑の機械音
炎天をかりかりと蝶登りをり
空蝉のかほ金色の毛をはやす
劇場の裏の木屑や小鳥来る
人波に失ふ愛の羽根の先
秋雨や人形の糸垂れてをり
きちかうの高さを煙とほりけり
ちろちろと煮炊きの火あり柿を食ふ
十月の袋を吊るす窓辺かな
玻璃すこしみづに汚れて秋の声
藻は水の流るるかたち雁渡し
白菊に喉の渇きを思ひ出す
目薬ののち秋園の晴れてをり
舞ひ上がる羽に枯野の日が余る
枇杷の花牛乳揺らしつつ帰る
雨後の川なり水鳥を押し流す
冬蜂の死よ天井の高くあり
ひとの手に墨匂ひたり牡蠣の旬
枯るる中如雨露こぼさぬやうにゆく
水鳥のこはばりをもて目覚めけり
霙るるにきいと開ける小箱かな
棘ほどの音雪の日の蛇口より
ストーブの近く雲母の棚の冷え
毛糸玉とはもう言へぬ平たさよ
とほざかる踝のあり骨牌の座
林開けて向かひあはずに椅子がある
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■青本瑞季 あおもと・みずき
1996年広島県生まれ。「里」「群青」同人。
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Labels: 2015角川俳句賞落選展, 青本瑞季, 落選展
光足りず 青本瑞季
夕虹を指すに遅れて嗚呼と云ふ
木曜の山羊よこたはる暗さかな
切株の膚のごとくに蛾の鱗粉
鬚の凸あまたうつすら汗を乗せ
少年の眼濁流めく午睡
夕菅や矢を射るごとく名を呼んで
夏木光足りず黙禱のまなうら
黙禱そして向日葵はあをざめ光る
花カンナ貨車過ぐるとき悲鳴に似る
鳥の屍より甲虫光る、臭ふ
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Posted by wh at 0:49 0 comments