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2026-02-01

青木ともじ【週俳6月7月8月の俳句を読む】写実と虚構の間

【週俳6月7月8月の俳句を読む】
写実と虚構の間

青木ともじ


うるせえなババア!殺すぞ!シネラリア ミテイナリコ

意味としては上五中七で切れがあるのですが、韻律としては「うるせえなババア!」と「殺すぞ!シラネリア」という対句のように聞こえます。全体的に理不尽ですが、殺すぞ!が後ろにかかるようにも見えるため、シラネリアが一番可哀想かもしれません。そういう可笑しみがあります。

最後まで読めばSF梅雨茸 彌榮浩樹

高原英理さんの『日々のきのこ』(河出書房新社)という本を不意に思い出しました。SFを含めファンタジーというのは不思議なもので、世界観が現実からかけ離れているほど、その世界の人物(人じゃないかもしれませんが)にとって、その世界が日常的であるように描く必要があると思っています。この句においても、小説の中ではあまりに日常的に世界が描かれているからこそ、読了したときに改めてSF世界だったことを思い出す、という気づきにつながるのだと解しました。そのまま視線を外へ向けたときにそこにあるきのこ。普段は単なるきのこだなと思うだけなのに、その時にはファンタジーの世界と現実世界が地続きの日常のように感じられ、異様な存在に思えたのかもしれません。たしかに、巨大きのこが惑星を覆い尽くすSFはありそうですよね。

鉛筆で描いて青唐辛子の絵 彌榮浩樹

デッサンということでしょうか、おそらくこの絵は白黒で描かれているのでしょうが、たしかに色がなくても色まで見えてくるような絵はあります。例えば赤唐辛子やししとうとも形は似ていますが、質感や形のニュアンスはたしかに違う、という気付きの句だと思いました。これを直接的な気付きとして述べるのではなく、一旦デッサンするという過程を経由して見せるというのは回り道のようであって、文字通りの「写生」のプロセスと意義を再確認させる写生句になっています。すべての情報を述べずに一部の情報のみを切り取って見せることでモノの深いところを描くという点で、デッサンと俳句には似通った部分があると再認識するメタ的な句でもありました。

愛国心みづやうかんの匙に棘 押見げばげば

昨年末の臨時国会のなかで、ある議員が「愛国心とは何か」を防衛大臣、外務大臣に問う場面がありました。愛国心という言葉は安易に使おうと思えば簡単な言葉ですが、その実を問われれば明確な答えがないものです。水羊羹は舌触りも喉ごしも良いもの。その匙、おそらく木製なのでしょうが、それにささくれがあるとは想像せずにこの人は使ってしまう。この人は怪我をしたかもしれませんが、水羊羹のほうには傷はつかないでしょう。こうした素材の組み合わせは愛国心という概念を考えながら見ると象徴的です。まもなく選挙ですね。有権者の皆さんはきちんと投票に行きましょうね。

枝切りの音の木霊や聖五月 細川洋子

木霊というと、人の声の印象が強いですが、当然他の音でも木霊は起こります。枝を打つ音の乾いたパチンという音の反響は想像しただけで気持ちよいですが、木から生まれた音が、山々、すなわち再び木々からはねかえってくる構成になっているのがこの句の素材のよろしさと思います。また、谺ではなく木霊のほうの文字を使ったことも、霊という字と聖五月の神聖さがうまく合っており、句材は即物的でありながら木から木へ、聖なるものから聖なるものへ緩やかに反響してゆく、まさに木霊のような句です。


■ミテイナリコ ミスター諦念退職 and ミセス胃癌退色 10句 ≫読む 第945号 2025年6月1日
■彌榮浩樹 小屋へ 10句 ≫読む 第947号 2025年6月15日
■押見げばげば 眩暈 10句 ≫読む 第953号 2025年7月27日
■細川洋子 夜の秋 10句 ≫読む 第954号 2025年8月3日

2024-03-17

青木ともじ【週俳2月の俳句を読む】いろいろな感覚の

【週俳2月の俳句を読む】
いろいろな感覚の

青木ともじ


■瀬間陽子 地球儀が軋む

薬喰青空の味していたり  瀬間陽子

青空の味というのはどんな味なのか瞬時には想像がつきませんが、この人はあまり味付けをしていない肉を食べているような感じがします。最近はジビエという呼ばれ方で様々な肉を食べる機会が増えてきましたが、そんなジビエ肉を食べているのだろうと思います。獣の肉を食べるとき、どうしても獣本来のえぐみや臭みを意識してしまいますが、この句ではその中にあるかすかな青みのようなものを感じ取り、ここで「青空の味」と言ったのでしょう。しかし単に「青い味」と言ってしまってはそこに面白みはなく、「青空の味」と言い切った思い切りの良さが良い。そこにすがすがしさもありますし、生きていたころに獣が見ていた野山の空も同時に連想させます。味覚に根ざしていながら奥行きのあるよい句です。

地上絵のようにしずかな浮寝鳥  瀬間陽子

地上絵といえば、ナスカの地上絵を思い浮かべる人が多いと思いますが、ナスカの地上絵には、ハチドリやペリカン、ヒメウなど様々な鳥が描かれているといいます。かつての人々は空を飛ぶ鳥を眺めながら、そのはばたく姿を陸に描いたのかもしれませんが、この句では浮寝鳥たちはみな視界の下に散らばっていて、動かない。まるでこの人が神の視点に立ったかのような描き方をしています。しかし実際の景色に立ち戻ってみれば、人類が見上げていた鳥たちのうち、鴨なりなんなりだけが、狭い視野にコンパクトに収まっているというちんまりとした光景でしかないという可笑しさが、地上絵という比喩によって逆説的に活かされています。

他にも「くす玉の半分は雲冬ひばり」の句では半分は雲という把握の不思議さに惹かれました。「初日記果物を剝く白さかな」には果物といいつつ果物は出てこない。白さだけから果物へ発想を飛ばした面白さがあります。「ホチキスで綴じる生涯磯千鳥」では、このホチキスで綴じられることは必ずしも「薄さ」ではなく、軽やかでありながらもきちんと紙に綴じてもらえる明るさがありました。

■堀切克洋 二月四日 

早梅の土に淫するごとく散る  堀切克洋

早梅であるから、まだ土は梅の匂いを知らない。梅も土の匂いを知らない。そこへ初めて落ちる梅の花とその香りを思うとたしかにその妖艶さが引き立つように思われます。梅の花の湿度を感じる質感自体も、土にしみわたってゆく感じがして梅らしいと思いますが、ここではただの梅ではなく、早梅としたことがこの句の良さです。満開の頃の梅では、香りや質感の情報量が多くこてこてになってしまいそうです。

受験生ひとり監督ふたりなり  堀切克洋

学生のとても少ないような地域なのか、追試や予備試験のような試験なのか。監督が二人いるところをみると、後者のような雰囲気がします。このような場面には学生の頃出会ったことがあるけれど、大人数の試験のような緊張がない一方、監督官との距離感にこそばゆい思いになるものです。自分一人のために二人も監督官がいるのか……、とか、試験が早く解き終わってしまって時間が余ったとき、いまここにいる全員がただ待っているだけなのか……、とか、学生時代の妙なディティールを思い起こさせます。そういう読者それぞれの想像力を掻き立てるのは、ひとえに述べ方によるところが大きい。反復的なリズムで即物的にのべているところがよいですね。

他には「枯れきらぬ芭蕉を枯らす春の雨」の「枯れきらぬ」の部分に目を付けたことの手柄は着目すべきだと思いました。春の雨の明るさの裏にあるかすかな腐敗感と湿度が魅力的です。「よく育つヒヤシンスなり歩き出す」の下五の唐突な配し方もよいですね。歩き出すときというのはいつも唐突なものです。

■森尾ようこ 木偶

復元土器恥づかしさうに立つ二月  森尾ようこ

博物館に展示されている土器を想像しましたが、土器の立つさまを「恥づかしさう」ととらえたのは面白いです。この恥じらいというのは、当然土器そのものの持つ感覚ではなく、作者が復元された土器に対して感じるささやかな違和感を反映しているでしょう。復元された文化財というのは、「本来の形」でありながら、「そのもの」ではないという、相反する性質を持つものです。例えば式年遷宮が文化財としての価値を持つのかという話はかつて議論されたこともありましたが、もちろん復元された文化財にも価値があるわけです。しかしそこに向けられた屈折した感情自体を句にしたことは手柄だと思います。季語の二月も、寒さの中できりりと立つ土器の質感、しかしこれから春へと向かってゆく明るさを併せ持った季節であり、この句を観念だけの世界から引き戻してくれる働きをしています。

耳穴に棲みたくなりぬ春の暮  森尾ようこ

ある種の春愁の一つなのでしょうか。耳穴に棲みたいとは何事かと思うところですが、あの小さくて暗い空間に棲みたいというのは、妙に共感してしまう自分もいます。耳の穴というのは摩訶不思議です。耳の形もよくよく見れば人それぞれ千差万別で、耳の奥にも蝸牛管があったり、エウスタキオ管があったり、各器官の形も名前も魅力的。あそこに棲んだら、家の(耳の)中は楽しい空間になることでしょう。まあそんな独善的な好みはさておき、この句では春という季節を配したことがとても適切。啓蟄となれば蟻も蛇も穴を出てくる季節ゆえ、あなぐらへのまなざしを意識する季節でもあります。正統にゆけば穴を出てゆく明るさを詠むところ、この句では寧ろあなぐらに入ろうとしている。この後ろ向きな姿勢こそ春愁であり、春の人類らしいなと思うのです。

他には「春寒の机に花壇設計図」の句に登場する花壇設計図はどんなものなんだろうと、とても実物を見たくさせるわくわく感がありました。「遅刻魔の姿の見えて日永し」は、句の素材自体はそこまで珍しくはないですが、どこか悠々と地平から姿を現してくるような可笑しみがあります。

今回は図らずも比喩や観念の句を多く選び出してしまったような気がします。二月はまだ冬らしい寒さから、春へ向かう明るさ、春愁然とした屈折感まで、いろいろな感覚の交錯するシーズンですね。


■瀬間陽子 地球儀が軋む 10句 ≫読む 第876号

■堀切克洋 二月四日 10句 ≫読む 第877号

■森尾ようこ 木偶 10句 ≫読む 第878号

2022-12-04

青木ともじ【週俳8~11月の俳句を読む】新たなステレオタイプ

【週俳8~11月の俳句を読む】
新たなステレオタイプ

青木ともじ


職場の周りの銀杏並木が色づいて、ようやく秋が来たと思ったのも束の間、十二月に入ってすっかり冬の香りに覆われてしまいました。八月は既にして遠い昔な気がします。

煮凝や外見えてゐる換気扇  日向美菜

そういう意味ではこういう冬の句のほうが最近の実感としては強く感じます。安アパートの台所といったところでしょうか。換気扇のファンの隙間から外が見えている侘しさ、昨晩の煮魚の汁で作った煮凝に見える生活感のリアリティの一方で、この換気扇の隙間からわずかに差し込んできているであろう冬の日差しに救いが感じられます。


犬の嗅ぐ皿の裏がは冬隣  日向美菜

私の実家でも犬を飼っていましたが、犬という動物は不思議なところが気になるものです。食べ終わった餌の皿をひっくり返して追い打ちをかけるように皿の裏側の匂いを嗅いでいることがありました。そういった景でしょうか。冬という季節は物の隅々へ意識のいきやすい季節。室内で飼っている犬であれば、皿が床にぶつかる音が冬の静謐な空気に響くでしょう。


まだ温き草に坐りぬ揚花火  広渡敬雄

これは非常に実感の伴ったリアリティのある句。私の地元でも、毎年水辺で花火大会が開かれていましたが、大会の始まりは陽が落ちてすぐの頃でした。この句は、花火を観るのによい場所を見つけて地面に腰を下ろしたとき、まだ昼間の陽の温もりが残った地面に気づいた感慨の句だろうと捉えました。

掲句の良いところは、この感覚が個人の実感にとどまるのではなく、私たちが広く理解できる出来事から微妙な季節感への共感性を見つけたことでしょう。私も小さな頃から、同じような場面で地面の温もりを感じたとき、夏の終わりを感じたものです。夏や冬のど真ん中ではない季節の「周辺」について、良い意味で新たなステレオタイプを見出している句です。


夕焼や東シナ海涯もなし  広渡敬雄

日本を取り巻く海の中で、太平洋や日本海に比べると東シナ海は概念としてイメージのしにくい海域だろうと思います。しかし東シナ海は日本にとっては西の果てであり、夏の東シナ海は夜七時ころまで日が暮れないので、夕焼けに対する感慨はどの海よりも大きいものです。

掲句はおそらく陸から見ている海の景ですが、夕焼け一色に染まる東シナ海に対して「涯もなし」という表記を用いているところはきちんと考えたいところです。私は「涯(はて)もなし」と読みましたが、「涯」の字には「きし」「水際の崖」の意味もありますので単なる「果て」の意味ではないだろうと感じます。一つには、日本からは見えないけれどその海の先には紛れもなく大陸という「きし」がある事実が、知識として作中主体の中にあるでしょう。もう一つには、東シナ海の底には沖縄トラフや海底火山があり、二千メートル近い水深差がある実はダイナミックな海域だということもあります。「涯」という字には、距離によって見えない彼方の大陸や水面の下に隠された海底の地形を無意識のうちに想起させる力があるように私には思えました。


踊りつつ踊らぬ人を見てをりぬ  野口る理

まずこの句を見て思うことは、明確に踊り手側の視点で詠んだ踊の句は案外に少数派だろうということでした。踊の句は外野から踊る人々を詠んだものが多い気がしています。そして、踊り手目線として、踊っていない側の人間に目を向けた句はさらに少ないでしょう。
句中では「人」と言っていて、実景としても踊りに加わらぬ人を見ているのでしょう。しかし、盆踊の本意を考えれば「踊らぬ人」の群衆の中には、何人かはこの世の者ではない先祖の霊魂ももしかすると混ざっているのではないか、といった想像も膨らみます。


木犀にあらためて夜の来たりけり  野口る理

木犀は夜によく意識する花。暗がりに白くぼおっと浮かぶ花と強い香りは暗闇でこそ際立ちます。「木犀やしづかに昼夜入れかはる 岡井省二」ともあるように、木犀を詠むうえで昼夜の入れ替わりが特別であることは暗黙の了解だと俳人たちは思ってしまいますが、時にはあらためて、かしこまって、新鮮な気持ちで木犀と向き合う夜が来るのもいいのではないでしょうか。掲句はそんな気持ちにさせる句です。


虫籠に三百日の不在かな  野口る理

少し前には『100日後に死ぬワニ』が流行したこともありましたが、百日単位の時間というのは私たち人間にとっては結構に長い時間です。

掲句は秋から翌年の秋まで、虫籠に何も居ない時間があるという不在を詠んだ句であり、一方で逆算して六十日程度の間、この人は虫籠を使って虫を愛でているということでもあります。

物事の「無い」ことを素材にした句はたくさんありますが、この句は日数の換算も理知的であり、「不在」とストレートに言ってしまってもいるのでそこに新鮮さがあるわけではないと思っています。

寧ろ、この句の表現によって際立つのは、詠まれている三百日が「今年の秋から来年の秋まで」なのか、「去年の秋から今年の秋まで」なのかよくわからない良さであろうと思います。敢えてこういう理知的かつ端的な表現をすることで、「虫籠」という小世界の中で「三百日の不在」と「六十日の存在」のサイクルを何度も何度も普遍的に繰り返してゆくのだ、という達観した世界観を表現しているのではないかと思うのです。


■広渡敬雄 天草 10句 ≫読む
■野口る理 タイガーモノローグ 40句 ≫読む

2022-02-06

青木ともじ【週俳11月・12月・1月の俳句を読む】 神様は寛大

【週俳11月・12月・1月の俳句を読む】
神様は寛大

青木ともじ


声冴える模型の肺を開くとき  花島照子

トルソーとかでしょうか、肺単体の模型でしょうか。最近は医療学習用の皮膚の模型なんかもあるみたいですね、リアルな質感の。

本物であれば開くはずのないその肺を開くときのどきどきは、人の好奇心の根源に近いものを感じます。模型の人工的なひんやりした質感だけでなく、「声」に目を向けたところがこの句の新鮮な部分でもあります。


麦の芽を何度も風のやりなほす  田邉大学

こちらは「やりなほす」がいいですね。吹かれては戻り、吹かれては戻りを繰り返す芽。稲穂とかでも同じような詠み方ができるかなとも思いましたが、稲穂よりも弾力があり、稲穂よりも密やかな小さな存在をじっと見つめるまなざしはまた異なる良さがあると感じました。

「やりなほす」からにはどこかに「正しい」風の吹き方があって、それにぴったり合うのを待っているような期待も感じます。


階段の巻き付くホテル冬の虫  岡田由季

「階段の巻き付く」という捉え方がまず面白い。どこか蔦を思わせますよね。螺旋階段なのか、建物全体をまわるように階段があるのか、すごく構造の気になる句です。この建造物にはちょっと薄気味悪い感じもしますね。

季語が冬の虫なので、もしかしたら階段の隅にこの虫がいるのかもしれません。故に、最初の印象はこのホテルを外から眺めている感じでしたが、最後まで読むと、いままさにこの巻き付く階段を登っているような感じがして、建物へ吸い込まれてゆくような気もする魅力的な句です。

雪もよひ公民館に湯を沸かす  同

なんてことのない景ですが、敢えてこの素材を見つけてくることは難しい。手練れた感じがします。公民館の会議室、それこそ句会とかかもしれませんが、給湯室とかに電気ポットと簡単なお茶セットが用意されていることはありますよね。

うまく言葉にはできませんが、「他」な場所にあるささやかな安心感みたいなものがこの湯沸かし行為にはあるのだと思います。公民館の匂い、スリッパのつめたさ、お湯を沸かしている自分の遠くでざわついている会話の音、いろいろなものが想像されてくる句です。


ほほ笑んで一夜飾りを許される  佐藤智子

この句は誰かに許される句というよりは、自分で自分を許してあげるような、ま、いっか!という感じに思えます。慌ただしい感じもしないし、この人なりに前向きな気持ちで飾っているようにも見えるので、OKじゃん、と思わせる句です。

因みに一夜飾りの縁起が悪い理由には諸説あるらしいですが、「歳神様は31日の早朝に家に来るからそれまでに」というのがあるらしく、すでに到着した歳神様に向かって「まだ飾ってないの、ふふ」という感じで許してもらっている画を想像してもなかなか面白いかもしれません。神様は寛大です。

軽トラの荷台で運ぶ獅子頭  同

獅子舞には中の人がいるので、元から形あるものは実は頭だけなのですね。その事実への気付き、そして頭だけが軽トラに乗って目の前を通りすぎてゆくシュールさ。そっけない詠みぶりですが、かなり好きな句です。


霜土手を見知らぬ人の速さかな  大室ゆらぎ

「見知らぬ人の速さ」という表現に意外性があり面白いです。土手を走っている人かなと思いました。そこら辺を歩いている人の九割以上はみんな見知らぬ人だろう!と突っ込みたくなりますが、それを敢えて言っているところ、走るなどと説明的なことも言わず、速いなぁ~と即物的にしか見ていないところ、捉え方が絶妙に面白い句です。


サイドミラーに細きつららや落ちずゆく  野崎海芋

エンジンをかけたときにはすでにこのつららには気付いていたのでしょう、落とすでもなく、大切にするでもなく、視界の隅にあるつららを運転しながらのんとなく見守っている感じが日常らしくてよいです。


第761号 2021年11月21日 ■花島照子 フェルマータ 10句 ≫読む

第764号 2021年12月12日 ■田邉大学 優しい人 10句  ≫読む 

第765号 2021年12月19日 ■岡田由季 宴 10句 ≫読む

第769号 2022年1月16日 ■佐藤智子 背はピンク 10句 ≫読む 

第770号 2022年1月23日 ■大室ゆらぎ 霜 10句 ≫読む 

第771号 2022年1月30日 ■野崎海芋 三連符 10句 ≫読む 

2021-02-14

【週俳12月・1月の俳句を読む】時間と空間と 青木ともじ

【週俳12月・1月の俳句を読む】
時間と空間と

青木ともじ


年が明けてもコロナ禍は失せず、物理的な生活範囲がかつてよりも確実に狭まっていることを感じる今日この頃である。句作も必然的に限られた場所で行いがちだが、俳句の便利なところはそこら辺の感覚をいい感じに句の上で操れるところである。


映るまで冬日にひたるディスプレイ  藤田俊

パソコンかテレビか、電源を入れてから映るまでのわずかの時間を切り取った句。ディスプレイという極めて無機質な素材に対して温かみを感じさせる詠みぶりである。「ひたる」という表現が水を想起させるためか、その漆黒が深い湖の水面のようにも思え、ディスプレイにとこしえの奥行きを感じる。さらには漆黒とそこへ差し込む陽射しを意識する時間はわずかであり、大げさに言えばかすかな神聖さまで思うのである。俗人的な視点で読めば、かつてのブラウン管テレビを思い出したりもする。電源を入れてから時間もかかるし、表面は静電気でピリピリするし、奥行きも本当にある。しかしこの句はイマドキの真っ黒な薄型ディスプレイだからこそ感じる情緒であろうし、シンプルな描写から時間的にも空間的にも広がりを感じさせる秀句である。


定位置に靴べら挿され神無月  藤田俊

一方、こちらの句は空間を「定位置」に集約させることで魅力を出せている句である。私は靴べらを普段使わないので実感はないが、「定位置」というのは靴べら立てのことだろう。「定位置」という構造的な把握の仕方が靴べらや靴べら立て、その周辺の居住空間を少し引いた幾何学的に把握させている。この句の良いところは季語の取り合わせである。実感の有無はともかく神無月といえば神の存在を意識せざるを得ない。そうしたときに単なる板切れである靴べらが神聖なモニュメントか何かのようにも思えてくる面白さがあるのである。そうすると靴べらが必ず「定位置」に収まることにも何か特別な意味があるように感じられてこないだろうか。


水鳥を指す利き腕の重たさよ  箱森裕美

水辺の公園などに誰かと来ているのだろう。水鳥が何か面白い動きをしたのか、相手に伝えようと指さすもののすぐに反応してくれなかったのかもしれない。その間、自分の腕の重さを意識した句。腕を「利き腕」と把握した点が面白い。指さしていた時間は実際には数秒だったのかもしれないが、この人は長く、重たく感じたのだろう。その時間が、いま持ち上げているこれは私の利き腕であるのかという把握に至らせたところに意外性がある。さらに述べ方として「重さ」でなく「重たさ」としたところも良い。「重たさ」としたほうがより主観性が増し、句の雰囲気にもあっている。


煮凝りの中に眠たき王都かな  箱森裕美

前句の主観性が物質的で一瞬のものであるのに対しこちらの句は空想的で悠久を感じる。煮凝りの中にある様々なものたちをまるで模型のごとく感じ、王都とまで言いきったところが魅力的である。煮凝りが海産物ベースであることも相まって、この王都は海底に沈んだアトランティスを彷彿とさせる。透明な煮凝りに封じ込められた魚介類が古代ギリシア風の遺跡のように見えるのはわからなくもない(しかもそう見えないものはそこにいる貝だとか思ってしまえば辻褄が合う)。だが、ここまで大げさなことを述べても許せるのは、句の纏うだらりとした時間の流れ故であり、実際には煮凝りを見つめている人の「眠た」さが効果的だろう。そういうところも踏まえると案外にバランスの取れた句なのである。


ふゆかもめ出航式はオンライン  木田智美

私は仕事柄よく船に乗るが、コロナ禍で船まわりの儀礼的な部分は簡略化されたり省略されたりするようになった。特にオンラインで式典関係を済ませることも増え、この句のようなことも各所で実際に行われていることだろう。この人はオンラインで観ている側であろうか、それとも目前に観衆が一人もいない式典会場でオンライン用の配信機器を設定しているのだろうか。私としては、冬鴎が目前にいると考えて後者だと読みたいところだ。いずれにせよ、オンラインで観ている人たちの空間と、式典が行われている場所がパラレルに存在しており、それらをつなぐ存在としての冬鴎は効果をあげている。きっとオンライン配信の画面の隅にもこの冬鴎は映っていることであろう。


スリッパもこもこ踵の透けて黒タイツ  木田智美

非常に生活感のある句でありながら良い意味でちぐはぐな印象を受ける句である。「スリッパもこもこ」などと脱力感のある表現をしておきながら、踵の部分が攣って薄く透けているディティールを詠んだりもしている。「水兵リーベ僕の船」的なリズムの良さもある。もこもこのスリッパと、人の足と、それらの境界としてあるタイツと、踵まわりの空間把握が可笑しい句である。


ここで挙げた句たちは、特別に面白い素材が並んでいたわけでないにも関わらず、捉え方次第で面白くなるものだと感じた作品たちだった。もうしばらく続くであろう自粛生活も、まだまだ楽しむ余地がありそうである。


■藤田俊 はく 10句 ≫読む
第713号 2020年12月20日
■箱森裕美 天から手 10句 ≫読む
■木田智美 ひろく凍つ 10句 ≫読む

2016-12-04

2016「石田波郷新人賞」落選展 1. 鯨 青木ともじ

2016「石田波郷新人賞」落選展



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1. 鯨 青木ともじ

三月の壊すタイプの貯金箱
空のその緊張にある木の芽かな
琳派展待つ列長し花粉症
引く波のきらをがうなの死と思ふ
沖に雲捨てられてゐて望潮
はつ夏や生クリームに尾根と谷
振り返るまでを満たして風薫る
三人のうちの浴衣でなき一人
館内図にはいれぬ部屋や黴の宿
焼け跡の蠅がゆつくり立ち上がる
決別の手紙やがては紙魚のもの
森色のウォッカの瓶や夜学生
再会や木犀ばかり見てしまふ
鮟鱇を吊る紐濁りなく光る
しやがみ込みマフラーに池触れにけり
湖に星の映らぬまま凍る
天狼やいつしか村のなくなりて
雪玉といふ一塊の熱を手に
枯野に影人ならぬもの人がたに
友ひとり失くして夢にゐる鯨

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2016-11-13

2016「角川俳句賞」落選展(第1室) 1.青木ともじ 2.青島玄武 3.青本瑞季 4.青本柚紀

2016「角川俳句賞」落選展■第1室


1.青木ともじ


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2.青島玄武 


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3.青本瑞季 


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4.青本柚紀



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1. 夜があり 青木ともじ

あたたかや二人で運ぶ長机
飛び出さぬ飛び出す絵本うららけし
囀や跳ね奔放に書道展
入試監督きれいなこゑではじまりぬ
やはらかに廃車積まるる桜かな
桜かつ散るや上野にすこし雨
大筋は桜の頃に聞いてゐる
おとうとの家庭訪問ヒヤシンス
ヒヤシンス並べなほして退任す
春濤をひとり占めしてひとりなる
くづれさうな光を春の海といふ
生卵割る背筋まで新社員
青饅にふと深海のふかみどり
かぎろへば神奈川へゆく橋にゐる
風船を連れ不自由な体なる
夏近き空に火葬の煙残る
人類に火があり天に藤があり
白蝶を吹き消すやうに見失ふ
対岸を眺めてをれば春終る
はつ夏はさつき見てゐた雲の白
友を待つ背に噴水を感じゐる
立ち漕ぎの一歩目強き植田かな
のつぺりと羊羹倒す暑さかな
居酒屋のトイレに香水がにほふ
なきがらの金魚とろんと沈みたる
苦しんで死ねば汗なら残るだらう
ヘルメットの内側臭き夏野かな
ねむり草めざめるときの波紋めく
日傘して孤島のやうな女かな
売る籠のすべてからつぽ登山道
くちなはの来てゐて此岸広くある
何の碑か知らずありがたがつて秋
旧友は嫁いで百舌鳥の街にゐる
皿に入れポン酢あかるき良夜かな
一といふ字の潔き夜学かな
紅葉かつ散る空港の片隅に
菊の日の寺に裏口見つけけり
わけいつて山頭火忌の酒場かな
文殻のやうに蜜柑の皮を閉づ
理科室のうしろのストーブが匂ふ
実験のマスクがすこし驚きぬ
フラスコの沸騰を待ち山眠る
夜廻りのひとにちひさな橋があり
湯豆腐の波に豆腐のくづれけり
おほかたはわたしの上に降らぬ雪
まいにちの中に夜があり吹雪きけり
本に倦み二月の町をかなしうす
いつか返さうCDとマフラーと
船団がその闇にある寒さかな
火事跡は画廊の明さもて暮るる

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2. 海神(わだつみ)の裔(すえ) 青島玄武

寝転べばあまりに天の高きこと
芒原夕陽の舟となりにけり
梨を剥く日照雨のなかを蝶が舞ふ
寂しさは楽園にあり法師蝉
名月の踊り出さんとしていゐたり
七五三も昔のことと言ふ子かな
小憎らしき頬をつねれば冷たくて
秋麗の袖に隠るる腕時計
小春日やバスいつぱいの子供たち
やおとめは初めて雪をまとひけり
木枯らしの表へ出ろと引き出され
聖菓より少し大きな聖樹かな
年の瀬のくの字に座るお人形
曳猿が晴れ着の人を追い回す
ジヤンボ機の翼の下の玉競り
鶴舞ふや久遠のの尽くるまで
熱燗を胃の腑の奥で抱き締むる
嬰の手と握手する指寒桜
春水のはしやいでをりし水車かな
経由して茶となりにけり春の水
里の子が斑雪山へと登校す
体内へ降りる階段梅真白
寒戻る寒戻るよと烏啼く
山々は膝を崩して桜草
春コート風欲しがつてゐたりけり
花影の猫となりたる夕べかな
泣き叫ぶ子供のゐたり花の宴
花満てり水面の花の散るときに
散る花へ修羅と争ふ波濤かな
お小言のまあどつさりと春の風邪
父親が怪獣となる野の遊び
連翹や海へ海へと汽車は往く
どうにでもしてよと春の大根が
海神の裔の仔馬の生まれけり
唇が歌ふ形となりて夏
旅人に旅の小路や若葉冷
掌の山河を渡る螢の火
髪筋に指先沈む薄暑かな
冷房でご飯が冷めるラーメン屋
写真屋の声の太さよ夏の富士
人殺せさうな器や夏料理
マイクにて蚊に刺されしと発表す
鼻息の急に荒ぶる泥鰌鍋
薔薇の香を嗅ぐや爪先立ちとなり
梅雨寒の切手は丹念に舐むる
プール出て生まれ変はりし女かな
トマト掴む親指までも細き手が
白南風や波が客なる自転車屋
用件を指示しながらも髪洗ふ
観音の御影を包む深緑

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3. 山羊がゐる 青本瑞季

夏菊に閉ぢてまぶしき扉かな
南風散らかつてゐる子らのこゑ
貝殻の口を小さき蜘蛛わたる
花あやめ雨に紛るる鳥の足
梅雨晴の足波立たす団子虫
六月の書庫は階段匂ひけり
昼顔に白犀ほどの雲ありぬ
合歓の花おほきな水はよく流れ
えぞにうの腰折れてゐるところかな
白扇は後ろの森に陰りけり
煙草の箱夏痩の手をはみ出せる
その朝の海のごとくに曇る葡萄
濡れてゐる楽譜秋果の籠の下
虫籠のかたちの染みを風とほる
絵本閉づれば真葛原まで続く道
干柿に牧草昏くなりにけり
ぽつぽつと菌百葉箱の下
芒野の終はるまぎはの水飲み場
いななきに幕切れめける花野かな
おほらかに学生蔦の灯へ帰る
はつ冬の夢の合間を来る地震
絨毯に目覚めて舟と思ひけり
肉塊に糸の食ひ込む十二月
湯ざめしてみんなやさしい電話口
風邪気味よ歩みに鳩のちよつと飛び
初雪やサドルひと拭きにて乾く
冬ざれの盲点として秩父の牛
火事場帰りの胸元にペン差しなほす
倒木を容れぬ浅さに水温む
春の白鳥ひらがなの受肉とも
ぐつぐつと混みあへる夜の残る鴨
春の日に睡られずゐて湖を過ぐ
踏青の見知らぬ墓地に来てしまふ
蘖が幽霊よりもどつとある
汐干狩続けることの憎むに似
つぶ貝を焼けば電話を待つやうな
しんじつは日より冷たし干鰈
茶筒固くて永き日の座敷かな
からだぢゆうのみづがねむれりうららかに
花なづな鳥の足あと乾きつつ
羊蹄や汀てふもの川にもあり
たんぽぽの絮散る笛のもつれる音
パンジーの花ふてぶてし地を擦つて
白蝶よかぼそい泥の脚を上げ
とどまりて髪ぬるくなる虻の岸
春休四方がさぼてんにて座る
しだれざくら舟に届かず雨のなか
菜の花の中の蛇口の涸れてをり
黄水仙天国なら散らかつてゐる
春落葉懐かしさうに山羊がゐる

●

4. 消えろ 青本柚紀


砲錆びて芽吹きはじめの山を向く
この昼の囀の木であることよ
人がゐてミモザはいつまでも渚
川は流れて柳に触れし無数の手
電気ブラン飲みたし蝶に溺れたし
空腹に慣れて桜が白いのだ
たんぽぽの絮を奪へばひかりにきえる
春休読書のあとに釘打てば
食堂に溜まり春愁なき君ら
山のうしろははや花過ぎのけふである
花散らす力を沖に太宰の忌
見つめあふやうに新樹の明けてゆく
まつくらな門をくぐれば薔薇に着く
いちまいの葉をいくたびも迷ふ蟻
句は縦書き初夏の修道女のやうに
十薬の茂みを日々はひきかへす
泉見て四肢の時間のゆたかなる
女子寮に殖ゆる噂よ夏落葉
火蛾と火蛾ぶつかる夜を醒めてゐし
夏痩に渋谷の音の押し寄せる
箱の虫うごき夜学は力学へ
秋雨の受話器の奥の息づかひ
待てど来ず秋刀魚の骨を外したる
名月を山手線の廻りをり
通信の絶えて桔梗をまじまじ見る
大学へ傘が秋思が重なりあふ
束ねたる手紙信濃は霧の中
弦楽に林ひらけて秋逝けり
冬の噴水割れて一羽の鳥が発つ
いくたびも指が時計に触れ枯野
尽く冬の灯にして小さき部屋
そのことを問へば白息がちとなる
祝はれてゐて室咲のあをざめる
はばたきは微かに枯葦の日ざし
毛糸編む絵の少年と語りつつ
ふくよかな道にて竹馬のすすむ
枯枝を踏み折る空の深さかな
缶詰の尽きれば霜の声さやか
見せたしと思へば鴨がどんどん発つ
枯木まで来たり枯木を引きかへす
冬の木を書いた言葉で死ねるだらう
閉ぢてゆく森早春の声がある
蘖の幹いつまでも水浸くなり
永き日の座せばさざめく遠くかな
墓がある恋猫のゐたこの庭に
風船の力をゆふぐれに還す
月下細魚はだんだん白い鳥になる
今日までの山河を忘れたい辛夷
言ひ得ないことが菜の花より多い
新宿はすべて雑音 消えろ蝶

2016-02-21

【落選展2015を読む】 (1)「水のあを」から「梅日和」まで ……仲寒蟬 × 上田信治

【落選展2015を読む】
(1)「水のあを」から「梅日和」まで

仲寒蟬 × 上田信治



信治:
上田です。このたびは、仲寒蝉さんをお迎えして、「2016落選展」にご応募いただいた各作品を読み進めていきたいと思います。

寒蝉さんよろしくお願いいたします。

寒蟬:
よろしくお願いします。以前「里」でこのようにネット上の掲示板に書き込んで対談したことありましたね。なるべくうまくつながるように進めて行きたいと思います。

信治:
はい。掲示板対談なので、噛み合わい切ってないところはご愛敬で。

まずは、二人それぞれ、27人の方の応募作から、10作品を選びました。
僕も寒蝉さんも、27作を通して読んで、○の多かった10作品をピックアップしています。


寒蝉10作品選

1.青木ともじ  「水のあを」
3.青木瑞季  「鰭の匂ひ」
4.青本柚紀  「飛び立つ」
6.上田信治  「塀に載る」
7.大塚 凱  「鳥を描く」
15.北川美美  「梅日和」
20.高梨 章  「明るい部屋」
22.堀下 翔  「鯉の息」
27.利普苑るな  「否」
28.小池康生  「一睡」

信治10作品選
1.  青木ともじ  「水のあを」
3.  青本瑞季 「鰭の匂ひ」
4.  青本柚紀 「飛び立つ」
7.  大塚 凱  「鳥を描く」
14. 仮屋賢一 「鷲掴む」
19. 折勝家鴨 「塔」
20. 高梨 章  「明るい部屋」
22. 堀下 翔  「鯉の息」
27. 利普苑るな 「否」
28. 小池康生 「一睡」


信治:
なんとそれぞれ10作中8作品が、同一になりました。寒蝉さんは、本選の審査員と同じく、作者の名前を隠して、読んでいただいたんですよね。ぼくは、作者名を隠さず読んでしまったので「この人だったら」「この人としては」とかそういう観点も入ってしまったかも知れません。

寒蟬:
それにしても、私の中には信治さんの作品が入っているからそれをのぞくと、8/9まで一致してしまったんですねえ。

信治:
堀下・大塚組もふくめてのこの一致は、ちょっと予想外でした。寒蝉さんと僕、あるいは彼らと、そんなに俳句観が一致する方でもないでしょうにね。

寒蟬:
ただ、「里」で牙城と一緒に選をしていて、こいつとは全然価値観も経験の内容も違うはずなのに、現に取る句も大分違うのに、或る部分だけはかなり共通しているという経験をよくします。

これは、俳句に対する考え方は微妙に異なっていても所謂「取れる句」というものは、一定レベル以上の俳句経験を有する者の間でさほどずれはしない、ということではないか。年齢や経験年数は大して関係なく。そう思うのです。

信治:
二人の選んだ12作を鑑賞し終わったら、せっかくですから、他の作品についても、取った句、感想などを書いていきましょう。


1. 青木ともじ 「水のあを」

寒蝉選
スティックシュガー音たてて出る立夏かな
青葉風ベンチはひとつづつあけて
繁華街の色をしてをり夜の金魚
ハンカチを返すとき手をすこし高く
重力のかすかにありぬ花野道
集金の人と小鳥の話など
秋の蚊をしばし相談して打ちぬ
冬めきて本の挿絵の蓄音器
地球儀は高いところへ煤払
背もたれに余るコートの長さかな
風光りチーズケーキは砂丘めく
喰ふ舌の先まで恋の猫である
田楽を串の出でゆく力かな

信治選
スティックシュガー音たてて出る立夏かな
風にほぐるる鹿の子の耳の先
犬ゐれば声をかけけり黄落期
背もたれに余るコートの長さかな
人日やただまつすぐにバス通り
みな同じ岩を踏みゆく磯遊び

寒蟬:
実はこの50句はけっこう評価の高かったもののひとつです。

最初の2句は気持ちよく入れました。

全体的に上手い感じはしましたがあまり冒険した感じはなかった。「集金」や「本の挿絵」みたくさらっと詠んだように見える句にいいのがありました。

反対に「花の野の果て」はまどろっこしくて成功していないし「イオマンテ」がいきなり出て来るのもどうか。「亡国の名の酒場」は何か言いたそうなんだけど伝わってこなかった。

信治:
「スティックシュガー」や「鹿の耳」の感覚的なよろこび。「コートの長さ」、まっすぐな「バス通り」、磯遊びのみんなが踏む「岩」……「ベンチ」「待ち針」の、ちょっと正確な把握。

ただ、ある範囲のなかで詠まれているという、物足りなさはある。

悪くなくて「ほどがいい」。でも、ものすごく「ほどがいい」というところまではいかないので、そこはやや残念かも。安全な作り方を離れて、言葉自体になにかさせようとすると、まだちょっとうまくいかないというか。

あと既存の俳句にある作り方ですけど、「力」とか「温度」とか言って、なにか言ったような感じになってる句は、もういいんじゃないかという気がする。

ぼくのイチオシは、
風にほぐるる鹿の子の耳の先
みな同じ岩を踏みゆく磯遊び
この二句なんですけど、青木さん自身を、いちばん喜ばせるのはどういう俳句なんだろう。いろいろ作れてしまっているので、この50句からはそれが少し見えにくい。

寒蟬:
まあ器用なんでしょうね。色々と出来てしまう。だから「これ」という句が見当たらないのかもしれません。

「磯遊び」はいい目の付け所だけれど同工異曲の句があるような気がします。「鹿の子」の方がオリジナリティがありそうです。私のイチオシは先にも少し触れましたが
集金の人と小鳥の話など
冬めきて本の挿絵の蓄音器
かな。
風光りチーズケーキは砂丘めく
も好きでしたがどこか櫂未知子さんの「南風吹くカレーライスに海と陸」を思い起こさせるところが不利ですね。

「力」確かに重力入れると2句も出てきている。でも田楽の句とか悪くはない。

信治:
ちょっとだけ概念をかませて一句というレトリックですよね。近年かなりたくさん試されてる気がして、僕は食傷気味に感じました。


3. 青本瑞季 「鰭の匂ひ」

寒蝉選
三月のひかりに壜の傷あらは
涅槃の日鸚鵡少女の声を出す
藤房は垂るるものなり足もまた
蛍烏賊青菜に目玉こぼしをり
惜春の傘襞深く閉ぢらるる
言葉より疾し目高の逃げゆくは
耳栓のうちに大暑の機械音
きちかうの高さを煙とほりけり
毛糸玉とはもう言へぬ平たさよ

信治選
三月のひかりに壜の傷あらは
雪解川遠くの橋の昏くあり
蛍烏賊青菜に目玉こぼしをり
麦秋や絵に神々の憎みあふ
水かげろふ日傘のうちを照らしけり
涼しさや龍をふちどる金ひとすぢ
炎天をかりかりと蝶登りをり
劇場の裏の木屑や小鳥来る
きちかうの高さを煙とほりけり
玻璃すこしみづに汚れて秋の声
藻は水の流るるかたち雁渡し
白菊に喉の渇きを思ひ出す
枇杷の花牛乳揺らしつつ帰る
毛糸玉とはもう言へぬ平たさよ
林開けて向かひあはずに椅子がある

寒蟬:
4句重なりましたね。

信治:
イチオシはどれですか?

寒蟬:
毛糸玉とはもう言へぬ平たさよ
かなあ・・・。毛糸玉をこんな風に詠んだ俳句を知りません。毛糸玉=球体という常識をさわやかに覆してくれました。
三月のひかりに壜の傷あらは
50 句揃えるとなると最初の5句くらいはとても大切です。ここにいい句がないとあとは読んでもらえません。その意味でこの1句目は成功している。まだ春浅いけ れども徐々に強くなっていく日光に、壜の細かい傷が浮かび上がって見えるのですが、それを掬い上げて俳句にする感性は非常に繊細なものです。「あらは」と いう止め方も上手い。
涅槃の日鸚鵡少女の声を出す
涅槃会との取合せに驚いた一句です。鸚鵡が人の声を出すというのは当た り前でしょうが、敢えて「少女の声」と言うことで妙にリアリティーが出て来る。涅槃会というと釈迦の入滅を悲しむ衆生の泣き声とか動物たちの咆哮といった詠まれ方をすることが多いけれど、この鸚鵡の声はちょっとずらしてあって意図が読めないだけに不思議な句となっています。

信治:
三月のひかりに壜の傷あらは
光線、瓶、傷という組み合わせは、ちょっと常識的。なので、この句には全面的に賛成というのではないですが。瓶の色、書いてないけど緑色のような気がするんですよね。「三月」の芽吹きのイメージにひっぱられて、だと思うんですけど、そこが面白かった。あと「傷あらは」に、すこし心理的な思わせぶりがありそうで、このナイーブさは、プラスにカウントしましょう。
雪解川遠くの橋の昏くあり
明るさと音に包まれて、遠くの橋という、小さくて動かないものが「昏い」。
この対比、見え見えと言われればそうかもしれませんが、自分も橋の上にいて、上流の橋を見ているのかな、と思うと、ほんとうにその明るさにあらがうようにして、昏い橋を見つめている本人が、浮かび上がってくる。
蛍烏賊青菜に目玉こぼしをり
あーあ、っていうねw これ、かなり好きですね。
毛糸玉とはもう言へぬ平たさよ
これは、認識の句ですね。こういうのは無季句で作るといいと思うなw
林開けて向かひあはずに椅子がある
椅子が2つあるわけでしょうね。そこを言わないことで、心理的なことを伝えるてるのがいいな、と思いました。

ボキャブラリーが俳句の埒内にあるので、分かりやすく見えますけど、この人の本丸はたぶんかなり理解しにくいような心理的なところにあって、繰り返しにな りますけど、それが抑制されつつ見えている感じが面白い。ヒリっとくる痛みがある。内面的になりすぎないように選ばれたであろう抑制された書き方、モチー フが、心理的なものに力を与えていると思いました。

寒蟬:
傷の少ない50句という感じでした。ただ
鰭の匂ひか南風蔵の中へ入る
という表題の句、「鰭の匂ひ」の表現は面白いけれどどうかなあ。詰め込み過ぎの気がしました。結局「みなみ風蔵の中へと入りにけり」に「鰭の匂ひか」をくっつけただけで、そのくっつけ方があまり成功していないような。

「蛍烏賊」いいですね、私も好きです。「惜春の傘」はやや狙いが見える気もしますが何とも言えぬ陰翳がいい。

信治さんの感想とダブるかもしれないけどこの作者は光と影の両方に惹かれながらもより良い部分は影の方にあるのかもしれないと思ったりします。レンブラントほど強烈ではないが光と影のメリハリを感じました。


4. 青本柚紀 「飛び立つ」

信治選
鳥飼つて二月の空を明るくす
蝶よりも薄く図鑑の頁あり
風船に透けて十指のふかみどり
木の芽風つよし病棟より出れば
鳥なくて鳥の巣に日の真直ぐなり
紫となりて鳩発つ晩夏かな
雪の木に雪を解かさぬ光かな
嘘よりも口は小さし水仙花
鳥の骨春風に満たされてゐる
たとへば刃蛇這ふ音の重さとは
夏川に冷え千層の岩なりき
ふと遠いひとと白鷺と飛び立つ

寒蝉選
鳥飼つて二月の空を明るくす
風船に透けて十指のふかみどり
鳥なくて鳥の巣に日の真直ぐなり
目を閉ぢてをれば眼の浮く五月
夜店てふ小さき牢のごときもの
みちのくの林檎しづかに尖るなり
手の冷えを重ね遠くに巴里のある
嘘よりも口は小さし水仙花
冬の川舌のごとくに夜が来る
四五匹のみんな恋猫みな濡れて
駆け抜けて胸の高さに夏の草
馬を彫る泉につけて来し両手
よく鳴る森木に空蝉の夥き森

信治:
「木の芽風」の句、倒置法によって、明暗の明にはっきりウェイトをかけて、かつ、その明るさの過酷さを暗示している。暗いものの内部にいた自分が明るさにさらされて、今度は自分の内部にその暗さの残響を抱え込んでいる。

他にも「紫と」「嘘よりも」「鳥の骨」「たとへば刃」など、わりと力技でポエジーを説得してしまう剛腕に、魅力を感じました。

寒蟬:
鳥飼つて二月の空を明るくす
50句の始まりとしてまことに明るく余韻に富んだ俳句。これなら句集の巻頭句としても行けそうです。信治さんの「明るさの過酷さ」という把握はすごいなと思いました。二月の痛々しさみたいなものが表面でなく深い所に蔵されているからかもしれませんね。
風船に透けて十指のふかみどり
なるほど風船を透かして見るとその向こうに持っている手の指が映っている、そういう経験はあります。しかしその指を「ふかみどり」と看破した感性は真に鋭い ものがあります。全然そうは思わなかったけれど、こう言われてみればそうかもしれないと思わせる強さがこの表現にはありますね。
たとへば刃蛇這ふ音の重さとは
これは私には成功しているとは思えませんでした。「刃」は鋭いでしょう?蛇の這う音はどちらかといえば鈍い。作者自身も「重さ」と言ってしまっている。これは矛盾ではないでしょうか?
四五匹のみんな恋猫みな濡れて
うまいなあ。「みんな」「みな」のリズム感。恋猫たちのそれぞれの姿態が見えてくるようです。
駆け抜けて胸の高さに夏の草
こう言う句は若い人、それも女性にしかできないんじゃないか。年とると駆け抜けられないんですよ。それに男は「胸の高さ」を感覚よりも理性的に理解しますが女性は感覚的に感じるんだと思うんです。それはひとえに乳房のあるなしによるのかもしれませんね。
馬を彫る泉につけて来し両手
この句には驚きました。彫刻家でもない限りいきなり「馬を彫る」とは言えないでしょう。しかも「泉につけて来し両手」が妙に生々しい。実際にやったことのある人でないと詠めないんじゃないかと思わせる臨場感があります。

信治:
ドスがきいてるんですよねw迫力がある。下五に重心の来る句が多くて、流した言い方をしない。

モチーフも一貫性があって、こう、かたちを与えたいものが、もどかしくありますよね。たとえば簡単にことばを与えしてしまうと、それはこの人だけのものではなくなってしまうような性質のモチーフがある。だから、心理的はものは、苦闘の跡をとどめてもどかしくなる。
鳥飼つて二月の空を明るくす
二月の空はもうだいぶ明るいんじゃないかと思うんだけど、それを意志で明るくすと言わせるのは、なんだか鳥のようなものを抱え込んでしまっている本人の内面の事情でしょう。
風船に透けて十指のふかみどり
これ、風船をわしづかみにしてるんですよね。そして手放せないで、ただ持ってるw この動作から伝わるものがあります。
たとへば刃蛇這ふ音の重さとは
この音の重さは、斬られちゃってるわけじゃないでしょうか、効果音つきで、自分がw
鳥の骨の句と並んで大げさといえば大げさ。でも、ガンガンいけばいいと思う。
夏川に冷え千層の岩なりき
好きな句です。
ふと遠いひとと白鷺と飛び立つ
この不安定なリズム、若い世代の共有財産になりつつある。絶句すれすれで13音目までたどりついて、間白が入るから、飛べるんですね。


6. 上田信治 「塀に載る」

寒蝉選
寒晴のかばんの蓋の磁石鳴る
夜の梅テレビのついてゐるらしく
空はいつもの白い空から花の雨
白きもの食べれば独活や雨の香の
一人は立ち一人はしやがみ梅雨の浜
炎昼に半月がありずつとある
自転車の錆びたベルから秋の蝶
ワイパー二本に軍手引つかけ雲の秋
たてものに秋の公孫樹の影はんぶん

寒蟬:
本人を前に言いにくいんですが、この50句最初の掴みが弱い気がしました。まずぐいと作者の世界に引きずり込む強引なほどの力を感じなかったんです。
寒晴のかばんの蓋の磁石鳴る
ただこの辺になってさりげない日常のさりげない、見逃してしまいそうな事物にこの人はていねいな目を向けているなと感じさせ好感を持つようになります。ここまで来て振り返ると2句目の「濡れた板」も結構面白く思えてきます。
夜の梅テレビのついてゐるらしく
不思議な梅の句です。伝統的な「梅の香」を全く感じさせない。どちらかと言えば視覚からのアプローチですね。梅を視覚から詠むのは大抵昼間です。だって夜は 見えないんだから。それで「夜の梅」と言えば嗅覚の句になってしまうんです。でも作者は「テレビのついてゐるらしく」と言うことでほんのりした明るさを持ち込んだ。これが夜の闇に浮かび上がる梅の白さを感じさせる仕組みです。「らしく」なので本当にテレビがついているのか分からない。ちょっと変わった見立ての句のようになっています。
空はいつもの白い空から花の雨
「空」と言う語の繰り返しが眼目ですね。しつこい、余計だと思うか・・・。現に最初の「空は」を取っても意味は十分通じますから。ただこの「空は」が一句全体をそれこそ空のように包み込んでいると取ると俄然素晴らしい表現に思えてくるんですよ。
白きもの食べれば独活や雨の香の
このレトリックはすごいなあ。「や」で「あ、何かと思ったらこの白いものは独活だったんだ」という驚きを表わしていますし、最後の「雨の香の」と言う付け方、余韻を持たせた終わり方は実に心憎い。
一人は立ち一人はしやがみ梅雨の浜
これ、いいですねえ。よくある風景だし、何も特別な言葉は使っていない。でも立ってる人としゃがんでる人、2人が浜辺で何らかの関係を持って関わり合っていて梅雨の雨が風景全体をけぶらせている、そういう一幅の絵が有無を言わせぬ実在感を以て立ち現われて来るのです。
炎昼に半月がありずつとある
これもよくある風景をちょっと変わった表現で描き直して見せた句ですね。先ほどの「空」の繰り返しや「雨の香の」のダメ押しにも似て「ずつとある」が使われている。意味を伝えるのなら上五中七だけでいい訳ですよ。でも作者は「ずつとある」と言わずにはおられなかった、言いたかった。この措辞によってはかな 消えそうな真昼の半月が永遠に詩の上に定着されたのです。
自転車の錆びたベルから秋の蝶
これはちょっとした驚きを掬い取った俳句らしい俳句。「錆びたベル」がリアリティーを高めています。ただ「錆びた」と「秋の」が付き過ぎかも知れない。
ワイパー二本に軍手引つかけ雲の秋
ありますね、ワイパーに軍手をひっかけてある光景。でも「ワイパーに」でなく敢えて字余りにしてまで「ワイパー二本に」とした細部描写にこの作者のこだわりを感じます。「雲の秋」という聞きなれない下五の表現が細部から一気に大きな空間へと読者を持って行く、そこが見事です。
たてものに秋の公孫樹の影はんぶん
この句の眼目は「はんぶん」でしょうね。「たてもの」という漠然とした、いい加減な表現の後に妙に正確を期したような「影はんぶん」を持ってくる。そのギャップがおかしい。作者は大真面目でも読む側はくすっと笑ってしまうんです。

信治:
ていねいに読んでいただき、本当にありがとうございます。

角川「俳句」掲載の作品も含めて、候補作を読ませていただいて、思ったんですけど、50句を通じて、その人のやっていることの文脈が伝わるかどうかということは、重要だなと。
自動車はシンメトリーで冬の海
日のひらめく海の若布を食べにけり
空はいつもの白い空から花の雨
著莪の花つめたいペットボトルかな
ねぢ花を見てゐる顔や空の雲
芋虫のまはりを山の日が透きつ
今回の50句で、僕が勝負に行ってるのって、このあたりの句なんですけど、必ずしもwそれは伝わってないんだろうなと。そういう意味での、力不足だなと。

読む側あるいは選ぶ側としては、今、俳句を、作家それぞれのコンテクスト抜きで読んで評価しようとしたら、単なる技術的評価か好みの押しつけになる。技術と好みだけでは、こういう賞のような共通領域としての俳句の場を成立させることが、できないんじゃないか。

一句一句ではなく、作家と出会うためには、句会とは違った「読み」筋が必要なのではないかと感じます。

寒蟬:
それは賞というものをどう位置付けるかでしょう。

角川俳句賞はいちおう新人賞的な位置づけらしいので一番は作者の将来性を見るのでしょうが、それが言葉ほどたやすくはないのですね。だって「こいつは将来性がある」って、仮令50句並べたからってどこまで分かりますか?

私はやはりまず1句1句をきちんと読んでいって、そこから立ち上る作者の世界観みたいなものを感じ取り、それを評価するしかないと思います。

例えばすごくまとまったかっちりした世界を提示する人もいるでしょう。反対にどっち向いてるのかわからないような、でも1句1句は面白いという独特の世界を見せてくれる人もいるかもしれない。それはどちらがいいとかどちらを勝ちとするかでなく、或るときは甲をよしとし、或る時は乙を、その判断基準はある程度相対的なもの、言ってしまえば「作者による」ものではないか。曖昧かもしれませんがそう言う他ない気がします。

それに作者の意図なんてそのまま読者に伝わる筈もないので・・・。

例えば信治さんが挙げた
自動車はシンメトリーで冬の海
日のひらめく海の若布を食べにけり
空はいつもの白い空から花の雨
著莪の花つめたいペットボトルかな
ねぢ花を見てゐる顔や空の雲
芋虫のまはりを山の日が透きつ
ですが、これらは必ずしも私にとって50句の中で光っている句ではありませんでした。自転車の句は「可愛くない子供で春の夕焼で」にも使われている「で」という語の使い方に違和感を感じましたし、「日のひらめく」はこの作者のいい部分とは感じられなかった。

この中ではすでに述べたように「空は」が圧倒的にいい。そうしてこの句の差す方向は「雨の香の」とか「ずつとある」と共通しているという私の考えは変わりません。

信治:
ぼくは実は、新人賞は、将来性を見るものでも、達成度を見るものでもないと思っているのですが。ま、そこは長くなるかもなので、後編にとっておきましょう。

寒蟬:
新人賞に対する信治さんのご意見をぜひ後半にでも聴かせていただきたい所です。私もいちおう新人賞(本来50歳未満のはずなのに諸事情でいただいた芸術選奨文部科学大臣新人賞というやつ)を戴いたばかりなので、自分の中でこの「新人」の意味をどう考えようか悩んでいましたから。

信治さんの 50句は各句の観賞の部分でも触れましたが「ダメ押し」感が際立っている気がします。そこが作者の行きたい方向かなと思った訳です。デフォルメされた細かさというかしつこいくらいの細部表現。そうは言っても所謂写生の細かさとは違って、画家がモデルを別の角度から見て筆を足すような、やっぱり「ダメ押し」 というのが一番近い。
さっき違和感を感じたと言った「・・・で・・・で」という表現もそこから生まれて来る訳ですよ。

でもこういう所を追求して成功するととても面白い世界が開ける気がします。「空は」の句なんかはそういう面白さを垣間見せてくれてるんじゃないかな。

信治:
五七五は言葉のはめっこになりがちなので、意味的にも言葉的にも、過不足なくはめるのではなく、わざときれいに収まらないようにはめるということを考えています。その結果としてのだめ押し感、たしかにそうかもしれません。

ていねいに読んでいただき、感じ入りました。
ありがとうございます。


7. 大塚 凱 「鳥を描く」

信治選
冬晴の赤い実があり怪しい実
冬帽のてつぺんどうしても余る
受験子が駅のおほきな風に立つ
冷蔵庫ひらき渚に立つこころ
割箸にくれなゐ残る子規忌かな
鶏頭の襞の深きを蟻が這ふ
おでん屋のテレビの中を兵歩む
小雨ならコートに光る逢ひにゆかう

寒蝉選
太陽はもはや熟れごろ初詣
冬帽のてつぺんどうしても余る
残雪の厚みの辞書を父より享く
いもうとをのどかな水瓶と思ふ
パンジーも選挙事務所も消えてゐる
何の木と知らねど夕焼に似合ふ
眼は次の草を見てゐて草むしり
水に影おとさぬ高さ鬼やんま
おでん屋のテレビの中を兵歩む
古暦つまり風葬ではないか
しんしんと大つごもりの油濾す
夢の島除夜のおほきな闇が来る

寒蟬:
一番安定している感じがした、というか安心して読めた50句でした。まんべんなくいい句が配してある。いやそうじゃなくて意図的でなくとも結果的にいい句が散りばめられる形になる、ということは実力があるのでしょうね。

最初にぐっと惹きつけておいて中弛みもなく最後もきちっと締められれば50句としては大成功ですから。

信治:
オーソドックスな感情入りの叙景と、そこに一つジャンプを飛躍を入れで書く、という、二つのメソッドで、書かれている、と見ました。

オーソドックスなほうは、着眼とか感情がすごく普通。「受験子が」とか。

飛躍のあるもののほうが、ぼくは楽しい。そのジャンプによって、書かれる前には気づかれていなかった感情に到達したよう見えるものもあった。「冷蔵庫ひらき」とかw

書く前から分かってたところに着地するタイプの句が多く見えたのは、「賞」に出す作品だからかもしれませんね。

ちょっと首肯しがたい行き方の句もあって。
太陽はもはや熟れごろ初詣
残雪の厚みの辞書を父より享く
「もはや熟れごろ」「残雪の厚み」は、単なる言い方ではないか。こういうのはなんとなく信用できないw

寒蟬:
「太陽は」「残雪の厚み」は技巧に走り過ぎたきらいがあるので胡散臭さが拭えないという向きもあるかもしれませんね。私はこういうレトリックもありだと思いました。

ただ
母の日の父と来てゐる楡のかげ
はないなあ。狙いが見え透いてしまう。
不平等なからだと紺の水着かな
の「不平等な」も才に走り過ぎた感がある。

信治:
寒蝉さんの評価されたポイントは、どのあたりですか?

寒蟬:
一方で「太陽は」とか「いもうとを」のような意表を突いた才気煥発さを示しながらも、冬帽子のたしかに余ってしまいがちな天辺に気付いたり、パンジーは花時が終わることによって、選挙事務所は選挙が終了したことによって消えてしまうという、そういうありふれた日常の中の「おっ?」と思う出来事にちゃんと注目して一句に仕立てる力量がある作者だなと感心したわけです。

信治:
ここで寒蝉さんの言われる「日常」は、人間の生活意識で見る世界、ということですよね。人間の平常運転の世界。

それは、禅僧が太い字で「日々」と書くような人間の究極層としてのそれとは対極にある、なんというか、ベタな日常意識。そういう人間の普通の感情に詩を見出すっていう行き方もたしかにありますよね。たしかに、ありなんですよ。
受験子が駅のおほきな風に立つ
単なる「共感」のやりとりのレベルで書かれ読まれて消費されてしまうのではないか、という危惧もあるのですが、でも、このちょっとしたやさしさには、ちょっと奥行き感がある。
割箸にくれなゐ残る子規忌かな
あんまりいい割り箸じゃない。でも、健啖のかなしき子規の忌であれば、供養と思って美味しく食べてやろうという。ちょっと構図にはめたおもむきもありますが、いい句ですよね。

寒蟬:
「人間の生活意識で見る世界」そうです、そうです。詩なんかなさそうなところに詩を見出すのが俳のこころなんじゃないかと常々思っているのでこういう書き方になってしまいました。

受験子の句は風を「おほきな」と感じたところに眼目があるのでしょう。その一点においてのみ日常から少しはみ出ている。

割箸の句は何か(例えば紅生姜)をつかんだ時の紅色が箸に残っていると気付く、その「おっ?」という感じを掴み取ったところが手柄。ただし紅=赤から喀血した子規につなげるのはちょっとイージーかな。

冷蔵庫の句は最後の「こころ」が要らないなあ。

信治:
今回、作品を寄せてくれている、青本姉妹、大塚、堀下、宮﨑さんは同学年で、寒蝉さんも所属している「群青」のメンバーですよね。僕は、彼らのこれからをとても楽しみにしています。

彼らはいわゆる「石田郷子ライン」的限界(という話を最近また蒸し返しているのですが)の内にいることを、拒否しようとしているのではないか。それは、角川俳句賞的には、取りにくくなるほうへダッシュで駆け出すような方向性なんですが。大塚さんのこの50句は、多少、賞というものに対する気づかいがあるような気がする。

でも、
冬晴の赤い実があり怪しい実
冷蔵庫ひらき渚に立つこころ
小雨ならコートに光る逢ひにゆかう
といった句にあらわれる、語操作の恣意性とでも言うべきもの、わがままな書きぶりに、僕は、今後何年か分の、俳句の可能性を感じます。

寒蟬:
信治さんの言った「賞というものに対する気づかい」は「角川俳句賞の応募作なんだからいい句を揃えてやろう」という気概でしょうか。まあ応募するからには皆そういうものは抱いている訳ですが、信治さんの言いたいのは「敢えて自分の行きたい方向性を曲げてでも」という意が籠められているのでしょうか?私自身、他の人の作品と比べて確かにこの作者は実力があるんだからもっと冒険してもいいのでは?という感じがしないでもなかった。

若い人にはまずは自分の俳句でできる最上と思われる世界を構築することに全力を傾けよ、と言いたい。その上でそれが賞を取れれば素晴らしいこと。取れなくても自分がやりたいこと、表現したい世界が書ききれていればそれでいいいじゃないか。私は句会でもそういう気持ちで投句していますので・・・。角川俳句賞に応募した時は その気持ちにぶれはありませんでした。


14. 仮屋賢一 「鷲掴む」

信治選
新緑や鬣かたきチェスの馬
小道具のパンはほんもの聖夜劇
勝独楽の立ちたるままを鷲掴む
万札の上に銭投げ残り福
春の日や吊りて仕舞へる一輪車
花水木けふは午後よりはじまる日

信治:
これらは、句意がよく分かる、誰にも異存はなかろうという句。

物を、感覚情報の提示によって、はいこれ、と見せる。「鬣固き」とか「パンは本物」とか。で、それは同時に、人間の関わる場面だったりするので、そこで「感じるべき内容」も明確。

どこも悪いところがない。というのは、1の青木さんや7の大塚さんの句からも感じたことです。ただ、もともと打率の上がりやすい作り方なんだから、こういう書き方なら百発百中であってほしいという気もします。

百発百中が実現すると、その先に、誰も書かなかったような句とか、自分も二度と書けないような句が、ぼんぼん出るようになるんじゃないかと。そこからが書き手としての勝負かな、と。

寒蟬:
10作には入れていませんが、取った句は
新緑や鬣かたきチェスの馬
大学の鬼門に実家天の河
セスナ機も花野もおなじ風のなか
終ひには紐いきいきと猿まはし
春の日や吊りて仕舞へる一輪車
水性の朧油性の朧かな
あのー、ちょっと厳しいこと書きますけど、例えば
方違して竹馬を片付けり
古暦すこし汚してより捨てり
人日のニュースは人を呼び捨てり
「片付く」「捨つ」を他動詞として使う時は下二段活用ですから、持続・完了の助動詞「り」は四段活用の命令形とサ変の未然形にしか付かない訳ですよ、絶対に。だからこれらの句は文法的に間違っている。

賞に応募する時やっちゃいけないこと、そりゃ剽窃は論外として文法の間違いと仮名遣い、漢字の間違いです。そこをクリアしていない作品を読む必要はない。時間がもったいないですから。

信治:
そうか。片付けり、捨てり、は、まずいですね。

なんとなく表現の収まりが悪いなと思ったら、「俳句検索」 のページで、言い回しを検索してみたりするといいですよ。作例がなかったり、少なすぎる言い方はあやしい。 

寒蟬:
それと、表題になっている
勝独楽の立ちたるままを鷲掴む
ですが「鷲掴みにする」とは言うけれど「鷲掴む」という動詞はあるのか?「夕焼くる」という表現ですら、有名な俳人が何人も使っているにも拘らず認めないとおっしゃっている俳人もいる。況してや「鷲掴む」はダメでしょう。

信治:
鷲掴む も、たしかにまずいか。鷲づかみにする、とか、鷲づかみに掴む、という言い方ができるわけですからね。これは、選んで申し訳なかった。

でも、この句の語勢はとてもいいので、なんとか推敲してものにしてほしいです。


15. 北川美美 「梅日和」

寒蟬選
隣人に挨拶をする梅日和
春風や拳は素手で作るもの
野を焼いて水を飲み合う男たち
昼つづく昼の麦酒を開けおれば
隕石を重し重しと十三夜
駅伝のテレビに映る近所かな
初場所のひかりをはなつ水と塩
駅伝のテレビに映る近所かな
初場所のひかりをはなつ水と塩
夏の馬川がひとつになるところ

寒蟬:
隣人に挨拶をする梅日和
いきなり表題の句を持って来た。題をどうするか?というのは結構大切だと思うんです。それが代表句であろうとなかろうと、いわば50句の顔になるのですか ら。その意味でこの第1句はよかった。気負っていなくて、他人への優しさもあって、これから始まる作者の俳句世界への誘いの句になっている。
春風や拳は素手で作るもの
「拳」という堅そうな怖そうなものと「春風」という柔らかく優しそうなものとの取合せ。俳句らしいと言えば言えるけれど、あまりわざとらしさを感じない、それは「拳は素手で作る」というアホらしいほど当たり前のことを言挙げされて、そっちに意識が行ってしまうからなんでしょう。
野を焼いて水を飲み合う男たち
これ、いいですね。野焼の光景が活写されている。野焼というイベントは確かに男のするものかもしれない。火の熱と流した汗のために喉が渇いて水をがぶがぶ呑む男たち。「飲み合う」という表現の中に連帯感を感じます。

信治:
隣人に挨拶をする梅日和
この句は、「隣人」という言葉があまりに概念的で悩みました。。わざと日常意識の雑さみたいなものを、無造作なざらっとした言い方で表しているのかなあ、と。 日用雑器のよさというか。「暖房や硝子に映る我等あり」「怪我をした男に運ぶ氷水」なんて句もあって、氷水はかき氷なんで、季語じゃないんですけど、
春風や拳は素手で作るもの
舟底より水面は高し燕子花
当たり前のこと言ってるシリーズ。でも、かすかな発見はある。
拳にしても、素手は素手だし。(虚子の「闘志抱きて」や、敏雄の「義歯確に」をふまえてるんでしょうね)。

乗っている自分たちの重さで(とは書いてないけどそうだと思う)舟底がさらにすこし低くなっていて、水面よりすこし自分の尻が低いという実感。
歩き来て足が真つ赤ぞ鳥曇
鉄橋や高きを揺れる山の藤
夏の馬川がひとつになるところ
いいですね。世界が安定してて。

予選でそんなにたくさん○をつけたわけではないんですけど、いただいた句は、味があるなと、思いました。

寒蟬:
いや、「隣人」でそんなに悩む必要はないのでは?もちろん「汝の隣人を愛せ」というイエスの言葉にあるような使い方もあるのですがこの場合は普通に「お隣のおばさん」くらいでいいのでは?

信治:
考えすぎでしょうか。僕は俳句で「隣人」てすごく使いにくいです。怪人と同じくらい使いにくいw

寒蟬:
頭を上げて啼く鳥を見る春の昼
この「頭」、「づ」と読ませるのかな。それはやめてほしい。字余りでいいから「あたま」と読ませてほしいなあ。

「舟底より」の句、私もいいと思いました。でも「燕子花」を付けられると「ああ、潮来の水郷巡りね」とオチが付いてしまってつまらない。


(後編につづく)


2016-02-14

【週俳1月の俳句を読む】青木ともじ 毎日があって

【週俳1月の俳句を読む】 
毎日があって

青木ともじ


太初には大陸ひとつ初御空    仲 寒蟬
伊勢海老のあかあか父と正対す  齋藤朝比古

その大陸はパンゲアという。世界地図を開くと、現在のアフリカ大陸西岸と南米大陸東岸がパズルのように組み合わさることに気付く。これが大陸移動説発見の先駆けとも言われる。大陸の集合と離散は実は周期的に繰り返されていて、これをウィルソンサイクルという。ウィルソンサイクルは気候とも相関しており、大陸が集合している時は寒冷化し、離散するときは温暖化する。そう考えると、パンゲアがあったころの初御空は今よりもっと寒々としていたのかもしれない。地表も辺り一面凍りついていたかもしれない。太初の大陸へのロマンは、現在の空と遠い過去の空を繋ぐ壮大なものだ。「太初」「大陸」「ひとつ」という余分なものを極限まで排したすっきりとした表現は、眼前の青空を突き通すほどに潔い。

父はそんな小難しい話を自慢げにする人かもしれないし、或は常に寡黙な人かもしれない。いずれにせよ、父と息子の間の関係というのは独特なものがある。いま、おせち料理だろうか、姿のままの伊勢海老を挟んで向き合う父子。普段は食事を一緒にとることも少ないのかもしれないが、すこしぎこちない二人がそこにいる。「あか」という色は難儀な色だ。情熱の色だったり警戒の色だったり。二人の間の「あか」は何を象徴しているのだろう。

一刀で首刎ねられて初寝覚    滝川直広
元日の愚かに過ぎぬ茜雲     岸本尚毅

なんとも冷やりとする初寝覚。終わりで始まるなんて縁起がわるくないか、いやむしろ一刀で刎ねられる潔さは心地よいほどだ。きっとこれは死ではなく転生。おめでたいに違いないと、そう感じたのかもしれない。前向きにいきたい、そんな一句。

おめでたい元日も結構なことだが、あまりに平凡な元日も良いものではないか。特に特別なこともしない元日。愚かに過ぎたのは自らか茜雲か、そんなことはどうでもいい気持になって、満足してしまう。茜雲が綺麗だったからそれでいい。こんな元日があってもいい。

元日をおめでたく過ごすか否かは、結局その人次第だ。おめでたくてもそうでなくても、元日という日を楽しめるのが俳句の良さだ。

海にどこか燃ゆる匂ひや初写真
   今泉礼奈
釦に糸頼りなし春遠からじ

新年に友人と出かけて、海を背に撮ってもらう写真。視線はカメラを向きながら、背中で海を感じている。漠然と、でもその漠然とした全てを背中で探っている。感覚的手探りである。「燃ゆる匂ひ」は作者の内なる情動なのかもしれないし、あるいは心象風景の中の海の匂いなのかもしれない。「燃ゆる匂ひ」を感じた作者の一年は明るいものになりそうだ。いま、カメラのレンズには、確実に新年の海光が映っているだろう。

カメラを向きながら何気なく触ったコートの釦がゆるい。気になる。確かめるように、そしてすこしだけ控えめに、引っ張ってみたりする。頼りないと言いながらもそこには確かな釦の手触りを感じている。その頼りない感覚への慈しみは、春が「近い」とは言い切れないけれども「遠からじ」とは確信しているというとても微妙な感覚とよく響き合っている。この繊細さがとても優しい。

いずれも上五の字余りが活きている句だ。一句目の感覚的に模索する感じも、二句目の不安定な感じも、字余り故に押し出される感覚だ。流石である。

寒卵割れば双子や黄身の濃き      椎野順子
牡蠣殻隙間ナイフ揺すりて差し込みぬ

案外出会うことの無い黄身が二つの卵。ささやかな幸せは嬉しくて、しかも色も濃い気がする。このだめ押し的に添えられた「黄身の濃き」には、ささやかな幸せを一身に受ける作者のあふれ出る思いが感じられる。たかが黄身という、たいしたことではないのが良いのだ。句のなかの倒置によるかすかな違和感が、気持ちの昂りを代弁している。

牡蠣を食べるときもまた、なかなか昂るものだ。ましてや武骨な漁師が舟の上で剥いてくれる牡蠣はなお佳い。牡蠣の口からぐいぐいっと特殊なナイフを差し込む様子はまさに「揺すりて」という表現がぴったりだ。揺するナイフには殻の内の牡蠣の身もふるふると従う。句の出だしの、名詞で畳みかける感じが牡蠣を剥く手さばきの雰囲気をよく出している。

美味しいものは美味しそうに詠んでこそ活きる。この二句を読むと、それを実感する。

蝌蚪の水国旗の端を浸しけり   曾根毅
蘭鋳の臍のあたりが水の底

ひとことに水といっても無限の種類の水がある。この水は蝌蚪に与えられた水。例えば小学校の小さな池。掲揚されたのち下された国旗を回収する生徒がつい濡らしてしまった国旗。それに気づかずに彼は畳んでしまったかもしれないが、作者はその一瞬を見逃さなかった。濡らすではなかく「浸す」と言ったところに水の質感が活きる。

あるときは蘭鋳に与えられた水。どてっとした身体は水槽の底に触れているが、人間で言ったらお臍のあたり。そこで自らの身体と蘭鋳の身体がシンクロする。そしていまそれは水槽に満たされた水の底にある。水槽の水全体と、自らもシンクロする気がする。さりげない見立てに三体の間の共鳴を感じる句である。

両句とも水の句であるが、それは単に水を詠んでいるという意味ではない。どちらも、なんとなく主体が水にあるのだ。水がみずから浸したような、蘭鋳が水みずからの体内に在るような、どこか屈折した述べ方に不思議な魅力がある。

●

誰もがそれぞれに毎日を送っていて、それぞれにいろんなことが起きるものだ。太初の大陸を思っていてもいいし、春に思いを馳せていても、美味しいものを味わっていてもいい。そして各々が俳句になったとき、それぞれがまるで世界の中心であるかのように読者の心に立ち上がる。その全部を一気に読んだとき、各々の「中心」が凝縮されて、読者の一日が贅沢すぎるほどに満たされた時間になるのだ。





第454号  2016「週俳」新年詠 ≫読む

■今泉礼奈 顔の高さ 10句 ≫読む

■椎野順子 身と海水 10句 ≫読む

第458号 2016年1月31日
■曾根 毅 国 旗 10句 ≫読む

2015-11-01

2015角川俳句賞落選展 1 青木ともじ(*)  2 青島玄武   3 青本瑞季(*)  4 青本柚紀  5 青山青史 

画像をクリックすると大きくなります。

1 青木ともじ  「水のあを」*



2 青島玄武  「おしりの人」




3 青本瑞季 「鰭の匂ひ」*



4 青本柚紀 「飛び立つ」




5 青山青史 「死海」




●


1 青木ともじ  「水のあを」 ≫テキスト
2 青島玄武  「おしりの人」 ≫テキスト
3 青本瑞季 「鰭の匂ひ」* ≫テキスト
4 青本柚紀 「飛び立つ」 ≫テキスト
5 青山青史 「死海」 ≫テキスト

2015角川俳句賞落選展 1 青木ともじ「水のあを」テキスト

1. 青木ともじ 「水のあを」 

スティックシュガー音たてて出る立夏かな
青葉風ベンチはひとつづつあけて
母の日の待ち針をやや深く刺し
店先の鸚鵡で遊ぶ若葉冷
風にほぐるる鹿の子の耳の先
ペンギン涼し三日月型の水槽に
花火まで届かぬ声をあげにけり
夏の月の温度に耳が濡れてゐる
繁華街の色をしてをり夜の金魚
ハンカチを返すとき手をすこし高く
特急にホームの余る雁渡し
重力のかすかにありぬ花野道
紅葉かつ散るやあの山まで故郷
花の野の果て未踏とも既踏とも
打たせ湯にちさき緩急ある白露
非常灯あをあをとして月の雨
集金の人と小鳥の話など
秋の蚊をしばし相談して打ちぬ
毬栗のよい持ち方を教はりぬ
糸車に糸なき昏さ水引草
犬ゐれば声をかけけり黄落期
冬めきて本の挿絵の蓄音器
漕ぎ出しは獣の目してスキーヤー
雪の野を光源のごと歩みけり
星空に深いところやイオマンテ
三等客室に窓ひとつなる湯ざめかな
旅の夢を見けり鯨を名づけけり
あづかりし子のよく笑ふ炬燵かな
地球儀は高いところへ煤払
使ひ捨てマスク再び使ひけり
中州から鴨流れゐる眠さかな
亡国の名の酒場ある風邪心地
背もたれに余るコートの長さかな
高橋も髙橋もゐて賀状書く
人日やただまつすぐにバス通り
迂回路の案外とほし山桜
みな同じ岩を踏みゆく磯遊び
雛段の骨組みひややかに崩す
風光りチーズケーキは砂丘めく
啓蟄の野外観客席のあと 
パンケーキの断面ましろ涅槃西風
米櫃へ米満たしゆく彼岸かな
飼ひ猫か野良猫か朧を曳いて
喰ふ舌の先まで恋の猫である
性欲とは藤のかすかな芯のやう
踏めば殺せるほどのがうなを愛しけり
蝶とほく置いて水面にとどきさう
耕や湖(うみ)より引きし水のあを
田楽を串の出でゆく力かな
粉をとかすだけのスープや春の星

●

■青木ともじ あおき・ともじ
1994年千葉県生まれ。俳句甲子園13,14回出場。
現在東京大学に在学。「群青」所属。

2014-12-21

『凧と円柱』刊行記念「カラフルな俳句、不思議な眼をした鳥たちのこゑ」イベントリポート 青木ともじ

『凧と円柱』刊行記念「カラフルな俳句、不思議な眼をした鳥たちのこゑ」イベントリポート

青木ともじ
 (構成 佐藤文香)




上着きてゐても木の葉のあふれ出す

イベントのフライヤーには、あらかじめ各氏が句集から選んだ20句が載っており、この句は4人全員が選んだ句。
田島 これはイチオシで…!…あ、止めてね。放っておくと喋っちゃうから…。鴇田さんがはじめて句会で

うつぶせのプロペラでいく夜の都市

を出したとき…、あ、喋り続けてたら止めてね?
と和やかな雰囲気でイベントはスタート。会場のB&Bはビルの二階にあるオシャレな本屋さん。奥半分をカーテンで仕切ったのが会場となっていて、木の机を囲むように、田島健一さん、鴇田智哉さん、青木亮人さん、宮本佳世乃さん、そして司会役の橋本直さん(が、橋本さんはすぐにひっこむ)。ちなみに、イベントタイトルは田島さんによるものだそうです。


●鴇田俳句における“システムの変化”
田島 第一句集『こゑふたつ』から今回の第二句集『凧と円柱』までの間に、鴇田さんの世界は同じままに、システムが変わったんじゃないでしょうか。それは使われる言葉や季語の変化であったり、プロペラの句のような無季俳句であったり、季語への独自の考えを持っているように見えるんだよね。

青木 『こゑふたつ』の時から、変わった思いなどはあるんですか?

鴇田 一つのことが終わった気持ちです。そのあとどうするかを考えたとき、無季をどうするか、考えたんですよ。毎年句会に行っていても、良し悪しはともかく、去年見たような句があったり……。同じことを何十年もやっていくのかな、と考えたとき、わざわざ無季をつくったのかな。一般には季語の代わりになるものがないと、無季の句はいけないと言われるけれどそうでもないのではないか、いわばモビールのバランスのようなもので保たれているんじゃないか。システムの点では、使われる言葉の変化について、『こゑふたつ』のときに比べ、カタカナが増えたこと、また前回は敢えて使わず少なかった漢語が多くなったこともあるかもしれません。抜け出ていくための方法として、わざとやった部分もあります。

●言葉を分解すること
青木 今井杏太郎は「俳句は長い。素材を分解してから足してゆくものだ。」と言ったけれど、それと漢語を崩すことのつながりはあったんでしょうか?

鴇田 今井杏太郎の文体は独特ですね。けっこう文体を引き継いでいると思います。この季語は一体何かと分解して、面白がって考えます。たとえば霜柱とはなんだろう、と考えて、霜の柱だ、と。

ゆふぐれにうごいて霜の柱かな 今井杏太郎

この句は霜柱を詠んでいるんです。季語としては「霜」ととれるあたりが巧妙ですが。一見すると素直そうで、ひねくれている。そこに惹かれました。また、パッケージ化された熟語を疑います。「晩夏光」や「冬木立」のような季語を使うことで、思考停止になりはしないかと。

青木 分解された結果、当たり前なことがスローモーションになる感じがしますよね。鴇田さんは、時間の独特の捉え方というか、操作をしているのかなって。読者に時間を追体験させるときの操作感覚ってあるんですか?

鴇田 私の句は“写生”だと言っているんですけど、それは視覚や聴覚を言葉にするのではなくて、ものを把握するのが言葉じゃないかと思うんです。言葉を発することが俳句になる、絵筆を動かすのとおなじで、言葉を動かしているような感覚があります。自分が生きているように、言葉がある。
ものの見方の癖として、ゆっくりに見ていたりはするのかも知れないなあ。俳句は、明け方目が覚めたぼんやりしてるときに、よく推敲しますね。そうするとぼやーっと近づいてくるものがあるような気がします。

青木 ところで、二度寝は?

鴇田 します(笑) 枕元に句帳を置いています。
 
鴇田さんは、阿部完市がLSDで俳句をつくっていたみたいに、走りながら句を考えていたこともあるとのことでした。

田島 そういえば、鴇田さんたちと、鉄道博物館で吟行をしたことがあるんです。あそこは展示が変わっていて、機関車を下から見上げられるところがあって、みんなそれを同じように詠んできたんですけど、鴇田さんだけは『機関車が飛んでる!』みたいに詠んで(笑) しかも季語がピーマン!(笑) もちろんピーマンなんて無かったですよ。

一同 爆笑

田島 『凧と円柱』では『こゑふたつ』に比べて、分解していくうちに雑なものが入ってくる。ウルトラマンとかが詠み込める仕組みをつくったわけです。

青木 ふつうは分解するときに純粋にしていくのでは?

田島 分解されたものを、読者がもとに戻すと、ひとつ部品が余った! みたいなところがいいですよね。

毛布から白いテレビを見てゐたり
うぐひすを滑らかなるはヘルメット

の白いテレビやヘルメットがそれであって、詠み込める仕組みができてきたんです。

●言葉で抽象を
鴇田  こゑふたつ同じこゑなる竹の秋

第一句集のこの句を詠んだとき、言葉で抽象ができるのではないかと思ったんです。今回の『凧と円柱』では、

  7は今ひらくか波の糸つらなる

この句で、僕もとうとうここまで来たか、と思いましたね(笑)独りよがりかもしれないけど、次に続きます、というかんじ。具体物だけではなくて、眠いなあ、などという気持ちもまた写生できるのではないかと。雰囲気を写す写生、でしょうか。意味を結ぶために俳句をつくっているわけではないんです。

宮本 鴇田さんの句は、この句集で広がったよね。句が私たちに近づいてきて、読みやすくなった。
という宮本さんの発言には、『こゑふたつ』の方が読みやすいんじゃないかという意見だったようです。


●句集のモデルは高屋窓秋『白い夏野』
鴇田 タイトルのある細かい作品集がたくさん、というイメージです。総合誌に載っている作品のタイトルとはなんなのかを考えました。前書きのようなものは要らない派ですが、タイトルは要る気がするのはなぜか、と。だが実際、タイトルをつけることでうるさくなるのではという心配はありました。

青木 モデルにした句集があったんだそうですね。

鴇田 はい、高屋窓秋の『白い夏野』の初版本です。現代詩に近いかたちにしたかったんじゃないかと思いますね。「詩と詩論」のモダニズムというか。そこでは、タイトルと各句では同じ大きさの文字が使われているんですが、この方が読んでいて逆に邪魔にならないということに気付きました。ページの中での句の配置なども、これを参考としました。

宮本 余白とかも測ったの?

鴇田 測った!

青木 版元のふらんす堂さんの反応はどうでした? ふつうは、レイアウトは任せてしまうことが多いけれど。

鴇田 レイアウトで、ここまで指定する人は少ないって(笑)

鴇田 題を付けることで作品が違う見え方をするのを期待しました。あとがきにある心の編年体というのは、なかでも二章目に関してです。きっかけとなったのが先の震災でした。人生の中で、他ではありえないものに出会って、歴史的なものにふれたかんじがしました。避けて通れないなと思った。でも、「震災詠」のような○○詠には抵抗があります。実際、二章の句は震災の前に作った句もあるので、9.11くらいからでしょうか、以前から無意識に自覚していた芽のようなものが各所にあって、それが爆発したのではないかと思います。

●おわりに

最後の質問コーナーでは、
田島 これからの若い人たちが、この句集を軸にいろいろ考えることになると思う。

鴇田 季語というのは二次的なもの、しかし17音という点は動かせないと思った。季語より17音が俳句の本質だと思います。

青木 鴇田さんの作品はすぐれたこたえではなく、すぐれた問いの提示なんです。
このような発言を得ました。終了後、サインをねだりに行くと、

むかしには黄色い凧を浮べたる

を書いて下さいました。鴇田さんの字はとても魅力的で綺麗で、こういうところも、重要な鴇田さんらしさだと思いました。

photo by saibara tenki