2016-10-23

【落選展2015を読む】 (2)「塔」から「一睡」まで ……仲寒蟬 × 上田信治

【落選展2015を読む】
(2)「塔」から「一睡」まで

仲寒蟬 × 上田信治




19. 折勝家鴨 「塔」 予選通過作品

信治選
 冬立つやひとりひとつの顕微鏡
 臘梅や水を掃きたる竹箒 
 理科室の棚に鍵あり梅の花
 鳥雲に入る半地下の文芸部
 紙折つて塔の立つなり夏はじめ 
 足首の無防備にある泉かな 
 蟬時雨腕立て伏せの胴長し
 星と星引つ張り合ひて涼しさよ
 虫の夜や遅れて消ゆる車内灯 

寒蝉選
 冬立つやひとりひとつの顕微鏡
 寒柝の耳にイヤホンありにけり
 蝋梅や水を掃きたる竹箒 
 紙折つて塔の立つなり夏はじめ 
 足首の無防備にある泉かな 
 虫の夜や遅れて消ゆる車内灯 
 雁渡し本棚本と共に古る

*「俳句」2015年11月号掲載句

信治:
取合わせのメソッドに「忠実」と言ってよいほどに、手堅く書かれています。人間的な一シーンが、スナップ的に切り取られていて、そこに季語が取り合わされている。

でも、蝋梅と竹ぼうきくらい、計いの見えにくい取合わせの方が面白いのになーと、思わないでもないです。

寒蟬:
7句しか取ってないのに信治さんと5句まで一致するとは!

実は今回論じる中では一番評価の低かった作品なんです。☓をつけたのは「雪解や轍やくかいにして愉快」「丸まつて眠る地球や栗の花」くらいなのですが余り面白いと思った句がなかった。

選んだ7句にしても寒柝の人がイヤホンしてるとか車内灯が遅れて消えるという発見はそれなりに面白いけれど「おおっ」という感じではない。

信治:
きびしいですね。

「車内灯」の句、車内はさっきまで自分がいた場所で、虫の夜は、いま自分が包まれている空間、という対比がいいです。車はそこにとり残されたように、いっしゅん遅れて車内灯が消え、そして、自分はこれからすこし歩く。という時間の幅に対する意識もあって、僕はこれは好きな句でした。

寒蟬:
顕微鏡の句は研究室か何かでしょうか、視点がちょっと新鮮でした。題名になった「塔」の句もいい句です。足首の無防備は既視感があるなあ。

出だしの2句が大雑把すぎて入って行くのがためらわれました。顕微鏡が1句目でもよかったのに。

信治:
二物衝撃は、無意識をひっぱりだすための手法だと思いますが、意識の範疇でつきすじが見えてしまう句については、ぼくも不満です。銀河→子守唄、水仙→頭痛とかですね。

でも、取り合わせの前提として、現実を12音で切り出す視線に、どこ見てんのこの人っていう面白さがあって。

顕微鏡がいっぱいとか、半地下の部室とか。あとは折紙の塔とか。それだけで面白いですよね。

 理科室の棚に鍵あり梅の花

この梅の花の、審美的じゃないかんじ、好きですね。
窓には白いカーテン。

 鳥雲に入る半地下の文芸部

上昇/下降という対比は見えやすいところですが、憧れをもっぱらとする文芸部が、地面にめり込んで(脳内で)空を見上げていると思うと、おかしいです。

 紙折つて塔の立つなり夏はじめ

紙と夏はじめは、かなり近いですけど、これはきれいさを狙った句なのでOKです。とうぜん初夏の風と光線を受けて、ちょっとピカピカするわけです。

 蟬時雨腕立て伏せの胴長し

あはは。この蟬時雨も、梅の花とおなじくらいいいな。夏休みで畳、ってことですか。

寒蟬:
ああ、なるほど。信治さんの読みを聞いて思ったのですが「半地下」の句は面白いかもしれません。

ただ選ばなかった句が大きな瑕はなくとも惹かれもしなかった。日常の細かい所を描写する力はあるんだけれど、そこから飛躍する時に力不足というか、うまく行ってない印象でした。


20. 高梨 章 「明るい部屋」

寒蝉選
 飯食ひながら夕焼のことばかり
 蝿がきてそのまま奥に消えにけり
 夜濯や母の手くびの輪ゴム跡
 がまぐちの口金ゆるし緑の夜
 目刺くふ子もくはぬ子もきて坐る
 靴下をはき靴をはき初氷
 一気にファスナーひきおろすやうに鵙啼けり
 うろこぐもうまくつまめぬオブラート
 山の名もわからぬままに冬の山
 鳥帰る屑籠に屑しづかなり

信治選
 春の月ぐいとキヤベツの葉を剥がす
 蝿がきてそのまま奥に消えにけり
 靴先を内側に向けしやぼん玉
 ずるいなあと母のつぶやく春の山
 口あけてはるばる春のしじみ汁
 鳥帰る屑籠に屑しづかなり


信治:
全体に、自由に読もうとされていることに、好感を持ちました。

 春の月ぐいとキヤベツの葉を剥がす

中七下五は、100%のフレーズではないんですが、春の月がおもしろい。
50句ラストの「透明な夏のいちにち非常口」も、上五中七はともかく「非常口」がかなりいい。

 靴先を内側に向けしやぼん玉

なにか、この人のおもしろさの核みたいなものは、既につかまれていて、
こういう句には、わかりやすく、それがあらわれるんだろうなという印象。

 ずるいなあと母のつぶやく春の山

この句はすごくいいですね。お母さんの心には、なにが通りすぎたんでしょうか。

春の山が、母にとっての過去と現在の(同時にそれがただあることの)象徴のようにも見える。それは、語り手にとってもまた、思い出であり、同時になまなまとただある現実としての母の象徴のように見える。

 口あけてはるばる春のしじみ汁

この「はるばる」は、はるばると来つるものかな、という感慨だと思うんですけど、そう読むと「口あけて」が、口開けたままはるばる来たように読める。ちょっと置き方、むずかしいなという。

寒蟬:
しかし、俳句賞の応募作としては失敗していると言わざるをえないところがある。

たとえば6句目、8,9,12句目に母が出てくるけれども最初の母

 夜濯や母の手くびの輪ゴム跡

が生きて活動している母なのに

 あれは母ではなく冬の夕焼
 母からこぼるるこなごなの枯葉よ

ではだんだん抽象的な存在になって行く。

 床下に夕焼さはぐと母のいふ

となると夕焼自体が主題のようで、しかも現実の夕焼ではないようで、よく分らない世界。季節も夏からいきなり冬に飛ぶ。その後また夏に戻る。もうめちゃくちゃ。

でも嫌いかというと嫌いじゃないんです。必ずしも成功していないけれども何かやってやろうという感じがする。

独特の世界観、感性を持った人だと感じました。

信治:
そうですねえ……。

これ、誤解される言い方になるかもしれませんが、賞は別にもう受賞しなくても、それはそれで。仮のハードルでもいいような気がするんですよ、その一年の自分の最高到達点を可視化し実現するためには、棒高跳びのハードルを棒なしで越えるくらいの気持ちの設定が必要な気がして。

そんなことを言ってるから、ぼくも予選すら通過しないのかもしれないですけどw

22. 堀下 翔 「鯉の息」

信治選
 夏が始まる羊羹のつまやうじ
 また中へ戻るはちすのうへの蠅
 柿の花石白く水湧きにけり
 日時計の石痩せにけり秋燕
 胡桃割るとき実の中をとほる音
 空腹を木の葉の降りしきる日かな
 侘助や本棚見えて教授棟
 いくたびか氷りてしはしはとなりぬ
 切株の根にたんぽゝの短き首
 こひいつもその日のことの燕かな
 パンジーの黄やうらがはにその黄透く
 林が疎まつすぐ行けば水芭蕉
 深秋やさうかと思ふ竹林
 散らばつてゆく春雲に空が出る
 春を唄へば浅草の筈である

寒蝉選

 濠めぐる大きな水よ夏薊
 夏が始まる羊羹のつまやうじ
 エアコンをとりつけて目を動かして
 葉をきはめたる尺蠖のをどりかな
 胡桃割るとき実の中をとほる音
 裸木の分厚くめくれたるところ
 蟻穴を出てすぐ横にちがふ穴
 春を唄へば浅草の筈である
 パンジーの黄やうらがはにその黄透く
 紙は日に焼けその春の惜しまるゝ

寒蟬:
かなり大胆で冒険的なスタートだと思いました。

1句目の「麦が笛になる」とか3句目の「池のをはりは流れ出す」など日本語の文法の範囲ギリギリのところですごくアクロバティックなことをやっている。

そう言う意味では私の取った句はこの50句の中ではやや常識的な部類に入ってしまうかもしれません。
この行き方、最初の方では成功していますが、

 峰雲のつゞきの空ぢやないかなあ

という口語が突然出て来たり

 別巻を欠き観月に出でにけり

みたいに省略が利きすぎて作者の意図を途中で追えなくなるような句に出会うとちょっと首をかしげてしまいます。

信治:
堀下さんのはじめの3句は、ふつうに失敗しているのでは?

「肉声の」は、前半後半の内容がジャマしあってるような気がします。「濠」をめぐる大きな水というのは、二重の濠を想定してる? そうでなかったら流れるプールのように、水が濠の中を回っていることになる。三句目は、人工の「噴水池」が人工の川につながっている?

ぼくも、自分の句では、最近、わざと日本語として失敗するということをするのですが、そういうのとも、ちょっと違うのかな。

寒蟬:
いや、「濠めぐる大きな水」はイコール濠の中の水なんですよ。大きな水のかたまりが濠という容れ物の中を廻っていると、そういう把握ではないでしょうか。「噴水の池のをはり」は噴水の水をためておく池から水が溢れ出している様でしょう。

確かにちょっとまだるっこしい表現で、これらが最初に置かれると読んでいる側はイラッとするかもしれませんね。その意味では並べ方が下手だ。こういう句は真ん中辺の読者の読むスピードが定まってきたあたりに置いた方がいい。

信治:

 エアコンをとりつけて目を動かして

これは「いい失敗」かも。
一読して、行為の主体が自分か他人か特定しづらくて、でも、エアコンてあんまり自分でつけないから、他人か、と。でも目を動かすのって、じつは内的な感覚じゃないですか。そこのズレが気持ち悪い。

でも、主観とか視点が浮遊するこの気持ち悪さは、写生の眼というものの非人間性と通じるものかも知れず、まぐれあたりかもしれませんが、読み直すと、いちばん好きかも、となってしまいました。

噴水の句は「をはり」が引っかかるんですよね。あと、噴水池から、水があふれるかなあ・・・。あとお濠の水は、めぐりますかねえ。「城めぐる」ですよね、ほんとは。

いや、ぼくは、言い損なって面白くなることには賛成で、作者もここで、勝負してきてると思うんですよね。

ただ語の結合をあいまいにゆるく取っただけの書き方は、ただの失敗におちいりがちなので、もうちょっとこう上手く転ばないとw と思うんです。

寒蟬:
実は「エアコン」の句、気になっていたんですが最初はここから外していました。見直して「やっぱり入れておこう」と(笑)。エアコンをこんな風に詠んだ俳句ってないでしょう?しかも取り付けて、その取り付けた人が「目を動かして」いる。何なんだ、これは??当たり前と言えば言えるが意図のない馬鹿馬鹿しさというか・・・。この一句だけポンと置かれていたら私は信治さんの句かな?と思ったかもしれません(笑)。

私は「濠めぐる」は「大きな水」の把握が大づかみで好きでした。でも他の2句は失敗ですね。だから50句としては損をしちゃってる。

信治:

 夏が始まる羊羹のつまやうじ

この抒情性、すばらしい。オブジェとしてきれいだし。

 また中へ戻るはちすのうへの蠅

すごくくだらないことを、キレイな韻律で歌ってたり。

柿の花石白く水湧きにけり

三段切れの間の空白が、自然観照的うっとり感に通じてる。いい。純粋の自然詠で、言葉であたらしいことをやって成立させてるという行き方、いいですよね。攻めてる。

 侘助や本棚見えて教授棟

いい構図。広くてきもちいい。つつましい花と老(?)教授を響かせている。

寒蟬:
つまようじの句はとてもいい。信治さんの意見に賛成です。
蠅の句の馬鹿馬鹿しさはどこか「鳥の巣に鳥が入つてゆくところ」に近いものがある。とても面白い句だと思いました。気合の入った(縦令失敗していようと)句の後にこういうふっと気の抜ける句を持ってくる配置の仕方はいい。

蟻穴を出てすぐ横にちがふ穴

これは「はちすのうへの蠅」に近い馬鹿馬鹿しさ、そんなことわざわざ俳句で言うか?と突っ込みたくなる面白さがあります。

春を唄へば浅草の筈である

この強引な断定。嫌な人は嫌と思うでしょうね。そういう反対意見をものともしない勇猛果敢さ、その意味ではすごく若さを感じさせる句です。「上手いなあ」と思わせる種類の俳句とは全く違った行き方、私にはこの辺にこの作者の将来性を見た気がします。

パンジーの黄やうらがはにその黄透く

これはどちらかと言えば「上手いなあ」という類。まず観察が緻密、皆が見ているはずの光景を皆が見ているのとは違う方向から描いてみせる。「や」を持ってくるところとか「その」の使い方とか、テクニシャンですね。

紙は日に焼けその春の惜しまるゝ

惜春の句として、50句の最後を飾る句としてなかなかいいんじゃないでしょうか。「その春」に籠められた余韻、作者はどんな春を送ったのだろうと想像が膨らみます。ただ直前のパンジーの句にも「その」があるので、ちょっと違う使い方と言うことを割り引いても気にはなりますね。

信治:
春を唄へば浅草の筈である」これ、かわいいですね。浅草オペラかw
レトロにもほどがあるw

2015年、堀下さん他こちらで読ませていただいた若手数人は、予選通過してもぜんぜんOKだったと思いますけどね。小野あらた、青木ともじ、青本瑞季と、三人通過しているので「学生枠」的配慮もあったと思います。

ただ、堀下さんでいえば「肉声の」「峰雲の」のような、埒を踏み出ようという句があって、それが疵とみなされただろうという気はする(予選通過の人たちが攻めてないというわけでは、もちろんないですが)。

寒蟬:
かなりの冒険作、野心作と見ましたが必ずしも成功していない。大いに暴れるのはいいのです。ただ勝負に出た句が必ずしも成功していないのが残念。


27. 利普苑るな 「否」

信治選

 漕ぎ出せば川岸長き薄暑かな
 母の日やベンチに並ぶ松ぼくり
 盆波の犇いてゐる板の下
 用水路跨ぎ花野に入りにけり
 てのひらに硬き切符や冬ぬくし
 春落葉日当るものはくれなゐに
 少年のまなじり赤し磯巾着


寒蝉選

 漕ぎ出せば川岸長き薄暑かな
 母の日やベンチに並ぶ松ぼくり
 木犀やわれ亡きあとの太陽系
 用水路跨ぎ花野に入りにけり
 和紙にある草のぬくみや時雨来ぬ
 流氷より戻りし人に灯せり
 抱き戻りけり朧より出し猫
 死神に否と応へし春の夢

信治:
利普苑さん、今年、亡くなられたんですよね。
闘病のあったことを感じさせる句はありましたが、まだお若いので驚きました。

寒蟬:
FBの友達でしたが亡くなったという発表が御主人からあって、本当に驚きました。長い間G(癌のことを彼女こう書いてました)と闘っておられたようですが。今から思えば

 熱帯夜病棟に棲む黄泉神
 木犀やわれ亡きあとの太陽系
 花野道死は弾丸となりて来る
 白線の向かう黄泉らし蚯蚓鳴く
 死神に否と応へし春の夢

などは死を予感して、或いは死と向き合っている毎日だからこそ作れたのかなと。

信治:

 漕ぎ出せば川岸長き薄暑かな

川筋に沿って漕ぐかぎり、川岸が長いのはあたりまえなんですが、でもふしぎな実感があります。漕ぎ出したら、長い川岸の長さに、かすかな感情のざわめきを感じながらこぎ続けなければいけない。「薄暑」が祝福であり、救いであり。いい句だな。

 用水路跨ぎ花野に入りにけり

花野は異界なので、結界があるという発想はあるとは思いますが、用水路跨ぎ、というこのざっかけなさに好感。

 春落葉日当るものはくれなゐに

これは、夕日ってことですよね。春で、落葉で、没日で、それはあかあかと、はかなく美しかったと。

 少年のまなじり赤し磯巾着

ちょっとエッチでいいですね。

闘病を感じさせる句については、この作者の自分へのはげましだったろうと思います。
それでいいんだろうと。


28. 小池康生 「一睡」

信治選
 閉館のキネマの隣布団干す
 海に浮くごとくに聴いて除夜の鐘
 外出はせぬがよそゆき大旦
 地の雪と五重塔に載る雪と
 マフラーに普段着のありそればかり
 花水木住めば覚える人の顔
 たけのこの白きところに値の書かれ
 我ながら大きな文字や夏見舞
 黒南風や五人で守る草野球
 釣り人を離れぬ鷺や秋の昼  

寒蝉選
 閉館のキネマの隣布団干す
 男湯と女湯代はる去年今年
 お水取り巨きな夜を燃やしけり
 啓蟄の秘仏の腹のレントゲン
 青空を眺めに出掛け落第す
 鳥交る片方だけが無表情     
 苗札のなきものばかり咲きにけり
 たけのこの白きところに値の書かれ  
 台詞なき場面のつづく涼しさよ
 バナナ剥く北に東に南西に
 唐辛子売るや辛さを詫びながら

寒蟬:
ちょっとレトロな感じのこの作者の示す世界が割と好きでした。

 閉館のキネマの隣布団干す

こういう場末の映画館、今はあまり見かけなくなりました。「キネマ」という表現も古いけれどそれが閉館しちゃっている、その横では時代の流れと関わりなく「布団干す」庶民の生活が続いている。

 男湯と女湯代はる去年今年

ありますよね、午前零時になったら男湯と女湯が入れ替わる温泉。それが大晦日と正月であっても普段と同じように続けられているという発見。「色々あるけど時間は流れて行くんだよ」という感じです。

 お水取り巨きな夜を燃やしけり

お水取りは火の祭、私は見に行ったのが幼い頃だったのであまり覚えていませんが「巨きな夜」との把握にはしっかりと見てきたものの強みを感じます。

 啓蟄の秘仏の腹のレントゲン

秘仏の胎内をレントゲンで探るという技術。啓蟄との取合せが面白かった。

 青空を眺めに出掛け落第す

これも落第という人生の一大事に関わりなく青空は常にあるとの思いがベースにある。ただこう書くと「青空を眺めに出掛け」たという能天気な行為が落第を招いたようで面白い。それでもいいじゃないか、と言っているようで。

 鳥交る片方だけが無表情

本当なのかな、でも本当かも知れないなと思わせる。つい人間同士の行為になぞらえてしまうからなのでしょうね。

 苗札のなきものばかり咲きにけり
 たけのこの白きところに値の書かれ

いい所に目を付けたなという句です。これまで挙げた句のような時間の流れはあまり感じさせませんが 箸休めとしてはいい。

 台詞なき場面のつづく涼しさよ

ああ、この人はこういう場面から涼しさを感じ取るんだなと。この感性は作者の時間に対する「仕方ないじゃん」という思いと無縁ではないでしょう。

 バナナ剥く北に東に南西に

いいなあ。何だか馬鹿馬鹿しいことに夢中になっているいい歳したおじさん的で、好きですね。

 唐辛子売るや辛さを詫びながら

詫びているのは唐辛子売りなんだけど作者も唐辛子売りに共感していて決して腹立てたりはしていない。いいよ、いいよ、仕方ないよ、この優しさのトーンが全体を覆っていると思うのです。

信治:

 閉館のキネマの隣布団干す

これは、こてこてですねw。かつての昭和モダンが失われて、庶民の町の素地が露呈している。日当たりがいいのが救いで、この国の青春時代を思いながら、老化した町がいねむりをしている、という景。「隣」は、リアルというより、すこし簡単すぎる気もしましたが。

 海に浮くごとくに聴いて除夜の鐘

なかった比喩ではないかもしれないけれど、除夜の鐘をきくのに、波の間に間にたゆたってるような気持ち、暗いような、あの世のような気持ちになっているというのは、とても、よくないですか。渚男の「船」の句を思い出したりもして。

 外出はせぬがよそゆき大旦

一転、日常としての正月風景。寒蟬さんの選んだ「男湯と」の句にも通じるところがあります。
ぼくの父はこういう人でした。

 地の雪と五重塔に載る雪と
 たけのこの白きところに値の書かれ   

写生あるある。どうでもいいことを言いがち。些事が言葉になっていくときの、なんというんでしょう、無差別、無分別の楽しみがある。タケノコの皮に、白っぽいところと毛の生えてるところがあるということですねw

五重塔の句は、視点、空にあると思いましたけど、むしろ下からですかね。

 マフラーに普段着のありそればかり 
 花水木住めば覚える人の顔
 我ながら大きな文字や夏見舞     
 黒南風や五人で守る草野球        

人間にいちばん興味がある。それも、日々の、ふつうの精神状態の人に。それがこの50句、というより、小池さんのいちばんの特徴だと思います。

 釣り人を離れぬ鷺や秋の昼      

この鷺のひとなつっこさには、微量の謎があって。お魚もらえるのかしら、とも思いますが、意味もなく近くにいるというほうがいいな。

寒蟬:
久し振りに読み返してみたら信治さんの取った

 外出はせぬがよそゆき大旦
 地の雪と五重塔に載る雪と

ものすごくいいですね。大したことは言ってないんだけれども気持ちが入って来るというか時間とともにしみじみいいなと思えてくる。

 たけのこの白きところに値の書かれ

は選んでいながら前回コメント入れ損ねていました。この発見はいい。滑稽さもあるし実に生活に即しているし「あるある」なんだけど陳腐じゃないですね。全体の中でも評点の高い作品でした。

信治:
寒蟬さんの取られた、

 啓蟄の秘仏の腹のレントゲン
 青空を眺めに出掛け落第す
 鳥交る片方だけが無表情     
 バナナ剥く北に東に南西に

とかは、すこしサービスよすぎるのでは、とも思うのです。
エンターテイナーなんですね。きっと。


新人賞について

信治:
保坂和志がどこかの講演で話していた逸話です。小島信夫に、保坂和志が「小説家も、選考委員になると、評論家みたいになっちゃうから」と言ったら、小島信夫が「それならまだいい。彼らは、選考委員になってしまうのですよ」と言ったというw

作家も、選考委員という立場になると、文学の代理人として読む、のではなくて、業界の代表者として、賞のそういう性格を無意識に反映して、読み、選別するように、なりがち。それって、たとえば、新人賞が、入社試験みたいになるということですよね。

寒蟬さんはそのへん、どういうふうにお考えでしょう。

寒蟬:
よく分んないけど俳人も選考委員になったら評論家、もしくは「選考委員という人」になってしまうということでしょうか??

信治:
作家は文学とサシの関係であり、文壇に(必ずしも)従属するものではないですが、選考委員になってしまうとは、文壇という業界の機能に、なってしまうということだと思います。

寒蟬:
私のここでの発言がどう取られるかはわからないしどうでもいいですが、私自身は業界(俳壇というものがあればの話)を代表しているつもりもないし新人を送り出そうというつもりもありません。ただ俳句の作者兼読者として思う所を自由に述べさせていただいているつもりです。

先日、小澤實さん、筑紫磐井さんと3人で第1回姨捨俳句大賞という句集に与えられる賞の審査員をやりました。面白かった!自分の俳句観をぶつけて小澤さんとガチでやり合いました。(杉山久子さんの『泉』が受賞)

私は姨捨俳句大賞の公開審査でもここでの信治さんとの対話でも、言っていることにブレはないつもりでいます。

信治:
寒蝉さんが、「賞応募作としては」と言われるとき、彼らに受かって欲しいという、気持ちで言われているのだと思うのですが。

でも、「賞応募作」として、何かを書くというのは、そうとう難しい。
そんな席題が出たら困りますでしょう?

寒蟬:
ああ、そのことですね。言葉が悪かったかもしれない。賞に応募する人は応募するからには賞を取ろうと思っているのでしょう?こちらは読者としてそれを読む時に俳句の並べ方はどうか、統一されたテーマみたいなものはあるか、などと一つの作品として読もうとするということです。それは仕方のないことだと思いますが。

信治:
なるほど。50句トータルでの見せ方ということですね。
たしかに、それはかなり大きな影響あるかもしれません。

ただ、完成度や疵のない作品を、ついつい求めてしまうのは、賞というものが、業界メンバーを選ぶ選別装置であるという前提があって(文芸誌の新人賞だって、芥川賞だってそうですよね)、選考委員となった作家は、無意識のうちに、その関所の門番として機能してしまう。

寒蟬さんも、角川の選考委員の諸先生も、いつもはそういう人じゃないのに。

寒蟬:
まあ立場が人を作るし人を変えてしまうのは致し方ないと思っています。

例えば私は医者として一人の臨床医のつもりですが、同時に病院の地域医療部長でもある。ただ部長として行動する時にも一人の臨床医であることを忘れたくないし忘れないようにしているつもりです。誰かから「お前は一人の臨床医としての立場を忘れている」と指摘されたら恥じ入るし反省するでしょう。

俳人としても同じだと思っています。分って頂けます?

信治:
もちろん分かります。

寒蟬:
「賞応募作として」なんて考える必要はないと思います。自分が俳句でやりたいことを決められた50句なら50句の中で存分にやればいいのです。それが読む側の琴線に触れれば受賞ということになるのでしょう。





【落選展2015を読む】
(1)「水のあを」から「梅日和」まで
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