ラベル 利普苑るな の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 利普苑るな の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2016-10-23

【落選展2015を読む】 (2)「塔」から「一睡」まで ……仲寒蟬 × 上田信治

【落選展2015を読む】
(2)「塔」から「一睡」まで

仲寒蟬 × 上田信治




19. 折勝家鴨 「塔」 予選通過作品

信治選
 冬立つやひとりひとつの顕微鏡
 臘梅や水を掃きたる竹箒 
 理科室の棚に鍵あり梅の花
 鳥雲に入る半地下の文芸部
 紙折つて塔の立つなり夏はじめ 
 足首の無防備にある泉かな 
 蟬時雨腕立て伏せの胴長し
 星と星引つ張り合ひて涼しさよ
 虫の夜や遅れて消ゆる車内灯 

寒蝉選
 冬立つやひとりひとつの顕微鏡
 寒柝の耳にイヤホンありにけり
 蝋梅や水を掃きたる竹箒 
 紙折つて塔の立つなり夏はじめ 
 足首の無防備にある泉かな 
 虫の夜や遅れて消ゆる車内灯 
 雁渡し本棚本と共に古る

*「俳句」2015年11月号掲載句

信治:
取合わせのメソッドに「忠実」と言ってよいほどに、手堅く書かれています。人間的な一シーンが、スナップ的に切り取られていて、そこに季語が取り合わされている。

でも、蝋梅と竹ぼうきくらい、計いの見えにくい取合わせの方が面白いのになーと、思わないでもないです。

寒蟬:
7句しか取ってないのに信治さんと5句まで一致するとは!

実は今回論じる中では一番評価の低かった作品なんです。☓をつけたのは「雪解や轍やくかいにして愉快」「丸まつて眠る地球や栗の花」くらいなのですが余り面白いと思った句がなかった。

選んだ7句にしても寒柝の人がイヤホンしてるとか車内灯が遅れて消えるという発見はそれなりに面白いけれど「おおっ」という感じではない。

信治:
きびしいですね。

「車内灯」の句、車内はさっきまで自分がいた場所で、虫の夜は、いま自分が包まれている空間、という対比がいいです。車はそこにとり残されたように、いっしゅん遅れて車内灯が消え、そして、自分はこれからすこし歩く。という時間の幅に対する意識もあって、僕はこれは好きな句でした。

寒蟬:
顕微鏡の句は研究室か何かでしょうか、視点がちょっと新鮮でした。題名になった「塔」の句もいい句です。足首の無防備は既視感があるなあ。

出だしの2句が大雑把すぎて入って行くのがためらわれました。顕微鏡が1句目でもよかったのに。

信治:
二物衝撃は、無意識をひっぱりだすための手法だと思いますが、意識の範疇でつきすじが見えてしまう句については、ぼくも不満です。銀河→子守唄、水仙→頭痛とかですね。

でも、取り合わせの前提として、現実を12音で切り出す視線に、どこ見てんのこの人っていう面白さがあって。

顕微鏡がいっぱいとか、半地下の部室とか。あとは折紙の塔とか。それだけで面白いですよね。

 理科室の棚に鍵あり梅の花

この梅の花の、審美的じゃないかんじ、好きですね。
窓には白いカーテン。

 鳥雲に入る半地下の文芸部

上昇/下降という対比は見えやすいところですが、憧れをもっぱらとする文芸部が、地面にめり込んで(脳内で)空を見上げていると思うと、おかしいです。

 紙折つて塔の立つなり夏はじめ

紙と夏はじめは、かなり近いですけど、これはきれいさを狙った句なのでOKです。とうぜん初夏の風と光線を受けて、ちょっとピカピカするわけです。

 蟬時雨腕立て伏せの胴長し

あはは。この蟬時雨も、梅の花とおなじくらいいいな。夏休みで畳、ってことですか。

寒蟬:
ああ、なるほど。信治さんの読みを聞いて思ったのですが「半地下」の句は面白いかもしれません。

ただ選ばなかった句が大きな瑕はなくとも惹かれもしなかった。日常の細かい所を描写する力はあるんだけれど、そこから飛躍する時に力不足というか、うまく行ってない印象でした。


20. 高梨 章 「明るい部屋」

寒蝉選
 飯食ひながら夕焼のことばかり
 蝿がきてそのまま奥に消えにけり
 夜濯や母の手くびの輪ゴム跡
 がまぐちの口金ゆるし緑の夜
 目刺くふ子もくはぬ子もきて坐る
 靴下をはき靴をはき初氷
 一気にファスナーひきおろすやうに鵙啼けり
 うろこぐもうまくつまめぬオブラート
 山の名もわからぬままに冬の山
 鳥帰る屑籠に屑しづかなり

信治選
 春の月ぐいとキヤベツの葉を剥がす
 蝿がきてそのまま奥に消えにけり
 靴先を内側に向けしやぼん玉
 ずるいなあと母のつぶやく春の山
 口あけてはるばる春のしじみ汁
 鳥帰る屑籠に屑しづかなり


信治:
全体に、自由に読もうとされていることに、好感を持ちました。

 春の月ぐいとキヤベツの葉を剥がす

中七下五は、100%のフレーズではないんですが、春の月がおもしろい。
50句ラストの「透明な夏のいちにち非常口」も、上五中七はともかく「非常口」がかなりいい。

 靴先を内側に向けしやぼん玉

なにか、この人のおもしろさの核みたいなものは、既につかまれていて、
こういう句には、わかりやすく、それがあらわれるんだろうなという印象。

 ずるいなあと母のつぶやく春の山

この句はすごくいいですね。お母さんの心には、なにが通りすぎたんでしょうか。

春の山が、母にとっての過去と現在の(同時にそれがただあることの)象徴のようにも見える。それは、語り手にとってもまた、思い出であり、同時になまなまとただある現実としての母の象徴のように見える。

 口あけてはるばる春のしじみ汁

この「はるばる」は、はるばると来つるものかな、という感慨だと思うんですけど、そう読むと「口あけて」が、口開けたままはるばる来たように読める。ちょっと置き方、むずかしいなという。

寒蟬:
しかし、俳句賞の応募作としては失敗していると言わざるをえないところがある。

たとえば6句目、8,9,12句目に母が出てくるけれども最初の母

 夜濯や母の手くびの輪ゴム跡

が生きて活動している母なのに

 あれは母ではなく冬の夕焼
 母からこぼるるこなごなの枯葉よ

ではだんだん抽象的な存在になって行く。

 床下に夕焼さはぐと母のいふ

となると夕焼自体が主題のようで、しかも現実の夕焼ではないようで、よく分らない世界。季節も夏からいきなり冬に飛ぶ。その後また夏に戻る。もうめちゃくちゃ。

でも嫌いかというと嫌いじゃないんです。必ずしも成功していないけれども何かやってやろうという感じがする。

独特の世界観、感性を持った人だと感じました。

信治:
そうですねえ……。

これ、誤解される言い方になるかもしれませんが、賞は別にもう受賞しなくても、それはそれで。仮のハードルでもいいような気がするんですよ、その一年の自分の最高到達点を可視化し実現するためには、棒高跳びのハードルを棒なしで越えるくらいの気持ちの設定が必要な気がして。

そんなことを言ってるから、ぼくも予選すら通過しないのかもしれないですけどw

22. 堀下 翔 「鯉の息」

信治選
 夏が始まる羊羹のつまやうじ
 また中へ戻るはちすのうへの蠅
 柿の花石白く水湧きにけり
 日時計の石痩せにけり秋燕
 胡桃割るとき実の中をとほる音
 空腹を木の葉の降りしきる日かな
 侘助や本棚見えて教授棟
 いくたびか氷りてしはしはとなりぬ
 切株の根にたんぽゝの短き首
 こひいつもその日のことの燕かな
 パンジーの黄やうらがはにその黄透く
 林が疎まつすぐ行けば水芭蕉
 深秋やさうかと思ふ竹林
 散らばつてゆく春雲に空が出る
 春を唄へば浅草の筈である

寒蝉選

 濠めぐる大きな水よ夏薊
 夏が始まる羊羹のつまやうじ
 エアコンをとりつけて目を動かして
 葉をきはめたる尺蠖のをどりかな
 胡桃割るとき実の中をとほる音
 裸木の分厚くめくれたるところ
 蟻穴を出てすぐ横にちがふ穴
 春を唄へば浅草の筈である
 パンジーの黄やうらがはにその黄透く
 紙は日に焼けその春の惜しまるゝ

寒蟬:
かなり大胆で冒険的なスタートだと思いました。

1句目の「麦が笛になる」とか3句目の「池のをはりは流れ出す」など日本語の文法の範囲ギリギリのところですごくアクロバティックなことをやっている。

そう言う意味では私の取った句はこの50句の中ではやや常識的な部類に入ってしまうかもしれません。
この行き方、最初の方では成功していますが、

 峰雲のつゞきの空ぢやないかなあ

という口語が突然出て来たり

 別巻を欠き観月に出でにけり

みたいに省略が利きすぎて作者の意図を途中で追えなくなるような句に出会うとちょっと首をかしげてしまいます。

信治:
堀下さんのはじめの3句は、ふつうに失敗しているのでは?

「肉声の」は、前半後半の内容がジャマしあってるような気がします。「濠」をめぐる大きな水というのは、二重の濠を想定してる? そうでなかったら流れるプールのように、水が濠の中を回っていることになる。三句目は、人工の「噴水池」が人工の川につながっている?

ぼくも、自分の句では、最近、わざと日本語として失敗するということをするのですが、そういうのとも、ちょっと違うのかな。

寒蟬:
いや、「濠めぐる大きな水」はイコール濠の中の水なんですよ。大きな水のかたまりが濠という容れ物の中を廻っていると、そういう把握ではないでしょうか。「噴水の池のをはり」は噴水の水をためておく池から水が溢れ出している様でしょう。

確かにちょっとまだるっこしい表現で、これらが最初に置かれると読んでいる側はイラッとするかもしれませんね。その意味では並べ方が下手だ。こういう句は真ん中辺の読者の読むスピードが定まってきたあたりに置いた方がいい。

信治:

 エアコンをとりつけて目を動かして

これは「いい失敗」かも。
一読して、行為の主体が自分か他人か特定しづらくて、でも、エアコンてあんまり自分でつけないから、他人か、と。でも目を動かすのって、じつは内的な感覚じゃないですか。そこのズレが気持ち悪い。

でも、主観とか視点が浮遊するこの気持ち悪さは、写生の眼というものの非人間性と通じるものかも知れず、まぐれあたりかもしれませんが、読み直すと、いちばん好きかも、となってしまいました。

噴水の句は「をはり」が引っかかるんですよね。あと、噴水池から、水があふれるかなあ・・・。あとお濠の水は、めぐりますかねえ。「城めぐる」ですよね、ほんとは。

いや、ぼくは、言い損なって面白くなることには賛成で、作者もここで、勝負してきてると思うんですよね。

ただ語の結合をあいまいにゆるく取っただけの書き方は、ただの失敗におちいりがちなので、もうちょっとこう上手く転ばないとw と思うんです。

寒蟬:
実は「エアコン」の句、気になっていたんですが最初はここから外していました。見直して「やっぱり入れておこう」と(笑)。エアコンをこんな風に詠んだ俳句ってないでしょう?しかも取り付けて、その取り付けた人が「目を動かして」いる。何なんだ、これは??当たり前と言えば言えるが意図のない馬鹿馬鹿しさというか・・・。この一句だけポンと置かれていたら私は信治さんの句かな?と思ったかもしれません(笑)。

私は「濠めぐる」は「大きな水」の把握が大づかみで好きでした。でも他の2句は失敗ですね。だから50句としては損をしちゃってる。

信治:

 夏が始まる羊羹のつまやうじ

この抒情性、すばらしい。オブジェとしてきれいだし。

 また中へ戻るはちすのうへの蠅

すごくくだらないことを、キレイな韻律で歌ってたり。

柿の花石白く水湧きにけり

三段切れの間の空白が、自然観照的うっとり感に通じてる。いい。純粋の自然詠で、言葉であたらしいことをやって成立させてるという行き方、いいですよね。攻めてる。

 侘助や本棚見えて教授棟

いい構図。広くてきもちいい。つつましい花と老(?)教授を響かせている。

寒蟬:
つまようじの句はとてもいい。信治さんの意見に賛成です。
蠅の句の馬鹿馬鹿しさはどこか「鳥の巣に鳥が入つてゆくところ」に近いものがある。とても面白い句だと思いました。気合の入った(縦令失敗していようと)句の後にこういうふっと気の抜ける句を持ってくる配置の仕方はいい。

蟻穴を出てすぐ横にちがふ穴

これは「はちすのうへの蠅」に近い馬鹿馬鹿しさ、そんなことわざわざ俳句で言うか?と突っ込みたくなる面白さがあります。

春を唄へば浅草の筈である

この強引な断定。嫌な人は嫌と思うでしょうね。そういう反対意見をものともしない勇猛果敢さ、その意味ではすごく若さを感じさせる句です。「上手いなあ」と思わせる種類の俳句とは全く違った行き方、私にはこの辺にこの作者の将来性を見た気がします。

パンジーの黄やうらがはにその黄透く

これはどちらかと言えば「上手いなあ」という類。まず観察が緻密、皆が見ているはずの光景を皆が見ているのとは違う方向から描いてみせる。「や」を持ってくるところとか「その」の使い方とか、テクニシャンですね。

紙は日に焼けその春の惜しまるゝ

惜春の句として、50句の最後を飾る句としてなかなかいいんじゃないでしょうか。「その春」に籠められた余韻、作者はどんな春を送ったのだろうと想像が膨らみます。ただ直前のパンジーの句にも「その」があるので、ちょっと違う使い方と言うことを割り引いても気にはなりますね。

信治:
春を唄へば浅草の筈である」これ、かわいいですね。浅草オペラかw
レトロにもほどがあるw

2015年、堀下さん他こちらで読ませていただいた若手数人は、予選通過してもぜんぜんOKだったと思いますけどね。小野あらた、青木ともじ、青本瑞季と、三人通過しているので「学生枠」的配慮もあったと思います。

ただ、堀下さんでいえば「肉声の」「峰雲の」のような、埒を踏み出ようという句があって、それが疵とみなされただろうという気はする(予選通過の人たちが攻めてないというわけでは、もちろんないですが)。

寒蟬:
かなりの冒険作、野心作と見ましたが必ずしも成功していない。大いに暴れるのはいいのです。ただ勝負に出た句が必ずしも成功していないのが残念。


27. 利普苑るな 「否」

信治選

 漕ぎ出せば川岸長き薄暑かな
 母の日やベンチに並ぶ松ぼくり
 盆波の犇いてゐる板の下
 用水路跨ぎ花野に入りにけり
 てのひらに硬き切符や冬ぬくし
 春落葉日当るものはくれなゐに
 少年のまなじり赤し磯巾着


寒蝉選

 漕ぎ出せば川岸長き薄暑かな
 母の日やベンチに並ぶ松ぼくり
 木犀やわれ亡きあとの太陽系
 用水路跨ぎ花野に入りにけり
 和紙にある草のぬくみや時雨来ぬ
 流氷より戻りし人に灯せり
 抱き戻りけり朧より出し猫
 死神に否と応へし春の夢

信治:
利普苑さん、今年、亡くなられたんですよね。
闘病のあったことを感じさせる句はありましたが、まだお若いので驚きました。

寒蟬:
FBの友達でしたが亡くなったという発表が御主人からあって、本当に驚きました。長い間G(癌のことを彼女こう書いてました)と闘っておられたようですが。今から思えば

 熱帯夜病棟に棲む黄泉神
 木犀やわれ亡きあとの太陽系
 花野道死は弾丸となりて来る
 白線の向かう黄泉らし蚯蚓鳴く
 死神に否と応へし春の夢

などは死を予感して、或いは死と向き合っている毎日だからこそ作れたのかなと。

信治:

 漕ぎ出せば川岸長き薄暑かな

川筋に沿って漕ぐかぎり、川岸が長いのはあたりまえなんですが、でもふしぎな実感があります。漕ぎ出したら、長い川岸の長さに、かすかな感情のざわめきを感じながらこぎ続けなければいけない。「薄暑」が祝福であり、救いであり。いい句だな。

 用水路跨ぎ花野に入りにけり

花野は異界なので、結界があるという発想はあるとは思いますが、用水路跨ぎ、というこのざっかけなさに好感。

 春落葉日当るものはくれなゐに

これは、夕日ってことですよね。春で、落葉で、没日で、それはあかあかと、はかなく美しかったと。

 少年のまなじり赤し磯巾着

ちょっとエッチでいいですね。

闘病を感じさせる句については、この作者の自分へのはげましだったろうと思います。
それでいいんだろうと。


28. 小池康生 「一睡」

信治選
 閉館のキネマの隣布団干す
 海に浮くごとくに聴いて除夜の鐘
 外出はせぬがよそゆき大旦
 地の雪と五重塔に載る雪と
 マフラーに普段着のありそればかり
 花水木住めば覚える人の顔
 たけのこの白きところに値の書かれ
 我ながら大きな文字や夏見舞
 黒南風や五人で守る草野球
 釣り人を離れぬ鷺や秋の昼  

寒蝉選
 閉館のキネマの隣布団干す
 男湯と女湯代はる去年今年
 お水取り巨きな夜を燃やしけり
 啓蟄の秘仏の腹のレントゲン
 青空を眺めに出掛け落第す
 鳥交る片方だけが無表情     
 苗札のなきものばかり咲きにけり
 たけのこの白きところに値の書かれ  
 台詞なき場面のつづく涼しさよ
 バナナ剥く北に東に南西に
 唐辛子売るや辛さを詫びながら

寒蟬:
ちょっとレトロな感じのこの作者の示す世界が割と好きでした。

 閉館のキネマの隣布団干す

こういう場末の映画館、今はあまり見かけなくなりました。「キネマ」という表現も古いけれどそれが閉館しちゃっている、その横では時代の流れと関わりなく「布団干す」庶民の生活が続いている。

 男湯と女湯代はる去年今年

ありますよね、午前零時になったら男湯と女湯が入れ替わる温泉。それが大晦日と正月であっても普段と同じように続けられているという発見。「色々あるけど時間は流れて行くんだよ」という感じです。

 お水取り巨きな夜を燃やしけり

お水取りは火の祭、私は見に行ったのが幼い頃だったのであまり覚えていませんが「巨きな夜」との把握にはしっかりと見てきたものの強みを感じます。

 啓蟄の秘仏の腹のレントゲン

秘仏の胎内をレントゲンで探るという技術。啓蟄との取合せが面白かった。

 青空を眺めに出掛け落第す

これも落第という人生の一大事に関わりなく青空は常にあるとの思いがベースにある。ただこう書くと「青空を眺めに出掛け」たという能天気な行為が落第を招いたようで面白い。それでもいいじゃないか、と言っているようで。

 鳥交る片方だけが無表情

本当なのかな、でも本当かも知れないなと思わせる。つい人間同士の行為になぞらえてしまうからなのでしょうね。

 苗札のなきものばかり咲きにけり
 たけのこの白きところに値の書かれ

いい所に目を付けたなという句です。これまで挙げた句のような時間の流れはあまり感じさせませんが 箸休めとしてはいい。

 台詞なき場面のつづく涼しさよ

ああ、この人はこういう場面から涼しさを感じ取るんだなと。この感性は作者の時間に対する「仕方ないじゃん」という思いと無縁ではないでしょう。

 バナナ剥く北に東に南西に

いいなあ。何だか馬鹿馬鹿しいことに夢中になっているいい歳したおじさん的で、好きですね。

 唐辛子売るや辛さを詫びながら

詫びているのは唐辛子売りなんだけど作者も唐辛子売りに共感していて決して腹立てたりはしていない。いいよ、いいよ、仕方ないよ、この優しさのトーンが全体を覆っていると思うのです。

信治:

 閉館のキネマの隣布団干す

これは、こてこてですねw。かつての昭和モダンが失われて、庶民の町の素地が露呈している。日当たりがいいのが救いで、この国の青春時代を思いながら、老化した町がいねむりをしている、という景。「隣」は、リアルというより、すこし簡単すぎる気もしましたが。

 海に浮くごとくに聴いて除夜の鐘

なかった比喩ではないかもしれないけれど、除夜の鐘をきくのに、波の間に間にたゆたってるような気持ち、暗いような、あの世のような気持ちになっているというのは、とても、よくないですか。渚男の「船」の句を思い出したりもして。

 外出はせぬがよそゆき大旦

一転、日常としての正月風景。寒蟬さんの選んだ「男湯と」の句にも通じるところがあります。
ぼくの父はこういう人でした。

 地の雪と五重塔に載る雪と
 たけのこの白きところに値の書かれ   

写生あるある。どうでもいいことを言いがち。些事が言葉になっていくときの、なんというんでしょう、無差別、無分別の楽しみがある。タケノコの皮に、白っぽいところと毛の生えてるところがあるということですねw

五重塔の句は、視点、空にあると思いましたけど、むしろ下からですかね。

 マフラーに普段着のありそればかり 
 花水木住めば覚える人の顔
 我ながら大きな文字や夏見舞     
 黒南風や五人で守る草野球        

人間にいちばん興味がある。それも、日々の、ふつうの精神状態の人に。それがこの50句、というより、小池さんのいちばんの特徴だと思います。

 釣り人を離れぬ鷺や秋の昼      

この鷺のひとなつっこさには、微量の謎があって。お魚もらえるのかしら、とも思いますが、意味もなく近くにいるというほうがいいな。

寒蟬:
久し振りに読み返してみたら信治さんの取った

 外出はせぬがよそゆき大旦
 地の雪と五重塔に載る雪と

ものすごくいいですね。大したことは言ってないんだけれども気持ちが入って来るというか時間とともにしみじみいいなと思えてくる。

 たけのこの白きところに値の書かれ

は選んでいながら前回コメント入れ損ねていました。この発見はいい。滑稽さもあるし実に生活に即しているし「あるある」なんだけど陳腐じゃないですね。全体の中でも評点の高い作品でした。

信治:
寒蟬さんの取られた、

 啓蟄の秘仏の腹のレントゲン
 青空を眺めに出掛け落第す
 鳥交る片方だけが無表情     
 バナナ剥く北に東に南西に

とかは、すこしサービスよすぎるのでは、とも思うのです。
エンターテイナーなんですね。きっと。


新人賞について

信治:
保坂和志がどこかの講演で話していた逸話です。小島信夫に、保坂和志が「小説家も、選考委員になると、評論家みたいになっちゃうから」と言ったら、小島信夫が「それならまだいい。彼らは、選考委員になってしまうのですよ」と言ったというw

作家も、選考委員という立場になると、文学の代理人として読む、のではなくて、業界の代表者として、賞のそういう性格を無意識に反映して、読み、選別するように、なりがち。それって、たとえば、新人賞が、入社試験みたいになるということですよね。

寒蟬さんはそのへん、どういうふうにお考えでしょう。

寒蟬:
よく分んないけど俳人も選考委員になったら評論家、もしくは「選考委員という人」になってしまうということでしょうか??

信治:
作家は文学とサシの関係であり、文壇に(必ずしも)従属するものではないですが、選考委員になってしまうとは、文壇という業界の機能に、なってしまうということだと思います。

寒蟬:
私のここでの発言がどう取られるかはわからないしどうでもいいですが、私自身は業界(俳壇というものがあればの話)を代表しているつもりもないし新人を送り出そうというつもりもありません。ただ俳句の作者兼読者として思う所を自由に述べさせていただいているつもりです。

先日、小澤實さん、筑紫磐井さんと3人で第1回姨捨俳句大賞という句集に与えられる賞の審査員をやりました。面白かった!自分の俳句観をぶつけて小澤さんとガチでやり合いました。(杉山久子さんの『泉』が受賞)

私は姨捨俳句大賞の公開審査でもここでの信治さんとの対話でも、言っていることにブレはないつもりでいます。

信治:
寒蝉さんが、「賞応募作としては」と言われるとき、彼らに受かって欲しいという、気持ちで言われているのだと思うのですが。

でも、「賞応募作」として、何かを書くというのは、そうとう難しい。
そんな席題が出たら困りますでしょう?

寒蟬:
ああ、そのことですね。言葉が悪かったかもしれない。賞に応募する人は応募するからには賞を取ろうと思っているのでしょう?こちらは読者としてそれを読む時に俳句の並べ方はどうか、統一されたテーマみたいなものはあるか、などと一つの作品として読もうとするということです。それは仕方のないことだと思いますが。

信治:
なるほど。50句トータルでの見せ方ということですね。
たしかに、それはかなり大きな影響あるかもしれません。

ただ、完成度や疵のない作品を、ついつい求めてしまうのは、賞というものが、業界メンバーを選ぶ選別装置であるという前提があって(文芸誌の新人賞だって、芥川賞だってそうですよね)、選考委員となった作家は、無意識のうちに、その関所の門番として機能してしまう。

寒蟬さんも、角川の選考委員の諸先生も、いつもはそういう人じゃないのに。

寒蟬:
まあ立場が人を作るし人を変えてしまうのは致し方ないと思っています。

例えば私は医者として一人の臨床医のつもりですが、同時に病院の地域医療部長でもある。ただ部長として行動する時にも一人の臨床医であることを忘れたくないし忘れないようにしているつもりです。誰かから「お前は一人の臨床医としての立場を忘れている」と指摘されたら恥じ入るし反省するでしょう。

俳人としても同じだと思っています。分って頂けます?

信治:
もちろん分かります。

寒蟬:
「賞応募作として」なんて考える必要はないと思います。自分が俳句でやりたいことを決められた50句なら50句の中で存分にやればいいのです。それが読む側の琴線に触れれば受賞ということになるのでしょう。





【落選展2015を読む】
(1)「水のあを」から「梅日和」まで
……仲寒蟬×上田信治 ≫読む


補遺 全応募作より印象句 ≫読む

2016-04-10

落選展2015を読む〔2〕 大塚凱×堀下翔

落選展2015を読む〔2

大塚凱×堀下翔




»承前

●杉原祐之「日乗」

大塚:
畦塗の準備のままの猫車
遠足の子の聖堂に静まれる
明らかに人手不足の神輿来る
リビングの隅の聖樹の消し忘れ
などに印をつけています。文体が優しい印象でした。それだけに、順当な句に感じられてしまう部分もあります。〈夕立の気配に露店畳みだす〉〈報知器の響き渡れる厄日かな〉〈廃校の窓に小鳥の来ては去り〉など、正直に言ってしまうと面白いとは思えなかった。類想や季語のイメージに接近しすぎているということだと思います。
でも、冒頭に掲げた4句のようなおおらかな捉え方が魅力です。良い句には裏切りがある。それぞれ「準備のまま」、「遠足が静まる」、「人手不足」、「消し忘れ」というところにハッとさせられます。

堀下:
遊船や屋根を開きて橋潜る
明らかに人手不足の神輿来る
天の川濃くなり冷えて来りけり
土管より頭を出せば秋高し
あたりを取っています。突飛なことを言おうとしないで、目に見えるものを大切に書いていこうとする志向が充実した50句だと思います。読んでいると名詞の多いことに気が付きました。名詞が多い、ということはともすれば手抜きである場合も多いと僕は思います。とりあえず言葉を繋いで、それから季語を取り合わせて、みたいな。でも杉原さんの場合は、名詞が描写のために尽くされている。〈遊船や屋根を開きて橋潜る〉を見ると分かりやすいんですが、これは「遊船」というものを写生するために「屋根」とか「橋」とかの名詞が費やされる。念入りな描写って個性が出るんです。用言的に把握するのか、体言的に把握するのか、付属語的に把握するのか。杉原さんの句は体言的な把握が文体としてしっかり確立されている。凱君は「順当」な句が多いという印象を持ったようですが、それもこのあたりから来ている筈です。目に見えるモノをひたすら挙げていく、というのが杉原さんの書き方ですから。〈空港の管理用地の薄かな〉とか、取ってませんけど、根性を感じます。

大塚:
結局は語りたい10作品のうちにこの作品を選びましたが、それはその確立した文体に惹かれたのだと思います。ただ、50句作品は、書き手がいかに読者を飽きさせないかという腕の見せ所でもありますよね。執拗な写生はそれはそれで惹かれるのですが、やっぱり50句となるとワンダーというか、ハッとさせられる前掲のような作品がもっとあると、よりドキドキします。堀下くんの「体言的」という指摘は頷けました。

後半に〈演習の土嚢の積まれ枯野原〉から〈キャタピラの轍の残り厚氷〉まで、急に戦争俳句みたいになっているのは意図があるのでしょうか。句の善し悪しは別として、そこまで続いてきた流れがぶっ飛んでしまって残念でした。

堀下:
戦争俳句というか、自衛隊のイベントか何かに行ったんじゃないですかね。展示を見ながら書いた一種の吟行句かなと思いました。一般論としては、全部の句ではなくて一部分が連作ふうになっているという纏め方は特段気になりません。とはいえこの句はたしかに流れが全然違ってきてしまっていますね。視点が変わっていますから。

大塚:
ここらへんの連作としての感覚は人それぞれでしょうか。一部分が連作になっているからダメだ、なんて横暴は考えていませんけれど、これは50句のテーマ性というか、ゆるやかに連鎖する作品性が結構ブレてしまったんじゃないかという気がしたのです。結局は程度問題かとは思いますが。



●折勝家鴨「塔」

大塚:
冬銀河子が減り子守唄が減り
寒柝の耳にイヤホンありにけり
風ひとをさびしくさせるパセリかな
日盛や鳩を散らして人を待つ
虫の夜や遅れて消ゆる車内灯
どこかシニカルな雰囲気の漂う作品でした。〈冬銀河子が減り子守唄が減り〉といった捉え方、〈日盛や鳩を散らして人を待つ〉といった心の動きに惹かれます。他にも、季語の配し方が面白いと思います。掲句では、「寒柝」「パセリ」でうまく裏切られた感じ。その一方で、上五が「○○○○や」の句が多いなと。そこらへんは単調に感じます。

堀下:
冬銀河子が減り子守唄が減り
臘梅や水を掃きたる竹箒
声出して心戻しぬ草の花
などが好きです。完成された取り合わせの句が並んでいて、これはいいなと思いました。「鷹」が培った型の強みを感じました。季語のつけ口で句のイメージがぽーんと変わってゆく面白さ。簡潔だけど緻密な12音を書く作業、そこに新しいイメージを関わらせてゆく作業、その根気の50句だと思います。

こういう書き方をする場合、意味の切り取り方に新しさが必要だと思いますが、たとえば
理科室の棚に鍵あり梅の花
空席に木の影ありし五月かな
少年の夏自転車を分解す
あたりの句はどうでしょう、この「理科室-鍵」「空席-木の影-五月」「少年-夏-分解」といった組み合わせから喚起されるイメージは、もう読者の方でも共有ずみではないかと思います。「少年-夏」という組み合わせが陳腐なのは言うまでもありませんが、そこに加わる「分解」というイメージもまた、実は今となっては「少年」に内包されてしまっている部分なのではないかなと。この種の平凡な展開をしている句がいくつか見られたのが気になりました。

大塚:
作者の意識としては、「理科室」に「梅の花」を取り合わせることに面白さを志向したのではないかと思います。二句目は「空席」、三句目は「分解」という言葉のワンポイントで勝負したかったのではないでしょうか。それがあまり意外性の方向へ弾んで行かなかった、と。だからといって大きなキズでもないですし。フレーズに季語をぶつけるという「型」は強みでもありますし、一方でみんな読みなれている方法論ですから、高い完成度でいかに固定化されたイメージを裏切りつつけるかという根気勝負になっていくと思います。

この方法論は文体の自由度がどうしても低くなりがちです。取り合わせにおける文体をいかに更新していくか、僕も耕していきたい余地だと考えています。

堀下:
そうなんです。文体の不自由さがネックなんです。助詞や助動詞でくふうしたり、あるいは律を崩したり、取り合わせ文体の更新はやっていかないといけない。一方でこの50句の場合は、そういう革新を目論んでいるのではなくて、すでに確立した型の中で完成度を高めていこうとしている。細部の強度が必要な書き方です。たしかに「梅の花」「空席」「分解」あたりの語には瞬発力が感じられもするのですが、それ以外の部分がひどく無防備だと思いました。



●高梨章「明るい部屋」

大塚:
炎天やみるみる泣くぞ泣くぞ泣く
目刺くふ子もくはぬ子もきて坐る
空き箱をかかへて春の微熱かな
雨の日を昼寝してゐる漂流記
三月は木陰のやうに来てゐたり
文体・発想がのびのびしていてとても面白かったです。手を変え品を変え楽しませてくれている印象でした。その一方で、季節が行ったり来たりするのには疲れます。秋の句が極端に少なかったり、一句目の「炎天」から「春の月」に季節が戻るところでまず読みづらくなってしまう。50句作品のテーマ性にまで踏み込むとさらに良い作品になっていくと思いました。母の句が著しく多いですが、あまり他の句と有機的には絡んでいない気がします。

堀下:
空き箱をかかへて春の微熱かな
ずるいなあと母のつぶやく春の山
雨の日を昼寝してゐる漂流記
三月は木蔭のやうに来てゐたり
俳句らしい型を意識しない文体。毎年気になっている方です。平易な語彙の選択、ひらがなの多用、ずらしたり繋げたりする技術、いろんな要素が調和をとって、この流線的な印象を達成しています。発想としては飛躍の大きいものもありますが、それらを生のままぶつけるのではなく、冗語をさしはさんだり、時には過度に口語的に言ったりして、ゆるやかに結びつけていこうとする。言葉の密度は低いながらもイメージの結びつき方が緊密な句にいい句があると思います。ただ極端に字余り・句またがりが多いですね。その曖昧なリズムに価値を見出しているのか分かりませんが、もう少し定型感があると、より文体の自由度が際立つと思います。文体の自由度と律の自由度は別問題ですから。

大塚:
やはり、律の良し悪しも読後の疲労度に関わってきますよね。個人的には字余りや句またがりは好きなのであまり嫌な印象はありませんでしたが、堀下くんがそう言うのも納得はします。詩のことばはつまり暗喩に還元されると言えますが、この作者も取り合わせにおける文体をいかに個性的に、いかに書き手の味方につけるかという部分で勝負している。そうしていると、読んでいて疲れるような、律の問題が生まれてくるという側面もあるのかもしれません。この方法で作品がどこへいけるのか見てみたい。一句における韻律と意味が噛み合った時のパワー、その可能性を感じます。



●ハードエッジ「ブルータス」

堀下:
白梅のかたき莟の香なりけり
大学も大学院も春休
十薬やひと雨にふる雨の粒
遠ざかる一つの時代天の川
平明な読みぶりが気持ちよいです。この方も毎年気になっている作者です。
池に雨松の手入も済みたるよ 2014
運動会その翌日が土砂降りで 2013
と、これは過去の「落選展」の句ですが、どうでしょう、僕、好きなんです。口当たりのよさと言いますか、すらすらと口をついて出てきたような感じがあります。去年の落選展のときにも書いた気がしますが、はじめからこの形だったんだろうな、という素直さを感じます。〈白梅のかたき莟の香なりけり〉〈十薬やひと雨にふる雨の粒〉のような素朴な写生句を50句揃えたらかなり読みごたえが出てきそうな。一句目、「かたき莟の香」がいいですね。硬さと匂いなんてほんとうは順接で関係づくものじゃないのに、でも、あのあおくさい莟の匂いはたしかに「かたき」の感じがあります。二句目は実はどういうことを言おうとしているのか模糊としている、でも、ざあっと降った雨の一粒がありありと目に入ってきます。雨粒を描写するために雨降りを持ちだす、という単純だけど念入りな書き方。

大塚:
正直、採った句はそれほど多くない作品でした。理屈っぽさがどうしても拭えなかったから、当初は平明という印象ではありませんでした。ただ、読んでいくうちにそのなかに堀下くんの言うような面白い作品があったので頂いたという次第です。

堀下:
理屈っぽさというと、
新聞も三月三日ひなまつり
ものを煮ることなき水が噴水に
「盆踊雨天中止」が雨に濡れ
あるモチーフの意味性を取り出して、その意味から少しずらしたモチーフをもう一つ横に置く、という作り方。意味のリフレインとでも言いましょうか。でも、いや、それは面白くない。

大塚:
そうですね。〈空蝉と例へば空の段ボール〉とか、「そこで空って言う!?」って思いました。因果を感じたくないな、と思いながら俳句を読みますが、発想につながりが見えるともう因果に引きずられてしまって言葉が理知的な理解で留まってしまうような感覚です。自然の大きさと時間感覚というテーマ性においては先行句は無いとは言えませんが、〈枯野行く少し狂ひし腕時計〉なんかには因果関係がなくて好感を持ちました。それから、〈蟻の巣に入らぬものを壊しをる〉〈大根も抜きたる穴も濡れてをる〉にも素直な詠みぶりの良さを感じます。変に発想を飛ばしたり空想っぽいのものを詠んだりすると、やっぱり理知的な作り方になってしまっていると思います。

堀下:
いわゆる写生句のように見えている素朴な句も、じつは理知的に作り上げられたものなのかもしれません(だったらダメだということではないですよ、為念)。というのも、さいきん素十の句を読みなおしているのですが、写生の神様と思われているこの人の句の一部が、妙に構成的な印象を発していることに気づいたのです。
柊の花一本の香かな 高野素十『初鴉』
という句、これ、いいですよね。花の香りがする、というただそれだけのことを言った句です。素十の作品世界のつつましさ、すなわち、俳句はこれだけでいいんだ、という倫理が感ぜられます。花の香りがする、という以上のことは言わなくてもいいんです。だから柊の花なんていう長ったらしい季語にずいぶん音数を取られてしまったあとも、まだ余白がある。何も言わなくていいのだけど、十七音には足りませんから何か言わなくてはいけない。そういうときに素十は「一本」ということを書くんです。こんなこと言わなくていいじゃないですか。「柊」と書かれた時点でわれわれに「一本」は見えています。だから「一本」と言い足したところで情報量は増えません。とはいえ素十の眼の前の柊の木はたしかに「一本」ですから素十はそれを写生しているわけです。捉える対象を絞った結果、却ってヘンなものが取り沙汰されている。客観写生の威力とはつまりこういうことでしょう。

でも、この句、読みようによってはたいへん構成性に富んだ句です。小さな花があって、それをつけた木があって、その木のまわりが匂っているという、三段構えの図式がある。

彼の代表句、
くもの糸一すぢよぎる百合の前 高野素十『初鴉』
における「前」というのもそうなのですが、平明な句、強烈な美意識を盛り込まない句を書こうとすると、位置関係を把握するという方向にしばしばなるんです。となると、いま「関係」という言葉が出てきましたとおり、理屈抜きで書いた筈が、変に理屈っぽく読めてしまう、ということが起こります。重要なのは逆も然りだということです。われわれは一見写生句のような句を理屈で書くことができる。ハードエッジさんの〈白梅のかたき莟の香なりけり〉〈十薬やひと雨にふる雨の粒〉、これ僕大好きなんですが、もしかするとこれらは「かたき-莟-香」「雨-雨粒」の関係性によって書かれた理屈の句かもしれない、とそんなことを思いました。



●堀下翔「鯉の息」

大塚:
また中へ戻るはちすのうへの蠅
林が疎まつすぐ行けば水芭蕉
日時計の石痩せにけり秋燕
蟻穴を出てすぐ横にちがふ穴
深秋やさうかと思ふ竹林
好きな句がいろいろとありました。やはりなんといっても文体が確立している強さです。〈また中へ〉〈蟻穴を出て〉の句は第6回石田波郷新人賞受賞作にある〈茎を蟻登り来てまた引き返す〉などに通ずるある種のゆるい馬鹿馬鹿しさ、だけれど対象を執拗に眺めているという目線。あるいは、〈林が疎〉というフレーズに代表される表現の密度。その両者、つまり対象への目線の密度と表現の密度が中心にあります。堀下くんの堀下くんたる表現は、その助詞の用い方でしょう。〈をさなくて春暮れゆくに遅れをる〉〈こひいつもその日のことの燕かな〉のように、敢えてワンポイント的に「に」「の」などの助詞を用いています。どの助詞を用いるかで、前後の動詞や切れの置き方にも影響が出てきます。あたかも助詞から一句を組み立てていくような感覚が、堀下翔のもつ心地よさの大きな部分を占めていると僕は感じています。

堀下:
取ってくれてありがとう。僕はおしゃべりが好きなので自分の句ですが気兼ねなく書かせてもらいます。神は細部に宿るといいますか、助詞とか補助動詞とか助動詞とか、そういう部分で表現の精度を上げていくのがまず自分の仕事かな、と思っています。そういう意味で自分は言葉派と思われてもいい。でも技巧が風景に先んじているのではないということはぜひ言っておきたいです。どうも僕は外を歩くのが好きで、特に花があまり咲かない土地で育ったものですから、草木のうつくしさには心を奪われます。花を見ておどろいた気持ちをそのまま書きたい。美しいものを「美しい」と書いたところで何の足しにもならないのでしぜん言葉の細部で補強してゆかなければならない。机上派と言葉派は同義語ではないんです。さいきん気になっている句集に千葉皓史『郊外』があります。千葉の扱う題材は、多くは身辺や自然で、派手なところはありません。どの句をとっても、風景・表現ともにシンプルなんです。でも、こういう句があります。
東京に人影は秋来てゐたり
この助詞への気の配り方、はっとします。同句集所収では〈裸子がわれの裸をよろこべり〉といった句の方が有名でしょう。「裸子が」の句の助詞は一見平凡です。でも、動かない。この風景を再現するための最適解なんです。どの助詞も緻密に鍛え抜かれている。僕もこういう態度を取りたい。正直にいえば今年の角川の50句は今となっては甘い句ばかりで、読み直して赤面しています。もっともっと確かな句を書いてゆきたいです。
肉声の日々なり麦が笛になる
林が疎まつすぐ行けば水芭蕉
柿の花石白く水湧きにけり
あたりは、とりあえず残してもいいかな、という気がします。


大塚:
肉声の句なんかはさっき堀下くんが言ってた「理屈」の話に近いものを感じます(笑)

これは位置関係の句ではないけれど、平明なふりをして一種の理屈としても読めてしまう部分もあるかもしれない。敢えて批判をするとすれば、やや観念的であったり意味が取りづらくなっていたりしてもその韻律にごかまされてしまいそうになるときがある(笑)〈めくるめく史実を春の暑さとも〉などは「史実」という言葉が身に迫るかといわれるとそうではない。〈視力たのしく走りたり麦の中〉の「視力」なども挑戦は面白いけれど、「たのしく」への語彙選択に無理が生じてしまっている感があります。それを押し通してしまいかねない韻律の力強さはあるけれども、成功しているかといわれるとそうではないと思う。

堀下:
あはは、ごまかすつもりはないんだよ(笑) でも確かに観念的な句が交じっているのはよくないねえ。もっと即物的に書く根気強さを身に着けたいと思います。

大塚:
話がズレますが、「理屈」や「観念」という言葉においては、それをときにアレルギー的に忌み嫌い、ときに抗生物質を投与するような安易さで作品の評価に用いているという側面があるのではないかと懸念しています。これらの言葉の定義も曖昧ではあるのですが。「ホトトギス」昭和8年4月号に山口誓子が「詩人の視線」という題のアフォリズム的文章を寄せています。要するに京大俳句草創期に、婉曲的な表現を用いながらホトトギスひいては高浜虚子批判をした離脱表明とも受け取れる文章なのですが、そこには「選者はいまかいまかとその句を選から外そうとしているのだ」というような文脈があるのです。誓子の指す「選者」は虚子のことですが、われわれひとりひとりも〈選者〉だと拡大解釈するならば、その句を選ばなかった場合には理由を後付けているような気がしていて、「理屈」や「観念」といった言葉はそのような場合に多く用いられているような感覚が僕にはあります。これらの言葉には注意しないといけない。きっと「理屈」「観念」にも石に玉が混じっているような気がしていて、これらのことばで句を切り捨ててしまうことには反省がつきまとっています。本当に話がズレました。

堀下:
耳が痛い話です。「理屈」とか「観念」とか、あるいは僕は似た文脈で「意味」という言葉をよくネガティブワードとして使いますが、ほんとうにこれって切り捨てていいものなのか、切り捨ててしまうのは早計なのではないか、ときどきそんなことに思い至って真顔になります。「理屈」「観念」を否定するのが後付けの理由であるとは僕には言い切れません。俳句のポエジーはそういったものではないのだ、というフレーミングを長いあいだ俳句作者たちが重ねてきた結果だと思います。でも、そうではなくて、われわれが「理屈」だとか「観念」だとかと呼んで“いない”ものの中に、実は「理屈」「観念」に相当するものがあって、時としてそれを面白がっているのではないか、そういう虞を感じるのです。たとえば「この句は味があるね」というときの「味」なんかその最たるです。いったいポエジーとはどこに発生しているのか、きちんと選り分けて行かないと、うっかり「理屈」「観念」を暴力的に切り捨ててしまうことになりかねない。言葉というものそれ自体が観念の上にあるので、ほんとうは理屈がない、観念がない言葉というのはありえないんです。そこから目を逸らすのは戒めないといけない。以上の点、今年はもっと冷静に考えてみたいと思います。でも、やっぱり「理屈」は嫌いです(笑)



●前北かおる 「光れるもの」

堀下:
手堅い句が多いと思いました。
立春の水を掬つて顔に
花冷の学生服の背中かな
五本づつ炉火に挿し足す串のもの

要素が多めで、ともすれば焦点がぼやけがちではありますが、新奇さを狙わず、淡々と書き進めていく感じに惹かれました。一句目は要素が多いうえに述べ方も悠長なんですが、そのゆるゆるとした感じが景と合っています。二句目は季語がいいですね。三句目の即物性も大好きです。〈山の雨降りて明るき泉かな〉のような、自然をポエティックな印象で書きとどめようとする句よりも、掲出句のような、人間生活を着実に言葉にしていく句の方に味があります。

大塚:
僕も似た印象でした。採れる句が多かったです。なぜ10作品に入れなかったかというと言い訳めくのですが、文体に新奇性をあまり感じなかったからでしょうか。必ずしも新奇であればなんでもいいというわけではなく、それならそれで手堅さで勝負するタイプの作品も尊いものだと感じますが、それでもって強くインスピレーションを受けるほどの派手さは感じなかったです。〈立秋の候と書きさし窓の外を〉などの景色に惹かれましたが、いい意味で裏切られるような感覚はなかった。例えば花冷の句なども採ってはいるのですが、「花」の成分が「学生服」とマッチしていて、「冷」の成分が「背中」とマッチしているような感じ。句としてはいいとは思うのですが、あくまで「納得する」というレベルでの配合だったかなと思います。ちょっと順当さが拭えませんでした。

堀下:
なるほど、花冷の句の分析、納得します。たしかにその要素ごとの対応は「納得」を生むものです。一句の中にそういったいくつかの力関係があるんですよね。言葉の引力が、べっとりと全体を塗りつぶさず、微妙に拮抗している句にいいものがあると思います。



●宮﨑莉々香「眠る水」

大塚:
最初に取り上げた青本柚紀さんと同年齢ですが、あちらが象徴性の作家だとしたらこちらは切実さの抒情で読ませる書き手です(寒蟬さん信治さんの対談の方で僕と堀下くんも同年齢とされていましたが、正確には僕と堀下くんは1歳上です)。実体に対して仮想や観念を発想するという方法で作られています。

完成度が高いとは言えませんでしたが、面白くなりそうな句がありました。〈おおきな良夜のちいさなコンビニの聖書〉は「おおきな」と「ちいさな」がすごく勿体無いけれど、目の付け所はいい。〈鯛焼きを分け合い星に歴史かな〉〈春雨のあとの静かな象舎かな〉なども面白いと思いました。ただ、表現が粗かったり発想が安易である句も多いのは確かです。一般に「俳句的」ではない語彙、表現を用いようという志向があるのだと思いますし、そこに可能性を感じます。〈嵐や風の転校生は鹿をみる〉など独特なリズムに惹かれました。一方で、無理やり言葉を飼おうとしてしまっている感があって、言いたいことがたぶんうまく表現できていない。そこのバランスが取れるようになってくると、もっともっと面白くなると思います。

堀下:
鯛焼きを分け合い星に歴史かな
実感や詩のように飛ぶ春の蜂
あげまんぢゅうのぢが好きなのだ春の虫
あたりが面白いと思いました。言葉に懸けようとしていながらも、肝心の言葉の精度があまり高くないのは否めないと思います。この人のやろうとしていることは「切なさ」ですよね。平凡なものを見ている筈なのにそれが切なくて仕方がない。その切なさを、お前には分からないんだ、と言って逃げてしまうのではなくて、できるだけ分かりやすい形で相手に差し出そうとしているんだと思います。でも、言いきれていない。あるいは、いや、そんなに大したポエジーではないぞ、というケースもあります。稚拙な情感をこのひと流の文体に流し込んでしまうと、独り相撲の滑稽さになる。そういう意味で〈鯛焼きを分け合い星に歴史かな〉なんかは、情が過多といえばそうなんですが、「歴史」という言葉の軽さに見るものがありますし、それが「星」という詩語と結びついて、大がかりなようでいて実はポップに仕上がっているのも面白い。二句目の「実感や」もキているでしょう。「春の蜂」でいいのかと言われればちょっとダメだと思いますが。三句目は「春の虫」でどうにかなっているような気がしないでもないです。
卒業や写真にうつる大きな木
親戚や同じかたちの雑煮餅
みたいな、王道的すぎる詩情は、一周回ってるのが分かっている人ならばいいのですが、読者はそれほど親切じゃありませんからね。この作者と親しいわれわれなら、両句の「や」の馬鹿丁寧さあたりからその機微を察せますが、ハタから見たらやばい人になりかねません。

大塚:
堀下くんの言うように「なんでこれを面白がってるんだろう」と思う句もありますけれど、あんまりそれを指摘しても意味がないような、50句を読んでそんな気がしています。それよりも、この人にはキてる作品を書いてもらいたい。観念といえば観念の構造なのですが、それが面白い観念だという場合がある。50句作品という単位での完成度では他の方に譲る部分が大きいですが、ときどきキてる句が見られたのは幸せでした。

堀下:
卓抜した展開で揃った50句が見たいですね。そのときのために読者の方もきちんと批評できる言葉を用意しておかないと。「キてる」じゃあんまり享楽的な読者ですから。

大塚:
それは反省ですね。口走りすぎました(笑) とにかく、今後の作品が楽しみです。



●利普苑るな 「否」

堀下:
型の強みで取りました。
転校は履歴書に無し蓼の花
はいかにも蓼っぽいし、
和紙にある草のぬくみや時雨来ぬ
はいかにも時雨っぽい(あとこれは「来ぬ」もいいですね)。季語が動かないのもよさです。

あと、
鳰鳴くや鎌田實をポケットに
というのも、ちょっと俗っぽすぎるかもしれませんが、意外な感じがして好きです。優等生らしすぎるのが却ってばかばかしいような。
西国より届く白桃父米寿
の「父米寿」や
白玉や野良猫三代盛衰記
の「盛衰記」
光満ちたり花虻のホバリング
の「ホバリング」

は、その一語に俳句の面白味を求めすぎで、丁寧に書いてほしいです。

大塚:
利普苑さんも実感の書き手かとお見受けしました。

料峭やてつぺん見えぬ螺旋階〉、螺旋階段をそう略して伝わるのか微妙に思いましたけれど意外性があります。〈囀や応募葉書に貼るシール〉なんかも生活詠としていいところだと思います。その一方で〈漕ぎ出せば川岸長き薄暑かな〉〈てのひらに硬き切符や冬ぬくし〉など、実感はあるけど既視感の強い作品、パターン的な季語の付け方を感じました。ここら辺が残念に思います。これらを〈転校は履歴書に無し蓼の花〉と比べると、やはりフレーズの視点、季語の配合ともに単純な物足りなさを感じてしまいます。

堀下:
ああ、切符がどうのこうのというのは、やっぱりねえ……。〈漕ぎ出せば川岸長き薄暑かな〉も、薄暑だと、もうなんにも残らないですね。一昨年の秋に出た利普苑さんの第一句集『舵』、いいんですよ。
一行の編集後記夏来る
引算の答さみしや蟻の列
あつけなく猫の逝きたる桜かな
季語のつけ筋がはっきりしているし、他の12音の方も強度がある。さっぱりとした喪失感を書いた句がとてもいいんです。これはまあファンのわがままですけれど、今年の50句は情や生活臭が強すぎるのかな、という気がします。そういうわけで〈転校は履歴書に無し蓼の花〉が一押しでした。



●小池康生「一睡」

大塚:
手袋もをのこも行方不明なり
ゆきぐものよこにあをぞら法隆寺
降り残す雨を今ごろ椎若葉
花水木住めば覚える人の顔
安心して読めた一連でした。それはおそらく、用言を中心とした無理のない句作りによるものでしょう。緻密な写生という句柄ではなく、ものごとを大掴みなフレーズに練り上げ、季語と取り合わせるという手法です。その把握が例えば〈ゆきぐものよこにあをぞら〉というリアリティを生んでいます。その句柄は「降り残す雨」の物理的な動きを描くのではなく、「雨を今ごろ」というおおらかな言葉から椎若葉らしさを描き出しています。しかし、〈鳥交る片方だけが無表情〉や〈生身魂あの世の下見済んだらし〉などは作者が思っているよりも面白くはないと思いました。描くというよりは述べてしまっているような、身に迫る表現にはなっていないと思います。〈新暦の方の二月を愛しをり〉という暦の概念までいってしまうと、正直ついていけないという思いでした。

堀下:
ゆきぐものよこにあをぞら法隆寺
描きかけの消防車なり出動す
花水木住めば覚える人の顔 
降り残す雨を今ごろ椎若葉
あ、選がだいぶん被りました。やっぱりこのへんがいいですよね。大らかな味わいを大らかに書く句にいいものがあります。類想感の強い句(〈男湯と女湯代はる去年今年〉〈台詞なき場面のつづく涼しさよ〉あたりです)や現実世界の「あるある」をそのまま俳句にしただけの句(〈立春のトールサイズといふカップ〉〈一本も観ずに延滞春の雨〉あたり)、それから凱君が指摘したそれほど面白くない句を丁寧により分けていくと、重心のしっかりとした句が残って、それらに明確な共通点があるわけでもないようなのですが、どれも大粒で面白かったです。たぶん人情だとか通俗的なかっこよさに別段の面白味を感じて書いている作者だと思うのですが、それをそのまま俳句にするよりも、その恰好のつけ方、まなざしの持ち方で俳句的素材を扱った句のほうが成功しています。

大塚:
先ほど安定感と言いましたが、それは句末がとくに名詞で着地する傾向とも関連していると思います。読後にキッパリとする感じは、この効果による部分も大きいかと思います。

2015-11-01

2015角川俳句賞落選展 22 堀下 翔  23 前北かおる 24 岬 光世  25 宮﨑玲奈(宮﨑莉々香) 26 薮内小鈴 27 利普苑るな 28 小池康生

画像をクリックすると大きくなります。

22 堀下 翔 
「鯉の息」



23 前北かおる 「光れるもの」



24 岬 光世 「波の記憶」



25 宮﨑玲奈宮﨑莉々香)「眠る水」





26 薮内小鈴 
「声真似」



27 利普苑るな 「否」


28 小池康生 「一睡」





 22 堀下 翔 「鯉の息」 ≫テキスト
23 前北かおる 「光れるもの」 ≫テキスト
24 岬 光世 「波の記憶」 ≫テキスト
25 宮﨑玲奈(宮﨑莉々香)「眠る水」 ≫テキスト
 26 薮内小鈴 「声真似」 ≫テキスト
27 利普苑るな 「否」 ≫テキスト
28 小池康生 「一睡」 ≫テキスト

2015角川俳句賞落選展 27 利普苑るな「否」テキスト

27. 利普苑るな 「否」

漕ぎ出せば川岸長き薄暑かな
夏つばめ高く天駆け人の葬
母の日やベンチに並ぶ松ぼくり
山雀のモールス信号ツツツツツ
白玉や野良猫三代盛衰記
太宰忌の枝に揺れゐる蛇の衣
待人の来ぬらしと酌む梅酒かな
梅雨雲に突つ込む機体退院日
熱帯夜病棟に棲む黄泉神
留守宅に猫の気配や吊忍
西国より届く白桃父米寿
盆波の犇いてゐる板の下
破戒僧のごと林中の曼珠沙華
ドラマーの刻むカウント桐一葉
木犀やわれ亡きあとの太陽系
弱法師を照らして行けり流れ星
用水路跨ぎ花野に入りにけり
孫の名を遺言とせむ葛の花
秋夕焼ドンキホーテの背景に
転校は履歴書に無し蓼の花
花野道死は弾丸となりて来る
白線の向かう黄泉らし蚯蚓鳴く
てのひらに硬き切符や冬ぬくし
月光を掬ひ舞ひたる枯葉かな
和紙にある草のぬくみや時雨来ぬ
手首折り猫の寝返る夜寒かな
鳰鳴くや鎌田實をポケットに
車積む車走りて年の暮
境内に入る一礼や初鴉
日脚伸ぶ砂時計付くティーセット
眠さうなキリンの遊具雪もよひ
探梅や寄り来る猫の縞模様
流氷より戻りし人に灯せり
料峭やてつぺん見えぬ螺旋階
あるときは鴉を濡らし春の水
紅梅や日溜りなれば歩を緩め
下萌に小さき虹のありにけり
雛の間やちりばめらるる赤きもの
抱き戻りけり朧より出し猫
春落葉日当るものはくれなゐに
死神に否と応へし春の夢
木瓜咲くや古書肆の主の厚眼鏡
湯に放つはうれん草や今日も雨
はこべらや天衣無縫のひとでなし
苗植ゑし畦に来るか鳥の声
囀や応募葉書に貼るシール
光満ちたり花虻のホバリング
春昼や糸の尾長くグルーガン
ふつふつと草の呟く穀雨かな
少年のまなじり赤し磯巾着






■利普苑るな りーふぇん・るな

1959年広島県生まれ、大阪府在住。1989年「河」入会、2005年退会。2007年「鷹」入会、2012年同人。句集「舵」2014年(邑書林)

2015-06-07

利普苑るな 末期 10句

画像をクリックすると大きくなります。
週刊俳句 第424号 2015-6-7
利普苑るな
クリックすると大きくなります
テキストはこちら
第424号の表紙に戻る

10句作品テクスト 利普苑るな 末期

末 期   利普苑るな

末期長くあれかし新茶啜りをり

麦秋や病院よりも白き墓

猫の待つわが家遠しや薔薇香る

病床の夏暁パッヘルベルのカノン

聖五月額に楔打ち込まれ

逆縁の不孝よ父よ初蛍

かはほりや隣のベッドより寝息

病窓より航路と線路朝ぐもり

夏蝶や水玉柄の脳画像

目鼻消し泣きたき日あり雲の峰



2015-01-25

【2014角川俳句賞 落選展を読む】 5.書き続けるしかない 依光陽子

【2014角川俳句賞 落選展を読む】
5.書き続けるしかない

依光陽子


≫ 2014落選展






 

23. 菜の花(前北かおる)

菜の花や乳白色の雨の降る 前北かおる

50句全て春の句でタイトルが「菜の花」。50句中に菜の花の句が5句ある。
その中では掲句は見どころがあり、また50句全体でも大粒の句といえばこの句だろう。

「乳白色」に見える雨だから、かなりの粒で雨脚の強い雨だ。視点を一旦一面の菜の花畑の遠景に置き、次に近景に目を引き寄せたときの「乳白色」の効果。雨自体は透明なのに言われてみれば確かに「乳白色」に見えるときもある。

「乳白」という文字、牧歌的でありながら野趣もある。菜の花の明るさを生かしつつ、花の持つ雰囲気に落ちることなく踏みとどまっているところがいい。

白梅や縦へ縦へと咲きふえて

雪柳や連翹、萩、枝垂桜などを詠んだ写生句は、地に近いところから咲くと詠まれるのが常套だが、「縦へ縦へ」という摑みが白梅らしいと思う。

古枝ではなく、その年新しく伸びた枝からの花だ。新枝は垂直に伸びる。咲きふえるほどの枝数を持つ木だから古木だろう。ごつごつとした幹から立ち上がった緑色の枝。一木の存在感。

ちかちかと蛍光灯や吊し雛

立派な郷土館などではなくて、蛍光灯が今にも切れそうで「ちかちか」点滅している旧家の吊し雛を思わす。「ちかちか」とするたびに、別の雛に灯が当り、一つ、また一つと姿が浮かび上がる。間隔をあけてぶら下がっている様も受け取れる。

吊し雛は伊豆稲取が発祥という説や九州柳川が発祥という説があるようだが、この句以降30句ほど続く九州で詠まれた吟行句の幕切れの句と取れば、現場は九州柳川か。

さて落選展は作者がオープンになっている分、期待度と読後感との落差は、それがマイナスだった場合不完全燃焼となって胸に燻り続ける。

笑ふ山背負うて野たり都府楼址>福岡大宰府、<菜の花や山国川も山抜けて>福岡と大分の境、<一斉に野焼くやまなみハイウエイ>大分。長崎に入り、島を巡り<春の人ゆりかもめより降り立ちて>と東京に戻ってきてお台場へ。地名の入ったご当地俳句が等間隔に置かれ、観光案内書に置かれたイラストMAPのようだ。

ぷつと雲吹き出して山笑ふかな><普賢岳痘痕だらけに笑ふかな>の二句は何だろう。50句にこの句を入れたあたりで、真剣に賞を狙う張りつめ感は消えた。<卒業の迫るひと日を甲板に>のような見どころがある句も艶消しになってしまう。50句の後ろにどのくらいの句が捨てられているか。その厚みも見えなかった。


24. 草の矢 (岬 光世)


寂かだ。静と動ならば、静。

擡げられ芥もくたや霜柱 岬光世
雑草のひようと伸びたる風薫る
針仕事してをるらしや秋簾
建て替ふることなく過ぎぬ秋桜

一句目。「芥もくた」は何の役にも立たない、つまらないものという意味。具象から発生した心象的な言葉だ。作者は枯草の欠片であったり、木端であったり、人の落として行ったモノであったり、塵埃であったり。それら霜柱に擡げられた雑多なものを見て、己の内面を重ねたのだろうか。霜柱は寂と輝いている。

二句目。「ひようと」の擬音のよろしさ。この一語があることで「風薫る」がムードに堕ちることなく一句が立った。一句目も二句目もどことなく王朝物語風に読めて来る。

三句目。秋簾の裏側の所作を針仕事と見た。「針仕事」と言うと若い人よりも年配の女性を想像する。単なる繕いものではなく、それを生業としている姿であれば、猶更その人への興味は募る。

四句目。建て替えの計画があったものの、そのままとなった家。旧い家だろう。ただタイミングを逸したというよりは、そこに住んでいた人の、こののちの永遠の不在を感じる。秋桜がそう思わせる。

念力のやうに鶏頭残りたる
接木せし手のぬくもりを持ち帰る

気持ちが乗った句も静の内に描かれる。「念力のやうに」は鶏頭の強さの描写として無理のない直喩であろう。接木した手のぬくもりを持ち帰る、という発想も目新しい。ある木に別の木の命を、人の手で継いだという静かな興奮が掌に残っているのだ。

遠雪崩眠りにつけぬ闇幾重><波音の絶ゆることなく曼珠沙華>なども音が描かれているのに、その音はとても幽かだ。

お太鼓に川風とほす夏衣><人伝てに先代の所作夏の帯><幕間に箸を交ふる木の芽和>など破綻がなく服に例えれば和服の装い。句の佇まいから作者の確たる美意識をうかがわせる。だがこういった巧い句を書く人は結社に一人くらいは必ずいるものである。以前参加していた句会で、非の打ち所がない、と思うような句が出た時「これは上手なオバサン俳句ですね」と選者が一蹴していて、はたと気付いた。

その言葉の裏には、「下手より巧いに越したことはないけれど、上手くまとまった事で納得してしまう癖がつくのは宜しくない。そこを越えるべし」というメッセージが隠されていたのだ。さらに「みずすまし」「秋の蝉」のような常套句、あるいは「ハーモニカ」「花野」句のように擬古的な情緒や観念に浸ってしまった句は落としたいところ。

家具ひとつ運び出したり雪催
片側の頬の明るき冬の晴
春蘭の涙ひとすぢ読めるなら

このあたりは作者の素の部分が見え、フレッシュな印象を受けた。一句目の季題の効果。二句目の明度。三句目の心象性。いずれも芳しい。

全体的に句の低いところに重心があり安定している。あとはどう新を開拓していくか。多少粗くてもアクセントとなる迫力のある句が欲しい。ほつれや壊れた部分があるからこそ際立つ美もある。一度思い切って、築き上げた美意識を打ち砕いてみるのも俳句の方向に感覚が研ぎ澄まされる手かもしれない。


25.モラトリアムレクイエム (吉川千早)

現代詩的なタイトル。今回の落選展の出展作品一覧を見たとき、最も期待した50句である。

しかしながら、一句目からかな遣いの混同とミス。「ああ」と思わず声が出てしまった。無念。

50句の中に幾つかの死、新しい命の誕生に触れた句があり、その重大な場面に作者が直面したこと。それは読み取れた。しかし<マニキュアの塗りあいっこや夕涼み>とその次の句、さらに<子を産めばママと呼ばれて聖誕祭>に至っては、ガクリと膝をついてしまった。

二句だけ挙げる。

人生にカレー幾たび半夏生 吉川千早

馬鹿馬鹿しいのだけれど、妙に後ろ髪を引かれた句。人生に幾たびも繰り返される事はいろいろあれども「カレー」を食べることの回数など考えたこともなかった。それを仰々しく「カレー幾たび」ときた。この畏まった文体と内容のギャップ。さらに半夏生というなかなか渋い季題を持ってきた点も現代の俳諧と言えよう。季感もピッタリだ。

秋雨や祖父は死んでも大男

亡くなった祖父へのレクイエム。在りし日の姿を思い出している。祖父の存在は死んでも大きな存在。大男は単に体格だけではなく、その人格の大きさも言いとめている。秋雨の季題は、死の直後というよりは、気持ちの整理のつくまでの時間を指している。

はっきり言って作品は未成熟。けれども何だか、適当に書いた、という感じはしないのだ。俳句慣れしていてさほど苦労もなく50句まとめることが出来てしまう作者とどちらがいいかと言われたら、多分私は、未完成だがこの面妖な50句を書く作者を庇う。そしてこの名前を憶えていようと思う。

変にまとまってしまうことなく、ともかくも俳句として鑑賞できる段階まで引き上げて再挑戦してもらいたい。


26. 猫鳴いて (利普苑るな)

一弾に矢となる犬や兎狩 利普苑るな

「弾」「矢」「犬」どれも「狩」についた言葉だが、その勢いをうまく一本の棒にした。飛んでゆく弾、一弾の音を合図に飛ぶ矢の如く一斉に走ってゆく犬、逃げてゆく兎、みな地面に水平の線となって、句になった瞬間、静止し、また動き出す。

枇杷咲くや砂に昨日の泥団子
花札の蝶舞ひたがる睦月かな
萍の揺れては増えてゐたりけり
手花火の明りに昼と違ふ庭

一句目。砂場に子ども作った泥団子がある。昨日、濡れ色だった泥団子は今日はもう外側は乾いている。泥の乾いたような苞を割って白い花を咲かす枇杷の花との取り合わせが絶妙だ。日常の、見過ごしてしまう風景。

二句目。陰暦正月、陽暦では二月にあたる睦月。正月に遊んだ花札が置かれていて、札の画の蝶が舞いたがっているかに見えた。春近い気分が出ている。

三句目。萍のたくさん浮いている水面。微かに揺れている。じっと見ていたらなんとなく増えていると感じた。「揺れては増えて」の眼差しが萍の水中の根にまで及ぶ。

四句目。手花火の仄暗い明りの向こうに、昼間とは違う庭が浮かんだ。それは花火が燃え落ちるまでのほんの一時。

ものを見る目に柔軟さがある。

深読みは不要。作者はそのままの景を言葉に乗せ、読み手はその言葉のまま受け取ればいい。すると一句に描かれたモノが生き生きと見えてくる。見せる力がある。

秋霖やときをり熱き猫の息
猫と坐す真紅のソファー雁渡る

季題斡旋がいい。

一句目。猫の息のときおりの熱さを感じ取ったのは掌だろうか。秋の冷たい長雨の一日、猫と居るひととき。

二句目は絵画のような構図。真紅のソファーが目に鮮やかだ。この猫はきっと黒猫。ソファの人も猫もまるで影のように静止している。部屋からズームアウトしてゆくと、上空を雁が渡っている。いつもどこかで何かが同時進行している。雁の列も黒。一句の中の色は赤しかない。

タイトルの句<猫鳴いて初夢のこと有耶無耶に>のほかに猫の句が5句。50句に寄り添っていたら、だんだん猫目線になってきた。すると<水無月や雫のやうな香水瓶>も<声上げて番犬めきぬ羽抜鶏>も変な世界だなぁと思う。何でもない日常に潜む小さな発見を、ひょいと掬い上げて読み手に伝えることが出来るのが俳句。強引に言語世界を作る必要はない。この作者にとって世界はすでに面白いのだから。

はこべらや温室に飼ふ元ひよこ>の「元ひよこ」は表現が浅すぎる。<かなかなや若者集ふ橋の下>の「若者」という言い方にやや旧時代を感じた。

作者が面白いと掬い上げた景の、その全てに読み手として共感したわけではない。だが50句に流れる、ほんのちょっと面白くて、ほんのちょっと物悲しい通奏低音は、この作者の個性だと思った。



メイキング・落選展を読む(勝手にあとがき)

ようやく26篇、1,300句読み切った。

約二か月間、一篇一枚の用紙に縦書きで読めるよう印刷し、鞄のなかに入れ、家以外でも毎日の通勤時や昼休み、ショッピングセンターの椅子などで取り出して読んだ。毎日誰かの50句を頭において生活する中で、少なからず応援する気持ちが芽生えたことも確かだろう。

だが前置きに書いた内容は揺らいでいない。その上で、私なりの提言を鑑賞の内に含めた。全て、未知なる俳句に出会たいという我儘な欲求と、何よりも生涯不変の俳句愛に拠るものである。そぐわない事を書いたかもしれないが、そこは読者や作者の寛大さに委ねどうかご容赦頂きたい。当初の予想通り、書いた内容は全て私自身に跳ね返って来ており、妥協せず作句することはますます困難になりそうである。しかし書き続けるしかないのだ。

落選展から新たな才能が現れることを祈りつつ連載を終えたい。他のお二方と足並みが揃わなかった事、毎回ギリギリ入稿かつ長考で編集の方々の手を煩わせてしまった事をお詫びいたします。



≫ 0. 書かずにはいられなかった長すぎる前置き
≫1. ノーベル賞の裏側で
≫2. 何を書きたいか
≫3.みんなおなじで、みんないい?

2014-12-28

【2014落選展を読む】 5. 文体 堀下翔

【2014落選展を読む】
5. 文体

堀下 翔


≫ 2014落選展



読む。


23 菜の花(前北かおる)


畸形のように短いこの詩形のなかで、いつか言葉は組み合わされ尽くすのではないか、だから俳句は有限である、という考え方がある。そんなことがあるとも思われないが、ひとつこの話から気づくのは、意味は言葉の組み合わせから生ずるのだったな、ということだ。

俳句が有限か無限かという話は結局、言葉の組み合わせは無限かどうかという点にかかっている。どちらが正しいのかは知らず、作者はぼんやりと、もしかしたら言葉の組み合わせが有限であるという予感は、ある点では、人間が選ぶ言葉に必ず意味があるという信頼に基づいているのではないか、と思う。

もっとも詩に意味を求めることがほとんど重要でないのは言を俟たない。

前北の句にはときおり得体のしれないものが混じる。

菜の花や乳白色の雨の降る 前北かおる
ちかちかと蛍光灯や吊し雛

つまり、どうして乳白色が、吊し雛が、ここにあるのだろうか、ということだ。あまりに突然なその斡旋は、雑然としていて、かつ、異様である。

それはもしかしたら、写生という発想が目指していた異様さなのかもしれない。頭の中ででっち上げた想定内の光景と決別するために、目の前の事物をそのまま言う。言葉が想定のそとへと飛び出す。写生はだから楽しかった。

写生うんぬんというのは前北の句がそれであると声高に言いたかったがためではない。重要なのは、冒頭の話に回帰するけれど、この人の句は、言葉は組み合わされるもの、すなわち、どのようにして隣り合わせるか選択するものであるという事実に立っているのではないか、ということだ。

50句に通底する雑然とした感じは、要素の多さでもある。〈ちかちかと蛍光灯や吊し雛〉。ちかちかと、というのは副詞であり、副詞は動詞にかかる。ちかちかと蛍光灯が点滅している、まで言わないとこのフレーズは完結しない。それを省略して別の要素を取り込んでいるからこの句はスマートではない。そうまでして作者は点滅する蛍光灯と吊し雛を隣り合わせようとしている。

言葉が隣り合うことの魅力がここにはあるし、作者に見えているのはきっとそれなのだろう。


24 草の矢(岬光世)


情報量の少なさはそれ自体が一句のよさだと筆者は思う。ああ、これだけでいいんだ、という安心感である。「草の矢」50句はその情報量の少なさがまず心に残った。

建て替ふることなく過ぎぬ秋桜 岬光世

自分の家を建ててかなりの時間が経った。親から引き継いだ家でもいい。建て替えてしかる年数にはなっているのだけれど、そのタイミングはとうに逃している。まあ、いいか。こじんまりとした秋桜の斡旋もあって、そういった生活感がこの句には充満している。

建て替えてもよい家を、というところを言わなかったのは、もちろん巧みな省略であるが、そんなテクニカルなことであるよりもむしろ、あっさりとした文体そのものが、この作者が描きたいと思っている生活を描くのにもっとも適切であることを思うのだ。

歴史的仮名遣いの気持ちのよさを取り込むべく、多くの句は積極的に平仮名に展かれている。これも、生活を描く文体。ただ〈鳴くこゑのひとつおほきく秋の蟬〉〈出航の合図をとほくをみなへし〉といった、感じは横溢しているけれど、よく見ればちょっと常識的だぞ、という句は多い。もっと書けることはある、という気はする。

たとえば、こんなふうな。

扉なく向き合ふ壁や冬紅葉

ある向かい合った壁に扉がない。そんなものはきっとたくさんある。だけれど言葉にされたそれがこんなに読者の胸をさわがせるのはなぜだろう。ない、ということを発見することのむずかしさがある。ない、という事実が生活にはあちこちにかくされている。

むつかしき門をくぐらず枯芙蓉

といった唐突な句がいくたびか挟まれるのも50句の特徴だった。〈念力のやうに鶏頭残りたる〉など。むつかしき門、とは何のことか分からないし、念力のように残る、というのもびっくりする。この人は生活空間をそのように見ているのか、と驚く。

やはりこれらも平易な文体で述べられていて、だからこそこれらの句を読者は信用できる。


25 モラトリアムレクイエム(吉川千早)


劇的なことを書こうとしている。

ごきぶりを初めて見た日煙草吸ふ 吉川千早

ごきぶりがいない土地から引っ越してきた人だろうか。ああこれが世に言うごきぶりであるか。人生にごきぶりが加わった。その日に煙草を吸ったという事実を並べ、この二つの事柄は関係性を持ち始める。

そんなことを関連づける作者を指して「劇的なことを書こうとしている」と言う。煙草を吸うような年齢にもなって、そんな些細なことに特別な意味を持たせずにはいられない作者。〈鍵穴に鍵置いてある桃の花〉といった意外な季語の置き方や〈秋雨や祖父は死んでも大男〉といった独特の景の嗜好にもその姿が見える。

オーバーザレインボー服薬死ぞ〉などは、ちょっと俳句としては強引なんじゃないの、という気がする。


26 猫鳴いて(利普苑るな)


王道的な取り合わせが中心の50句。形が整っていることの安心感がある。その型のなかでどれだけのことを述べられるか、というのは型を意識する人全員が共有する問題だろう。たとえば、

かなかなや若者集ふ橋の下 利普苑るな

を見ると、ああよかった、季語を除いた12音でこれだけたしかなことを言い得るんだ、と思う。学校が終わった若者たち。二、三人ではなく大勢で遊ぶ。そんなとき彼らはいつも決まって橋の下に行くのだった。公園となっている河川敷。川がすぐそこに流れる。花火をすることもあるし、そうでなくても集まってしまえば、子供が使うような遊具やアスレチックを駆けまわる。〈かなかなや若者集ふ橋の下〉はほんとうにそんな若者のことを書いているのだと思う。〈サルビアや二人の記憶喰違ふ〉〈足場より叫ぶ棟梁稲の秋〉などを読むとき、われわれは、取り合わせの俳句はどんなことでも書けるのだ、という事実を確認する

一句はとてもゆっくりとしている。緩急というものが俳句には確かにあって、それは作者によっても違うし一句によっても違うのだけれど、この50句はどれもが同じスピードのなかにある気がした。〈萍の揺れては増えてゐたりけり〉〈生身魂欠伸を猫にうつしたる〉といった一物仕立ての句でも同様であり、それもやはりひとつの安心感として受け取られた。

良いお年をお迎えください。

≫ 1.その年の事実
≫ 2.嘘と事実
≫ 3.ダイナミズム
≫4.書いているところ



2014-11-02

落選展2014_26 猫鳴いて 利普苑るな

画像をクリックすると大きくなります。





週刊俳句 第393号 2014-11-02
2014落選展 26 猫鳴いて 利普苑るな
クリックすると大きくなります

落選展2014_26 猫鳴いて 利普苑るな _テキスト

26 猫鳴いて 利普苑るな

黒革の遺愛の寝椅子冬来る
しぐるるや紅き表紙の「遊女考」
一弾に矢となる犬や兎狩
枇杷咲くや砂に昨日の泥団子
猫鳴いて初夢のこと有耶無耶に
縦割れの爪宥めゐる二日かな
老犬と父の声あり枯木立
花札の蝶舞ひたがる睦月かな
蝋梅や棘の鈍りし鉄条網
狐鳴く集合写真中の吾
寒椿彼の世いよいよ賑へる
水仙やなべて海向く異人館
アボカドのみどりさみどり春立ちぬ
野良猫の嗅いで行きたる黄水仙
新月や終りかなしき猫の恋
ひらがなの連なる花壇はるのひる
太白を従へ春の月のぼる
日輪のゆつくり落ちぬ花菜畑
はこべらや温室に飼ふ元ひよこ
陶杯の柄の花鳥や春の宵
卵白の角のほどよき目借時
鬱金香土曜のカフェをひとりじめ
春風や原色躍るマリメッコ
木には木の歓びあらむしやぼん玉
末つ子の尻より濡るる汐干狩
天空に星座川辺に夏椿
萍の揺れては増えてゐたりけり
水無月や雫のやうな香水瓶
声上げて番犬めきぬ羽抜鶏
合歓咲くや伏目ゆかしき聖母像
石あれば左右に割るる蟻の列
サルビアや二人の記憶喰違ふ
咲かされてのちの無聊や水中花
心経の無の字の多き暑さかな
明暗を分くる一日や仏桑花
手花火の明りに昼と違ふ庭
真夜の湯やまなぶた持たぬ浮人形
生身魂欠伸を猫にうつしたる
かなかなや若者集ふ橋の下
踊り来て少女の爪の光りけり
葛の葉や途切れてゐたるけもの道
赤梨の殊に不器量なるを選る
足場より叫ぶ棟梁稲の秋
星流る無数の知らぬ人の上
秋天へ走者一掃せし一打
ライヴハウス前の黒板秋しぐれ
コスモスや家族写真のこれつきり
猫と坐す真紅のソファー雁渡る
母に貸しし本の戻らず天の川
秋霖やときをり熱き猫の息

2013-01-20

【2012落選展を読む】(12 13 14 15)大穂照久 生駒大祐 司会:村田篠

【2012落選展を読む】
拘束着からレフ板まで 
(08谷口鳥子 09村越 敦 10利普苑るな 11藤 幹子)

大穂照久 
生駒大祐
司会:村田 篠


この対話は、2012/11/10から2012/12/8にかけて、ネット掲示板及びskypeのメッセージ機能を通じて交わされたテキストを、再構成したものです。


12谷口鳥子「夏星の配線」
≫読む ≫テキスト


村田:では、第2ブロック後半の最初の作品、「夏星の記憶」を読んでいきます。一読して特徴的なテーマが印象に残る作品でした。いかがでしょうか。

生駒:はい。では僕から行きます。

サンドバックの奥に窓その奥に月
山百合と油を踏んで工場へ
拘束着「どないして脱ぐねん」夏の朝


が好きな句で、荒い手触りの句群に個性と魅力を感じました。

しかし、

グローブの紐引く室温四十度
花冷えや少しきつめにバンテージ
ウェブ株価見る鹿ジャーキーしゃぶりつつ


のようにストーリーがあるように見えて、空気感のみを詠んでいるにすぎない句もあるように思いました。

村田:50句の中に、違ったテーマがいくつも並んでいます。

大穂:前半がボクサー、中盤が作業員、後半が介護ですね。

生駒:同じテーマの連作が約10句ずつ連なっているのですが、この構成に逆に散漫な印象を受けてしまい、50句を連作とする難しさを感じました。

村田:私は、全体的に身体と、身体に直結する感覚を詠まれていて、そういう意味でのまとまりはあるのかな、と感じました。ただ、〈クレソン噛み潰し記憶の夏に入る〉〈夏星の配線だけをつなぎ去る〉のような抽象的な句もあって、それで印象が混乱してしまった感があります。

大穂:身体に直結する感覚というまとまりは僕も感じました。ただ、後半の介護以外、あまり共感はしない50句でした。

村田:確かに、50句を通して作者像がなかなか定まってこない、という印象はあります。

大穂:フィクションかどうかはさておき、作品はあまり成功していないと思います。

生駒:それはなぜか、ということですね。

大穂:どこか、想望感を感じてしまいます。リアルを感じない。フィクションでも、リアルを感じることはできるけれども、この作品からは感じられないのです。

村田:「リアルを感じる」というのは、俳句に限らず、どんな創作物にとっても大切な要素だと思います。実際にそれがリアルかどうか、ということではなく、受け取り手がリアルを感じるかどうか。

このあたりを、もう少し具体的に話していただけますか?

大穂:例えばボクサー「を」詠んだ句か、ボクサー「が」詠んだ句か。この50句は前者側の域に留まっています。

だから、共感というか、突きぬけるものがない。読み手はのめりこめないんですね。

村田:自分のこととして詠めていない、ということでしょうか。

生駒さんも挙げられていますが、私も〈サンドバック〉〈山百合〉の句が好きです。リアルを感じますし、少し内省的です。

ですが、そうした句と、例えば〈ウェブ株価見る〉の句を同じ人がつくったとは思えない。この句の主体は一人称ですが、ちょっと無理をしているような気がします。私には、そういう感じがしました。

大穂:でも、介護の部分は結構よかったかなと思います。わりにリアルを感じました。

生駒:介護の部分は僕もそう思います。

大穂:生駒くんも挙げている〈拘束着「どないして脱ぐねん」夏の朝〉の句はいいですね。拘束着を着せられて「どないして脱ぐねん」という。夏の朝は雑ですが、これくらい乱暴につけてもいいのかもしれません。

ポピーの鉢かかえホームは事故処理中〉もいい。鉢を抱えて両手がふさがっている景が事故処理のホームと合います。このあたりは面白いです。

生駒:〈ポピー〉の句は僕もいいと思います。〈革軍手灼けるレンチに変色し〉もいいですね。

大穂:この作品のようなテーマなら、定型外の俳句を多く出した方がいいんじゃないでしょうか。破調字余り季語なしでも全然OKだと思います。

生駒:独特のリズムを持っている方なので、それを生かすことができればさらに良い句が出てくるのではないかと思いました。

村田:私は、この方は意外に内省的な部分に本領があるのではないか、という気がします。それが、テーマやゴツッとしたリズムとかみ合うと、もっと面白くなるし、この作者だけの特長にもなってくるんじゃないかと思います。

ざっくりした言い方で、申し訳ないのですが。



13村越 敦「駱駝の列」
≫読む ≫テキスト


生駒:好きな句から行きますと

世界ぢゆうの蟻の話をして眠る
薄暑かな道の向かうに西友見え
広告の中の家族やシクラメン
日向ぼこ遠くの日向思ひけり


このような句には成功を感じるし、実際に僕の大好きな句ではあります。
しかし、全体として「非常に惜しい」と感じる50句であることも確かです。

村田:「惜しい」については後ほど話していただくとして、大穂さん、お願いします。

大穂:いきなりの1句目、〈やがて降る雨雪のこと薬喰〉が好きです。雨催、雪催のなか肉を食う静謐な風景。景もさることながら「やがて降る雨雪のこと」がフレーズとしていいですね。

世界ぢゆうの蟻の話をして眠る〉は優しさのある句だなと思います。そういう夜のことはいつまでも忘れないものです。

黄落や捨てし水槽わづかに濡れ〉、「捨てし水槽わづかに濡れ」の部分が非常にごちゃごちゃした感じですが、いい景ですね。水槽の水滴、黄色の葉の映るガラス、土の感じなどが見えます。

村田:私は、一読して独特の匂いを感じました。

梨咲いてましろくひかる鏡かな
広告の中の家族やシクラメン
水無月の火口に石を売る男
死のかるく描かれてゐる檸檬かな


日本離れしているというか、ちょっと無国籍な感じのする句群だな、と。〈世界ぢゆう〉の句もそうです。言葉の選択と形容の問題なのか。面白いと思います。

では生駒さん、どのあたりが惜しいのでしょうか。

生駒:たとえば1句目の〈やがて降る〉の「薬喰」の惜しさであるとか。大穂さんはいいと言われましたが、僕は惜しいと思います。それから〈女正月話を聞いて暮れにけり〉の「普通」感の惜しさであるとか、〈梅雨冷や小学校は朱き海〉の朱さに共感できないことの惜しさであるとか、ですね。

良くなりそうな句はたくさんあります。〈夢にまで見し駱駝の列や橋は夏〉の下五なども頑張っています。題材も多彩ですし 、カタカナ多用や切れの複雑さを意識した句を作っていますが、そのすべてが成功しているとは言えない。

挑戦しているんだけれども、俳句の枠内でやろうとしているのが痛し痒しで。

大穂:痛し痒しというと目線を変えれば、一気によくなるのでしょうか。

村田:気になって惹かれる句は多いです。〈アネモネや作り物めく博士の手〉とか〈梟や見知らぬ街はかがやける〉とか。

生駒:句の幅は感じられるので、個性を意識した作り方をしていくべきなんでしょうね。

大穂:最後の〈けふがいちばん幸せといふ雪が降る〉という句は、〈今生のいまが倖せ衣被 真砂女〉をちょっと想像してしまいます。

生駒:個性は巧みさからでるものではないと思っています。俳句における巧みさは比較的得やすいですが、個性的な面白さを出していくのはむずかしい。既にそこを狙っているのでしょうが、もっと突き詰めてほしい。

大穂:今回の50句は既存のうまさを捨てて、新しい実験をした感じがあります。

村田:1句1句はとても工夫が凝らされているのですが、全体としてハジケた感じがしなかったです。「しばしある」「欲なべて」という入り方とか、「それとして」という慣用句の折り込み方とか、いろいろな試みが逆に手慣れた感じになってしまっているのか。

大穂:手慣れた感じもありましたが、今回の作品では、村越くんは角川俳句賞向きの50句をあえて捨てて、この50句を出してきたのではないかと。

生駒:一方で、母数が足りなかったんだろう感があります。

大穂:新しい試みの母数ということですね。でも読んで、楽しかったですよ。

村田:そうですね。私もです。



14 利普苑るな「2011/2012」
≫読む ≫テキスト


村田:次は「2011/2012」です。2011年から2012年にかけての光景を詠まれた句群、ということなんでしょうか。

生駒:このタイトルは評価できないです。

大穂:もう少し考えて欲しいですよね。

僕がいいと思った句を挙げますと、

新涼や言葉の出入りする身体
秋風や人影映す大理石
春めくや三食刷りの献立表


あたりですね。

新涼や〉の句、言葉は、耳と口だけでなく、目や肌からも出入りします。自分の体が清新な気分に満たされたなかで言葉の出入りを感じている景。面白いです。

大理石〉の句は、少し暗く反射する人影が想像できます。大理石の反射率は低いですからね。

春めくや〉、三食刷りって今学校で使っているのでしょうか。個人的な思い出ですが、春休み直前の給食は特別な感じがありました。

村田:春めくや〉はいいですね。ありのままですが、「三色刷」というようなところに注意の向く感じが好きです。

鳥交る綿のこぼるる縫ひぐるみ〉〈花茣蓙の柄よきところ選りて座す〉〈冬帽の男の低く唄ひ過ぐ〉あたりにも、表面だけではないちょっとした事情みたいなものを淡く感じさせてくれるような気がして、好きな句です。

生駒:僕は〈春めくや〉の句はあまり。「ただごと」を越える何かがあるのかと言われば、少し疑問が残るかと思いました。〈欠伸して涙ひと粒桃の花〉〈天丼の海老の尾ぱりと桜どき〉などの句もそうですね。

村田:「ただごと」というのは、どういうことだと思われますか?

生駒:「誰もが当たり前だと思っていること」ではなくて、真実を描いてはいるのだが、そのことを描くこと自体に凄みが生まれる状況。それを「ただごとを超えている」というのではないかと思います。

村田:「そのことを描くこと自体の凄み」というのは、事実というだけではなくて、根源に近いところを描いてしまう、みたいなことなのでしょうか。

生駒:同じ「経験があるな」と思わせることでも、それが既に読者の中で言葉となって認識されている事柄には驚きはないです。言葉にされることで初めてそれが真理なのだと気付かされる経験、そんなものに凄味を感じるし、ただごとの面白さの本質はそこだと思います。

村田:なるほど。大穂さん、〈天丼の〉の句はどうでしょうか?

大穂:桜どきの斡旋はうまい。うますぎますね。

村田:生駒さん、いかがですか?

生駒:僕の好きな句は

みちのくの田に花冷の至りけり
竜胆の青の極まる遠野かな
夕凪や釣人のふりしてゐたる
冬帽の男の低く唄ひ過ぐ


みちのく〉〈竜胆〉の句は端正ですし、〈夕凪〉〈冬帽〉などにはとぼけた味わいがあります。幅のある50句ですね。

大穂:夕凪〉〈冬帽〉の句はいいですよね。

生駒:季語の斡旋がうまかった。

この作者は取り合わせの可能性を信じている方だと思うので、その伸びしろを生かすことで突破口が開けるのではないかという気がします。

トーンが一定である印象を受けたので、作家性を守りつつももっと攻めてもよいのではないのかとも思いました。

大穂:全体に破綻している句は少ないですね。でも、面白い句も少なかった、というのが正直な感想です。「破綻していない=魅力的」ということではないですから。

生駒:普通を超えるものが出てきた俳句を読みたいです。

村田:大穂さん、面白い句、というのは、どういう句のことだと思われますか?

大穂:ここで言う面白さというのは、新しい視座を提案する面白さのことです。

村田:「新しい視座」とは、もう少しかみ砕いて言うと?

大穂:いわゆる俳句的な範疇、予想を超えた俳句といえばいいでしょうか。

今回の50句は、俳句の面白さが再生産的というか、プラスアルファを感じられない方向という感じがしました。

私はどちらかというと、開拓的な面白さをもとめてしまうので、そういった俳句をもっと読みたいですね。

村田:大穂さんの言葉をお借りすると、いつまでも同じ「視座」で俳句と関わってしまうことが問題だと。それは、ある程度の時間、俳句と付き合って上達してくると、必ず突き当たる問題ですよね。

大穂:難しい問題だと思います。

生駒:上手いっていう要素は面白いの十分条件でも必要条件でもない。破綻を避けて安全圏だけで詠んでいると、面白さからは遠ざかります。

賞に通るのは破綻の少ない句なのですが。

大穂:賞に落ちようが、フルスイングをする俳句が好きですね。

村田:大穂さんのおっしゃった「新しい視座」というのは、フルスイングから生まれるのかもしれませんね。



15藤 幹子「カレー係」
≫読む ≫テキスト


村田:いよいよ第2ブロック最後の作品です。いかがでしたか?

生駒:

冬の田へ神器のごとくレフ板来
湯豆腐食ふ時々四次元の生まれ

など、一句一句に驚かせてくれるポイントが含まれていて、読んでいて飽きませんでした。その中でも、

薄命にあらず日傘を回しけり

は非常に静謐な印象を受け、しかし全体の統一感を乱すことなく、好きな50句でした。

村田:冬の田へ〉はいいですよね。「レフ板」の扱い方に映像のような生々しさがあります。〈カンナ燃ゆ中学生の眼にガーゼ〉の「ガーゼ」もそう。

生駒:冬の田へ〉の句には、冬の田、神器、レフ板、それぞれがまったくつかない面白さがあります。でも、根底で通じる何かがある。実際にはレフ板を冬の田にもっていくことはないのでしょうが、それが非常にリアルに感じられます。

大穂:湯豆腐食ふ〉の句はどうですか。

生駒:はっきり言って意味が分からない句です。「時々」がすごい。句をわからなくさせている。

大穂:湯豆腐は3Dと時間の経過(1D)が必要な感じがあると思うのですが。

生駒:それは四次元を真面目に考えすぎだと思います。豆腐の形と四の字のかたちが似ている。それだけでいいです。

大穂:薄命に〉の句はいいです。薄命ではないから日傘を回す。美人薄命という言葉がありますが。雨傘を回すと人に迷惑ですね(笑)。この句は「けり」がいいですよね。

村田:いいですね。ちょっとしたひねりがあるところ。薄命と日傘を回すことは無関係なのだけれども、「にあらず」でつないでいるひねり具合がなんとも絶妙で。

大穂:ミッフィーのおうちに火の気なき夜長〉。ミッフィーの家はまちがいなく「おうち」です。そして、火の気のかけらもない。この説得力。

生駒:凧揚げや触りたくなき海触る〉の繊細、〈万緑や鼻より犬の朝始まる〉の不思議、〈五月雨や犬の耳垢耳の中〉の自然など、見どころが多いです。

あえて欠点を挙げるとすれば、〈カナッペを空蝉はづす指づかひ〉〈苺から苺へ五指のさざ波す〉などの句に見える言葉足らず感でしょうか。

大穂:五月雨や〉。こういう句はとれないです。耳垢。

村田:汚いものを詠んだ句は、わりに見かけます。

大穂:俳句の風潮として、糞とか垢とかを詠む傾向がありますが、それは、安易に認めたくないと思っています。本当に心から詠みたいと思うものでないかぎり。これは、あくまで自分の美意識ですが。

村田:私は〈カルピスを世田谷流に割るといふ〉〈クトゥルフにおでんを司る神が〉などの句がよく分かりませんでした。面白いのかどうかも分からない、という感じです。分かる人には分かるのかもしれませんが。

それから、全体にテンションが高い、という印象を受けました。まったりとものごとを見たり聞いたりしているのではなく、対象に迫ってゆくようなスタンスで詠んでおられる感じがします。

大穂:宗教、神話のモチーフが多いですね。モスク、司教、クトゥルフ、物の怪、それからニーチェ。ひとつの宗教にこだわるんじゃなくいろいろ突っ込んでいる。しかも、それ以外のテーマの句を入れているので、散漫な感じになってしまいます。

村田:「クトゥルフ」も、神話の用語なんですね。

大穂:この人の俳句は、それ自体が、どこか宗教的です。こういったルールや摂理が世の中に存在するのだと示唆するような俳句です。

鳩サブレの頸のひび、ミッフィーのおうち、盗作をした顔、日傘をまわす。リンゴが木から落ちるような、日々の暮らしの中の厳然たるルールを提示したような句。薄命ではないから日傘を回すのだという摂理。

村田:作者の中に存在する摂理を、作者の外に在るように詠む、ということでしょうか。あたかも架空の世界をつくるように。その読み方は面白いなあ。

大穂:既存の宗教を詠んだ句ではなく、もっとこういったご自身の句を読んでみたいですね。

村田:ああ、それはとても「リアル」な提案だという気がします。生駒さん、言っておきたいことはもうありませんか?

生駒:この作家は宗教などの既存の価値観を自分の中で咀嚼し、自分の価値観と混ぜ合わせてローカルに変容させ、その二次的な価値観を見せてくれているようなところがあります。それは作家性だと思うし、僕はそこが面白いと思いました。

この方向性でこのまま行くにせよ、大穂さんがおっしゃるような方向性に行くとしても、次を見ていたい作家だと思いました。

村田:それでは、このへんで。ありがとうございました。


(了)

2012-12-16

【落選展2012を読む】 落選展よ水戸橋よ(其の三)  島田牙城

 落選展2012を読む
落選展よ水戸橋よ(其の三) 

島田牙城


水戸橋といふ言葉から、人は何を想像するのだらう。

前回、水戸橋が水戸市にもないと書いたが、実は水戸市に水戸大橋はある。

ただ、水戸橋から想像できるものと、水戸大橋から想像するものとは違ふ。うん、大いに違ふ。

僕の場合だけれど、水戸橋のたもとには黄門様も歩いてゐるし、梅の花も咲いてゐる。歴史好きの人なら天狗党の暗闘まで思ひ浮かべるかもしれない。その橋が水戸でなく東京の小菅にあると知つてゐてもだ。

反面、水戸大橋にその情緒があるか。何川に掛かる橋かは知らぬが、だだつぴろい河原のゴミを引つ掛けて頽れる枯蘆原を眼下に、ジーゼルの黒い煙を吐いて走り抜けるダンプやトラックの群が見えてくるばかりだ。

さういふ意味で、水戸に水戸大橋があつたとしても、水戸橋があることにはならないのであつた。

(あ、僕はどつちがいいね、なんて書いてないよ。水戸大橋こそ俳句に書きたいといふ人のはうが、俳人としてはマトモであるといふ気もするしね)

では続ける。







わー、どうしよう、引く句がない。

 ≫読む ≫テキスト

村越敦さんといふのは、相当俳句を読んでゐる人なんだらうなとは思ふ。

でもさあ、五十句すべてが物欲しげな顔をしてゐるんだよ。

おいしいところをちよいと摘まんで見せてくれるから、句会なんかではすごく人気を得るんだらうけれど、目が覚めたら忘れてゐるよね、といふ句ばかりなんだよ。

抽象的な言ひ方になるけれど、言葉に体重が乗つてゐないといふことかなあ。

やがて降る雨雪のこと薬喰〉の〈やがて→こと〉、
木枯やくちびる荒れて街あれて〉の下七五、
屏風絵の中や音なく笑ふなり〉の〈音なく〉。

俳句つてそんなところには手柄は無いんだよ。

もつと〈物〉とがちんこ勝負してほしいなあ、期待の若手なんだもの。

福田若之さんの模型の丘の恋愛を思ひ出してしまつたぞ。模型の丘の俳句。いや、ごめん。



念珠屋の前のバス停風光る  利普苑るな

 ≫読む ≫テキスト 

具体的にしつかりと五・七・五に書ききらうとする意識が見えて、好感が持てる五十句だね。

念珠屋といふのが一般的な言葉なのかどうかは知らないけれど、お数珠を売る店なのだらう。最近ではリラクゼイションとかでお香もブームらしいし、お数珠にしてもファッション感覚溢れるものがあるのかもしれない。

仏具屋といふのとは違ひ、若者を引きつける語感がある。人気スポットなのかな。さう思はせるのが、「風光る」といふ季語の力だね。

全体はすごくぎこちないし、「や」の多用も気になるのだけれど、このまま進めばいいんじやないかなあ。

家鴨住む弁財天堂秋の声  利普苑るな

も「秋の声」で助かつた(助かると書いたけれど、上の十二音が陳腐だといふことは、解つてゐるよね。それを救ふ季語の力といふことだ)。

仮の名のままに猫飼ひ冬隣  利普苑るな
夕凪や釣人のふりしてゐたる  同

かういふ作り方をしてゐる人へは、赤の他人の僕が「ここが駄目なんだよ」なんて言ふ必要がないんだ。必ず自分で気付くことのできる句作りをしていらつしやるだから。



五月雨や犬の耳垢耳の中  藤 幹子

≫読む ≫テキスト

には予期せぬ出会ひの面白さがある。

たとへば恋愛、かういふ男性が理想よつて、理想の男を夢想して過ごす日々つて虚しいのであつて、ある日ある時、わたしはなんで今こんな男とお酒飲んでるんだらう、時間の無駄なんだけど、なんていふ程度の男のことが、翌朝忘れられなくなつてゐたりするんじやないかなあ。そして一生を無駄な時間の延長として過ごす。そんな恋愛。うん、そんな俳句。

ぬれそぼつ犬の耳を見れば、つひつひ思ひ出してしまふやうな句、だよね。

今回の50句はさうじやない俳句が多かつたやうだけど、期待してゐます。




くさぐさに名付けいづれも枯さうび  すずきみのる
昼ま逢ふ人初夢のなかに笑む  同

≫読む ≫テキスト 

うん、最後の二句。それまでの四十八句はこのための助走だつたのかいなと思ふ。

あまりきよろきよろしないで一点凝視で句を作る人なのだらう。ただし、

はつゆきを競馬新聞にて避ける  すずきみのる

など、事の面白さで終はつてゐて、「競馬新聞」とあるにもかかはらず、競馬新聞の実体が浮かんでこない。「はつゆき」の既成のうつくしさをひねらうとする意志が見えてしまふからなのだらう。その意志は嫌みになる。

掲出の二句にはそれがない。理屈を捏ねると「エリザベス」だとか「クイーン」だとか、中には日本名もあるだらうが、いろいろに美しさうな名付けをしたところで、枯れてしまへば枯さうびさ、といふことだけれど、その理屈を忌避する潔さ、スピード感がこの句にはある。「初夢」の句もしかり。



啓蟄や乳吸ふ丸き後頭部  藤尾ゆげ

≫読む ≫テキスト

以下、〈佛壇を開くと連凧のけはひ〉〈春の虎檻ごと消えてから臭ふ〉〈受験日の吊り目の聖ジョセフ像〉〈鰆の字大きく書きてバスガイド〉〈朧夜に引き抜く不在連絡票〉と、出だしの十句で六句に○を打つ。

期待。
外れ。

なんでさうなつてしまふの、といふほどの落差ではないですか、ゆげさーーーん。

夏の底剥製は眼を開けてをり〉、〈夏の底〉じやないでしよ。
蟷螂がゐる梵鐘を待つごとく〉、音は待てても、〈梵鐘〉は待てないでしよ。
ローマ字のどれにも冬の鳩のゐて〉つて、一人よがりでしよ。
正月を殴つて逃げてしまひたき〉つて、僕にはどうでもいいことだし。

勿体無いんだよねー、かういふ人。いい句を書ける人が何かの拍子に色気を出してしまふといふことだらうか。



冷えた手を載せれば掴む手であつた  佐藤文香
口元や雪は枯野へ細密に  同
谷に日のあたる時間や春の鳥  同
川までのてのひらに雛あたたまり  同
春の夕日は君の眉間を裏から突く  同
花冷の肺は吐息をほしがりぬ  同
たんぽぽを活けて一部屋だけの家  同
さへづりに濡れてはじめの樹へ戻る  同
天やはらかく暮れたり君のこゑほしき  同

≫読む ≫テキスト

大きな○を打つた九句。句集を出したあと、一度自分をぶつこはさうとしてゐた句づくりから、もう一歩抜け出したのかな。

さへづりに濡れてはじめの樹へ戻る〉は、この作者が獲得したさはさはした情感の世界を思はせるよね。ねちねちしてゐないけれどきちんと女であるといふ世界観。この句は、少なくとも昭和半ばまでの男には書けないんだよ。「はじめの樹」といふ把握が、文香俳句の地平をさらに広げたんではないかい、と思ふ。さうか、神戸やら松山やらの、瀬戸内女の俳句つてことかなあ。

ふきのたう愛の湿度のととのほる〉とかさあ、二重、いや、三重バッテンの句もある(何が「愛の湿度」だよ。読み返して、自分で恰好悪いでしよ。「ととのほる」なんてわざわざ使ふあたりも、自分で辟易でしよ)し、そもそもタイトルにした〈葉桜や丘に見えたところに来てゐる〉が頂けないといふのもあるのだけれど、どんどんおやんなさい、と書いておかうか。

さうさう、タイトルの句、〈丘に見えたところに来てゐる〉はいいんだよ。なして、この季語なの? これでは、「青い山脈」の女学生だね。

(つづく)

2012-12-02

【落選展2012を読む】その2 楢山惠都

【落選展2012を読む】
その2 移動サーカスには憧れたものです

楢山惠都




サーカスの地べたのつづき葱を焼く  嵯峨根鈴子

≫読む ≫テキスト

移動サーカスには憧れたものです。旅の一座が夜っぴでやってきて、テントを組み立て、翌日にはサーカス告知のパレードのお祭り。親にせがんで木戸銭をせしめた子どもたちは、ひげ女、力持ち、などの入った檻をまじまじと見つめる。占い女に運命を聞いたりアイスを舐めたりしながら、夜はいよいよショーの開幕。そんな数日の興行が済んだら、やはり夜中のうちにテントは畳まれてしまって、跡には色紙の残骸だけ。

股旅のきもちで葱を焼く。食材をそのまま焼くことは、飛行機も自動車も無い時代の旅の薫りがする。


火を恋ふるとは口笛のとぎれとぎれ  同

寒さにかじかんだ唇のせいでとぎれとぎれになる口笛。わたしは口笛を吹けない側のにんげんなので、この晩秋の把握が羨ましい。冷えているほうがきれいな音になるのだろうか。風船ガムを膨らませるみたいに唇をすぼませてみる。新鮮な風が口腔を通り抜ける。

 

薄氷はそろそろ水にもどりたく 神山朝衣

≫読む ≫テキスト

水に戻りたいから緩みだすのか。緩むのをきっかけとして水に戻りたくなるのか。ある状態からある状態へ移行することの、ゆるやかさ。それを見つめるひとがいる。


目が合ふとしばらく語る蜥蜴かな  同

熊を見る熊に見られてゐる間  同

蜥蜴は見つめられている。なにかを見ること。視線を介してそのものを取りこんでしまうこと。同じように、熊にも見つめられているということ。


早春のひとの呼吸を聴いてゐる  同

山茶花や見えざる声の鳴きをはる  同

五感について言う句が多いなかで、「見えざる声」とあるので、聴覚と視覚は拮抗しつつも少しだけ視覚が強いのかな、と感じた。梶井基次郎の『視ること、それはもうなにかなのだ』という一文を思いだす。


歌うたふ子や夏蝶に嫌はれて  同

そのせいだろうか、視線以外の手段は嫌われてしまう。歌が、空気をふるわせ、夏蝶の蝶道を少し撓ませる。痙攣したかのように飛び去る蝶。

 

縄跳や入る子出る子見知らぬ子  中塚健太

≫読む ≫テキスト

小学校へは電車通学をしていたので地元の友というものがいない。近所の公園では、ある集団の横になんとなく居て、むりやり馴染んで遊ぶ、ということを繰り返した。向こうはわたしの名前を知らないから、そこの麦藁帽子の子!なんて呼ばれて。

掲句は大縄のことだろうが、確かに「見知らぬ子」が列にまぎれても目立たないだろう遊びだ。どんどん輪は循環し、最後尾がどこか判然としなくなる。たそかれ時に。

つばくらめ空に縦横斜めあり  同

外出するのがめんどうなとき、空飛ぶじゅうたんがあったならと溜め息をつく。わたしたちは平らな地上にへばりついているだけだが、縦横無尽に移動できるのが宙なんだろう。

風船の己(し)が影からも放たるる  同

風船がどんどん上空へ、すると地上の影はどんどん小さくなる。じぶんの影からも自由になり、風船は天国めいた場所へと向かうだろう。縄跳びも、鳥も、風船も、上昇する動きがあるような。

 

夏星の配線だけをつなぎ去る  谷口鳥子

≫読む ≫テキスト

この秋に初めて感じたことなのだが、星座とは恐ろしいものだ。あんなに無数の星をつないで空いっぱいに獣が配置されている。星ほどの人間はまだしも、星ほどの山羊。星ほどの鯨。星ほどの白鳥。生物学が進んでいない古代なんだからどれも怪物の様相を呈している。怪物が空いっぱいに浮かんでいて、どれも不動。

恐ろしさのあまりこの頃は夜空を見上げることができない。底なしの深海にひとり放り出されたらこんな気分だろう。星の配線をつないだ古代人は凄いなと感嘆する、いや、彼らも怖かったんだろう。だからこそ物語をつくりだしたんだろう。


サンドバックの奥に窓その奥に月  同

ボクシングジムに通ったことはないが、サンドバックを延々と叩き続けて意識朦朧、汗で部屋の湿度は高いんだろうな。黙々と殴っている視線の先に窓があって、秋の、水に濡れたように光る月がのぞく。肉体と乖離して意識は冴え渡っているのだろう。

 

西葛西葛西浦安鳥雲に  村越 敦

≫読む ≫テキスト

人工の海岸にはなぜだか鳥がよく住まう。曇りの日の光に似合いそうな句。繰り返される「西」がたのしい。


絵の中の夜明のいろと寒暁と  同

絵画のいいところは、枠があるところ。枠を乗り越えてみたくなるところ。枠があるからこそ、こちら側とあちら側を行き来できる。


世界ぢゆうの蟻の話をして眠る
  同

眠れない夜は羊を数えろ、というが、あれはsheepとsleepが似ているからというだけ。そんなものに縛られず、よく眠るためのきっかけを日ごろから各々研究しておくことが肝要である。


広告の中の家族やシクラメン  同

「効いたよね、早めのパブロン」のCMが苦手だった。わたし以外の全ての娘は、あのように母を労るのだ、と罪悪感を持つから。シクラメンの濃いピンクも押しつけがましいように思えてしまう。


ハロウィンや空気つめたく灯はあつく  同

ハロウィンらしいとも思うが、それよりも、確かに十月末の街はこのようである、と思う。

 

新涼や言葉の出入りする身体  利普苑るな

≫読む ≫テキスト 

ようやく秋の涼しさがやってきて、息がしやすくなった。大声を張り上げなくても会話できるのが嬉しい。言葉の元は発声なのだ。呼吸なのだ。


仮の名のままに猫飼ひ冬隣  同

猫ほど名付けの魔力が似合うケモノはいない、と思う。寄りつかない猫を、名前によってじぶんに結びつける。特別な存在とする。行きずりの猫にうっかり名前をつけると寂しくて悲しいのでおすすめしません。不在の猫に呼びかけることができるとは、言葉はなんて恐ろしいのでしょう。

すべての神話は、自然の神秘に名を付けようとしたところから始まったんだろう。


春めくや三色刷の献立表  同

そして言葉は紙に記録されていく。だんだん紙や書物はモノとして独立していき、愛好されていくのだ。


それ以上言へば死なむと雪をんな  同

啄木忌幾度も道を問はれけり  同

言葉はコミュニケーションツールだとされるけれど、そうでもないんじゃないか。「雪をんな」にまずいことを話してしまった、不興を買ってしまった、そのずれこそ言葉なんじゃないか。

何度も声をかけられ道案内をしながら、きょうはかの啄木の忌日だと意識している。ただ言葉に注意するのでなく、その交換や有り様に敏感なひとだと思う。

 

口中にモスク沸きたつ抜歯かな  藤 幹子

≫読む ≫テキスト

歯医者で口腔をさわられることを、どうしても好きになれない。紙エプロンをかけられ、仰向く。なぜ歯医者のライトはどこでも薄青と薄ピンクと薄きいろなのでしょうね。これと似た折り紙があったと思う。と毎回考えながらタオルを目元に被せられ、治療を受ける。口につっ込まれる器具はどうやら、水を噴出するのと、風を噴出するのとある。むりやり別の考え事をするうちに麻酔の注射をされ、歯をひっぱられる。

「モスク」が「沸く」のだから、たぶん、嫌な治療から気をそらすために大きな何かをもくもく想像しているのかな、と思う。

この人を見よ鯖雲へ火の腕  同

わたしが連想するものは、『この人を見よ この人にぞ こよなき愛は あらわれたる』とうたう賛美歌121番の歌詞だ。『馬槽の中に 産声あげ 木工の家に 人となりて 貧しき憂い 生くる悩み つぶさになめし この人を見よ』という一番の歌詞から『馬槽(まぶね)の中に』と題がつけられる。『この人』は無論イエス・キリストを指す。

わたしの母校はプロテスタント系の学校だったので、礼拝は大切な習慣だった。静謐な時間がきらいではなかった。中学一年生のクリスマス礼拝だったろうか、皆でお祈りを済ませ、黙祷をしたときのことだ。まなうらには、現在わたしがいる礼拝堂が映っていた。それを俯瞰していたところ、礼拝堂の高い天井まであるようなにんげんが見えた。雲が降りてきたかのようにもくもくとしていて、細かい造作は見えない。そのひとはにっこり笑み、祝福を垂れるかのように、皆のいる席に片手を置こうとした。

そこで怖くて目を開けてしまった。

掲句にあるような夕焼けの鯖雲こそ神の御姿に近いのかもしれない。

 

鳥交る色屑溜めてシユレツダー  すずきみのる

≫読む ≫テキスト

わたしの職場にもシュレッダーがあるが、紙屑がパンパンに詰まるのでどんな鳥も巣を造れそうにない。掲句の「シユレツダー」は透き間のありそうな感じだ、まだ溜められそうな。せっぱつまっていない、ゆったり時の流れる場所にあるシュレッダーなんだろう。小まめにゴミを捨てるような。色紙の巣はイースターのお祭りも思わせる。


八十八夜少女に紫だつ会話  同

いよいよ春の動きが活発になろうとする八十八夜と、少女の華やかさ、かしましさが重なる。やっぱり恋の話かしらん……。


はつゆきを競馬新聞にて避ける  同

衣服の一部であるみたいに競馬新聞を持ち歩くひと、いますね。初雪に気づいてから競馬新聞を傘にするまで少しの逡巡もなかっただろう。

(つづく)