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2015-05-10

【週俳4月の俳句を読む】藤幹子 包む愛

【週俳4月の俳句を読む】
包む愛

藤 幹子


北大路翼「花の記憶」より

見たことがない苧環が誕生花  北大路翼

確かに見たことがない。画像を探すと大変可憐な花ではあるのだが。見たことのない花を、あなたの生まれの花よ、と指し示されたとき、人はどんな表情を浮かべればよいのか。(笑えばいいと思うよ。)この中途半端な空気、居心地の悪さ、そわそわする。

色によって変わるが、全般的な花言葉は「愚か」。うん、笑えばいいと思うよ。

近づくほどにブラジャーは紫陽花だな  同

いい。量感が、質感が、いい。花レースに丹念に埋められた四分の三カップ及びフルカップに幸あれかし。ハーフカップでは紫陽花感が薄れる。近づいて欲しいなあ。迫ってくるビジュアルが欲しいなあ。

花言葉は「移り気」「冷たい人」などが代表的らしい。冷たい女王の胸が迫ってくる、なるほど、良い。

葉牡丹が特殊な性癖だとしたら  同

特殊かもしれぬよ。二月に屹立する葉牡丹の塔を見ると、あるやもと思わせる。屹立し張りつめた頂点に、ある日ぽんっ、と可愛らしい花が咲くのだから、叱っていいやら脱力したらいいやらわからない。 どんな芸だ。

花言葉は諸説ありますが「包む愛」。確かに、出てくるまでは大事に包まれていますね。




第415号2015年4月5日
北大路翼 花の記憶 12句 ≫読む
 
外山一機 捜龍譚 純情編 10句 ≫読む 
阪西敦子 届いて 10句 ≫読む
第416号 2015年4月12日
西原天気 戦 争 10句 ≫読む

2014-04-20

刺すために BL(ボーイズラブ)と成員相互間善悪判断基準 藤幹子

刺すために
BL(ボーイズラブ)と成員相互間善悪判断基準

藤 幹子



悪徳とは何ぞや,と問いかける。

広辞苑第六版はいう。「わるい行い,道義にそむいた不正な行為」であると。道義とは何ぞや。それは「人の行うべき正しい道。道徳のすじみち」と。道徳とは何ぞや,それは「人のふみ行うべき道。ある社会で,その成員の社会に対する,あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として,一般に承認されている規範の総体。法律のような外面的強制力を伴うものでなく,個人の内面的な原理」という,ちと長い。

それでは再び問いかける。BL(およびその名が総称し想起させるもろもろの)作品とは悪徳なりしや?

雑誌「Ku+」創刊号において,問いかけられた「いい俳句」。この大アンケートに答えられた方々の多くが,「いい」とは何ぞや? と自らに問われたのではないかと想像する。週俳の前号で福田若之氏が告白しているように。

さて,あなたの「いい」はどこから? 「イイね!」と親指立てる「いい」? 楽しいの自分だけかもしれないけど,とおずおずする「いい」? 教科書に載せますよ,模範的な「いい」? 涎を拭いながらドュフフコポォって笑う「いい」? 「いい」は人さまざまにあるけれど,まさかに「道徳的であるからいい」と答えられた方はおるまい。

道徳的なところそれだけを尺度に「いい」,といわれる俳句は(おそらく)ない。しかし,悪徳的(あるいは背徳的)である事を,「いい」と感じられる俳句がある,という言葉なら,頷ける方もそれなりにいるのではないか。

もちろんそれはなぜか,の答えは簡単だ。前述したとおり道徳は暗黙の社会の規範であるから,そもそもがあらゆる言説の根底に道徳があることが前提とされている。ゆえに,殊更に道徳的である事が称揚されるはずもない。またそれゆえ,道徳から外れた(とみなされる)物や事,そしてそれを表現するということ自体が,耳目を集め,人によっては心を遠ざけ,人によっては惹き付けられる。それは社会の底をゆさぶるものと映るのだから。

「いい」は「わるい」で「わるい」は「いい」,と三人の魔女が唱えたとおり,道徳道義に反するものを好んでしまう者の価値観はどうにもそのようにできている(特に後半部分)。わたくしもまたしかり。属する社会の根っこをぐらりと傾けるような,あるいはひっそり齧り削られているような,そんな句に惹かれてしまう。

例えばそうだ,

 おまへの倫理崩すためなら何度でも車椅子奪ふぜ  御中虫

 蚊ではないものに手足を食はれけり  “

  小鳥来て姉と名乗りぬ飼ひにけり  関悦史

 造物主をミキサーにかけすりおろす  “

 われを焼きよろこぶ美少女の焚火  “

 放蕩や蛍を揉んでもみころす  金原まさ子

 ヒトはケモノと菫は菫同士契れ  “

 深夜椿の声して二時間死に放題  “

 高い窓に睡る看護婦縄に捲かれ  阿部完市

 るんるんと胎児つらぬく砲あつて  “

などなどの(いやもっともっとあるけれど)(関悦史氏なら「マクデブルグの館」連作などほぼ全てであるし)(御中虫氏の近作は)(意外と宮本佳世乃氏の句などにもあると思うのだけれど)(いや,きりがない)。

さて,ここで冒頭の問いに戻る。

実は私にテーマとして与えられていたのは「BL俳句」と「悪徳」であった。最初にそれを伺った時に考えたことは,BL(GL,つまり百合も含め)そのものが悪徳と言えるかどうかはともかく,それを楽しむ前提として,それらの根幹である『同性愛』が陰に陽に「背徳」であるとされている,ということがあるはずだ,ということだった。そして,もしそうであるならば,冒頭示した言葉の意義どおり,われわれが属する社会の「成員相互間の善悪を判断する基準」に背いていると考えられ,やはりBLは「悪徳」ということになる。

しかしながら,ここまで書いて,読者諸氏に問う。「BL」,説明必要ですか? 全く何のことやらわからない,今『同性愛』と書いてあるからそういう話なの? と初めて気づいた,という方,いらっしゃいますか。どちらかというと,「ぼんやりとだが,どうも少女マンガ的な美少年(あるいは美青年)が愛し合ったり行為にいたったりする小説やら漫画やらのことで,どうやら短詩界隈にもそれを好む人々が現れているようないないような,とにかく昨今女子から女子を遠く離れた人たちにまで妙な人気があるらしい」,ぐらいの知識はお持ちではないか。それは好悪に関わらず,頭の隅に入ってきてはいないだろうか。

(そしてゆるくご説明すると,BLとは,広義に少年愛,男性同性愛を扱う作品に冠せられる言葉でボーイズラブと読まれます。ボーイズと言いつつ,少年はおろか最近は壮年を扱うものでもそう呼ばれたりしております。GLはガールズラブであります。少女同士,女性同性愛ですね。)

時代はめまぐるしく変わっている。書を買いに町へ出よう,本屋の棚の其処ここに,BL(GL)は鎮座ましましている。立派にコーナーを設けられ,存在を明らかにされている。背徳で思い起こされるもう一極,SMや偏執的性嗜好(ようするに性欲につながるフェティッシュ)に比べたら,おそろしいほど明るみに出ている。(SMや変態性欲も,知られている,という意味においてはBLなどより昔から認識されているが,性的側面の強さゆえ年齢制限もあり,明るいところには出てこられない)

道徳という言葉の本来的意義からすると,多くの社会の成員はまだ『同性愛』を認めたとは言えない状況ではある。とはいえ,こうなると,もうBLという言葉,作品,そのものに,悪徳や背徳という看板を着せられるかどうかというのも甚だ疑問である。もはやそれは,ファッションにすぎない,BLにおける「悪徳・背徳」というものは。

そして,俳句において,BL句というジャンルが確立されているわけでもない。唯一公式に「BL句」と銘打って作成されているのは,ふらんす堂通信で関悦史氏が連載している『BLな俳句』内における氏の創作句だけではないだろうか。そして,公式に,現在BLと呼ばれ得ることがらをモチーフにしていると思われる句を集めて,それをBLとして鑑賞しているのもここだけであろう。しかし諸君。BLを愛好する人間にとって,この「モチーフとしていると思われる」の部分が何より重要なのである。

元来俳句は,読み・解釈にかなり左右される文学である。句の中に「君」が現れた時,果たしてそれは句の主体の友なのか他人なのか恋人なのか配偶者なのか,そもそも女性なのか男性なのか,はたまた句の主体自体,誰が想定されているのか,場所すら漠然としている場合も多く,その解釈は全て,読者にゆだねられている。もちろん創作物というのは多かれ少なかれそのような性質があるわけだが,俳句はとことん情報量が少ないので,読者に負うところが大きくなる。むしろ,そのような多種多様な読みが可能な事が俳句の醍醐味と言われている。

そこに,BL的読みを(具体的には句の中の登場人物の関係性を同性同士と考えてみる,句の主体に同性愛嗜好があると仮定しその感慨を読み取ってみる,たとえ対象が無機物であった時でもBL的な暗喩と捉えてみる,などなど)持ち込めたとき…おめでとう,その俳句はBL俳句へ進化した!(ただし読み手の中だけで)(そして「進化」といっていいのかどうか)

…長たらしい前置きを,また随分としたものであったが,そのような事柄を前提に,私が選ぶ悪徳(むしろ背徳)の一句を紹介したい。

それは,

 少年来る無心に充分に刺すために  阿部完市

だ。

有名句である。作者自身の自解もあったかと思う。それでも,「BL」「悪徳」のキーワードを頂いたとき,頭に浮かんだのはこの句であった。

少年来る,この少年が何のためにやってくるのか,句の主体者は知っている。あれはかつての自分であるから。彼は知っている,自分の力を試すために自分がかつてしてきた,無邪気な,しかし今大人の目から見るならば残酷で無意味な行為を。蟻を解体し,トンボの翅をむしり,コガネムシを踏みつけにし,生きものであれ植物であれ,石でつぶし,振り回し…その時の手ごたえを,力を持っている事の痺れるような悦びを,彼はよく覚えている。彼は刺しもしただろう。泥田へ,砂場へ,赤土へ,やがて命あるものへ。対象へぐっとめり込み貫くときの感覚は,彼に格別な快感を与えたものだ。力あることがうれしくて仕方がない。何ができるか,どこまでできるか。全能感に満ち溢れた日々。

しかしそれが今,なにゆえか逆流して現在の彼の眼前に現れたのだ。まだ少年の顔は見えない,だが確実に彼はやってくる。朝もやの中をあふれんばかりの力を振るうため,走る音が聞こえる。句の主体は知っている,得物は何でもよい,その力で何かを刺し貫く時のたとえようのない快感を。同時に彼は容易に想像できる,無心に,満足するまで力を振るい続けるであろう少年の恐ろしさ,そこから与えられるであろう苦痛は想像を絶するであろうことを。

彼の時間は少年であった日とつながり,円となって閉じた。逃げる事のできない時間の中で,遠い夏の日の自分に彼はいつまでも刺し貫かれ続ける。刺し貫く快感と貫かれる苦痛を同時に,そして永遠に味わいながら。

ああ,果たしてこれより背徳的な句がほかにあろうか。(いやない,と言いたいところだけれど多分ある)これをBL読みと呼ぶか否かは読者にお任せするが,私の中では十分にBL句であると強く主張するものである。

果たして悪徳とBL句,というテーマからは少しずれてしまったようではあるが,興味を持たれた方がもしいるならば,さあこわがらず,飛び込んでみましょう,BL読み・詠みの世界。手引き程度ならばしてさしあげます。さあさあどうぞ,さあどうぞ…






2014-04-13

【週俳3月の俳句を読む】藤幹子 ほっかほか

【週俳3月の俳句を読む】
ほっかほか

藤幹子


♪親バカ心に火がついて みるみるうちに吾子だらけ
あゝ恥ずかしい 恥ずかしい 吾子の俳句は止めましょう♪

いつの頃やら知らねども,結社主宰は言ったげな。「子供の俳句はおやめなさい,孫の俳句はおやめなさい,吾子の俳句は,甘くなります幼稚になりますおやめなさい」

さて,実際にいつの頃から吾子俳句忌避すべし,と言われてきているのか私は知らない。ぱっと調べてわかるものでもない。ただ現在俳句を語る場ではほぼ暗黙の了解のごとく,吾子俳句(類する子供や孫の俳句)は安易に手を出すべきではない,と戒められ,またよほどよくできたものでなければ苦笑とともに迎えられるものだ(それを踏まえた上での「(そうは言われますが)吾子俳句は良いものです」という言説もある)。

とまれ理由は明快,安易な吾子俳句の多くが子ども(や孫)の成長記録に留まっており,「ね,うちの子かわいいでしょう?私感動しちゃいましたよ,子供はかわいいねえかわいいねえ!」という作者の声(どことなくムツゴロウさんに似ている)がどこを切っても糖蜜のようにどろりとあふれ出て,一句や二句ならともかくも,何句も読まされたならばうんざりしてしまうこと請け合いであるからだ。友人の子でもさもあろう,まして他人の子どもの成長日記を読まされるのは,苦痛であるという人も多かろう。

だがしかし,だがしばし。待たれよ,待たれよ,若人よ,いやさ,枯淡を愛する老若男女よ。

つくりたくなるのだ。

御子をお持ちの方は思い出してくだされ,そうでない方もそれなりに想像してくだされ。子供,特に初めての子供を出産,家庭に子供という新人が入ってきた気持ちを。そらもう,初めてづくし。押し寄せてくる情報量が,並みの生活の非ではない。今まで知らなかったことがいっぺんにわかる(出産や育児にかかわるもろもろの言説が第三の目が開いたのではないかというくらいわかるようになる),その上,一瞬一瞬があっという間でもう戻ってこない。この驚きを(腹が人間じゃない~陣痛はこの世の痛みではない~赤子小っちゃい!~母乳って本当に出るんだ~の赤子の挙動全てetc.etc.だいたい三年くらい続く),俳に落とし込まなくては,間に合わない。今作らなくていつ作るのだ,という焦燥心(しかしその気持ちの半分は親の欲目でできている)。

吾子俳句なんて…と通人気取りがあら不思議。気が付けば四句五句,作ってしまう恐ろしさ。あゝ恥ずかしや恥ずかしや,吾子の俳句はやめませう。わかっちゃいるけどやめられない。(これが孫になると,また自分の時代との違いや,忘れていた育児の記憶,実父母とは違う気楽な立場の視点が新鮮で,やはり詠みたくなるのでしょう,きっと)

「俳句は日記ではない」
「俳句は驚きを伝えるだけのものなのか」

わかっておりますわかっております,だから前述したとおり,それだけならば,そいつぁあんまりつまらない。だからもがく。吾子俳句,また俗にお母さん俳句などと呼ばれてしまう,その形式に挑戦しては撃沈する(たまには盲目になって開き直ったりもします)。いかにして,三者的に読んでも胸焼けせず,かつ対象から離れすぎず,このもろもろの現象を俳句として立たせるか。これは子持ち(孫持ち)の俳句愛好者諸氏にとって,重要な命題になっているのではないかと考えるものである。

前置きがすっかり長くなった。上記のような状況があると信じている私は,臨月から出産,出産その後までを五十句もの連作とした山口優夢氏の「春を呼ぶ」に相対し,だから最初は耳が赤くなる気持ちで目を逸らしたのだ。(この「俳句を読む」を書くにあたって,これだけ吾子俳句について言い訳せずにはいられなかったのもそのせいである。)その癖ちらちらと拾い読みをし,結局のところ,全句を堪能した。

本当は言い訳などいらなかった。山口氏の連作は私の先入観などまるきり関係なく,素直な驚きも隠さずに,出産前後にまつわる現象を,つき過ぎず離れすぎず(時には首をひねる措辞や恰好つけすぎと思うものもないわけではなかったが。「がつしりと分娩台や百千鳥」の百千鳥,「産道を抜けて光を君は知る」は少し表現に酔ってしまっているかな,など)表していたからだ。まったく,頭の中で子ども!出産!と勝手に悶えていたのは私だけであり,ただただ恥ずかしいのであった。
 
反省しつつ,好きな作品を抄出させていただく。

臨月やまぶしくて見えない雲雀   山口優夢

そこ,に雲雀がいるかはわからない,ただ声に導かれて空を仰ぎ,陽光に目を眩ませられながらも,一心に上を見つめる。その一瞬の無心なだれかの姿が,出産という未知のものに対する面映ゆさ,畏れや敬いを体現しているように思う。臨月という具体かつ意味のごつい言葉をよく受け止めたなあと感心するのである。

薄氷をぴしと踏みゆき父となる

頼りない薄氷を,しかし自覚的に「ぴしと踏」み割る。この五十句群はどうやら出産直前から時間系列通りに並んでいるようである。実際の出産より前におかれたこの句は,だから,まだ見ぬ子へ,とにかく父になるよと伝えたい,そして自分に言い聞かせてもいる句だろう。実際に腹に宿す訳ではない男性方はこの目で子どもを見るまで(時にこの目で見ても)なかなか父性を獲得しにくいと聞く(のですけどどうなのでしょう)。まあそう固く考えるな,と肩を叩きたい。

雪割草なし崩しに始まるお産
 
待て,なし崩しではない。雪割草などと格好つけている場合ではない。焦ろう。妻の腹は今まさに痛いんだぞ。

扉の向かうで妻が苦しむ冴え返る

これこれ,冴え返っている場合ではない。もちろん,緊迫した空気,冷気,そういうものを表しているのもわかるのだけれど,俳句にされるとナニノンキニシテルンデスカ―!という気持ちになってしまう。いやこれを文字に起こされたのはきっと全て終わってからだとは思うのですが。

産むときの妻は赤子のやうに赤し
 
そうだとも,赤いよ。作者の手も赤かったろうと思う。赤裸々な句で,とても好き。

人の中から人が出てくるかぎろひて

ほっかほかだ。ほっかほか,かつ,眼差す主体にとって(ここでは=作者で良いと思うけれど)まだ人が出てきたという現実がつかみきれていないのがわかる。

胎盤のしんと重たき春の雪

これも胎児と共に生きたものであり,同じく産み落とされるも役目を終えてモノになったのだ。血に満ち満ちた塊のしずかな死だ。

君に子宮は狭かつたのか春の空

この感慨はほんとうに。子への語りかけというのは感傷の骨頂であるが,「狭かったのか」は半ば自問であり,呆然としているようでもあり,おかしみがあっていい。うれしいとか感動とかではないのだよね。出てきたと思ったら,泣いて,体伸ばして,まだ泣いて,あ,狭かったのか,あれ悪い事したような気分だな,狭かったのか,すまんね,というような。

さへづりや傾き変へて哺乳瓶

乳をやる妻早春をうつむきぬ

この静けさ。視線のひたむきさ。

何もしない夫と言はれ朝寝かな

節子,それ旧かなづかいと「かな」じゃなかったら,イクメン失格五七五や。

遠雪崩赤子を布にくるむとき

赤子を布にくるむとき,赤子の外の世界で何が起ころうと赤子は平和だ。

泣く子を抱いて泣かない母やつばくらめ

母を泣かせてやってください。

父も娘も初恋から遠くてすみれ

父には過去であり,娘には未来である,という対比がうまい。

最後に置かれたこの一句は,五十句のまとめのように子供の未来へ思いを馳せている。そこに恋をもってくるところが,いつか離れていく娘,という,典型的な父親の感慨ではあるが,それはまた,「典型的に父親たちが持つ気持ち」を作者が本当に実感した,という表明でもあるのではないか。こんなこと本当に思うようになるのだな,という思いが隠れていやしないか,それは穿ちすぎか。

ともあれ,五十句は終わるが,お楽しみはこれからだ。まだ「もうちっとだけ続く」未来に,どうか幸あれかし。

第358号2014年3月2日
白井健介 乾燥剤 10句 ≫読む
山口優夢 春を呼ぶ 50句 ≫読む
第359号2014年3月9日
山崎祐子 海鳥 10句 ≫読む
関根かな 雪兎 10句 ≫読む
風間博明 福島に希望の光を 10句 ≫読む
第360号2014年3月16日
大川ゆかり はるまつり 10句 ≫読む
小澤麻結 春の音 10句 ≫読む
藤永貴之 梅 10句 ≫読む
第361号2014年3月23日
齋藤朝比古 鈍器 10句 ≫読む
第362号2014年3月30日
藤田めぐみ 春のすごろく 10句 ≫読む
堀下 翔 転居届 10句 ≫読む

2013-12-15

【週俳11月の俳句を読む】藤幹子  ふと夢想してしまう

【週俳11月の俳句を読む】
ふと夢想してしまう

藤幹子



ナッツの瓶ゆびでまさぐり日短   関根誠子

ナッツの瓶の中をこの人は見ていない。探り慣れた瓶を探り慣れた指で,視認せずとも的確に木の実をつまみ出すだろう。

燈火親し眼鏡を透かす拭く掛ける

一連の行為はこれまでも何度となく繰り返されていることだろう。あるいは一晩のうちに何度も。冬の訪れと共に増える機械的な愛撫の繰り返し。愛されているのだ,この眼鏡は。

冬うらら水揚げてゐるモネのポピー

外の暖かい日差しも,わが身でなく絵の中のポピーに降り注ぐ光と呼応し,活き活きとしていくのもまた絵の中の事物の方である。
まなざしの主体は,おそらく室内に滞留している。身の丈の範囲に見たいもの,感じたいものがそろっている。外に出る必要はない。見たければ窓から落葉松を越える日の出を,大きな朴の葉の舞い散るのを見ることができる。かつて恣にした人形,夢の飛行船の模型,追憶の装置には事欠かない。美しい田園風景は絵として壁を彩る。
ぬくもりの満ちる部屋の中で,手の届く範囲で手の届くものを選び,好きなものだけに囲まれる生活は,ナッツの瓶からお気に召すまま探り出す行為を,延々拡大しているようだ。
あまりに充足した部屋に,一読者としてはどこかほころびを,いや,カタルシスを覚えさせるような破壊を,ふと夢想してしまう。
いつか,ガラスを破りツェッペリン号がこの部屋を飛び出す日が来るのではないか。その時初めて,かの人の問いに答えが見つかるのだろう。

山眠るわたしは何を探せたか


第342号2013年11月10日
本井 英 柄長まじりに 10句 ≫読む
山岸由佳 よるの鰯雲 10句 ≫読む
仁平 勝 女の園 10句 ≫読む
第343号2013年11月17日
関根誠子 ナッツの瓶  10句 ≫読む
大和田アルミ 桃剥いて 10句 ≫読む
第344号2013年11月24日
岩淵喜代子 広場 10句 ≫読む
相沢文子 小六月 10句 ≫読む



2013-08-18

【本の紹介】金原まさ子『あら、もう102歳』 藤 幹子

【本の紹介】

金原まさ子『あら、もう102歳』
この振れ幅が催眠術の振り子となって

藤 幹子




どうお伝えしたら良いのでしょう。何しろ読んで欲しいページに付箋を貼ったら、本文180pあまりの内、31枚にもなりました。本がしゃらしゃらかさかさいいますよ。

同年代(いや同年代の方は少ないか)もとい、還暦以降の方はこの本をどう読まれるのでしょうか。俳句愛好家の年齢層の大多数を占める方々は。

百余歳の俳人が不良少女と冠され、「悪徳と愉悦」と句集の帯文に掲載されてしまう。果たしてその年代の方々はその事実、その作品、その生き様に拍手喝采されるのか? 眉をひそめられるのか? どうなんでしょうか(特に男性の方!)。

三十代の私はただただ拍手喝采なのですけれども。

それにしても帯文に記された目次だけでも、かぶりつきたいくらい魅力的なのです。

「なんでもおいしくいただきます。なまたまご以外は」

「北大路魯山人のお店を、大泣きして辞めました」

「仏像よりダビデ像!」

「幼くして美人はトクだと思いました」

「みんなは「清く正しく」。わたしばかりが「悪くてあやしい」」

「良い人は天国へ行ける、悪い人はどこへでも行ける」
これだけでも、いかなるエピソードが語られるのか興味津々なのに、中身はその十倍は面白いのだから困ってしまう。五章立ての本書、第一章は自己紹介的な身辺雑記、第二章は亡きご主人との思い出、第三章は美しき男性たちについて(個人的に垂涎の章)。第四章は家族の事、また結婚するまでの事、そして第五章は再び現在に戻ってつれづれの事。俳句の事はもちろん載っていますが(主に第一章と第五章)、それ以上に著者によってさらさらさらさら語られる、大正から昭和のうるわしき文化(銀座の気だるい午後、カフェに男女は集い、ダンスホールは夜も昼もなく回り続け)にため息を漏らさずにはいられないのです。それがその時代ほんの一握りの人たちだけの文化だったとしても。
その人とはじめて知り合ったのは、目賀田男爵邸で催されていた、社交ダンスの会でした。
なんて、ご主人との出会いを書き出されたらもう! 吉屋信子の少女にでもなって夢見る瞳で「おねえさま、それから?」と聞くしかないではないですか!三十路ですが!(余談ですが、この目賀田男爵という方はおそらく目賀田綱美男爵で、勝海舟の孫であり、フランス遊学中にタンゴを知り、愛好家となって日本へタンゴを紹介し、日本の社交ダンスにおけるタンゴの草分け的存在になった方なのではないでしょうか)

そういうエピソードを書き出したらきりがないのですが、もちろん本書の魅力はそれだけではなく。例えば、
俳句は書いておりますが、自分が「俳人」と呼んでいただくことには、なじめません。
「俳人・金原まさ子」……きゃあ、と言って逃げ出したくなる。
なにか、ほかに呼び方はないでしょうか?
の「きゃあ」、あるいは、自らの育児日記の文章を引いておきながら、
この文章のスタイル、恥ずかしいなあ。
と書き加えずにはいられない、その瑞々しいような含羞にドキリとしたりもします。かと思えば、俳句について「読んでくれる人がいなかったら」一文字も書かないだろうと、
人に「褒められたい」から書くんです。
そう言いきってしまうと、かえって格好つけになってしまうでしょうか。
とはっきりと仰り、また、
わたしは頑ななまでに、「理外の理」というものを信じない人間です。
「大いなるもの、魂と名づけられるもの」の存在を信じることもできません。
あるいは、仏壇にむかい朝晩父母に呼びかけ、ご主人に話しかけしていても、
わたしは、魂も、来世も、神も、その存在を信じません。一切、無。そう思います。
と、ばっさりと割り切る潔さもお持ちです。

元来対人恐怖症で一対一になるのがこわい、と書かれながら、人にかまわれるのが大好きで、自分は「かまってちゃん」かもしれない、ともある。自分の句にはそこらを這う生きものがよく出てくるが、この目で見るのは嫌だ、指に刺さったとげを見るのすら嫌だとも仰る。

この振れ幅が、催眠術の振り子となって、読めば読むほど金原ワールドへ引き込まれていくのです。著者はそのあたり、A子とB子という真逆の性格を持つ人格になぞらえて説明しておられますが、詳しいことは読んでいただくのが良。どうぞ、金原まさ子ワールドへ共に旅立ちましょう。俳句の大事な話もありましょうが、それよりも、金原さんの頭の中の方がずっとずっと魅力的ですから。

しかしながら、ここでは書きませんでしたが、著者ご自身が在籍されていた「草苑」の主宰、桂信子さんとのエピソードは必読です。-BLOG俳句空間-戦後俳句を読むの五月のあとがきでも北川美美さんが感想を書いていらっしゃるので、そちらも。

(余談の余:さらに、やはり詳しくは書きませんでしたが、第三章「美しい男性たち」、ご興味ある方はもう、ぜひ、ぜひ、読まれるとよろしいかと思いますよ!)



2013-07-21

藤幹子 やまをり線 10句

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週刊俳句 第326号 2013-7-21
藤 幹子 やまおり線
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10句作品テキスト 藤 幹子 やまをり線

 やまをり線   藤 幹子

知らぬ人網戸に舌をあてがひぬ
鶯谷のタオル黄色し桜桃忌
紫陽花は家禽と思ふ撫でやすい
あめんぼう水にさはれぬ嬉しさに
蚊が口にくる折り紙を箱にする
金魚玉千個連なり鏡池
顔面銀行とあり炎天下
怒号とは土用蜆の次々開く
凌霄花その魚は君を食べるよ
どこまでも赦す獣は裸足かな


2013-06-16

【週俳5月の俳句を読む】藤幹子 大いなる胃袋の意思

【週俳5月の俳句を読む】
大いなる胃袋の意思
 

藤幹子


九階から上半身出す聖五月  金原まさ子

聖五月の明るさでまるで健康的に見えるけれども,危うい。なぜそんな高みから,恐れげもなく体を差し出せるのか。聖母の月に被昇天を願っているのだろうか。

人のような向日葵が来て泊まるかな

本当に向日葵に訪われる状況を想像できてしまうほど,向日葵は人に似た花だ。泊まる,というのだから明日にはまたどこかへ運ばれるのだろう。仮の宿に居心地悪げにおかれた花を面白がり,擬人化して見てやる温かみのある視点がこの句の主体の人柄を想像させる。

黒や白や毛がきらきらと野焼けあと

本来毛は残るはずもない。草木の絮の燃え残りにしても,光るはずもない。ならば,野焼けのあとの熱い原を走りぬけた獣が居るのだ。火の治まるのを待ち,人がやってくる前に,その身をさらすことも厭わず走り逃げた獣が。獣はいずこかへ去り,本能的な緊張と恐怖が置いていかれて光っている。そんな妄想をしたい。それがやはり絮の燃え残りかもしれなくても。

乱切りの白桃と葱の炒め物

こういうことは,ある。一人暮らしかもしれない,家族暮らしかもしれない,そのどちらでも,家という不思議な空間では,解剖台の上のミシンと蝙蝠傘のような出会いはしょっちゅう起こるものだ。香る白桃。香る葱。薄桃色のグラデーションのブロックと,半ば焦げのストライプの走るうす緑と白の重なり。起こってはいけない出会いのようでも,大いなる胃袋の意思は彼らを一つにしてくれるだろう。

セロリスティックの軽さで春の気狂れかな

さくりと噛んだ歯の内に,私もまいりましょう。読むほどに妄想を掻きたてていただいた作品の内へ,陽気に飛び込み,再び咀嚼され,消化されるために。

では,失敬。

〔誤記訂正及びお詫び〕

大変申し訳ございません。
本日掲載させていただきました「週俳5月の俳句を読む―大いなる胃袋の意思」におきまして,引用句を誤読しておりました。

冒頭、

牡丹散って蟄虫の屍へかぶさりぬ   金原まさ子

と引用しましたが,これは,

牡丹散って螫虫の屍へかぶさりぬ   金原まさ子

の間違いであり,恥ずかしいことに全く気が付かないまま「蟄虫」と信じ鑑賞しておりました。
このような引用間違い及び思いこみによる誤読,そしてそれをネット媒体へ掲出してしまったことについて,作者の金原まさ子さんに深くお詫びしたく思います。本当に申し訳ございませんでした。
また,掲載させていただいた「週刊俳句」にも(再三,掲載にあたっての引用の注意を教示いただいているにも関わらず),このようなご迷惑をおかけしたこと,まことに申し訳ございません。

その上で,恥の上塗りとは承知しておりますが,再びこの一句を鑑賞させてください。

牡丹散って螫虫の屍へかぶさりぬ   金原まさ子

螫虫は刺す虫,これは山田耕司さんの鑑賞にもあるとおりで,毒を持ち人や獣を刺す虫を言うようです。牡丹の散る頃は蜂や虻,蚋や蚊など刺す虫としての代表が揃いぶみの頃。彼らは愛されぬ虫とも言えるかもしれません。
その営みの終わりに,花の王と人から讃えられる花が,自らの衣を経帷子として下賜する。人の目の触れぬところで行われる美しい弔いの景はまた,強烈に人の介入を拒む景とも思えます。人が決して得られない花の王の慰撫を,受け得る毒虫の屍に,私は嫉妬すら覚えたのでした。



第316号2013年5月12日
菊田一平 象 10句 ≫読む

第317号2013年5月19日
金中かりん 限定本 10句 ≫読む

第318号2013年5月26日
金原まさ子 セロリスティック 10句 ≫読む

2013-02-10

【週俳1月の俳句を読む】藤幹子 酔ってしまう

【週俳1月の俳句を読む】 
酔ってしまう

藤幹子



あっという間にひと月をすぎ,暦の上では春ですよ,などと俳人が言って嫌がられる二月になってしまった。すでに懐かしき正月の悦びを取り込んで気持ちを上向かせるべく,新年詠を読ませていただいた。


初晴の道にふくらむ家族かな  柏柳明子

どこへ出かけるやら家族は並んで歩いている。正月休みであまり車も通らないから,何となくはみ出しているが気にはかけない。晴れてはいてもまだ寒いから,着込んだ彼らはどこか丸いシルエットでゆっくりと歩いていく。
ふくらむ,という言葉のイメージが文字通り豊かにふくらんでいく。満ち足りる,とはこういうことなのだろう。


見渡しておほよそ赤し福袋  西原天気

近所にふらっと出かけてみれば,めでためでたの赤い色だらけ。これはきっとどこかの商店街。ファッションビルや大きなモールでは,赤い福袋の方が珍しいはずだ。当たり前の事を詠んでいるようでいて,実は消えゆく風景なのかもしれない。


乾杯のごとく羽子板重ねけり  野口る理

酔ってしまう。それは乾杯という言葉だけでなく,羽子板遊びを今にもせんとしている二人,上気した二人をとりかこむ情景が,正月の空気が,上質の酒となって漂うごとく思われるからだ。宮沢賢治『ひのきとひなげし』の中で,悪魔が美容の薬と偽ってそこらの空気を赤く,また蜜色に波立たせるのだが,そんな光が見える気がする。


歯並びの美しき獅子頭かな  村上鞆彦

乱杭歯の獅子頭があるかどうかは知らないが,踊りくねりながらやってくるお獅子,伸び上がってがちりと噛んだ瞬間の白く(あるいは金?)太く並んだ歯,躍動感のある美しさ。作者は目のつけどころを外さない。


さて嬉しい楽しいめでたい大好きお正月,という雰囲気が,裏返る瞬間もある。祝祭の中にいて,ふとそこにいる事に不安を感じる時。自分だけが次元を横滑りして,別の宇宙に入り込む違和感。めまい。それらを捉えてくれるのもまた,新年詠だ。


雑煮餅のまわりの空気が変である  金原まさ子

お餅になにが起こったか。椀にどろりと沈む物体に疑問を感じてしまったら,もうそこからアウターゾーンへ突入してしまう。漱石の猫よろしく,かぶりついて困惑し,猫じゃ猫じゃを踊るしかない。


魂魄のはみ出してゐる雑煮かな  小林千史

あるいは上記の句の答えであるかもしれない。魂も魄もはみだした無防備さが恐ろしく,まだしだらなく淫靡である。魂魄どちらをも失ったなら消滅の未来しかない。この雑煮を全て食べつくしたらどうなるのか。食べる事へ誘惑するしだらなさをどうしたらいいのか。


この中に贋の新年詠がある  福田若之

――『福田青年探偵の言葉に,並居る人々はシン,と黙り込んでしまった。沈黙をやぶり,一人の勇気ある者が,とうとう震え声で問うた。「な,なんですト,それでは此処に,この週刊俳句倶楽部に,贋物が紛れ込んで居ると…」』――

戯れはともかく,誰もが胸を押さえたのではないか。(「鷹」と最初読んでしまって,なんと挑戦的な句よ,と思ったのは内緒です。)はてさて,私含め皆様が投稿したのは本当に新年詠だったのか?そも新年の季語さえ入れれば全てが新年詠となるのか?(結局はそうなのだと思うが)


宝船沈めて渦やうすびかる  堀田季何

なんとも悪魔的な句である。薄く光っているのは消えた金銀財宝か,届くはずだった初夢の残滓か。メエルシュトレエムの底へゆっくりと呑まれていく宝船のイメージが鮮やかだ。


おせちとる長子の皿にそつと母  渡辺ねね

一見,和やかな新年の朝の句だ。素直に読むならば,長子の皿へ母がおせちをとってやった,というほのぼのとした情景のはずなのだ。だが,もっと語順通り素直に読んでしまったなら。
そう,長子が長い取り箸でおせちにの一品を皿にとった,と思ったところが,皿の上に小さな母が乗っている。黒豆が母。数の子が母。伊達巻が母。かまぼこが母。田作りの一尾一尾が――母。夢に出てきそうな恐ろしさ。ああ,母が来る,母が来る…
このような斜めな姿勢で句を読み解いた事を作者の渡辺ねね氏に謝しつつ,本稿を終えたい。)


第298号 2013年1月6日
新年詠 2013 ≫読む
第299号 2013年1月13日
鈴木牛後 蛇笑まじ  干支回文俳句12句 ≫読む



2013-01-20

第200号~第209号より 藤幹子さんのオススメ記事

第200号~第209号より
藤幹子さんのオススメ記事



週刊俳句300号と聞いて、アラマアとサザエさんよろしく手を口に当ててしまう。そうですか、そういえば5周年記念会ももう遠い昔のようですね。読んだり読まなかったり、好きな記事しか読まなかったり、でもいつでも遊びに来られるしいつでもアーカイヴは覗ける、作者名企画名でピックアップもできる、まっこと便利な雑誌に、相も変わらず手と頭を休めるお世話になっております。

おや、Web雑誌とはそういうものだって? てやんでえ、こちとら昭和生まれのアナログ育ち、検索と言えば図書室の、五十音なる引き出しを、てんやわんやと開け閉めしては、司書の先生引きずり回し、貸出カードを埋めた口だ、大学に入りゃあパソコン検索ができるようにぁなったが、古雑誌読みたきゃ地下の書庫、人っ子一人いやしねえ、移動書架の間を右往左往、地上に出てはコピーをし、コピーをしてはまたもぐり、もぐらみてえな生活をしたもんよ。(だから未だにPCを開きキーワード検索したり、タグのまとめを遡ったりしながら、「便利になったもんだなあ」と阿呆のように何度でも嘆息できるのです、というオババの繰り言)

さて、アーカイヴから掘り起こしてでも読んでほしいシリーズ連載がちょうど第205号から始まっていました。今井聖氏の『奇人怪人俳人』。

毎回一人の俳人を取り上げ、その経歴や印象的なエピソードと句で綴られている、とだけ言ったならばそんじょそこらの俳誌でもお目にかかれそうではあるのですが、奇人・怪人、と銘打つだけあって、こう活躍してこう受賞して、最後は弟子に囲まれて、などときれいにまとまるだけではないのがこの連載。

例えば初回の佐藤秋水の「同人欄は寒雷(秋水の所属結社)の墓場だ」という言葉や、師・加藤楸邨に面と向かって「嫌いです!」と言い放ったという話。また二回目にあげられた野宮猛夫の、今の人から見たならば卒倒してしまいそうな労働に次ぐ労働の生活、その中にあってのエネルギッシュかつ奔放な句作の数々。(すっとんギーすっとんギーが頭から離れなくなる!)

そんな調子で一癖もふた癖もある俳人の紹介がこれ以降もまだ八回分あります。各俳人に二つ名のごとく冠されるキャッチフレーズがまたよいのです。(純情派青鬼教授、とか、不死身のダイ・ハード俳人、とか、まら振り洗う巨人とか)タグを押したら一発ですよ、ほら!飛んでゆけ!(個人的には看護師俳人・佐々木ゆき子の回が大好きです)

そういえば「俳句想望俳句」ってどうなったっけ、という向きには(どういう向きだろう)、第207号、藤田哲史氏『それでもしゃかりきコロンブスなのだ 「俳句想望俳句」における自閉的ニュアンスからの脱却のために』をおすすめします。「字義通りに解釈すると」「どのように俳句を作っても「俳句想望俳句だね」と評されそう」な印象を受けてしまう、と危惧する藤田氏が丁寧に、かつ的を外さず見事にこの言葉を解体提示してくれます。

ただ、これからの俳句が、「俳句想望俳句」の枠組みの中で閉じてしまうのはつまらないなと。(中略)純粋に俳句だけで俳句を再構築したとして、既に開拓されている領域にしか着地できないなんてつまらない。俳句を壊すためというより俳句を生かすために、俳句外の要素をどんどん放り込むといいんじゃないかな、って思うわけです。
と最後に述べられた部分には大いに首肯するものです。

この藤田氏の論稿と同じ号、ユニット傘【karakasa】の、傘【karakasa】本誌とも関連した『佐藤雄一ロングインタビュー10000字』も興味深いものでした。詩人であり朗読パフォーマンスイベント「サイファー」の仕掛け人でもある佐藤氏のこれまでとこれからの展望をからめた濃厚なインタビュー。

今回再読してハッとさせられたのは、佐藤氏の発言の、
(前略)サイファーの理念は、「その言葉を受け取ったあなたを詩人にするような言葉が詩である」です。これは俳句にも共通すると思っています。意味はわかんなくても格好いいなと思わせる俳句があれば、自分でも書き始めますよね。それを具体的なかたちで提示しエクササイズするのが結社なり句会だったと思います。
という部分でした。当たり前のようではありますが、ときどき結社って何だったっけ、何で入ってたっけ、などとぼんやりしてしまう時、思い出したい一文であります。


蛇足ながら申し上げますと、この第200号から第209号の合間には、実は2011年3月11日が挟まっています。

3月13日、第203号が「非常事態号」として俳句関連記事は一切載せないかたちでリリースされています。その時出来得るかぎりの細やかな気配りをもって、あの状況下で必要と思われる情報とそのリンクを掲載した記事に、本当に久しぶりに目を通しました。

感慨を述べる場所ではないと思うので、私はこれ以上は書きません。ただ、この事に関し第203号以降に掲載された印象的な記事だけ、あげさせていただきたいと思います。

第204号 野口裕 林田紀音夫全句集拾読156

第205号 小野裕三 今回の大地震に関連して思うこと~次の時代の日本へ。次の時代の俳句へ
(↑こちらはコメント欄やウラハイの記事など併せ読むのをおすすめします)

第205号 長谷川裕 祐天寺写真館・メキシコ編 草


第200号
第201号~第209号

【2012落選展を読む】(12 13 14 15)大穂照久 生駒大祐 司会:村田篠

【2012落選展を読む】
拘束着からレフ板まで 
(08谷口鳥子 09村越 敦 10利普苑るな 11藤 幹子)

大穂照久 
生駒大祐
司会:村田 篠


この対話は、2012/11/10から2012/12/8にかけて、ネット掲示板及びskypeのメッセージ機能を通じて交わされたテキストを、再構成したものです。


12谷口鳥子「夏星の配線」
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村田:では、第2ブロック後半の最初の作品、「夏星の記憶」を読んでいきます。一読して特徴的なテーマが印象に残る作品でした。いかがでしょうか。

生駒:はい。では僕から行きます。

サンドバックの奥に窓その奥に月
山百合と油を踏んで工場へ
拘束着「どないして脱ぐねん」夏の朝


が好きな句で、荒い手触りの句群に個性と魅力を感じました。

しかし、

グローブの紐引く室温四十度
花冷えや少しきつめにバンテージ
ウェブ株価見る鹿ジャーキーしゃぶりつつ


のようにストーリーがあるように見えて、空気感のみを詠んでいるにすぎない句もあるように思いました。

村田:50句の中に、違ったテーマがいくつも並んでいます。

大穂:前半がボクサー、中盤が作業員、後半が介護ですね。

生駒:同じテーマの連作が約10句ずつ連なっているのですが、この構成に逆に散漫な印象を受けてしまい、50句を連作とする難しさを感じました。

村田:私は、全体的に身体と、身体に直結する感覚を詠まれていて、そういう意味でのまとまりはあるのかな、と感じました。ただ、〈クレソン噛み潰し記憶の夏に入る〉〈夏星の配線だけをつなぎ去る〉のような抽象的な句もあって、それで印象が混乱してしまった感があります。

大穂:身体に直結する感覚というまとまりは僕も感じました。ただ、後半の介護以外、あまり共感はしない50句でした。

村田:確かに、50句を通して作者像がなかなか定まってこない、という印象はあります。

大穂:フィクションかどうかはさておき、作品はあまり成功していないと思います。

生駒:それはなぜか、ということですね。

大穂:どこか、想望感を感じてしまいます。リアルを感じない。フィクションでも、リアルを感じることはできるけれども、この作品からは感じられないのです。

村田:「リアルを感じる」というのは、俳句に限らず、どんな創作物にとっても大切な要素だと思います。実際にそれがリアルかどうか、ということではなく、受け取り手がリアルを感じるかどうか。

このあたりを、もう少し具体的に話していただけますか?

大穂:例えばボクサー「を」詠んだ句か、ボクサー「が」詠んだ句か。この50句は前者側の域に留まっています。

だから、共感というか、突きぬけるものがない。読み手はのめりこめないんですね。

村田:自分のこととして詠めていない、ということでしょうか。

生駒さんも挙げられていますが、私も〈サンドバック〉〈山百合〉の句が好きです。リアルを感じますし、少し内省的です。

ですが、そうした句と、例えば〈ウェブ株価見る〉の句を同じ人がつくったとは思えない。この句の主体は一人称ですが、ちょっと無理をしているような気がします。私には、そういう感じがしました。

大穂:でも、介護の部分は結構よかったかなと思います。わりにリアルを感じました。

生駒:介護の部分は僕もそう思います。

大穂:生駒くんも挙げている〈拘束着「どないして脱ぐねん」夏の朝〉の句はいいですね。拘束着を着せられて「どないして脱ぐねん」という。夏の朝は雑ですが、これくらい乱暴につけてもいいのかもしれません。

ポピーの鉢かかえホームは事故処理中〉もいい。鉢を抱えて両手がふさがっている景が事故処理のホームと合います。このあたりは面白いです。

生駒:〈ポピー〉の句は僕もいいと思います。〈革軍手灼けるレンチに変色し〉もいいですね。

大穂:この作品のようなテーマなら、定型外の俳句を多く出した方がいいんじゃないでしょうか。破調字余り季語なしでも全然OKだと思います。

生駒:独特のリズムを持っている方なので、それを生かすことができればさらに良い句が出てくるのではないかと思いました。

村田:私は、この方は意外に内省的な部分に本領があるのではないか、という気がします。それが、テーマやゴツッとしたリズムとかみ合うと、もっと面白くなるし、この作者だけの特長にもなってくるんじゃないかと思います。

ざっくりした言い方で、申し訳ないのですが。



13村越 敦「駱駝の列」
≫読む ≫テキスト


生駒:好きな句から行きますと

世界ぢゆうの蟻の話をして眠る
薄暑かな道の向かうに西友見え
広告の中の家族やシクラメン
日向ぼこ遠くの日向思ひけり


このような句には成功を感じるし、実際に僕の大好きな句ではあります。
しかし、全体として「非常に惜しい」と感じる50句であることも確かです。

村田:「惜しい」については後ほど話していただくとして、大穂さん、お願いします。

大穂:いきなりの1句目、〈やがて降る雨雪のこと薬喰〉が好きです。雨催、雪催のなか肉を食う静謐な風景。景もさることながら「やがて降る雨雪のこと」がフレーズとしていいですね。

世界ぢゆうの蟻の話をして眠る〉は優しさのある句だなと思います。そういう夜のことはいつまでも忘れないものです。

黄落や捨てし水槽わづかに濡れ〉、「捨てし水槽わづかに濡れ」の部分が非常にごちゃごちゃした感じですが、いい景ですね。水槽の水滴、黄色の葉の映るガラス、土の感じなどが見えます。

村田:私は、一読して独特の匂いを感じました。

梨咲いてましろくひかる鏡かな
広告の中の家族やシクラメン
水無月の火口に石を売る男
死のかるく描かれてゐる檸檬かな


日本離れしているというか、ちょっと無国籍な感じのする句群だな、と。〈世界ぢゆう〉の句もそうです。言葉の選択と形容の問題なのか。面白いと思います。

では生駒さん、どのあたりが惜しいのでしょうか。

生駒:たとえば1句目の〈やがて降る〉の「薬喰」の惜しさであるとか。大穂さんはいいと言われましたが、僕は惜しいと思います。それから〈女正月話を聞いて暮れにけり〉の「普通」感の惜しさであるとか、〈梅雨冷や小学校は朱き海〉の朱さに共感できないことの惜しさであるとか、ですね。

良くなりそうな句はたくさんあります。〈夢にまで見し駱駝の列や橋は夏〉の下五なども頑張っています。題材も多彩ですし 、カタカナ多用や切れの複雑さを意識した句を作っていますが、そのすべてが成功しているとは言えない。

挑戦しているんだけれども、俳句の枠内でやろうとしているのが痛し痒しで。

大穂:痛し痒しというと目線を変えれば、一気によくなるのでしょうか。

村田:気になって惹かれる句は多いです。〈アネモネや作り物めく博士の手〉とか〈梟や見知らぬ街はかがやける〉とか。

生駒:句の幅は感じられるので、個性を意識した作り方をしていくべきなんでしょうね。

大穂:最後の〈けふがいちばん幸せといふ雪が降る〉という句は、〈今生のいまが倖せ衣被 真砂女〉をちょっと想像してしまいます。

生駒:個性は巧みさからでるものではないと思っています。俳句における巧みさは比較的得やすいですが、個性的な面白さを出していくのはむずかしい。既にそこを狙っているのでしょうが、もっと突き詰めてほしい。

大穂:今回の50句は既存のうまさを捨てて、新しい実験をした感じがあります。

村田:1句1句はとても工夫が凝らされているのですが、全体としてハジケた感じがしなかったです。「しばしある」「欲なべて」という入り方とか、「それとして」という慣用句の折り込み方とか、いろいろな試みが逆に手慣れた感じになってしまっているのか。

大穂:手慣れた感じもありましたが、今回の作品では、村越くんは角川俳句賞向きの50句をあえて捨てて、この50句を出してきたのではないかと。

生駒:一方で、母数が足りなかったんだろう感があります。

大穂:新しい試みの母数ということですね。でも読んで、楽しかったですよ。

村田:そうですね。私もです。



14 利普苑るな「2011/2012」
≫読む ≫テキスト


村田:次は「2011/2012」です。2011年から2012年にかけての光景を詠まれた句群、ということなんでしょうか。

生駒:このタイトルは評価できないです。

大穂:もう少し考えて欲しいですよね。

僕がいいと思った句を挙げますと、

新涼や言葉の出入りする身体
秋風や人影映す大理石
春めくや三食刷りの献立表


あたりですね。

新涼や〉の句、言葉は、耳と口だけでなく、目や肌からも出入りします。自分の体が清新な気分に満たされたなかで言葉の出入りを感じている景。面白いです。

大理石〉の句は、少し暗く反射する人影が想像できます。大理石の反射率は低いですからね。

春めくや〉、三食刷りって今学校で使っているのでしょうか。個人的な思い出ですが、春休み直前の給食は特別な感じがありました。

村田:春めくや〉はいいですね。ありのままですが、「三色刷」というようなところに注意の向く感じが好きです。

鳥交る綿のこぼるる縫ひぐるみ〉〈花茣蓙の柄よきところ選りて座す〉〈冬帽の男の低く唄ひ過ぐ〉あたりにも、表面だけではないちょっとした事情みたいなものを淡く感じさせてくれるような気がして、好きな句です。

生駒:僕は〈春めくや〉の句はあまり。「ただごと」を越える何かがあるのかと言われば、少し疑問が残るかと思いました。〈欠伸して涙ひと粒桃の花〉〈天丼の海老の尾ぱりと桜どき〉などの句もそうですね。

村田:「ただごと」というのは、どういうことだと思われますか?

生駒:「誰もが当たり前だと思っていること」ではなくて、真実を描いてはいるのだが、そのことを描くこと自体に凄みが生まれる状況。それを「ただごとを超えている」というのではないかと思います。

村田:「そのことを描くこと自体の凄み」というのは、事実というだけではなくて、根源に近いところを描いてしまう、みたいなことなのでしょうか。

生駒:同じ「経験があるな」と思わせることでも、それが既に読者の中で言葉となって認識されている事柄には驚きはないです。言葉にされることで初めてそれが真理なのだと気付かされる経験、そんなものに凄味を感じるし、ただごとの面白さの本質はそこだと思います。

村田:なるほど。大穂さん、〈天丼の〉の句はどうでしょうか?

大穂:桜どきの斡旋はうまい。うますぎますね。

村田:生駒さん、いかがですか?

生駒:僕の好きな句は

みちのくの田に花冷の至りけり
竜胆の青の極まる遠野かな
夕凪や釣人のふりしてゐたる
冬帽の男の低く唄ひ過ぐ


みちのく〉〈竜胆〉の句は端正ですし、〈夕凪〉〈冬帽〉などにはとぼけた味わいがあります。幅のある50句ですね。

大穂:夕凪〉〈冬帽〉の句はいいですよね。

生駒:季語の斡旋がうまかった。

この作者は取り合わせの可能性を信じている方だと思うので、その伸びしろを生かすことで突破口が開けるのではないかという気がします。

トーンが一定である印象を受けたので、作家性を守りつつももっと攻めてもよいのではないのかとも思いました。

大穂:全体に破綻している句は少ないですね。でも、面白い句も少なかった、というのが正直な感想です。「破綻していない=魅力的」ということではないですから。

生駒:普通を超えるものが出てきた俳句を読みたいです。

村田:大穂さん、面白い句、というのは、どういう句のことだと思われますか?

大穂:ここで言う面白さというのは、新しい視座を提案する面白さのことです。

村田:「新しい視座」とは、もう少しかみ砕いて言うと?

大穂:いわゆる俳句的な範疇、予想を超えた俳句といえばいいでしょうか。

今回の50句は、俳句の面白さが再生産的というか、プラスアルファを感じられない方向という感じがしました。

私はどちらかというと、開拓的な面白さをもとめてしまうので、そういった俳句をもっと読みたいですね。

村田:大穂さんの言葉をお借りすると、いつまでも同じ「視座」で俳句と関わってしまうことが問題だと。それは、ある程度の時間、俳句と付き合って上達してくると、必ず突き当たる問題ですよね。

大穂:難しい問題だと思います。

生駒:上手いっていう要素は面白いの十分条件でも必要条件でもない。破綻を避けて安全圏だけで詠んでいると、面白さからは遠ざかります。

賞に通るのは破綻の少ない句なのですが。

大穂:賞に落ちようが、フルスイングをする俳句が好きですね。

村田:大穂さんのおっしゃった「新しい視座」というのは、フルスイングから生まれるのかもしれませんね。



15藤 幹子「カレー係」
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村田:いよいよ第2ブロック最後の作品です。いかがでしたか?

生駒:

冬の田へ神器のごとくレフ板来
湯豆腐食ふ時々四次元の生まれ

など、一句一句に驚かせてくれるポイントが含まれていて、読んでいて飽きませんでした。その中でも、

薄命にあらず日傘を回しけり

は非常に静謐な印象を受け、しかし全体の統一感を乱すことなく、好きな50句でした。

村田:冬の田へ〉はいいですよね。「レフ板」の扱い方に映像のような生々しさがあります。〈カンナ燃ゆ中学生の眼にガーゼ〉の「ガーゼ」もそう。

生駒:冬の田へ〉の句には、冬の田、神器、レフ板、それぞれがまったくつかない面白さがあります。でも、根底で通じる何かがある。実際にはレフ板を冬の田にもっていくことはないのでしょうが、それが非常にリアルに感じられます。

大穂:湯豆腐食ふ〉の句はどうですか。

生駒:はっきり言って意味が分からない句です。「時々」がすごい。句をわからなくさせている。

大穂:湯豆腐は3Dと時間の経過(1D)が必要な感じがあると思うのですが。

生駒:それは四次元を真面目に考えすぎだと思います。豆腐の形と四の字のかたちが似ている。それだけでいいです。

大穂:薄命に〉の句はいいです。薄命ではないから日傘を回す。美人薄命という言葉がありますが。雨傘を回すと人に迷惑ですね(笑)。この句は「けり」がいいですよね。

村田:いいですね。ちょっとしたひねりがあるところ。薄命と日傘を回すことは無関係なのだけれども、「にあらず」でつないでいるひねり具合がなんとも絶妙で。

大穂:ミッフィーのおうちに火の気なき夜長〉。ミッフィーの家はまちがいなく「おうち」です。そして、火の気のかけらもない。この説得力。

生駒:凧揚げや触りたくなき海触る〉の繊細、〈万緑や鼻より犬の朝始まる〉の不思議、〈五月雨や犬の耳垢耳の中〉の自然など、見どころが多いです。

あえて欠点を挙げるとすれば、〈カナッペを空蝉はづす指づかひ〉〈苺から苺へ五指のさざ波す〉などの句に見える言葉足らず感でしょうか。

大穂:五月雨や〉。こういう句はとれないです。耳垢。

村田:汚いものを詠んだ句は、わりに見かけます。

大穂:俳句の風潮として、糞とか垢とかを詠む傾向がありますが、それは、安易に認めたくないと思っています。本当に心から詠みたいと思うものでないかぎり。これは、あくまで自分の美意識ですが。

村田:私は〈カルピスを世田谷流に割るといふ〉〈クトゥルフにおでんを司る神が〉などの句がよく分かりませんでした。面白いのかどうかも分からない、という感じです。分かる人には分かるのかもしれませんが。

それから、全体にテンションが高い、という印象を受けました。まったりとものごとを見たり聞いたりしているのではなく、対象に迫ってゆくようなスタンスで詠んでおられる感じがします。

大穂:宗教、神話のモチーフが多いですね。モスク、司教、クトゥルフ、物の怪、それからニーチェ。ひとつの宗教にこだわるんじゃなくいろいろ突っ込んでいる。しかも、それ以外のテーマの句を入れているので、散漫な感じになってしまいます。

村田:「クトゥルフ」も、神話の用語なんですね。

大穂:この人の俳句は、それ自体が、どこか宗教的です。こういったルールや摂理が世の中に存在するのだと示唆するような俳句です。

鳩サブレの頸のひび、ミッフィーのおうち、盗作をした顔、日傘をまわす。リンゴが木から落ちるような、日々の暮らしの中の厳然たるルールを提示したような句。薄命ではないから日傘を回すのだという摂理。

村田:作者の中に存在する摂理を、作者の外に在るように詠む、ということでしょうか。あたかも架空の世界をつくるように。その読み方は面白いなあ。

大穂:既存の宗教を詠んだ句ではなく、もっとこういったご自身の句を読んでみたいですね。

村田:ああ、それはとても「リアル」な提案だという気がします。生駒さん、言っておきたいことはもうありませんか?

生駒:この作家は宗教などの既存の価値観を自分の中で咀嚼し、自分の価値観と混ぜ合わせてローカルに変容させ、その二次的な価値観を見せてくれているようなところがあります。それは作家性だと思うし、僕はそこが面白いと思いました。

この方向性でこのまま行くにせよ、大穂さんがおっしゃるような方向性に行くとしても、次を見ていたい作家だと思いました。

村田:それでは、このへんで。ありがとうございました。


(了)

2012-12-16

【落選展2012を読む】 落選展よ水戸橋よ(其の三)  島田牙城

 落選展2012を読む
落選展よ水戸橋よ(其の三) 

島田牙城


水戸橋といふ言葉から、人は何を想像するのだらう。

前回、水戸橋が水戸市にもないと書いたが、実は水戸市に水戸大橋はある。

ただ、水戸橋から想像できるものと、水戸大橋から想像するものとは違ふ。うん、大いに違ふ。

僕の場合だけれど、水戸橋のたもとには黄門様も歩いてゐるし、梅の花も咲いてゐる。歴史好きの人なら天狗党の暗闘まで思ひ浮かべるかもしれない。その橋が水戸でなく東京の小菅にあると知つてゐてもだ。

反面、水戸大橋にその情緒があるか。何川に掛かる橋かは知らぬが、だだつぴろい河原のゴミを引つ掛けて頽れる枯蘆原を眼下に、ジーゼルの黒い煙を吐いて走り抜けるダンプやトラックの群が見えてくるばかりだ。

さういふ意味で、水戸に水戸大橋があつたとしても、水戸橋があることにはならないのであつた。

(あ、僕はどつちがいいね、なんて書いてないよ。水戸大橋こそ俳句に書きたいといふ人のはうが、俳人としてはマトモであるといふ気もするしね)

では続ける。







わー、どうしよう、引く句がない。

 ≫読む ≫テキスト

村越敦さんといふのは、相当俳句を読んでゐる人なんだらうなとは思ふ。

でもさあ、五十句すべてが物欲しげな顔をしてゐるんだよ。

おいしいところをちよいと摘まんで見せてくれるから、句会なんかではすごく人気を得るんだらうけれど、目が覚めたら忘れてゐるよね、といふ句ばかりなんだよ。

抽象的な言ひ方になるけれど、言葉に体重が乗つてゐないといふことかなあ。

やがて降る雨雪のこと薬喰〉の〈やがて→こと〉、
木枯やくちびる荒れて街あれて〉の下七五、
屏風絵の中や音なく笑ふなり〉の〈音なく〉。

俳句つてそんなところには手柄は無いんだよ。

もつと〈物〉とがちんこ勝負してほしいなあ、期待の若手なんだもの。

福田若之さんの模型の丘の恋愛を思ひ出してしまつたぞ。模型の丘の俳句。いや、ごめん。



念珠屋の前のバス停風光る  利普苑るな

 ≫読む ≫テキスト 

具体的にしつかりと五・七・五に書ききらうとする意識が見えて、好感が持てる五十句だね。

念珠屋といふのが一般的な言葉なのかどうかは知らないけれど、お数珠を売る店なのだらう。最近ではリラクゼイションとかでお香もブームらしいし、お数珠にしてもファッション感覚溢れるものがあるのかもしれない。

仏具屋といふのとは違ひ、若者を引きつける語感がある。人気スポットなのかな。さう思はせるのが、「風光る」といふ季語の力だね。

全体はすごくぎこちないし、「や」の多用も気になるのだけれど、このまま進めばいいんじやないかなあ。

家鴨住む弁財天堂秋の声  利普苑るな

も「秋の声」で助かつた(助かると書いたけれど、上の十二音が陳腐だといふことは、解つてゐるよね。それを救ふ季語の力といふことだ)。

仮の名のままに猫飼ひ冬隣  利普苑るな
夕凪や釣人のふりしてゐたる  同

かういふ作り方をしてゐる人へは、赤の他人の僕が「ここが駄目なんだよ」なんて言ふ必要がないんだ。必ず自分で気付くことのできる句作りをしていらつしやるだから。



五月雨や犬の耳垢耳の中  藤 幹子

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には予期せぬ出会ひの面白さがある。

たとへば恋愛、かういふ男性が理想よつて、理想の男を夢想して過ごす日々つて虚しいのであつて、ある日ある時、わたしはなんで今こんな男とお酒飲んでるんだらう、時間の無駄なんだけど、なんていふ程度の男のことが、翌朝忘れられなくなつてゐたりするんじやないかなあ。そして一生を無駄な時間の延長として過ごす。そんな恋愛。うん、そんな俳句。

ぬれそぼつ犬の耳を見れば、つひつひ思ひ出してしまふやうな句、だよね。

今回の50句はさうじやない俳句が多かつたやうだけど、期待してゐます。




くさぐさに名付けいづれも枯さうび  すずきみのる
昼ま逢ふ人初夢のなかに笑む  同

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うん、最後の二句。それまでの四十八句はこのための助走だつたのかいなと思ふ。

あまりきよろきよろしないで一点凝視で句を作る人なのだらう。ただし、

はつゆきを競馬新聞にて避ける  すずきみのる

など、事の面白さで終はつてゐて、「競馬新聞」とあるにもかかはらず、競馬新聞の実体が浮かんでこない。「はつゆき」の既成のうつくしさをひねらうとする意志が見えてしまふからなのだらう。その意志は嫌みになる。

掲出の二句にはそれがない。理屈を捏ねると「エリザベス」だとか「クイーン」だとか、中には日本名もあるだらうが、いろいろに美しさうな名付けをしたところで、枯れてしまへば枯さうびさ、といふことだけれど、その理屈を忌避する潔さ、スピード感がこの句にはある。「初夢」の句もしかり。



啓蟄や乳吸ふ丸き後頭部  藤尾ゆげ

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以下、〈佛壇を開くと連凧のけはひ〉〈春の虎檻ごと消えてから臭ふ〉〈受験日の吊り目の聖ジョセフ像〉〈鰆の字大きく書きてバスガイド〉〈朧夜に引き抜く不在連絡票〉と、出だしの十句で六句に○を打つ。

期待。
外れ。

なんでさうなつてしまふの、といふほどの落差ではないですか、ゆげさーーーん。

夏の底剥製は眼を開けてをり〉、〈夏の底〉じやないでしよ。
蟷螂がゐる梵鐘を待つごとく〉、音は待てても、〈梵鐘〉は待てないでしよ。
ローマ字のどれにも冬の鳩のゐて〉つて、一人よがりでしよ。
正月を殴つて逃げてしまひたき〉つて、僕にはどうでもいいことだし。

勿体無いんだよねー、かういふ人。いい句を書ける人が何かの拍子に色気を出してしまふといふことだらうか。



冷えた手を載せれば掴む手であつた  佐藤文香
口元や雪は枯野へ細密に  同
谷に日のあたる時間や春の鳥  同
川までのてのひらに雛あたたまり  同
春の夕日は君の眉間を裏から突く  同
花冷の肺は吐息をほしがりぬ  同
たんぽぽを活けて一部屋だけの家  同
さへづりに濡れてはじめの樹へ戻る  同
天やはらかく暮れたり君のこゑほしき  同

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大きな○を打つた九句。句集を出したあと、一度自分をぶつこはさうとしてゐた句づくりから、もう一歩抜け出したのかな。

さへづりに濡れてはじめの樹へ戻る〉は、この作者が獲得したさはさはした情感の世界を思はせるよね。ねちねちしてゐないけれどきちんと女であるといふ世界観。この句は、少なくとも昭和半ばまでの男には書けないんだよ。「はじめの樹」といふ把握が、文香俳句の地平をさらに広げたんではないかい、と思ふ。さうか、神戸やら松山やらの、瀬戸内女の俳句つてことかなあ。

ふきのたう愛の湿度のととのほる〉とかさあ、二重、いや、三重バッテンの句もある(何が「愛の湿度」だよ。読み返して、自分で恰好悪いでしよ。「ととのほる」なんてわざわざ使ふあたりも、自分で辟易でしよ)し、そもそもタイトルにした〈葉桜や丘に見えたところに来てゐる〉が頂けないといふのもあるのだけれど、どんどんおやんなさい、と書いておかうか。

さうさう、タイトルの句、〈丘に見えたところに来てゐる〉はいいんだよ。なして、この季語なの? これでは、「青い山脈」の女学生だね。

(つづく)

2012-12-02

【落選展2012を読む】その2 楢山惠都

【落選展2012を読む】
その2 移動サーカスには憧れたものです

楢山惠都




サーカスの地べたのつづき葱を焼く  嵯峨根鈴子

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移動サーカスには憧れたものです。旅の一座が夜っぴでやってきて、テントを組み立て、翌日にはサーカス告知のパレードのお祭り。親にせがんで木戸銭をせしめた子どもたちは、ひげ女、力持ち、などの入った檻をまじまじと見つめる。占い女に運命を聞いたりアイスを舐めたりしながら、夜はいよいよショーの開幕。そんな数日の興行が済んだら、やはり夜中のうちにテントは畳まれてしまって、跡には色紙の残骸だけ。

股旅のきもちで葱を焼く。食材をそのまま焼くことは、飛行機も自動車も無い時代の旅の薫りがする。


火を恋ふるとは口笛のとぎれとぎれ  同

寒さにかじかんだ唇のせいでとぎれとぎれになる口笛。わたしは口笛を吹けない側のにんげんなので、この晩秋の把握が羨ましい。冷えているほうがきれいな音になるのだろうか。風船ガムを膨らませるみたいに唇をすぼませてみる。新鮮な風が口腔を通り抜ける。

 

薄氷はそろそろ水にもどりたく 神山朝衣

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水に戻りたいから緩みだすのか。緩むのをきっかけとして水に戻りたくなるのか。ある状態からある状態へ移行することの、ゆるやかさ。それを見つめるひとがいる。


目が合ふとしばらく語る蜥蜴かな  同

熊を見る熊に見られてゐる間  同

蜥蜴は見つめられている。なにかを見ること。視線を介してそのものを取りこんでしまうこと。同じように、熊にも見つめられているということ。


早春のひとの呼吸を聴いてゐる  同

山茶花や見えざる声の鳴きをはる  同

五感について言う句が多いなかで、「見えざる声」とあるので、聴覚と視覚は拮抗しつつも少しだけ視覚が強いのかな、と感じた。梶井基次郎の『視ること、それはもうなにかなのだ』という一文を思いだす。


歌うたふ子や夏蝶に嫌はれて  同

そのせいだろうか、視線以外の手段は嫌われてしまう。歌が、空気をふるわせ、夏蝶の蝶道を少し撓ませる。痙攣したかのように飛び去る蝶。

 

縄跳や入る子出る子見知らぬ子  中塚健太

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小学校へは電車通学をしていたので地元の友というものがいない。近所の公園では、ある集団の横になんとなく居て、むりやり馴染んで遊ぶ、ということを繰り返した。向こうはわたしの名前を知らないから、そこの麦藁帽子の子!なんて呼ばれて。

掲句は大縄のことだろうが、確かに「見知らぬ子」が列にまぎれても目立たないだろう遊びだ。どんどん輪は循環し、最後尾がどこか判然としなくなる。たそかれ時に。

つばくらめ空に縦横斜めあり  同

外出するのがめんどうなとき、空飛ぶじゅうたんがあったならと溜め息をつく。わたしたちは平らな地上にへばりついているだけだが、縦横無尽に移動できるのが宙なんだろう。

風船の己(し)が影からも放たるる  同

風船がどんどん上空へ、すると地上の影はどんどん小さくなる。じぶんの影からも自由になり、風船は天国めいた場所へと向かうだろう。縄跳びも、鳥も、風船も、上昇する動きがあるような。

 

夏星の配線だけをつなぎ去る  谷口鳥子

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この秋に初めて感じたことなのだが、星座とは恐ろしいものだ。あんなに無数の星をつないで空いっぱいに獣が配置されている。星ほどの人間はまだしも、星ほどの山羊。星ほどの鯨。星ほどの白鳥。生物学が進んでいない古代なんだからどれも怪物の様相を呈している。怪物が空いっぱいに浮かんでいて、どれも不動。

恐ろしさのあまりこの頃は夜空を見上げることができない。底なしの深海にひとり放り出されたらこんな気分だろう。星の配線をつないだ古代人は凄いなと感嘆する、いや、彼らも怖かったんだろう。だからこそ物語をつくりだしたんだろう。


サンドバックの奥に窓その奥に月  同

ボクシングジムに通ったことはないが、サンドバックを延々と叩き続けて意識朦朧、汗で部屋の湿度は高いんだろうな。黙々と殴っている視線の先に窓があって、秋の、水に濡れたように光る月がのぞく。肉体と乖離して意識は冴え渡っているのだろう。

 

西葛西葛西浦安鳥雲に  村越 敦

≫読む ≫テキスト

人工の海岸にはなぜだか鳥がよく住まう。曇りの日の光に似合いそうな句。繰り返される「西」がたのしい。


絵の中の夜明のいろと寒暁と  同

絵画のいいところは、枠があるところ。枠を乗り越えてみたくなるところ。枠があるからこそ、こちら側とあちら側を行き来できる。


世界ぢゆうの蟻の話をして眠る
  同

眠れない夜は羊を数えろ、というが、あれはsheepとsleepが似ているからというだけ。そんなものに縛られず、よく眠るためのきっかけを日ごろから各々研究しておくことが肝要である。


広告の中の家族やシクラメン  同

「効いたよね、早めのパブロン」のCMが苦手だった。わたし以外の全ての娘は、あのように母を労るのだ、と罪悪感を持つから。シクラメンの濃いピンクも押しつけがましいように思えてしまう。


ハロウィンや空気つめたく灯はあつく  同

ハロウィンらしいとも思うが、それよりも、確かに十月末の街はこのようである、と思う。

 

新涼や言葉の出入りする身体  利普苑るな

≫読む ≫テキスト 

ようやく秋の涼しさがやってきて、息がしやすくなった。大声を張り上げなくても会話できるのが嬉しい。言葉の元は発声なのだ。呼吸なのだ。


仮の名のままに猫飼ひ冬隣  同

猫ほど名付けの魔力が似合うケモノはいない、と思う。寄りつかない猫を、名前によってじぶんに結びつける。特別な存在とする。行きずりの猫にうっかり名前をつけると寂しくて悲しいのでおすすめしません。不在の猫に呼びかけることができるとは、言葉はなんて恐ろしいのでしょう。

すべての神話は、自然の神秘に名を付けようとしたところから始まったんだろう。


春めくや三色刷の献立表  同

そして言葉は紙に記録されていく。だんだん紙や書物はモノとして独立していき、愛好されていくのだ。


それ以上言へば死なむと雪をんな  同

啄木忌幾度も道を問はれけり  同

言葉はコミュニケーションツールだとされるけれど、そうでもないんじゃないか。「雪をんな」にまずいことを話してしまった、不興を買ってしまった、そのずれこそ言葉なんじゃないか。

何度も声をかけられ道案内をしながら、きょうはかの啄木の忌日だと意識している。ただ言葉に注意するのでなく、その交換や有り様に敏感なひとだと思う。

 

口中にモスク沸きたつ抜歯かな  藤 幹子

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歯医者で口腔をさわられることを、どうしても好きになれない。紙エプロンをかけられ、仰向く。なぜ歯医者のライトはどこでも薄青と薄ピンクと薄きいろなのでしょうね。これと似た折り紙があったと思う。と毎回考えながらタオルを目元に被せられ、治療を受ける。口につっ込まれる器具はどうやら、水を噴出するのと、風を噴出するのとある。むりやり別の考え事をするうちに麻酔の注射をされ、歯をひっぱられる。

「モスク」が「沸く」のだから、たぶん、嫌な治療から気をそらすために大きな何かをもくもく想像しているのかな、と思う。

この人を見よ鯖雲へ火の腕  同

わたしが連想するものは、『この人を見よ この人にぞ こよなき愛は あらわれたる』とうたう賛美歌121番の歌詞だ。『馬槽の中に 産声あげ 木工の家に 人となりて 貧しき憂い 生くる悩み つぶさになめし この人を見よ』という一番の歌詞から『馬槽(まぶね)の中に』と題がつけられる。『この人』は無論イエス・キリストを指す。

わたしの母校はプロテスタント系の学校だったので、礼拝は大切な習慣だった。静謐な時間がきらいではなかった。中学一年生のクリスマス礼拝だったろうか、皆でお祈りを済ませ、黙祷をしたときのことだ。まなうらには、現在わたしがいる礼拝堂が映っていた。それを俯瞰していたところ、礼拝堂の高い天井まであるようなにんげんが見えた。雲が降りてきたかのようにもくもくとしていて、細かい造作は見えない。そのひとはにっこり笑み、祝福を垂れるかのように、皆のいる席に片手を置こうとした。

そこで怖くて目を開けてしまった。

掲句にあるような夕焼けの鯖雲こそ神の御姿に近いのかもしれない。

 

鳥交る色屑溜めてシユレツダー  すずきみのる

≫読む ≫テキスト

わたしの職場にもシュレッダーがあるが、紙屑がパンパンに詰まるのでどんな鳥も巣を造れそうにない。掲句の「シユレツダー」は透き間のありそうな感じだ、まだ溜められそうな。せっぱつまっていない、ゆったり時の流れる場所にあるシュレッダーなんだろう。小まめにゴミを捨てるような。色紙の巣はイースターのお祭りも思わせる。


八十八夜少女に紫だつ会話  同

いよいよ春の動きが活発になろうとする八十八夜と、少女の華やかさ、かしましさが重なる。やっぱり恋の話かしらん……。


はつゆきを競馬新聞にて避ける  同

衣服の一部であるみたいに競馬新聞を持ち歩くひと、いますね。初雪に気づいてから競馬新聞を傘にするまで少しの逡巡もなかっただろう。

(つづく)

2012-11-04

2012落選展 15 藤幹子 カレー係

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週刊俳句 第289号 2012-11-04
2012落選展 15 藤 幹子 カレー係
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2012落選展 15 藤幹子 カレー係 テキスト版

2012落選展 
15 藤 幹子 カレー係 

うぐひすや十指重ねて遠眼鏡
凧揚げや触りたくなき海触る
カンタベリー司教蜂の輪を頂く
わらび餅講談調の引越し屋
ちりめんへだからだからとくりかへす
新入生ヤマザキヤマザキパンと唱へ
花冷や首にひび在る鳩サブレ
投票所花と緑の色の紙
連凧のひきづる雲も胃も臍も
海軍のカレー係に五月来る
夏近し手套のエレベーターガール
悪童の口より躑躅あふれさせ
万緑や鼻より犬の朝始まる
苺から苺へ五指のさざ波す
五月雨や犬の耳垢耳の中
口中にモスク沸きたつ抜歯かな
抜糸していつわたしの子蛾になれる
修正のセル画重れり誘蛾灯
薄命にあらず日傘を回しけり
カルピスを世田谷流に割るといふ
物の怪に話しかけむと紗を裂きぬ
顕微鏡泉に振りかざしてゐたり
浴衣みな着くづれてゐる屋根の下
冷房車二十年後もここにガム
深海にあらば水母に良き匂ひ
青嵐森はスーラの筆に追はれ
ゆで卵三日クーラーから汚水
カナッペを空蝉はづす指づかひ
向日葵と目と目を合はせ深爪す
しちりあ産れもんや淡彩画家の脛
へうたんへ歯を見せてゆく幾人か
秋茄子や色無き深海魚の話
唐辛子きみらは立つて用を足す
アラブ馬空高々と交接す
ミッフィーのおうちに火の気なき夜長
カンナ燃ゆ中学生の眼にガーゼ
ブランコの撤去作業や小鳥来る
枯野へと踊るドアベル手風琴
石膏の少女の型やペチカ燃ゆ
クトゥルフにおでんを司る神が
冬の田へ神器のごとくレフ板来
湯豆腐食ふ時々四次元の生まれ
くさめして王に春情兆すかな
鞄には印鑑ラッセル車近づく
閉架書庫木菟の目木菟の耳を借り
盗作をして来し顔や初鏡
この人を見よ鯖雲へ火の腕
アイロンの息白ければ立ててやる
蝋石や寒暮へはづめ汽車と貨車
漕いでも漕いでも毛布や赤子泣く


2012-06-10

【週俳5月の俳句を読む】藤幹子 竹岡一郎「比良坂變」を読む

【週俳5月の俳句を読む】
竹岡一郎「比良坂變」を読む

藤 幹子


それは息をもつかせぬ神話だった。

数多なる忌を継ぎ重ね秘めはじめ   竹岡一郎
狐火にのしかかる骨灰の俺

なぜか戦いの続く世界の中で,あまたの死と超常的なものが交わり生まれおちた少年=ヒルコ。

少年が冱てし少女を抱き起す

彼が凍土に見つけずっと行動を共にする少女=ヒルメ。

少年の氷柱に少女赫へり
少年が少女の臍に霰置く
少年の髪を少女が梳く焼野

彼らが睦合い交わり合うほどに,戦いは花火のようにますます絢爛に巨大に輝く。

帝国の回路へ感染する鬼火
うららかに町を咀嚼する機械
鋼鉄の蛹を割つて超てふてふ
弾も石も尽き掃蕩の肉つぶて

彼らは何の謂であろうか。ヒルコとヒルメという名前は,日本書紀にあるイザナギ・イザナミの子らに見られる。神になれず放逐された子(蛭子)と,太陽女神として崇められる子(日る女は天照大神の呼び名と言われる)と,対象的な2人の名だ。特に

陽は臨界を業として海女照らす

とある事からしても,少女の名が陽の女神のものであることは間違いないのだろう。けれど名は兄妹のそれでいて,彼らは無邪気に,また奔放に戯れ,性を交わす。

彼らを取り巻く世界はどうだろう。先の大戦を思わせる描写が散見されるが,何を敵としているのかもわからない,革命を,帝国を,とあるけれども,実態は朧だ。黄泉の国と現世をつなぐという比良坂が常にこの世界に向けて開いており,生者と死者が境もなく戦い続ける。屍が累々と増えるなか,何事かが少女=陽の神の逆鱗に触れたのか。

少女怒れば少年の朧なる
陽は臨界を業として海女照らす
あめふらし愛づるに突如融解す
滴れるウラン生者への一揆
チェレンコフ光に涼める元帥達

核兵器,あるいは原子力に依る何らかの被害を暗示する句が現れ,世界は一転,ものみな敗者に変わり,少年は少女を連れて逃避行を始める(原子力は少女が発現したという事なのだろうか)。

やがて戦った者たちは英霊と祀られ,

軍票を焚き迎火を保ちけり
英霊へ栗飯の香の立ちにけり
薬莢に翅生えて鳴く汀かな

戦いもまた過去のものとなった。それに呼応するように,天照の少女は天へ,つまりは銀河のかなたへ去っていく。

鹿に乗り少女還るは触の夜
少年が少女へ銀河起こしけり
少年ヒルコ少女ヒルメの花野明く

少女のために銀河をもひらいた少年は,一人異形として残される。彼の頭上へ背後へ,流星群がいつまでも降り注いでいる。



…何という事だろう,鑑賞を行うつもりが,結局「私が考えたかっこいい比良坂變の物語」を書いてしまっているではないか(実をいうともっと書いていた)。その種の読み解きは,本当はそれほど重要なものではない事が分かっていたにもかかわらず,である。

「比良坂變」を読みながら思い出したのはマックス・エルンストの『百頭女』だった。短いキャプションの添えられたコラージュ作品が連なって小説を(小説,らしきものを)成す,コラージュロマンと呼ばれる一書である。彼はこの本以外に数冊のコラージュ小説をものしているが,いずれもコラージュの材料には大衆版画,作者も明記されない大衆向け雑誌や本の図版,当時あるいはそれより少し前の通俗小説の挿絵――誰もがどこかで見たことのあるような,細密ではあるが個性を排除した銅版画を使い,知っているはずの風景や事物を思いもよらぬ悪夢のような光景に,あるいは幻想郷のような風景に仕立て上げている。

小説(ロマン)と銘打たれてはいるが,面白いのはそれらコラージュ作品一つ一つ,キャプション一つ一つが,順に並べられてはいるものの,決して整合性があるわけではない事だ。「惑乱,私の妹,百頭女」という意味深な呼びかけや,エルンストの作品にしばしば自身の投影として現れる「ロプロプ」が随所に繰り返し現れ,何がしか連続した物語があるように見えるのだが,その実全体の筋は,つかもうとすればするほど朦朧としてしまう。

訳者で解説も手掛ける巖谷國士は言う。

…謎は謎のまま,いわば永劫回帰にゆだねられる。読書(というべきか?)のあいだに私たちが味わうのは,集中よりもむしろ逸脱である。細部まで明瞭でありながら偶然に支配されているこの銅版画の集合は,私たちの読解をつねに無限の拡散にまかせ,ときには物語の外へとイメージを開放してしまったりする。
(中略)
要するに『百頭女』は文学による絵画であり,絵画による文学である。そればかりではなく,文学と絵画とをなにか混沌とした世界(それをしも「惑乱,私の妹,百頭女」と呼んでみたい気分もある)のなかで切り貼りし,無数のデジャヴュ(既視)の幽霊と共に蘇生させてみた試みである。

(「顔のない書物――解説にかえて」巖谷國士  『百頭女』)

デジャヴュの幽霊,まさにそれこそ「比良坂變」のおもしろさの一部であり,読者に読み解きを強制する力ではないだろうか。

帝国,革命,玉音。臨界,ウラン,死。象徴的ではあるが,いささか食傷を覚える言葉を所々にちりばめながら,取り合わせはけっして陳腐ではない。そして,それぞれの句は常に横たわる比良坂と,意味深な少年少女の物語によって(まるで乾かぬ糊で貼りあわされたかのように)つながり,イメージを増幅させ,結果として輪郭の定かでない大きな物語を出現させる。

その流れの中で,ふと,鬼火とは何か,巨人とは何なのか,市電の撥ねたへんなものとは何だったのか―――そう考え始めた時,ふたたび「比良坂變」の物語は膨張し,読者を解釈の快楽へ(それは解釈放棄の快楽へもつながる)連れて行ってくれるだろう。大げさであるかもしれないが,それがこの句群の楽しみ方であろうと信じてやまない。


第264号
竹岡一郎 比良坂變 153句 ≫読む
第265号
佐藤文香 雉と花烏賊 10句 ≫読む
第266号
沼田真知栖 存在 10句 ≫読む


2012-02-12

〔週俳1月の俳句を読む〕藤幹子 縦書きも横書きも

〔週俳1月の俳句を読む〕
縦書きも横書きも

藤 幹子


〔新年詠より〕

孵りたかったであろう数の子夜が深む   池田澄子

孵らなかった卵(そしてそれを食べるわれわれ),というセンチメンタリズムは誰しも容易に得られるものだ。手垢がついていると言っても良いかもしれない。けれども,鶏卵をはじめとする鳥の卵から,魚卵へと段々にサイズが小さくなっていく内に,そのひと粒ひと粒が,孵化し自在な生き物となり得ることを意識するのは難しくなる。私はイクラが限度である。

掲句の「孵りたかったであろう数の子」には,数の子という,「ほとんどの人がそれが卵であることは承知していてもそれが孵化し得た事まで意識しない」ものに目を向け,同じ感傷を投げかける事で,読者も,ああそうだ,なぜそれに気付かなかったのか,と目をひらかれる思いをするだろう。あのぷちぷちとほろ苦い汁を出し,時には弾みながら歯のすき間を逃れ出る粒たちは,ひとつひとつの命であったことを。おお,なんという罪深さ,人の業,おお,おお!

…と大げさに書いてみたが,実際はそこまでではあるまい。作中主体もまた,夜深む中,明日食べられるためにだし汁の中で静止している数の子を前に,戯れに考えてみたのではないか。あえて大げさに,孵りたかったであろうかわいそうな卵たち,と。かわいそうと考えてみながら,少し笑っているのが見えるような気がした。


ぽっぺんを吹くや片方つけまつげ   上野葉月

喜多川歌麿の「ビードロを吹く娘」が頭に浮かぶ。あちらは小町娘がおきゃんに吹いてみせていたわけだが,こちらは現代版と言えようか。いったいつけまつげの片方はどこへ行ったのやら,本来なら大騒ぎしかねない状況も,どうでもいいとばかりにぽっぺんをぽこん,と鳴らしている気だるさが印象的であり,現代らしい情景だ。浮世絵でぽっぺんを鳴らしている娘は大体15歳くらいと推測されているようだが,つけまつげの彼女もきっと同じ年ごろだろう。平成と寛政の遠い時間がふと透き通り,対照的な二人の少女が重なりあって見えて面白い。


鯛焼の骨の話はまたいつか   佐間央太

「鯛焼の骨」という,めっぽう面白い話がある,という噂だ。それは鯛焼きを見たことのない異国の人が,鯛焼きから本当の魚の骨を抜き取ろうと悪戦苦闘した話,かもしれない。売れない鯛焼き屋の主が,骨と称して餡の中に当たりクジをしこみ,そのくじが元で起こるドタバタ喜劇の顛末,かもしれない。もしかしたら,ただの教訓めいたたとえ話かもしれない。にも関わらず,噂ばかりが独り歩きし,その話を聞きたがる人が後を絶たない。作中主体は困惑している。彼は知っているらしい,という事まで,噂には含まれているからだ。実のところ,彼はそんな話は知らない。ただ,知人との会話の拍子に出た「鯛焼の骨」という言葉に,知ったふりをした。一瞬の見栄だった。

仕事先で思いがけず,あるいは偶然町で出会った知人に,ふいにこの話を求められると,彼は急に早口になり,用事を思い出したかのように大げさな身振りをして立ち去る。「鯛焼きの骨の話はまたいつか」は,別れ際の彼の常套句となりつつあった。


凧凧凧凧大気圏脱出中   山下彩乃

この一句を縦書きのテキストで読んだとき,有限だが確かに見事な連凧が,地球から伸びてくるのが見えたのだ。白くてシンプルな五角形が連なって,なぜか私自身が宇宙からそれを俯瞰しているから,その凧がどんどんこっちに迫ってきて少年漫画もびっくりのパース無視の超遠近法で迫ってきてうわー!こっち来るな!と心中で叫んでいた。俳句は時に,読者の視点を瞬時に空へ引き上げたり,一句の中で顕微鏡が遠眼鏡に変わるような体験をさせてくれるけれども,いきなり宇宙に飛ばされたのは初めてである。

「凧」の字面もいい。連続することで,「凧」という漢字が意味を捨てて『「凧」そのものを表す絵』に見えてくる。しかし縦書きなら連凧の飛翔感を得られるが,横書きでは魅力が減ずるかと思いきやさにあらず。今度は「大気圏脱出中」という漢字ばかりの舌を噛みそうな言葉から,「凧」がそろって逃げ出しているように見えるのだ。ご丁寧にしっぽまで巻き上げて。読むに楽しい,見るに楽しい一句である。


第245号 2012年1月1日
生駒大祐 うしなはれ 5句  ≫読む
村田 篠 水鳥 5句  ≫読む
上田信治 ご町内 6句  ≫読む
西原天気 胸ふかく 5句  ≫読む

第246号 2012年1月8日
特集・新年詠2012  ≫読む  ≫読む  ≫読む  ≫読む  ≫読む  ≫読む

第247号 2012年1月15日
谷口智行 初 暦 7句 ≫読む
小林千史  7句 ≫読む

第248号2012年1月22日
雪我狂流 日向ぼこ 7句 ≫読む
依光陽子 涯 hate 7句 ≫読む
矢口 晃 蝌蚪は雲 7句 ≫読む
山下つばさ ぱみゆぱみゆ 7句 ≫読む
福田若之 既製品たちと歌ううた 7句 ≫読む

第249号2012年1月29日
望月 周 冬ゆやけ 7句 ≫読む
林 雅樹 紛糾 7句 ≫読む
松本てふこ 遊具 7句 ≫読む
野口る理 留守番 7句 ≫読む



2011-05-29

『豆の木』第15号(2011年4月)を読む 藤幹子

〔俳誌を読む〕
『豆の木』第15号(2011年4月)を読む

藤 幹子


白状しなければならないことがある。

『豆の木とは、超結社/1950年以降生まれの俳句実作者の会です。
主な活動は、毎月1回の目白での席題句会 月2回木曜日の銀座での句会です』
「豆の木」トップページより)
私は何度この文言を凝視し、それを表示するアドレスをクリックしたことであろう。

私事をお許し願いたい、俳句実作に手を染めて数年になるのだが、その最初期の頃、私は親譲りの無鉄砲を存分に発揮していた。(いや、親が本当に無鉄砲であったかは知らないが、とりあえずやってみるべえ、という気性の親(主に母親)であったのは確かである。)

インターネットの言葉遊びから俳句実作を知った私は、現実の句会もまして結社というものも知らないくせに、ただ闇雲に、俳句を評価しあえる場所を探していた。mixiの俳句コミュニティを検索し、Googleに「俳句 句会」と打ち込み、自分が面白いと思う俳句を生み出す人や、己が参加できそうなネット上の句会をがむしゃらに収集し、特攻をしかけていたのだ。さらにまたそのリンク集をたどり、もっともっと面白さを!もっと光を!と探索を繰り返している内にたどり着いたところ、その一つが、「豆の木」(のホームページ)だったのである。

「豆の木」の俳句は面白い。

その当時もそして今も、私は、俳句における「伝統的」も「現代的」も「前衛的」もよく分かっていない。何を以てカテゴライズするのかもわからない、せいぜい教科書で知った句かおーいお茶俳句か友蔵(ちびまるこちゃんのお爺ちゃん)のこころの一句くらいしかイメージを持たない、いわばまっさらの状態で触れたにも関わらず、これはたぶん普通と違う、ここは面白い、と前のめりになれたのは、豆の木に所属する方々の句であった。

それは例えば、

  メガネスーパーに眼鏡を洗ふ春愁       太田 うさぎ

自分の知っている俳句ではお目にかかったことのない固有店名が句の半分近くを占拠している句だったり、

  必殺のラムネ瓶から午后の島         小野  裕三

そもそも必殺のラムネ瓶とは何ぞやと思わせる暇もない速度の句だったり、

  コロンボ警部のコートのやうになる       近  恵

主体について全く説明もないのにそのユニークな措辞故に主体への想像が十人十色に膨らむ句であったり、

  消すときは懐手する組織かな         遠藤  治

不穏なのか微笑ましいのかわからなくなるような句だ。(以上「豆の木」15号:10句アンソロジー欄より)

俳句とは、や・かな・けりの切れ字があって、(たぶん)季語をつかって自然や風景を詠んで……と漠然と考えていた人間にとって、カルチャーショックとしか言いようがない。私は狂喜乱舞した。こんな面白い俳句も存在するのだ。というよりも、存在して良いのだ、と。

だがそれと同時に、初めて不安になった。これらの作品を作り出す人たちに果たして自分が混じっていけるのか。はっきり言って今の自分には、豆の木(のホームページしか見ていないのだが)で掲載されている句に恥じ入らずに並べられるようなものが詠めるとは思えない。面白そうな所にはどんどん首をつっこんでいこうという意気込みはしゅるしゅるとしぼみ、すっかり気弱になってしまった私は、豆の木トップページと掲示板をうろうろし続けた。二句競作も面白い、掲示板も和やかだ、楽しそう、1950年以降生まれという条件なら該当する、ああでも………

私は白状しなければならない。

その後数年もの間私は、掲示板に書き込みもせず、所属の方にコンタクトをとろうともせず、さりとて憧れを捨てきれず、「豆の木」ホームページを毎週(時には毎日)チェックし続けていたのです。お恥ずかしい。

ならばせめて年一回で発行している同人誌「豆の木」を買えば良かったのだが、もう勝手に憧れが高まりすぎて、いきなりメールを送って良いものか、欲しいというのもおこがましい位の気さえして、ただただディスプレイ越しに熱い視線を送り続けていたのであった。それは、「話した事もない先輩を恋して、物陰から覗き続ける少女漫画的感情」に近く、「ストーカー寸前」と言い換えても差し支えなかっただろう。

前置きがすっかり長くなってしまった。それほどの憧憬の的であった「豆の木」の本誌を鑑賞させてもらえて感激している旨を伝えずにはいられなかったのだ。

 

さて手にしているのは件の「豆の木15号」。先月の20日発行。

開いてすぐ、参加者22人の10句作品が、内容ともに厚みを以てドンドンドン、と連なっている。作品+エッセイ、というスタイルは各誌でもお馴染みであるが、同時に掲載する写真にテーマを課せられるのは珍しいのではないか。今号のテーマは「天から句が舞い降りる瞬間」。概ねテーマを意識したものが掲載されているが、「降りてこない」の方やテーマなぞどこ吹く風と近影を載せていらっしゃる方も散見される。その屈託なさも「豆の木」の自由度を彷彿とさせて私はニヤついたが、ひいきの引き倒しであろうか。

10句アンソロジーより、上述以外で好きな作品をざりざりと引っ張り出してみる。

  逃げながら振り返り見る花火かな   岡田由季

  侍をたくさん噴いて弥生山   小野裕三

  よく回る金時山の木の実独楽   菊田一平

  ともだちを半分かくす春ショール   こしのゆみこ

  錠剤をぺちと押し出し春灯   齋藤朝比古

  風鈴を鳴らさぬやうに仕舞ひけり   同

  権妻のさわぐでもなく春樹海   嶋一六

  ほうたるとみんな静かに首をふる   高橋洋子

  匙とメロン部屋に子供たちがいない   田島健一

  ぶらんこの鉄に戦歴あるだろうか   月野ぽぽな

  冴返るバックドロップ投げつぱなし   内藤独楽

  やはらかき「つ」の字になりし毛皮夫人   中嶋憲武

  ノルウェイへ行きても毛皮夫人反る   同

  いちまいのももんがひらく月の夜   三宅やよい

  キツネノカミソリすんすんと過ぐ時間   宮本佳世乃

  ことばきよらか冬瓜のお味噌汁   同

  二歳児が馬のものまね夏惜しむ   室田洋子

  手を上げるだけの決め事春近し   矢羽野智津子

  狼の棲息地図よ夏の星   吉田悦花

  啓蟄に機械の上を走りけり   吉野秀彦

  手帳買ふ葱買ふ馬買ふ牛蒡買ふ   上野葉月

  夏痩せてまだ出てこない種がある   大石雄鬼

(以上「豆の木」15号:10句アンソロジー欄より)

(それにつけても我が愛しの毛皮夫人よ!貴女がいらして光栄であります。参考→ウラハイ = 裏「週刊俳句」: 中嶋憲武 毛皮夫人50句

  

●P46 中世の風―月野ぽぽなの俳句をめぐって 小野裕三

●P50 近 恵『大丈夫』を読んで 外見に格好つけないほうが格好いいと思うタイプ 大石雄鬼

●P53 宮本佳世乃『晴れわたる』を読む ゆゆしきこと 田島健一
 
「中世の風」は、第二十八回現代俳句新人賞を受賞した月野ぽぽな氏を論じた項。現代都市ニューヨークに在住する作者の持つ「異国感覚」を、読み解いていく。受賞作『ハミング』も掲載。『大丈夫』『晴れわたる』はともに『きざし』(炎環新鋭叢書5・ふらんす堂刊)という女性作家五人のアンソロジー句集に納められたものである。

いずれも豆の木の同人が同人を評したものであり、もちろん三者三様のスタイルで書かれているのだが、句座を共にしてきた相手への尊敬や親しみがどれにもにじみ出ており、かつそれに流されることなく読み解いている。特に田島健一氏の論は緻密であり読み応え十分だ。(後者二篇はこちらで読むことができます→炎環PLUS+

  

●P57 古本という愉しみ-『俳風動物記』 三島ゆかり

●P62 旅ノート⑫ 涙うるみ目じりの下がる銀ヤンマ ドイツ・リーメンシュナイダーを訪ねて こしのゆみこ

『俳風動物記』(宮地伝三郎・岩波新書1984年刊)という、動物生態学者が季語や句そのものに関する事を動物生態学的に解釈していく本を紹介したこの項は、滅法おもしろい。

三島ゆかり氏がかいつまんで紹介しているだけでも、例えば著者は、「田螺鳴く」という空想季語から、では実際にその声を出していたのは何の動物かと検証を重ね、蛙やキンヒバリなどオーソドックスな鳴く動物から、やがてウンカの配偶行動にまで話が発展していく。また季語「獺祭」の出典をひき、やはり空想とされる「魚を先祖に祀る獺」の姿を、獺の実際の習性を調べて実証する。俳句トリヴィアともいうべき内容の充実に、興味津々になってしまう。

しかし本著の内容もさることながら、こういった書物を探し出してくる筆者の目利きにも唸らざるを得ない。また、「蚊を焼く」という季語を論じた項を紹介しながら、其角の句の新解釈や三島由紀夫の『金閣寺』がひょいと飛び出す三島氏の随想もなみならぬものと思われる。

旅ノートはこしのゆみこ氏の紀行文。15~16世紀に生きた彫刻家、ティルマン・リーメンシュナイダーを訪ねるドイツの旅を綴ったものである。的確な写真資料や筆者の豊富な美術知識に裏打ちされた表現に連れられて、リーメンシュナイダーの祭壇彫刻をともに経巡っている気分を味わえる魅力的な文章だ。またそこに華を添えるのが、訪れた町ごとの風俗と食事の描写だ。フランクフルト→ヴュルツブルグ→ローテンブルク→ニュルンベルク→ミュンヘン→インスブルック…と続く旅の中でかぶりつかれた熱々の焼きたてソーセージ、それを挟む丸パン、豚脚丸焼きにザウアークラウトにビール!一生一度はドイツに行かなければいけない気になってしまった。

⑫とあるからにはこのような紀行文を筆者は今まで連載してきたのだろう、であるなら、一冊の本の形で是非全て読んでみたい。この一回を読むだけでもそう思わせる程の内容の濃さがある。

  

●P70 2010年第十六回豆の木賞発表合宿記 おおるり鬼怒川激安編 齋藤朝比古

「豆の木」についてかつて週刊俳句誌上にて、同同人の上野葉月氏がこう書かれている。
「俳句の未来を人質に」をスローガンに1994年に活動を開始。
『ジャックと豆の木』からの連想によって彼らの句会は豆の木句会と呼ばれていた。
豆の木句会はその後も複数の俳句結社から若手の参加者を得て既成俳壇の枠組打破を標榜しつつ定期的に題詠即吟を旨とする鍛錬句会を行い、さらに年に数回の吟行、年一回の同人誌の発行を繰り返しながら現在に至っている。
(2007.11.11  週刊俳句 Haiku Weekly: 豆の木とTHC 非結社型句会の今日 上野葉月より)
例えば「豆の木」同人が毎月第3土曜日に行っている目白句会、「豆の木」本誌裏表紙には「13時~20時・席題句会3ラウンド途中参加退席可」とある。ネット上以外の句会に参加したことが片手で数えられるくらいしかない私は、それだけでたじたじとなってしまう。だがしかし、「豆の木」のまさに鍛錬句会と呼ぶに相応しい句会は、一泊二日を俳句色(?)に染め上げる合宿句会なのだ。

本項は、その句会の模様を時系列に沿って淡々と記録したものである。

句会スケジュールのみまとめると、池袋西口を長距離バスにて出発。バス内にて席題による作句。15時宿チェックインのち、バス内で提出された句による句会と(それとは別に)10句出しの句会。夕食。21時より句会。就寝。起床。朝食。チェックアウトのち9時20分よりロビーで句会。バスにて池袋帰還(例年であればこのバス内でも句会があるが今回はなかったとの記述)。16時25分池袋到着のちジョナサンにて句会。18時、解散。

合間合間に観光やもちろん温泉、飲酒の愉しみはあれど、実に42時間必ずどこかで俳句を意識し続けるという体験は得難い。総出句数384句、一人平均約55句をものした合宿を振り返り、齋藤氏は書く。

心地よい疲労感と達成感。錆び付いた俳句頭を活性化させてくれる貴重な時間。自己模倣に陥りそうになったとき、引き出しの中を開いてばさばさと捨ててゆく、年に一度の俳句煤払い。往時の勢いは無くなったとはいえ、豆の木の「作る句会」という精神はまっとうできたのではないだろうか。

簡単に言ってはならないと思いつつ、やはり「うらやましい」というのが本音である。合宿に全ての豆の木同人の方が参加しているわけではないが、この「作る句会」という精神が貫かれているからこそ、豆の木より生み出される句たちが平坦でない、なにがしか魅力的なものに見えるのだろう。

結社でもなくそれぞれが自主的に、俳句実作において文字通り切磋琢磨する場へ参加する。その「場」を17年に渡り維持し、おそらくこれからも維持し続けるであろうと第三者の私の目からも思えるのは、その自主自立性の高さによるものだ。大人らしい自主性に富んだ句座「豆の木」の姿を、同誌よりかいま見せていただいた。ありがとうございます。


豆の木ホームページ
http://homepage3.nifty.com/mamenoki-kukai/

2009-12-20

藤幹子 すこやかさん 10句

週刊俳句第139号 2009-12-20 藤幹子 すこやかさん
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