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2015-01-18

【2014角川俳句賞 落選展を読む】 4.ゆるがされない勁さ 依光陽子

【2014角川俳句賞 落選展を読む】
4.ゆるがされない勁さ

依光陽子


≫ 2014落選展



何気なくつけたテレビでセコイアの森が映っていた。

最も高いもので115m、30階建のビルと同じ高さ、自由の女神を上回る高さだという。

当然、根から水を吸い上げられないものもあって、それらは天辺近くの葉が霧から水分を吸収するのだとか。自然発生的な山火事も森の再生に不可欠なものだと知って驚いた。

セコイアを漢字で書くと「世界爺」。カッコイイ。

さて今回も50句の森へ入っていく。高木も灌木もある。しかと根を張った木も幼木もある。似たような木は通り過ぎるが、気になった木には立ち止まり、叩いたり、観察したり、仰いだり、振り返って見たりしながら歩く。重力に逆らう力で天に向かって伸びている様を見るのは気持ちがいい。

俳句は一本の木だ。成長するか、倒れるか。風雪をものともせず枝葉を綺羅と輝かすか、あっさり朽ち果てるか。すべてその木次第。作者次第。


18. 積木の家(滝川直広)

一句目にどの句を置くかはどの作者も悩むところであろう。

花馬酔木ほそき煙となる手紙   滝川直広

この句が置かれたことで残り49句へ向く選者の背筋は伸びたと思う。
平たい紙に書かれた文字がほそく幽けく立ち上る煙の中に消える。紙を捩って火をつけたのか。開いたまま紙の角に炎を近づけたのか。言葉は「ほそき煙」となって消えてゆく。赤い炎から薄紫色の煙へ。花馬酔木の垂れた形状と淡い紅紫色もさりげなく響き合い、両者がほど近い場所にあることもわかる。

虫の音の間虫の音の埋めにけり
積木の家月の畳にのこりをり
煙茸ふみたき子らに数足らず

形を積み上げること。空間。崩すこと。「積木」の概念がさりげなくいろいろな句の中に潜んでいる。
一句目は虫の音の間を埋める虫の音。音をモノのように捉えた。音が止めばまた空間が出来、そこにまた音が入る。面白い。
二句目は月の畳の上に残された「積木の家」。家の中の家だ。一つ一つのピースを縦に横に組み合わせて立ち上げた、触れれば簡単に崩れてしまう家。その隙間に月の光が入り込む。
三句目。煙茸を一つ一人づつ踏んでゆく子ども。その都度、パフッと煙のような胞子が立ち上る。だが残りの子どもが踏むはずの煙茸は、ない。 

初雪や目を立てなほすをろし金
樹皮残る桜の撞木山眠る
初暦病臥の人の目の高さ

一句目「をろし金」は目の立て直しをし、揃って立ち上がっている。大切に使い継いでいる道具と、技を継ぐ職人の存在。おろし金の光と初雪の光。
二句目、一歩踏み込んでモノを見ることで、撞木を桜の木と見極めた。このことで句に艶が出て読む者を惹きつける。「山眠る」の季感もいい。
三句目、病臥の人の目の高さに据えられた初暦に、その人をさりげなく気遣う心が伝わってくる。

全体的に安定感があり、予選通過も納得。<流木に値のついてゐる初天神><一辺はテレビに空けてある炬燵>など諧謔味のある句や<瞑想の耳滝音を寄せつけず>など手堅い句も。なお、ルビを振るのであればルビのかな遣いも本篇と統一すべき。「紅さうび」「やにの歯」「失業者」などの句は後味がかなりよろしくなかった。最後の句<冬深し灯明皿の縁の煤>は平凡。着地も出だしと同じくらい重要だ。「ああ、この作品はよかったな」と思わせる読み応えのある句で締めたい。
しかしかなり賞に近いところに来ていると思う。今後に期待大の作者だと思う。


19. 仮面(中村清潔)

独自の世界を獲得しつつある。そんな印象をまず抱いた。

食虫植物睡りゐる淑気かな 中村清潔
ホルマリン漬のいろいろ涅槃雪
鵺の眼のなかにあるべし青山河

具象と抽象のエッセンスを摺合せて、どこか別の時空の、別の場所にリアルを探ること。そんな挑戦が見えた。
一句目。淑気とは異質な食虫植物を取り合わせた二物衝撃。植物が虫を食う、という意味からくる不気味さは食虫植物の外見からは感じ取れない。食虫植物の多くは美しい。美しい睡りだ。それを取り巻く空気は淑気と呼ぶに相応しい。
二句目。ホルマリン漬にされたモノを想像するとかなりグロテスクだ。だが死を経たモノの静謐さは涅槃雪の幽けさと相通じる。
三句目。鵺をどう受け取るか。単純にトラツグミと受け取るか。トラツグミの眼の中の青山河が美しい。猿の頭、狸の胴、虎の手足を持った怪物と受け取るか。そこにはさらに深みを増した「青」がある。

蚊喰鳥ひるまの月をほめながら
鬼門ありあらゆる桃に指の痕
祝婚の食べあましたる牡鹿かな

これらの句に私は強く惹かれた。だが短い言葉で鑑賞できない。多くの言葉を用いなければならないと思うので、句を挙げるにとどめる。

普通の句もあるのだ。<みづうみの秋は波打際で待て><窓といふ窓の氷柱を折る音か><冬銀河明日は長距離選手かな><日当たれば日当たるほどに恵方道>。平均点以上でも以下でもない。

タイトルの「仮面」は<仮面舞踏会(マスカレード)ひとり裸を赦されて>から採られているのだが、この句はさほど印象に残らなかった。とはいえ、この50句にふさわしい題をつけるのはなかなか難しそうだ。
作者はどういう人なのだろう。プロフィールには生誕地と、無所属であることしか載せていない。私は今、無性にその仮面の奥にある作者の顔を覗いてみたい衝動に駆られている。


20. オムレツ(中塚健太)

まず、常識の範囲で留まっている句が多く目についた。
例えば、<オムレツの黄色やさしく春来る>の「オムレツ」「黄色」「春」。<お雛さま永久はさびしと微笑みぬ>の「お雛様」「永久」「さびし」「微笑み」。<シャボン玉割れて弾ける子らの声>の「シャボン玉」「割れて弾ける」「子らの声」。
やさしい人なのだと思う。人柄のやさしさは50句から伝わってくるが、俳句としては予定調和でしかない。

中で以下の句には立ち止まった。

鳥帰る書き込みのなきカレンダー   中塚健太
ほつほつと路面に消ゆる春の雪
風船や世界のどこか崩れゐる
独り身の夜は魚となるプールかな

一句目。鳥が帰る瞬間を目の当たりにしたことがあり、今でも鮮明に残っている。それはあまりに一瞬で、鳥たちの間で計画されていたであろうその日は、人の予定表には書き込むことが不可能だ。「書き込みのなき」から鳥と人の生きる世界の越えられない隔たりを感じる。
二句目。この雪は大きな牡丹雪だろう。「ほつほつと」の擬音が雪片の大きさを表している。春の雪は路面に丸い跡を残して消える。落ちては消える。
三句目。平和の象徴でもある風船が上ってゆく空は地球のあらゆるところに繋がっている。この瞬間も崩壊に向っている場所がある不条理。
四句目。仕事帰りにプールで泳いでいるのだろうか。様々な社会のしがらみから解放されてのびのびと手足を伸ばし魚になれる時間。「独り身」であることの自由と孤独に現代性を見る。「プールかな」の収め方も、水面に映る照明が見えていいと思う。

これらの句には作家性の萌芽が見える。予定調和を改善し、掲句のような句をもっと入れることで見違えるような50句になるだろう。


21. ゐません(ハードエッジ)

昨年の落選展で注目した作者である。軽みがありながら目が効いていて、見るべきところのある作品群だった。
さて今年はどうか。
印をつけた句は割と多い。好きな句から。

ハンカチはチェックが好きで色々と ハードエッジ
楽しくてたまらんといふ子規の忌ぞ
池に雨松の手入も済みたるよ

一句目。今、私自身が播州織のチェックのハンカチにハマっているので、いきなり言い当てられた気分で読んだ。「色々と」の句絶がハンカチの軽さをうまく引き出している。
二句目。「楽しくてたまらん」、この言葉以上に子規その人の人柄を表すに適した言葉はないと思う。
三句目。見たままの景をそのまま句にしたことで、池に落ちた松葉や、手入れ後のすっきりとした松の枝ぶり、全体を濡らして池に落ちる雨粒が見える。全体の調和がいい。末尾の「よ」で常套を少しずらすことにも成功している。

つぶらなるものを連ねて蝌蚪の紐

蛙の卵が目玉のように見える様を、瞳に置き換え、さらに「つぶらなるもの」と言い換えた。機転が利いている。

朝顔の売れ残りたる日差かな><子を連れて涼みがてらに町の寺><仏壇に花新しき帰省かな><虫籠の虫を放てばぴよんぴよんと>なども安心して読める句群で悪くない。幽かな既視感は残るのだが。

一方、書き急いだ句も目につく。
茶摘女に摘まれて痛き茶の木なり><雪折れのところに雪のなかりけり><とある日の神と佛と仔猫かな><北窓を塞げば寒くなりにけり><ゐませんと毛布の中が応へけり>など。
「ゐません」の句はじわじわとくる面白さはある。この路線で書いて行くのだというポリシーを感じないわけでもない。

「瞬時にして反射的に、有季十七音という言葉の塊りとして一時に出てくるような体質」は爽波の「俳句スポーツ説」的だが、爽波のいう「写生の修業、芸としての修業」とはまた違った形での量産で、遊びの部分が色濃い。それも個性だろうが今回の50句は全体的に何か物足りなかった。せっかくの瞬発力が勿体ない。私はこの作者の、あえてこだわり抜いた一句も見たいと思った。


22. 弔ひ(三島ちとせ)

どこかで見かけた名前と思ったら、石田波郷賞の落選展にも作品を出しているパワフルな若手である。

さて、タイトルが重いのでぐっと息をのんだのだが、ほとんど深刻な句はない。ドラマ性を求めながら読むと(求める必要はないが)肩透かしを食らう。逆にルイス・ブニュエルの「自由の幻想」的なシュールさが展開されるのかと期待したりもしたのだが、そうでもない。
率直な感想としては、題詠句の寄せ集め、という印象。とにかくガンガン句を作り、その中でカラーの近いものを編集した感がある。

鰤起し駐在さんと居る園児><夏来る床へ現像液ぽとり><恋文を出す一呼吸日傘差す><鶏頭花海岸線に船の墓>、他にも面白いシーンを描いている句が見えるのだが、事柄に比重がかかりすぎて季題が置いてきぼりだ。「鶏頭花」の句などは、季題次第ではかなり印象深い句になる景である。取り合わせを成功させることは、季題そのものを詠むことよりも難しい。オーソドックスだが、山本健吉『基本季語500選』などから季題へ深くアプローチすることで、季題斡旋力が変わってくると思う。

蝶が吸ふ蜜を密かに摘んでゐる   三島ちとせ
 
「蜜」と「密」が「を」を挟んで上下(隣)にあるところに加え、全ての漢字の醸し出す雰囲気がエロティックだ。「密かに」なので鳥ではなく人だろう。蝶が吸う蜜と知りながら、それを摘んでしまう行為の危うさに、こころの闇の部分が引き寄せられた。心象風景とも受け取れる。

陽炎や家畜オスより入れ替へる
殺処分終へて一服花の冷

これらの句には強さがある。
一句目。放牧牛の入れ替えだろうか。読み手に提示されているのはオスから入れ替えるという事実だけだ。それは陽炎のゆらぎの中で行われた。そして「オスより」が精子のゆらぎの如く必要不可欠な言葉として一句の中にあることを確認する。
二句目。家畜を殺処分するという決断までの葛藤。それを終えた空しさと安堵感。それもまた花の日の一つの出来事だ。「一服」に込められた想い。鋭いところを抉っていると思う。一方で読後感というものも大切にしたいと言い添えておこう。

骨盤の高さに躑躅咲いてゐる

人の骨盤でなくてもいいわけで、犬でも牛でも熊でもいい。人だったらオオムラサキ、熊だったら山躑躅と、躑躅の高さや種類がさまざまに見えてきて楽しい。解剖図的に骨盤を考えたとき、躑躅のウエット感が案外伝わってくるのも不思議。「骨盤」と「躑躅」の奇想天外な取り合わせが共存していて面白い。

海底の呼吸炭酸水のやう
故郷は集合団地秋の雨
紅葉かつ散るthank you for listening.

これらは等身大の句だろう。
一句目の素直さも、二句目の季題の効果もいい。
三句目は流しっぱなしのラジオからDJの最後のフレーズが聴こえた。その音声と「紅葉かつ散る」風景のコンビネーションのよろしさ。

可能性は感じる。今後の伸びしろに期待したい。


2014-12-21

【2014落選展を読む】 4. 書いているところ 堀下 翔

【2014落選展を読む】
4. 書いているところ

堀下 翔


≫ 2014落選展



ちょっと間が空いてしまったが、まだ読む。

19 仮面(中村清潔)


がつがつ……かなり俗っぽい形容であるにもかかわらずこの擬態語にしか言えない状態はたしかにあるのだ……読ませる面白さがあった。その面白さははじめフレーズが巧みかつ明快であるがためのものである気がしていたのだが、何回か読むたびに、書こうとしていることそれ自体が、ある面では俗っぽくもある、ごりごりとしたところのものであるからかもしれないと感じるようになった。

ただそれは題材を言っているのではなくむしろそれがどういう状態であるのか、ということであり、結局それはフレーズに回収されるんじゃないの、と言われてしまえばそれまでなのだけれど、しかし作者が書きたいこと/場所がどのあたりにあるのかというのはなんとはなしに察せられるのである。

たとえば50句中には

みづうみの秋は波打際で待て 中村清潔

というごく気持ちのよい句があるが、この句は「詩的な」ものとはすこしちがった書かれ方をしているような気がしている。「みづうみ」「秋」「波打際」という詩的なものとしては常套の事物(みづうみ、が平仮名であることも含めて)を、それを知らないがごとき手際で並べ立てる。そこで「待つ」というのだからこれはほんらいどうしようもなく甘い一句になるはずだが作者の目的はそこではなく「で待て」というところだった。

待て、というのはきびしい言葉で、もちろんそのきびしさに詩をしかけることもできようが、むしろこの命令形は日常卑近にあふれる約束のことばあるいは広告の用語のごときをとりいだしたものではないか。

助詞「で」は口語であり、文語脈の通底する50句を、そして何より同じ意味においてまさしく文語脈助詞「に」がすでにして現われている一句目〈洞窟の画は初夢に狩りしもの〉をかんがみるに、〈みづうみの秋は波打際で待て〉で作者が書こうとしたのは詩に隣接しうちまじる俗なるものだったと思う。

だからこの一句は俳句らしさ、たとえば格調だかさのようなものがなく、コピーライトのようであり、あるいは「みづうみ」「秋」「波打際」という詩的な言葉をまじえたコピーライトのパロディですらある。

冬銀河明日は長距離走者かな 

もまた気になる句であった。なにより思われる未来が長距離走者であるということが面白くてしかたがない。面白くてしかたがないと実感をとりあえず書いてみて何が面白いのか考えてみると、ひとつには「長距離走者」ということばに関する違和だろうと思った。

中七下五はほんらいとても軽い感想を言っているにすぎない。「かな」と詠ずることには疑問もある。明日は長距離走者、という発話は省略的であり完結させるのであれば「明日は長距離走者である」だ。かなが名詞につくというのは誤った認識ではないが、省略された発話であるがゆえにこれはきっと「明日は長距離走者なるかな」と言わねば欠落した感じがある。逆に言えばそれは「明日は長距離走者」というフレーズがかなり口語的な、俗なるものであることを指示している。そこに「かな」がとりつけられたせいでこの一句は異様なパースの中に投げ込まれている。

そもそもこの句の情感はとてもわかりやすいところにある。真冬の星々を眺めていて、あすの自分が走っている景を思う。星を見ながらあすの自分の姿を思い浮かべている状況自体がセンチメンタルでわかりやすい。そういったところをこの一句は切り取ろうとし、そしてそのために無理やり「かな」が据えられる。俗なる文脈と俳句的な文脈とを駆使する。そこに生ずる齟齬が一句を読ませる。

なめくぢら塩撒く民にふりむかず〉〈蟻地獄この世の果ては明るしと〉といった句の情感は、句にするまでもない、という気がして疲れてしまう。


20 オムレツ(中塚健太)


卒業をうたう句はあかるい。この50句中にある

卒業歌とどく無人の教室にも 中塚健太

もやはりあかるい。無人の教室はもちろん卒業式に出席している生徒たちが過ごした思い出の教室でもいいが、たまたまその年は通年で使用されなかった教室でもいい。

ところでこの句は50句の特徴をよく体現していると思う。まず無人の教室に届いている歌を聞きとめる作者の立ち位置に思いがいたって、これはそもそも立ち位置がいずこかにあるのではなく、単に作者が視点となる場所を持っていないのだろうと気づく。

お雛さま永久はさびしと微笑みぬ〉なんて、そんなことは実際にはわかりっこないし、〈風船や世界のどこか崩れゐる〉なんて勘だ。〈明易や眠りのなかで泣いてゐる〉も奇妙なところがあって、いったい誰を詠んでいるのか、「ゐる」のが自分であれば眠っていて明易を知らないだろうし、「ゐし」ではないから過去のことでもない。一緒に寝ていた二人の片方が早く目覚め、もう一人を見たら泣いていた、というのであれば「眠りのなか」はおかしい。眠りながら、ではないから。視点がないことの気持ち悪さが50句には付きまとう。

「卒業歌」に戻れば第二にはこの句は「も」が要らない。破調であることもそうであるけれど、そもそも「卒業歌とどく無人の教室に」と言った時点でこの句の気持ちよさは充分にあきらかになっているではないか。というかよく考えたらこの「も」はなんなんだ。卒業式場(おおかた体育館か講堂である)の外にも、ということかと思えばこれは動詞「とどく」に関わっている「も」で、卒業式場で歌っているものはその場所にあるのだから「とどく」とは言わない。それから「有人の教室」もいちおう想定されるがふつう卒業式のあいだは全校生徒が集合しているので「有人の教室」があるとは結局考えられない。とすればこの「も」は意味不明ということになってしまうけれど、おそらくこれは無人の教室に作者が感情移入した結果なのだ。無人の教室も卒業式の一部だ、と。

かりに「卒業歌聞こゆ無人の教室にも」であったとすればこれは正しかった。しかしこの句の抒情は「とどく」という動詞を置いた作者の心のやさしさにある。そしてそのうえで作者は勢い余って「も」とすら書いてしまった。書かぬではいられなかった。

そんな作者の像はたとえば〈行き先を決めず出掛けし桜かな〉のあかるさにもでているしあるいは〈料峭の空のさざ波身を浸す〉〈春の夜に寄り添ふやうにラジオの声〉といったところの主観に引き寄せられた把握にも見受けられる。


21 ゐません(ハードエッジ)


一句一句は一気に詠みあげられ、かつそれらは次々と生まれていった、そんな印象を受ける。

その作り方においてうたわれるのはほとんどがただごとであり、だから読んでいて気持ちはよい。軽さはたとえば石田郷子ラインであるとかライトバースであるとかをいうときのそれではなく、むしろたしかな写生句がリアリティを獲得していながらもそのじつ重大な内容は書いていないことに似ている。

こと〈お涅槃を過ぎて仏生会も近し〉は具体的なことを何一つ言っていないにも関わらず、そのまぎれもない事実がこのように単純に言挙げされることによってリアリティへと転じている。ほか〈池に雨松の手入も済みたるよ〉〈雪折れのところに雪のなかりけり〉などやはり何も言っていない句に気持ちが引っ掛かる。

詠みくだされた感じには一句が生まれるいぶきがあり、そのいぶきは意味に邪魔されないからこそ感ぜられる。かといって〈とある日の神と佛と仔猫かな〉は無意味というよりは意味不明であり、詠みくだされたものというよりはでっちあげられたものといった印象が強い。


22 弔ひ(三島ちとせ)


いわゆる中二病を思わせる句がたびたび挿入されいずれも素材は似ている。

冒頭〈弔ひの儀式狼から倣ふ〉は正直に言ってどういうことなのか全くわからなかった。どこかで何らかの抜けてはならない助詞が抜けていると思うがどういうことを言いたいのか想像がつかないので指摘すらできない。

それに引き続く第二句〈大寒の花束火葬する決まり〉もまたどういうことなのかはっきりしないので困ってしまう。花束「を」火葬するということなのか、それにしては花束に対して火葬という動詞はおかしい。なおおそらく作者は助詞「の」にこだわりを持っていて、この後に出てくる〈紅梅の嘘より寓話始まりぬ〉もそうだと思うのであるが、「や」とほぼ同じはたらきをしつつ切れている感じを出さないものとして「の」を使っている。

これは人によって考え方が違うのだけれど助動詞「ぬ」を大きな切れ字とするひともいて(筆者もその一人だ)その場合には「や」「ぬ」の重なりを避ける。〈紅梅の嘘より寓話始まりぬ〉もおそらくはそのために「紅梅の」とされているのであるが時期時候の言葉ならばともかく具体的な植物に「の」が付いているのではまるで修飾関係にあるようで意味不明になってしまう。あ、もちろん寓話だから擬人化された「紅梅」さんがエピソードの中で嘘をついているかもしれないのだけど、です。

といったふうに言葉の不適切さが原因で意味が通じない句がいくつかあったことはまず指摘せねばならなかった。力が入りすぎているのではないか、という気がした。もっと身近なことを身近にうたった句のほうにむしろ心惹かれた。

春草の冠電話越しに編む 三島ちとせ

「電話越しに」とはまるで電話の向こうの春草を編んでいるようで、あるいはたとえば電話の向こうの人間のための冠を「いま編んでるよ」などと電話しながら編んでいるのであれば分からないでもないが、それらはやはり無理がある気がして、「電話しながら」ということを書いた方がよかったのではないかとは思う。

だが、とまれこの句は、電話の相手とのよい関係が見えてきて気分がいい。草の冠を編む時間は心が安らぐ。その安らいだ状態でかける誰かへの電話は非常に幸福感があるし、電話の相手にそれが共有されているようでもある。

春の空庭の果てまで漁網干す〉は、普段はもっと広い場所でひろげられるであろう漁網を庭に干したらその端いっぱいにまでなったという描写に家庭のさほど大きくない庭がよく見える。


≫ 1.その年の事実
≫ 2.嘘と事実
≫ 3.ダイナミズム



2014-11-02

落選展2014_20 オムレツ  中塚健太

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週刊俳句 第393号 2014-11-02
2014落選展 20 オムレツ  中塚健太
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落選展2014_20 オムレツ  中塚健太 _テキスト

20 オムレツ  中塚健太

オムレツの黄色やさしく春来る
鳥帰る書き込みのなきカレンダー
料峭の空のさざ波身を浸す
シャンパンと少しの嘘とバレンタインの日
ほつほつと路面に消ゆる春の雪
早春の窓の眩しき昼休
事務机誰かが置きしクロッカス
幸福の咲くとはこんな桃の花
お雛さま永久はさびしと微笑みぬ
食べつづけるポテトチップス春うれひ
かの地では流氷のころミントティー
ヒヤシンス三角定規もてあそぶ
囀を日がな散らかし恋といふ
永き日の海を見てゐる少女かな
春の夜に寄り添ふやうにラジオの声
風船や世界のどこか崩れゐる
真夜中のコンビニに買ふ花菜漬
朧月財布の中に導眠剤
春の服クリーニング屋華やげる
卒業歌とどく無人の教室にも
朝寝してシーツの皺に陽の溜る
シャボン玉割れて弾ける子らの声
やはらかにグラスを満たす春の水
菜の花はスポットライト当たるかに
移り気を蝶に誘はれふはふはす
恋かも知れぬ春雨のピアニッシモ
ボートレース歓声の川遡行せり
歩道橋春満月へ上るなり
ヨーグルト混ぜて退屈梨の花
テレビでは自殺のニュース桜東風
行き先を決めず出掛けし桜かな
麗かやどの屋上も歌ひだす
花曇オープンカフェにドーベルマン
深きよりエスカレーター花の雨
ニベアでも塗ろ花過ぎの感傷は
春落葉踏めばかさこそ秘密めく
夏近し母と外来診察室
陽炎や孤独を乗せてオートバイ
夏は来ぬ光りを鳴らす窓硝子
ウォームアップの陸上部員風薫る
葉桜や見知らぬ人が目礼す
新樹光愛猫入れしバスケット
ビル街を白い絮飛ぶ薄暑かな
明易や眠りのなかで泣いてゐる
独り身の夜は魚となるプールかな
高原の朝の気温の冷蔵庫
夏の空シンバルにする鍋の蓋
夕焼けを堰き止めてゐる摩天楼
サングラス誰そ彼の世に紛れたる
暮れなづむ瞳にある安堵ビヤガーデン

2012-12-23

【2012落選展を読む】大穂照久 生駒大祐 司会:村田篠

【2012落選展を読む】
下駄箱の名札から白物家電まで 
(08ハードエッジ 09嵯峨根鈴子 10神山朝衣 11中塚健太)

大穂照久 
生駒大祐
司会:村田 篠


この対話は、2012/11/10から2012/12/8にかけて、ネット掲示板及びskypeのメッセージ機能を通じて交わされたテキストを、再構成したものです。


村田:「2012落選展を読む」の第2ブロック、08から15までの8作品は、大穂照久さんと生駒大祐さんをお迎えし、村田の司会で読んでゆきます。

大穂さんは2008年4月に「第2回 週刊俳句賞」を受賞されました。久しぶりの本誌登場です。生駒さんはみなさんご存じの通り、この春まで「週刊俳句」のスタッフとして活躍してくださいました。よろしくお願いいたします。

大穂:本当にひさびさの「週刊俳句」です。よろしくお願いします。

生駒:生駒です。よろしくお願いいたします。

村田:では、順番に読んでいきましょう。



08
ハードエッジ「あかさたな」
≫読む ≫テキスト


大穂:まずは、好きな句から。

あかさたなはまやらわみなあたたかし
たし算はもらつてばかりあたたかし
くらやみのうえのくらやみ雛納め
王様のような歩みを毛虫かな
白粉花が咲いて運転手は君だ


着眼点が魅力的でした。

村田:くらやみ〉の句は私も少し惹かれました。これ、どういう状況なんでしょうか。

大穂:納戸の暗闇に雛の箱を入れると、その上にも暗闇がある。そこに面白さを感じました。闇の重層的な感じが。暗闇が、重ね餅のように二段になっている状況ですね。

くらやみ、というとふつう一塊のものを想像するんですが、作者はくらやみを分けて捉えている。この視点は面白いです。

生駒:うーん、僕は構造的な何かを言おうとして失敗している句だと思います。〈白粉花〉の句は?

大穂:君があきらかに年下である。彼にとっては、決定は命令的で、運命的というか、そこが面白いなと。覆しがたい何かを感じます。

生駒:視点が神っぽい。話し言葉の導入はどうなんでしょうか。

大穂:話し言葉はダメ?

生駒:ダメというか相当うまくやらないと僕は認めないので。この句はそんなにグッと来なかった。

大穂:成功しにくいのは確かだけど、この句はアリだなぁ。生駒くんの好きな句は?

生駒:

遠くある電車の車庫や揚雲雀
春かなし下駄箱の名札みな剥がされ
空蝉を水に流してやりにけり
ソーダ水深きところを吸はれけり
のし餅ののされぐあひを押してみる


揚雲雀〉の句、「遠くある」が良いですね。遠いけれど、確かに、ある。その不思議な距離感が面白いです。

大穂:いいですよね。ある、の把握がとてもいい。「在る」の方ですね。

生駒:見ているというよりも「存在する」。

大穂:見るという行為は二次元的ですが、「在る」と言われると、より世界を把握しているのではないかと思います。

生駒:空蝉を〉の句はどうしても〈蝉の殻流れて山を離れゆく 敏雄〉と比べてしまいますが、中七座五は慣用句ではなく、単純な事象と取りたい。何でもない行為のようで、意外と異常なことをさらりと言っています。「やりにけり」の上から目線が謎で面白い。

あとは〈ソーダ水〉の句。当然のことを言っているだけれど、深きところという把握は意外に面白いです。受け身になっているのも、良い意味で変だし。

村田:ソーダ水〉の句、私も好きです。あと〈のし餅〉の句も。

よくある行為ですがちょっとしたこだわりがあって、そのこだわりにその人の非常にパーソナルな部分が窺われるように感じます。

生駒:春かなし〉の句は、春になって、生徒が入れ替わるために名札が一時的に剥がされていて、想像するとその風景は確かに物悲しい。ただ、上五であからさまにそれを言うのが正解かどうかは難しいところです。

大穂:春かなし〉の句には微妙な力関係が感じられるのが魅力でした。

生駒:微妙なとは?

大穂:そういうルールがある、みたいなことでしょうか。ニッチ。

村田:「ニッチ」というのは

生物学では生態的地位を意味する。1つの種が利用する、あるまとまった範囲の環境要因のこと(wikipedia)

ということでいいですか?

大穂:はい。個人的に、ニッチな場面の掬い方は非常に好きです。

運転手は君だ〉〈名札みな剥がされ〉あと〈社員食堂の列が進むよ衣更〉など。
社会のしがらみといってしまうと大袈裟ですが、ミクロな場面に現れる社会的な力学、ルールに近いもの。そういう微妙な関係が感じられる。

村田:面白い読み方ですね。確かに、子どもの視線を装って、大人のルールのようなものを感じさせられるところもあります。

長生きの屑と云はれし金魚かな〉などは「屑金魚」に引っかけた句で、淡々と詠まれているだけに、少し切ない。

生駒:つまり、社会通念をひねらずにそのまま書き出しているという魅力なのかな。それは、おそらくは共感を呼びやすい。読者を誘導するような俳句です。

その一方で、〈二つある小さな方が春の橋 信治〉のような句がある。

大穂:上田信治さんの応募作「二つ」の1句目ですね。

生駒:はい。社会通念を踏まえていないが共感を呼ぶ句です。

こういった句づくりは読者に負担をかけますが、僕は共感できるし、好きな句です。

大穂:小さな方「が」、はうまいですねえ。「が」が切れ字っぽく感じます。散文的な句のなかで「が」が切れみたいなものをうみだしているような気がします。

村田:そのほかに、何か気になったところとかありますか?

大穂:全体としては面白かったですが、何かがつまらない。

生駒:平凡な句が混じってくると印象が落ちるというか。

村田:平凡というのは?

生駒:感動する箇所が個性として立ち上がるに至っていない、通俗な部分にとどまっていることです。

大穂:慣用句的な表現が多いためでしょうか。読み手の意見が分かれるところかもしれませんが。

村田:そこは私も気になりました。

生駒:長き夜の好きこそものの上手なれ〉とか。

大穂:表題句の〈あかさたなはまやらわみなあたたかし〉の句は好きですが、二句目の〈早う雛飾れといふにうちはうち〉や〈好きこそものの上手なれ〉はあまり成功していないかな。どこか安全圏で遊んでいる。

生駒:でも、〈運動会お昼休みとなりにけり〉には、当たり前すぎて意味不明の面白さがあると思う。こんなんいちいち言うか?という面白さですね。

忘らるることも涼しと思ひけり〉は?

大穂:その句と〈悪い子はバナナの如く食つてやる〉この2句はやはり駄目じゃないでしょうか。あと〈星祭とはまだ書けずおほしさま〉の「おほしさま」の斡旋とか。意図が見えすぎてしまう。

村田:生駒さん、全体としてどうですか?

生駒:俳句イズムに染まってない50句だと思います。

村田:そうですね。私は随所に「無邪気な好奇心」を感じる句群だと思いました。大人になった自分のなかの子どもを感じているようすが窺えて、面白い感じになっているな、と。

生駒:算数や夏休みの句が多いことから、子供の存在を全体として明示・暗示しつつ、句の中では子供の感覚と大人(おそらくは親)の感覚を往来しながら大人・子供にとって自然な形で四季を詠もうとしているのではないかと思いました。

大穂:いわゆる俳人的な目線じゃない句が多いですよね。

いっぽうで、俳句における手垢のついた表現というものを知らないのかも、と感じました。

村田:知らないから使ってしまう、ということですか?

生駒:俳句らしい丸い収め方を知らない、ということなのかも。もちろん、技巧だとは思いますが。



09
嵯峨根鈴子「手と足と」
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村田:ではつづきまして、「手と足と」。

大穂:好きな句は

サーカスの地べたのつづき葱を焼く
銃声のとどまる空に冬の虹
うしろにも坂道つづくかじけ鳥


ですね。

生駒:サーカスの〉〈うしろにも〉は僕も好きです。

大穂:ただ、季語の斡旋がイマイチだったな、と思います。

銃声の〉の句、銃声の残響をとどまると表現するのは面白いですね。音のスピードは意外と遅いものです。ですが、季語は素直すぎるかな、と。幻想的なイメージを出してはいますが。

生駒:季語の斡旋について、同意見です。

うしろにも〉の句、坂道を歩いてきて、振り返ると当然うしろにも坂道が続いている。当然なんだけれど、一瞬自分の居場所が判らなくなっている感じがあって、上手いと思いました。
ただ、「かじけ鳥」はやはり水辺にいる気がするので、ちょっとむずかしい。

大穂:確かにそうだね。

生駒:季語がヘンで、そこが個性になりかけて未だなりきれていない印象です。

大穂:子規の忌の入浴剤のマリンブルー〉、この季語も変ですね。

村田:サーカスの〉は私も好きです。好きというか、気になる。この句についてはあとでゆっくり話してもらうとして、生駒さん、ほかにお好きな句はありますか?

生駒:あとは、

かなかなや握手の右手放すとき
寒禽のこゑ嗄らしたる水面かな
金糸雀のふくれて春の手套かな


あたりです。

かなかなや〉の句は映画的ですよね。「握手の右手話すとき」という措辞が適度に劇的で、適度に冷静。その瞬間にかなかなが聞こえてくるというのも面白いです。

大穂:握手の右手はあまり好きになれなかった。シーンが想像できすぎてしまうし、かなかなや、がよくわからない。

生駒:次の〈寒禽の〉の句。寒禽が声を嗄らしているというのは常識的だけど、「水面かな」という納め方をしたことで「湖ひとつに寒禽がひとつきり」な感じで、広がりがあります。

大穂:この句はあまり評価できなかったです。想像の範囲内というか、よくある句という感じがしたので。

生駒:俳句らしい俳句の範疇、ということですか? なるほど、少し分かります。

金糸雀の〉の句は、最初の幸せな感じから、ちょっと物質感のある手套に視点が移るところは、巧みだと思いました。

大穂:この句のよさは、金糸雀と手套のふくれ具合が通じているところですね。

村田:私は〈薇の灰汁より夜のはじまれり〉が好きでした。

薇の灰汁って赤いんですね。夜との取り合わせが印象的です。夜のはじまる俳句はよくありますけど、この句は面白いところを詠んでいるかな、と思いました。

ということで、いよいよ、〈サーカスの〉の句にいきましょうか。いかがですか?

大穂:サーカスの地べたのつづき、がいいですね。

われわれの暮らしとサーカスは天幕の布一枚で区切られている訳ですが、地べたはそうではない。文字通り、日常と非日常が地続きになっている。それらが溶け合うような曖昧さが魅力です。

ただ、葱を焼く、がなあ。唐突すぎる感じがします。

生駒:その部分、僕は許容します。

「サーカスの地べた」という表現は微妙に難があるのですが、サーカスと地続きで葱を焼いているという情景は、面白くかつ、考えてみると意外とあるかも、と思わせてくれます。

大穂:うーん、地べたのつづきで本当に葱を焼いているのだったら、僕はとれない。

生駒:では、実際はどういう情景ですか?

大穂:比喩というか。葱を焼く行為そのもの、それはあくまでもイメージのような。

生駒:サーカス場の傍の屋台で葱を焼いているわけではない、と。

大穂:そう。サーカスの地べたのつづき、はあくまで心象風景というか、現実の屋台の葱に落とし込むとつまらない。

生駒:僕は逆にその現実感が面白い。

村田:私は、大穂さんのご意見に近いですね。「地べたのつづき」でいったん切れている。

葱を焼いているある瞬間に、ふと、いま立っているこの地面はサーカスに繋がっているんだよね、と感じた。「サーカス」は自分とはひどく遠いもののイメージで、でも、どこかでこの日常に続いているんじゃないか、と。

何となく、サーカス場の傍らの地面のことを「サーカスの地べたのつづき」とは言わないような気がするんです。

大穂:サーカスのフィクションっぽいイメージからの「葱を焼く」という現実っぽさ。やっぱり唐突に感じるなぁ。地面から葱へのつながりも、つきすぎに感じます。

村田:おふたりの正反対の読み方は、「サーカス」という言葉をどう感じるか、というところにかかっているんですね。現実の風景と読むか、イメージなのか。

大穂さん、作品全体としては、なにかお感じになりますか?

大穂:さっきも言いましたが、やはり季語のことですね。もう少し季語に遊びと推敲を加えてもいいんじゃないかと思いました。

また、句跨りの句や無季の句もありましたが、乱れ方が足りない気がします。せっかくの無季の句なのでもうすこし冒険してもいいんじゃないでしょうか。

村田:わりあい落ち着いたトーンの句が多かったかもしれません。

私が思ったのは、雰囲気は分かるのだけれど、うまく言いきれていないかな、と感じる句がいくつかあったことです。〈雉鳩の胸に深入りしてしまふ〉〈ブレーキのあそびすこんと夏燕〉などは少し分かりにくい。

生駒さん、どうですか?

生駒:篠さんもおっしゃる通り言いきれていない感じのする句があって、〈みづかきとしばらく歩く崩れ簗〉〈雁瘡をいたぶるやうにサキソフォン〉〈雪の朝猫にも美しきことば掛け〉などが惜しい。

また、季語の斡旋ですが、〈冬うらら青虫しがみつくばかり〉〈あしあとの綺麗に消えて百千鳥〉なども外しているかもしれないな、と。

全体として、生活と季語が不思議に共存している場面を描くのが巧みな方だと思いました。



10
神山朝衣「声影」
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村田:次は「声影」です。

大穂:落選展のなかでは、個人的に1,2を争う50句でした。好きな句を挙げてゆきます。

残雪の輝きを踏みつくしたる
永き日やミニカー未だ並べてゐる
犬の名を長きを呼びて爽やかに
母と行く道どこまでも葱畑


生駒:トーンは今回読んだ作品の中でいちばん整っている、と思います。

大穂:淡くて、かつ劇的なんですね。

残雪の〉の句、輝きを踏むという表現から、残雪の硬い質感や踏む音が感じられます。

永き日の〉にはミニカーを並べる事に没頭していて、まるでそれが際限なく続くような不思議さが、〈母と行く〉には歩くこと、移動することそのものが別の意味を持つような不思議さがあります。

村田:犬の名を〉は私も好きです。「名前を呼ぶこと」には意味というか、心をゆさぶる要素があって、そのことをこの作者はよく知っておられる、という感じがします。「犬の名前が長い」というのは、なにげないですが面白いですね。

生駒さん、いかがですか?

生駒:上の4句では季語と日常の言葉が自然に同居していますよね。

大穂:例えば、「ミニカー遊び」や「母と行くこと」、それそのものが別の意味を持つような。そのときに時間が相対的になる。

生駒:母の時間、私の時間、子の時間が。

大穂:複座の視点があります。

生駒:僕も好きな句を挙げますと、

ともだちの名をゆつくりとはつざくら
一羽づつ雲となりたる朧かな
永き日やミニカー未だ並べてゐる
歌うたふ子や夏蝶に嫌はれて
犬の名の長きを呼びて爽やかに
秋蝶の生れるとひらく蕾あり
鳥を呼ぶ冬木や昨夜の雨落とし
冬蜂を吹いてきらりと光らせて


などです。

少し淡すぎるかな、と最初は思いましたが、50句で読んでみるとこの繊細さ、端正さが際立って、清々しい読後感がありました。

上に挙げた句は明快で分かり易い一方で、その意味の繋がりには微妙に段差があって、その段差は躓かせるのではなく立ち止まらせる力を持っています。

村田:「微妙な段差」というのが、さきほどの大穂さんの「複座の視点」と通じるところでしょうか。

早春のひとの呼吸を聴いてゐる〉という句が好きなのですが、この句にも、少しそういうものを感じます。呼吸する人の時間と、それを聴いている自分の時間がそれぞれ別にある、というような。

冬蜂を〉の句も好きですね。「きらりと光らせる」という常套句がとても魅力的に響きます。

大穂:ケチをつけるなら、「ふつう」の句が逆に目立ってしまうところでしょうか。

村田:ふつうの句というのは、例えば?

大穂:人の子を叱ってもみし花臭木〉や〈初冬や子の問ひかけをそのままに〉あたりです。

生駒:吾子俳句は成功しにくいですね。

大穂:なんでだろうね。共感(できないから)かな? 普遍性を見つけられにくいから? 吾が子は特別だから。

生駒:子供の描写に普遍性があると良い句になるんじゃないでしょうか。

大穂:それから、〈冬蜂を〉の句はあまり好きじゃなかったです。『城之崎にて』のような……。

村田:あ、この句は蜂の死を詠んでいるのですか……。

生駒:風と光の離れ具合がいい。

大穂:どちらかと言えば、ついている言葉じゃないですか。風光るとかいいますし。それから、「吹いて」というと作者が吹いてるような感じがします。

生駒:無邪気さに落とし込みたいというのは感じられます。

村田:無邪気さ……うーん、そうですか。

大穂:50句全体としては、破調や季語の斡旋が整っていて、読みやすい作品でした。

生駒:それに、うっすらとした幸福感がありますよね。

大穂:その一方で、トーンが一定でないのが、残念でした。

村田:一定でないというのは、さきほどの「微妙な段差」を越える句と、「ふつうの句」が共存しているということですか?

大穂:そうですね。そして、読んでいて安心感というか、劇的な言葉も多いんですが、安全な場所を感じさせる50句でした。

生駒:ああ、そんな感じがしますね。



11
中塚健太「風の渚」
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生駒:では、今度は僕からいきます。好きな句は

煎餅のなぜか瓦を模して雪
白鳥に恋せし白物家電かな
黒板の日付の消され卒業す


このあたりは面白い俳句として成功しているように思います。

特に〈白鳥〉の句は、「白物家電」というような、通常俳句では成功しにくい日常の熟語を読み込んでいて、不思議な到達感がある。

大穂:この句は白鳥と白物家電の白つながりですが、恋をしているというのが妙に説得力があります。なんとなく冷蔵庫を思いました。エアコンじゃなくて。

村田:「白鳥」とか「恋」とか、甘いイメージの単語を、専門用語っぽい「白物家電」に合わせてうまくいっているのが面白いですね。
「白物家電」を生きもののように扱っても違和感があまりない。それだけ身近な存在、ということなのかな。

生駒:一方〈黒板〉の句は、かなりきれいな着地を見せていますね。

大穂:僕もその句、好きです。

生駒:名前が消される句はよくありそうですが、日付が消されるとしたことで、卒業生にとってのある時間の「停止」と学校にとってのいつもの「更新」の差を上手く描いています。

大穂:この句の良さは、卒業の「その後の時間」が感じられるところではないでしょうか。日付を消す行為が、教室に次の最高学年を迎えるための儀式のように思えます。

村田:「日付を消す」がいいんでしょうね。その行為によって句の中に複数の「時間」が立ち上がった。

大穂さん、50句全体を読まれての感想はありますか?

大穂:ちょっとおっさんっぽいな、と。

措辞が慣用的なので読んでいてきついところがあります。また言い尽くされた表現が多いので、もうちょっと工夫が欲しいです。

村田:この方の句は、何かを言っていますよね。言い止めたいという意志を感じます。ただそれが少しストレートに「人生」を感じさせ過ぎる、というか。

生駒さん、いかがですか?

生駒:そうですね。作者の感情が句の中に溢れすぎている句が多いように思えます。しかも浪花節っぽくなってしまっているのは惜しい。

村田:それは例えば?

生駒:君逝きて奔流となる天の川〉〈人生が嫌ひで好きで鰯雲〉〈男とは極楽とんぼ原始より〉あたりですね。

大穂:自己を詠んだ句ですよね。そういう句が多いので、その自己を愛せない人にはきついです。

一方で、自分以外のものを詠んだ句は面白い。〈黒板〉〈白鳥〉の句がそうですが、〈滔々と河童ながるる春の川〉もいいですね。
「河童の川流れ」という言葉を思い出すとツマナライですが、滔々と流れる春の川の中で流れる河童のイメージは非常に好きです。春の川がきわめて水っぽくないのがいいですね。

村田:自分以外ということでいうと、最初に生駒さんの挙げられた〈煎餅のなぜか瓦を模して雪〉の句もそうですが、〈魚獲つて木彫りの熊となる誉〉の「形」に焦点を絞った感じが好きですね。
この句の「誉」があまり誉れっぽくないところもいいですし。句としては、少し面白すぎるかもしれませんが(笑)。

生駒:あと僕は、〈布団てふ羊水に身を沈めけり〉〈細胞の天より降り来雪うさぎ〉などは言葉の飛ばし方が面白いので、比喩ではなく取り合わせとして用いるなどの他の処理の仕方をすればもっと面白くなるのでは、と思いました。

村田:では、ひとまずこのへんで。

(続く)


2012-12-09

【落選展2012を読む】 落選展よ水戸橋よ(其の二)  島田牙城

落選展2012を読む
落選展よ水戸橋よ(其の二) 

島田牙城



水戸橋なんて安易な名だし、小菅の橋以外にもあるだらうと調べたのだけれど、どうも水戸市周辺にもなささうだつた。

ありさうなところに無いといふのも、俳句作りに通じるのではないか。

今さう言ふ人がまだゐるかどうかは知らぬが、そのかみ、俳句を「ひねる」と言つてゐた時代があるらしい。僕の回りにもさのやうに言ふ人はゐなかつたけれど、吉田拓郎は「旅の宿」といふ歌でたしかに

「ああ風流だなんてひとつ俳句でもひねつて」

と歌つてゐた。

で、これ、結構当たつてゐると思つてゐる。

ありさうなところにありさうなものを置いたところで、俳句は成就しない。少しひねつて、ありさうもないところに水戸橋を作るから俳句なんだよ。うん、やはりこのタイトルは嵌つてゐるのだといふ、自画自賛である。

では続ける。



春暁やパートタイマーこゑ甘く  小早川忠義
レシートや要るも要らぬも卒業生  同


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やはり五十句といふ長丁場を読ませようとすると、はじめの五句はすごく大切だと思ふ。駄目な出だしだと、一句で見限る選者はゐないだらうけれど、三句で見捨てにかかる人はゐるし、五句で確実に引導を渡されることになる。極端な話、残りの四十五句がどんなに素晴らしからうとだ。

「つかみ」といふ業界用語があるらしいが、「旗日」一連はこの二句で「つかみ」には成功したのではなからうか。

〈春暁→甘く〉は緩いけれど、朝・昼・暮・夜のどれでもなく暁であることの「危険」を感じて、僕など、背徳の香りを嗅ぐ。そして舞台設定がパートのをばさんの働く場であることが示される。

〈レシートや〉は意表を衝く。まさか天下の切字「や」に「レシート」はなからうといふ読者の隙に捩じ込んでくる。

〈要るも要らぬも卒業生〉といふのも、卒業したての若者の「浮かれ」を一気呵成にこちらへ届けてくれる表現だ。

これにて、舞台設定は完璧。春暁にをばさんが働いてゐてレシートを出す学生の立ち寄る場、それはコンビニ。

さうか、となると、をばさんではないかも知れぬ。若いおねえちやんかも知れぬ。でも、四十路のをばさんあたりのはうが、背徳感はあるか。

そして五句目に〈花守やいらつしやいませこんにちは〉があり、四十八句目に〈流し来ぬいらつしやいませこんばんは〉がある。

この二句はまつたくもつてゆるゆるではあるが、なんとなくコンビニで徹底させたいんだよといふ作者の思ひは伝はる(「流し」といふ季語を久々に見た。このコンビニのある街の風情をこの季語一つが十全に伝へてくれてゐる)。

それなのに、残念ながら〈朝寝して互ひに旗日生まれなり〉とか、これはコンビニ俳句ではないよね、といふのが混ざる。摑んだ客を逃がしてしまつた五十句といふべきか。

うららかや捨てねばならぬお弁当〉〈半ズボン姿の男立ち読みす〉など納得の句もあるので、惜しいなあ。



大柄な向日葵の種蒔きにけり  ハードエッジ
空蟬を水にながしてやりにけり  同
ソーダ水深きところを吸はれけり  同
のし餅ののされぐあひを押してみる  同


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これからの人なのだらうけれど、上の四句などはさりげない慈しみの目線が感じられて好感が持てる。



その男ぶらんこに鳩あつめたる  嵯峨根鈴子
嘘もすこしまじれるさくら吹雪かな  同


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のやうな句には物語が詰まつてゐて、ふはりふはりとその世界に入つてゆけさうなのだけれど、いざ入らうとすると、作者に「入らないで、私の物語よ」と拒まれるのではないかといふ危ふさがある。

反面、

葉桜や小さく明り取りの窓  嵯峨根鈴子
触れて消す電気スタンド青葉木菟  同


が抱卵してゐる物語は、作者を離れて自由に読者が孵してやることができる。

いろいろなポケットを持つ俳人といふことだらう。



マフラーの中で少しく唄ひたる  神山朝衣

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幸せに俳句と出会ひ、幸せに俳句を作つてをられる人なのだらう。その気息がこちらに伝はつてくるのだから、こちらも幸せになれる。掲句はそんな中でも類句の少なさうな幸せな句。

秋の蠅の死中国の壷の中  神山朝衣

を自身の中でどう処理してをられるのだらう。他の句と相当違ふ句の姿なのだが。そして僕はこちらの方にこそ未来が開けてゐるのではないかと思ふ。

〈マフラー〉の句は俳句が貴女を救ふ。〈秋の蠅〉の句の方向性といふのは、貴女が〈俳句〉を幸せにする。



胎にゐて止まぬ吹雪を聴いてをり  中塚健太

≫読む ≫テキスト

胎児に聞かせてゐる俳句といふのは五万とあるのだらうが、胎児が聞いてゐる俳句といふのはどうなのだらう。胎児が蹴つたりはするけれど。

周囲に子供俳句があるわけでもなく、とすると、胎児となつたのは作者自身か。



サンドバックの奥に窓その奥に月  谷口鳥子

≫読む ≫テキスト

作者の性別といふのは、その句を読むときにどれほど大切な情報なのだらうか。

とりあへずこの作者名を「とりこ」と読み、女性であらうといふ先入見を持つて読み始めた。先づ十句ボクシングジム俳句が続く。荒いが強烈だ。続いて鉄工所での労働句が続く。どの句も「語つてしまつてゐる弱さ」はあるけれど、内容に気圧される。

そこから少し、恋も混ざる日常詠が続く。日常と言つても、ウェブで株価を見たり、パチスロへ行つたり同棲相手の舌の動きを詠んだりと、生々しい。そして介護俳句を続け、〈夏星の配線だけをつなぎ去る〉で締めくくる。

この人は別に社会性俳句を書かうとしてゐるわけではない。ありのままの今を書いてゐるにすぎない。その意味で、幸せなありのままの今を書く神山朝衣とおなじスタンスなのだ。「今」の中身が百八十度違ふだけ。

この五十句は、力技でしょう。

今現在の俳句界に突き出して、議論させるべき句群でしょう。

三カ所関西弁が出て来る。焼酒(ソジュ)は朝鮮か。古酒(クース)は泡盛、沖縄だ。そのへんから察するに、関西でも大阪か。

ちぎれ栄螺ほじくり引き出すまで見つむ  谷口鳥子
革軍手灼けるレンチに変色し  同
古酒(クース)の夜はじめのメールだけ消して  同
髪六日洗えずと祖母待ちいたる  同


今、これだけ力の漲つた言葉を使へる新しい俳人が他にゐるだらうか。

今の僕には、鳥子が男であらうが女であらうが、どちらでもよくなつてゐる。

〈とりこ〉さんならどろどろの恋に落ちるも良し、

〈てうし〉さんならとつ組み合ひの喧嘩でもしながら酒を呑みたいな、何処で? つてねぇ、水戸橋のたもとで、といふのはどうね……。

(つづく)

2012-12-02

【落選展2012を読む】その2 楢山惠都

【落選展2012を読む】
その2 移動サーカスには憧れたものです

楢山惠都




サーカスの地べたのつづき葱を焼く  嵯峨根鈴子

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移動サーカスには憧れたものです。旅の一座が夜っぴでやってきて、テントを組み立て、翌日にはサーカス告知のパレードのお祭り。親にせがんで木戸銭をせしめた子どもたちは、ひげ女、力持ち、などの入った檻をまじまじと見つめる。占い女に運命を聞いたりアイスを舐めたりしながら、夜はいよいよショーの開幕。そんな数日の興行が済んだら、やはり夜中のうちにテントは畳まれてしまって、跡には色紙の残骸だけ。

股旅のきもちで葱を焼く。食材をそのまま焼くことは、飛行機も自動車も無い時代の旅の薫りがする。


火を恋ふるとは口笛のとぎれとぎれ  同

寒さにかじかんだ唇のせいでとぎれとぎれになる口笛。わたしは口笛を吹けない側のにんげんなので、この晩秋の把握が羨ましい。冷えているほうがきれいな音になるのだろうか。風船ガムを膨らませるみたいに唇をすぼませてみる。新鮮な風が口腔を通り抜ける。

 

薄氷はそろそろ水にもどりたく 神山朝衣

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水に戻りたいから緩みだすのか。緩むのをきっかけとして水に戻りたくなるのか。ある状態からある状態へ移行することの、ゆるやかさ。それを見つめるひとがいる。


目が合ふとしばらく語る蜥蜴かな  同

熊を見る熊に見られてゐる間  同

蜥蜴は見つめられている。なにかを見ること。視線を介してそのものを取りこんでしまうこと。同じように、熊にも見つめられているということ。


早春のひとの呼吸を聴いてゐる  同

山茶花や見えざる声の鳴きをはる  同

五感について言う句が多いなかで、「見えざる声」とあるので、聴覚と視覚は拮抗しつつも少しだけ視覚が強いのかな、と感じた。梶井基次郎の『視ること、それはもうなにかなのだ』という一文を思いだす。


歌うたふ子や夏蝶に嫌はれて  同

そのせいだろうか、視線以外の手段は嫌われてしまう。歌が、空気をふるわせ、夏蝶の蝶道を少し撓ませる。痙攣したかのように飛び去る蝶。

 

縄跳や入る子出る子見知らぬ子  中塚健太

≫読む ≫テキスト

小学校へは電車通学をしていたので地元の友というものがいない。近所の公園では、ある集団の横になんとなく居て、むりやり馴染んで遊ぶ、ということを繰り返した。向こうはわたしの名前を知らないから、そこの麦藁帽子の子!なんて呼ばれて。

掲句は大縄のことだろうが、確かに「見知らぬ子」が列にまぎれても目立たないだろう遊びだ。どんどん輪は循環し、最後尾がどこか判然としなくなる。たそかれ時に。

つばくらめ空に縦横斜めあり  同

外出するのがめんどうなとき、空飛ぶじゅうたんがあったならと溜め息をつく。わたしたちは平らな地上にへばりついているだけだが、縦横無尽に移動できるのが宙なんだろう。

風船の己(し)が影からも放たるる  同

風船がどんどん上空へ、すると地上の影はどんどん小さくなる。じぶんの影からも自由になり、風船は天国めいた場所へと向かうだろう。縄跳びも、鳥も、風船も、上昇する動きがあるような。

 

夏星の配線だけをつなぎ去る  谷口鳥子

≫読む ≫テキスト

この秋に初めて感じたことなのだが、星座とは恐ろしいものだ。あんなに無数の星をつないで空いっぱいに獣が配置されている。星ほどの人間はまだしも、星ほどの山羊。星ほどの鯨。星ほどの白鳥。生物学が進んでいない古代なんだからどれも怪物の様相を呈している。怪物が空いっぱいに浮かんでいて、どれも不動。

恐ろしさのあまりこの頃は夜空を見上げることができない。底なしの深海にひとり放り出されたらこんな気分だろう。星の配線をつないだ古代人は凄いなと感嘆する、いや、彼らも怖かったんだろう。だからこそ物語をつくりだしたんだろう。


サンドバックの奥に窓その奥に月  同

ボクシングジムに通ったことはないが、サンドバックを延々と叩き続けて意識朦朧、汗で部屋の湿度は高いんだろうな。黙々と殴っている視線の先に窓があって、秋の、水に濡れたように光る月がのぞく。肉体と乖離して意識は冴え渡っているのだろう。

 

西葛西葛西浦安鳥雲に  村越 敦

≫読む ≫テキスト

人工の海岸にはなぜだか鳥がよく住まう。曇りの日の光に似合いそうな句。繰り返される「西」がたのしい。


絵の中の夜明のいろと寒暁と  同

絵画のいいところは、枠があるところ。枠を乗り越えてみたくなるところ。枠があるからこそ、こちら側とあちら側を行き来できる。


世界ぢゆうの蟻の話をして眠る
  同

眠れない夜は羊を数えろ、というが、あれはsheepとsleepが似ているからというだけ。そんなものに縛られず、よく眠るためのきっかけを日ごろから各々研究しておくことが肝要である。


広告の中の家族やシクラメン  同

「効いたよね、早めのパブロン」のCMが苦手だった。わたし以外の全ての娘は、あのように母を労るのだ、と罪悪感を持つから。シクラメンの濃いピンクも押しつけがましいように思えてしまう。


ハロウィンや空気つめたく灯はあつく  同

ハロウィンらしいとも思うが、それよりも、確かに十月末の街はこのようである、と思う。

 

新涼や言葉の出入りする身体  利普苑るな

≫読む ≫テキスト 

ようやく秋の涼しさがやってきて、息がしやすくなった。大声を張り上げなくても会話できるのが嬉しい。言葉の元は発声なのだ。呼吸なのだ。


仮の名のままに猫飼ひ冬隣  同

猫ほど名付けの魔力が似合うケモノはいない、と思う。寄りつかない猫を、名前によってじぶんに結びつける。特別な存在とする。行きずりの猫にうっかり名前をつけると寂しくて悲しいのでおすすめしません。不在の猫に呼びかけることができるとは、言葉はなんて恐ろしいのでしょう。

すべての神話は、自然の神秘に名を付けようとしたところから始まったんだろう。


春めくや三色刷の献立表  同

そして言葉は紙に記録されていく。だんだん紙や書物はモノとして独立していき、愛好されていくのだ。


それ以上言へば死なむと雪をんな  同

啄木忌幾度も道を問はれけり  同

言葉はコミュニケーションツールだとされるけれど、そうでもないんじゃないか。「雪をんな」にまずいことを話してしまった、不興を買ってしまった、そのずれこそ言葉なんじゃないか。

何度も声をかけられ道案内をしながら、きょうはかの啄木の忌日だと意識している。ただ言葉に注意するのでなく、その交換や有り様に敏感なひとだと思う。

 

口中にモスク沸きたつ抜歯かな  藤 幹子

≫読む ≫テキスト

歯医者で口腔をさわられることを、どうしても好きになれない。紙エプロンをかけられ、仰向く。なぜ歯医者のライトはどこでも薄青と薄ピンクと薄きいろなのでしょうね。これと似た折り紙があったと思う。と毎回考えながらタオルを目元に被せられ、治療を受ける。口につっ込まれる器具はどうやら、水を噴出するのと、風を噴出するのとある。むりやり別の考え事をするうちに麻酔の注射をされ、歯をひっぱられる。

「モスク」が「沸く」のだから、たぶん、嫌な治療から気をそらすために大きな何かをもくもく想像しているのかな、と思う。

この人を見よ鯖雲へ火の腕  同

わたしが連想するものは、『この人を見よ この人にぞ こよなき愛は あらわれたる』とうたう賛美歌121番の歌詞だ。『馬槽の中に 産声あげ 木工の家に 人となりて 貧しき憂い 生くる悩み つぶさになめし この人を見よ』という一番の歌詞から『馬槽(まぶね)の中に』と題がつけられる。『この人』は無論イエス・キリストを指す。

わたしの母校はプロテスタント系の学校だったので、礼拝は大切な習慣だった。静謐な時間がきらいではなかった。中学一年生のクリスマス礼拝だったろうか、皆でお祈りを済ませ、黙祷をしたときのことだ。まなうらには、現在わたしがいる礼拝堂が映っていた。それを俯瞰していたところ、礼拝堂の高い天井まであるようなにんげんが見えた。雲が降りてきたかのようにもくもくとしていて、細かい造作は見えない。そのひとはにっこり笑み、祝福を垂れるかのように、皆のいる席に片手を置こうとした。

そこで怖くて目を開けてしまった。

掲句にあるような夕焼けの鯖雲こそ神の御姿に近いのかもしれない。

 

鳥交る色屑溜めてシユレツダー  すずきみのる

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わたしの職場にもシュレッダーがあるが、紙屑がパンパンに詰まるのでどんな鳥も巣を造れそうにない。掲句の「シユレツダー」は透き間のありそうな感じだ、まだ溜められそうな。せっぱつまっていない、ゆったり時の流れる場所にあるシュレッダーなんだろう。小まめにゴミを捨てるような。色紙の巣はイースターのお祭りも思わせる。


八十八夜少女に紫だつ会話  同

いよいよ春の動きが活発になろうとする八十八夜と、少女の華やかさ、かしましさが重なる。やっぱり恋の話かしらん……。


はつゆきを競馬新聞にて避ける  同

衣服の一部であるみたいに競馬新聞を持ち歩くひと、いますね。初雪に気づいてから競馬新聞を傘にするまで少しの逡巡もなかっただろう。

(つづく)

2012-11-04

2012落選展 11 中塚健太 風の渚

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週刊俳句 第289号 2012-11-04
2012落選展 11 中塚健太 風の渚
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2011-10-30

2011落選展 中塚健太 退屈さうな空

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週刊俳句第236号2011-10-30

2011落選展 中塚健太 退屈さうな空

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2011落選展テキスト  中塚健太 退屈さうな空

退屈さうな空  中塚健太

ぶらんこを垂らし退屈さうな空
会話から蒲公英の絮飛んで困る
音ひとつ落としてよりの落椿
万年も生きれば偶に亀鳴けり
菜の花の明るい方へ行く電車
風船を必ず逃がす開会式
路地といふ空の底にて春惜しむ
夏来るペットボトルに水平線
目の湖を青葉の色の溢れけり
初夏の柑橘系の夕日かな
風薫る電車の窓に後頭部
鳥も樹も影失へる梅雨曇り
箱庭におそらく墓は建てぬもの
雨に咲く傘太陽に咲く日傘
泉汲む果実いただくやうに哉
緑蔭に入滅したる影法師
浴衣着て娘つぎつぎ開花せし
無数の目無数の窓に雲の峰
噴水の歓喜に踊る水の玉
透明な抒情ただよふ海月かな
シャワーして輝く魂を洗ひ出し
新涼や夜間飛行の灯またたき
秋の蚊帳海溝の深さと思ふ
いつまでも果てぬ亡者の踊かな
天高く屋上多き大都会
スーツ着ぬ自由背高泡立草
民草の吾にとんぼの止まりけり
人はみな迷ひ子なりぬ秋燈
月の夜の公衆電話ボックスよ
澄む水の割れぬ鏡でありにけり
咲くものに慰め花野どこまでも
末枯の年輪ひとつ刻むころ
冬支度水を平らに均しけり
北塞ぐ其処に暗がりうづくまり
冬銀河ベッド漕ぎだす夢の航
白鳥の尻に火の点く撒餌かな
いかのぼり視線の糸はぴんと張り
天空を荒海として寒波くる
マフラーの渦中に恋の主人公
極点に旗と炬燵のある景色
原つぱの地軸たらむと独楽回る
外套やだらりと不在吊るしある
詫びるにも便箋といふ大雪原
雪解川一山の白濯ぎけり
草原の風の育てる仔馬かな
無為なれば日永のしつぽ追うてをり
掌中の宇宙ざわめく木の芽時
春愁の口内炎のやうに邪魔
春光の戯れ玻璃の縁好む
朝寝して時計はとうに起きてをり

2010-10-31

2010落選展 中塚健太 迷路 

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週刊俳句第184号2010-10-31

2010落選展 中塚健太 迷路

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テキスト版 2010落選展 中塚健太 迷路 

迷路  中塚健太

日記書く薊一輪挿し置きて
君といふ春灯を訪ふ迷路かな
逃水のやうなる恋に溺れゆく
水深は青の深さに春愁
蛇穴を出づ身の細る世なれども
理屈より抱かれてみむか春の野に
ふらここに揺れる心の乗つてをり
春の服手足芽吹くが如く着る
洗濯機咲いてしまひし春の風
自転車に恋人積めば春夕焼
宇宙とは天井の裏亀鳴けり
一生を約めて言へばしやぼん玉
かぎろへる君を慌てて摑まへし
万雷の拍手の鳴りて夏来る
初夏のキスはまだせぬ海岸線
ソーダ水さかなのをらぬ水族館
新緑の街は一年古りにけり
蔓薔薇や視線絡めてややこしき
シャワー浴び人魚の貌となりにけり
夏野かな光の果てに死のあれば
向日葵や声なき叫び一斉に
サングラス太陽の嘘見抜くため
ゼリー揺れ深海の色走りけり
胸中の泉澄むとき映るもの
瀧のごと膝より崩れ落ちにけり
網膜を夜空としたる花火かな
蛇口まで押し寄せてゐる水の秋
少女らの耳打ちせしも秋の声
秋天を留守に小鳥の来てをりぬ
鹿の目の食べつつ我を見てゐたる
秋の燈や人に小暗き過去のあり
秋の雨排水溝を急ぎけり
林檎切る芯に止めを刺すやうに
啜り泣く携帯電話萩の花
トランクに星月夜詰め町捨つる
足裏に東京硬し秋時雨
麒麟より冬に入りたる動物園
愛なくば憂しと思へり返り花
初日の出和室洋室いづれより
ストーブを岸辺のごとく家族かな
冬の日や波止場へ鴎見に行かむ
白息が列成す駅のホームかな
立ち去れと枯野の風に告げらるる
青ざめて海は鯨を悲しうす
手套外せば指は裸体の白さかな
光年のつめたき昔とどきけり
楽器屋に楽器静もる余寒かな
大空に春の水脈感受せり
春光の玻璃の中へと歩み入る
心音のとくんとくんと春の雪