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2022-12-25

季語「開戦日」の怪  島田牙城

季語「開戦日」の怪   

島田牙城

開戦日(仲)十二月八日(ルビ略)
太平洋戦争開戦の日。一九四一年(昭和一六)一二月一日の御前会議を経て、「ニイタカヤマノボレ」の電報が打電された。…………

上は、先月末に刊行された『新版角川俳句大歳時記 冬』の「開戦日」冒頭四行である。解説は池田澄子さんの筆。

そこそこ若い人の例句が多く、「開戦日」経験者となると、木田千女さん(大正十三年生・狩行さん門・開戦日今宵は風呂を熱うせよ)当時十五歳、大牧広さん(昭和六年生・登四郎さん門・開戦日が来るぞ渋谷の若い人)と櫻井博道さん(昭和六年生・澄雄さん門・十二月八日味噌汁熱うせよ)は若干十歳。大人としてこの日を受け止めたであらう方々の句は、皆無である。

大歳時記の旧版(二千六年)では、解説は池田さんで新旧ほぼ同じではあるものの、「十二月八日」が見出し季語、「開戦日」が傍題と逆転してをり、「生活」から「行事」への部の移動といふ大転換もあった。

例句に「開戦日」は先出の千女さん(開戦日くるぞと布団かむりけり)の一句のみで、熊谷愛子さんの句(大正十二年生・楸邨さん門・十二月八日かがみて恥骨在り)のやうに「十二月八日」の句が圧倒的だ。

『合本俳句歳時記第三版』(角川書店、千九百九十七年)には「十二月八日」も「開戦日」もない。第四版は未確認だが、第五版(二千十九年)では「開戦日」を主季語として入集させてゐる。「開戦日」は、どうも戦後五十五年を過ぎた今世紀に入ってから、突如季語として認知され始めたのではないかといふ疑問が湧く。

そもそも先掲五句のうち「熱うせよ」が二句、「来るぞ(くるぞ)」も二句とは、この日への思ひの常套、貧困をあげつらはれても仕方あるまい。

大牧さんの句、渋谷の「若い人」たちは「放っといて」と言ふだらう。貴方は何を知ってゐるのかと問ひ返したくもなり、高圧的な説教調が鼻につく。「若い人」は怒ってもいいのではないか。大牧さんから見たら、儂も若造であった。

また、千女さん、博道さんの「熱うせよ」にも違和を感じる。まさか「開戦」に心が昂ぶったのか、とは思いたくないが、静かにこの日を迎へたといふ句ではない。命令形であることの怪しさを思ふと、ゾッとする。あなた方に命令される謂れは、ない。

「十二月八日」で広く記憶されてゐる一句がある。

十二月八日の霜の屋根幾万 加藤楸邨 

楸邨さんの昭和十六年十二月八日、まさにその日の作品。楸邨さんは、『雪後の天』の「十六年抄」にこの句を「十二月八日以後」の題のもと、その一句目として残した。衝撃的な日だったことが手に取るやうに分かる。「霜の屋根幾万」には苦渋が満ちてゐる。しかし、「十二」「八」といふ数字は記録としてのそれであって、季語ではない。

楸邨さんの句を見てみようか。

戦傷兵外套の腕垂らしたり      十三年三月
つひに戦死一匹の蟻ゆけどゆけど   十四年 夏
征きて病みつばくろを見きと茂木楚秋 十五年七月
埋み火のあるひは灯り戦すすむ    十六年五月

楸邨さん関連でもう一つ、執筆資料を出しておかう。 

十二年十一月 戦争と俳句         「新潮」
十三年 一月 誓子氏の戦争俳句論     「新潮」
    八月 戦争俳句・その他(草田男・三鬼・白
      泉・有風・辰之助との座談)「俳句研究」
   十二月 戦争俳句の進展       「新潮」

など、昭和十六年十二月までに楸邨さんが戦争について詠んだり、書いたり、語ったりした数は膨大である。友や教へ子の多くは出征し、傷付き、骨となって帰還する者もゐた。

そんな中つひに「開戦の詔勅」が下され、アメリカやイギリスとも戦はなければならなくなった(対戦国が増えた)日が「十二月八日」だったのではないか。中国での戦ひは戦争ではなく事変であると万が一にも嘯(うそぶ)く人がゐたとして、その人は上の楸邨さん執筆時評などのタイトルにある「戦争」の語を俳句作品にある「戦」の文字を、そして、あまりにも多く世に記録されてゐる昭和十六年十二月八日以前の「戦争」を嘲笑(あざわら)ふのだらうか。

「開戦日」が太平洋戦争開戦、すなはち日米開戦を表してゐることは自明、といふ声も聞こえてくるんだ。しかし、決して自明ではない。少なくとも『広辞苑』には搭載されてをらず、儂は「神戸新聞」しか確認してゐないが、十二月八日の朝刊に「開戦日」の語はなかった。日本にとって、とうに戦争は始まってゐて、すでに疲弊し始めてゐたのだから当然のことだらう。

「開戦日」とは、俳人だけが使ひ始めた、怪しく特殊な単語だと言へる。(あるサイトによると、右翼団体がこの語を使ってゐた形跡はあるやうだが)。

また、日米開戦の日を経験した俳人の多くが、「開戦日」といふ言葉では俳句を残さぬままに鬼籍に入られてゐる、といふ事実は、儂にはさうたうに重い。

昭和十六年十二月で思ひ出されることがある。京都大学法学部の平松小いとゞ君は、この月徴兵検査を受け、月末繰り上げ卒業、翌年二月に応召した。

当時大学生がどれほど貴重な頭脳であったかは、今の比ではない。昭和十六年の全国大学生数は、文部科学省資料によると四万一千九百六十五人。それに比し、日米開戦時の日本軍の兵力は約二百四十万人とも言はれてゐる。大学生を全員動員したところで、全体の二パーセントにも満たない。なのに彼らを戦場へ送らざるを得なかった。そこまで追ひ込まれてゐた上での、日米開戦であった。

大日本帝国といふ我々日本国の前身は、満州事変、特に日華事変(千九百三十七年)以後、完全な戦争状態にあった。この事実を、「開戦日」といふ、俳人により二十一世紀に広められた安易な単語は、誤らせる。

『角川俳句大歳時記 冬』旧版が歳時記としての初登載なのだとしたら、まだ刊行後十六年。傷は浅い。海軍祈念日(千九百五年五月二十七日の日露戦争日本海海戦を記念する日)だって、一度は季語となったがその後廃れた。また、日清、日露、第一次大戦、いや、遡れば戊辰戦争にだって「開戦日」はある。忘れていい戦争ではない。

『新版角川俳句大歳時記』では旧版の「震災記念日」を廃し、「秋」に「関東大震災の日」を立てた直したうへで、「春」に「東日本大震災の日」を、「冬」に「阪神淡路大震災の日」を新たに立てた。様々な開戦日があるにも関はらず、日米開戦の日だけを、それも俳人だけが「開戦日」としてゐるといふ意味でも、この季語は実に怪しい。

歴史的事象を季語とするか否かは、よほど慎重でなくてはならない。また、単語が使はれてゐる事実だけをみて、検証することなく季語を増やすといふ態度も、考へ直さうよ。

向後、儂が「開戦日」を季語として使ふことは、ない。

戦争が廊下の奥にたつてゐた 渡邊白泉 S14作

(「里」2022年12月号初出の拙文に若干加筆した)

2022-06-19

対中いずみ【空へゆく階段】№73 解題

【空へゆく階段】№73 解題

対中いずみ



本号に島田牙城が「龍太を訪う」と題した文章を書いており、牙城・青蛙・雅巳の3人で山廬を訪問したことが書かれている。面白いので少し引く。

――旅のものですが、俳句を作ります。是非先生にお会いしたいと思いまして……。
――君たち、俳句つくるの。残念だなあ。今から行くところがあってね。何処から?
――京都です。
――遠くからだねえ。まあ、こっちいらっしゃい。そう、そういう時は電話くれなきゃ。
――すみません。お会い出来るなんて思ってなかったもので。
――十分ぐらいしたら出るんだけど、まあ上がりなさい。さあ、こっちへ。

という具合で一時間ほど俳句の話をしてもらったようだ。さらに三人は翌々日も再度訪ねている。

翌々日、甲斐での作品をたずさえて再び訪ねようと、今度は裏から後山へ入った。そこで句をまとめていた。いざという時に奥さんが登ってきた。「今日は人が来ているのです。これでも飲んで下さい」。笊にビール四本とおつまみが入っていた。爪先までも爽やかだった。蛇笏の立てた庵(四阿)でビールを飲んだ。ふと、プロ野球の優勝祝賀会でのビールの洗礼を思った。

しかし、もう一度会いたかった。作品を見て頂くことはあきらめたが、一人一句「小黒坂三吟」と称して認めたものを持ち、ビールびんを返すふりをして山廬へ入った。奥さんが出てこられた。はじめはしぶっておられたが、一目という事で龍太氏が現われた。「小黒坂三吟」を渡すと、青蛙が句集にサインをせがんだ。龍太氏は快く応じて下さったが、名前だけだったのが我々には不満だった。

――句もお願いします。
にっと笑われて、
――ずうずうしいやつだなあ。
雅巳の右肩をおもいきり叩かれた。
――はじめてだよ。「雲母」の人にしかられるよ。

いきいきと三月生る雲の奥  龍
    「定本百戸の谿」(牙城)
セルを着て村に一つの店の前  龍
    「忘音」(青蛙)
沢蟹の寒暮を歩きゐる故郷  龍
    「山の木」(雅巳)

端午の日。額の冷や汗が快かった。

ビールを出してもらったり、句入りのサインをもらったり、全くやりたい放題の若者たちだ。

「青」309号の裕明句6句は以下の通り。

引鴨や大きな傘のあふられて

沈丁花冥界ときに波の間に

一枝くはへ涅槃の風に舟を出す

天道虫見てや初心にかへるべし

遠きたよりにはくれんの開き切る

鉋抱く村の童やさくらちる

(太字は『花間一壺』に収められている)


2019-10-06

10句作品 風 島田牙城




風 島田牙城

真夜やこの水を怖るる彼岸花
かなそれからの流れにも澄むことを
天才の二の句ぞつくつく法師さん
ほれそれと言ふに飽きたり秋の風
薔薇よ秋世の不倫与の不倫
秋のしほふたりをぬらすなくもがな
この人のベッドの秋の蛾を追ひつ
茸獲るけ樵一刀の痕か
ながながと秋はありけり水たまり
そこにあるかなやけりやや秋の風

2013-12-01

「忌」とは何か 島田牙城

「忌」とは何か

島田牙城


「里」2013年9月号「吾亦庵記録 『忌』とは何か」に加筆転載



少し氣になる事があるので、書き留めておくことにする。

九月十九日は近代に俳句の扉を開いた正岡子規の命日だつた。子規の死に際しては、高濱虚子が、

  子規逝くや十七日の月明に

と詠んでゐることは、多く知られてゐるだらう。子規が亡くなつた直後に詠まれてゐる。虚子の句は子規が月齡十七日の月明かりの中に逝つたことを傳へてゐる。立待である。

この年は九月十六日が陰暦八月十五日、十五夜に当たつてゐた。陰暦八月十七日の立待は九月十八日だったのだけれど、子規の死亡は十九日未明の一時、即ち空には十八日の夕方に東に昇った立待月があり、南南西へと傾き始める頃だったのだ。

少し調べてみたのだが、九月十九日は陰暦八月十七日だつたと記してゐるものが多いやうだ。どうもこれは間達ひで、九月十九日は陰暦八月十八日であったが、未明に亡くなった子規の亡骸を包んでゐたのは、九月十八日夕方に昇った立待月の光であった、とするのが正しいやうだ。

まあ、学者ではないのでこれ以上断定の爲の調べ事はしないが、もしさうなら辻褄は合ふなといふ程の話である。いや、すでに多くはこのやうに理解されてゐるのかも知れない。

ところで、この句は子規の死を直接悼む句であるが、かういふ作品とは別に、忌日俳句といふものがある。

例へば子規について松瀬青々の例を出すと、

  見ぬうちに萩はこぼれてしまひ鳧  明35

と、亡くなった直後に詠んだだけではなく、

  一周忌一茎蘭を参らせん  明36
  糸瓜忌や芒十句に日のくるゝ  明39
  舊人舊の如く新人多き子規忌かな  明41
  草の花苦吟を以て祀りけり  大6
  秋風の寒し昔を數ふれば  大13
  柿の木に子規忌近しとおもほゆる  昭4
  秋風やその後苦吟三十年  昭6
  月過のよき薄取る子規忌かな  昭10

と、毎年のやうに子規忌を修し、酬恩のこころを俳句に表はし續けた。直接の師弟(仲間、明治三十年から「ほとゝぎす」へ投句、明治三十二年秋から約八ヶ月間、上京して編集を担当した)であるのだから、この心は素直に理解できる。子規忌に仲間だった者が俳句を作る事によつて、「子規忌」といふ季語が徐々に定着していつた。

忌日俳句にはもう一つの流れがある。有名な、

  芭蕉忌や芭蕉に媚びる人いやし 正岡子規
  祖を守り俳諧を守り守武忌  高濱虚子

のごとき句で、直接知つた人ではない過去の人の忌日に句を詠むといふ流れである。子規の句は大變に厄介。何も子規は芭蕉など意に解さぬと言うてゐるのではなく、芭蕉とて一人の俳人としてその俳句一句一句に正面から向かふぞと言うてゐるのだらうが、子規の俳句革新に賭ける気概が単語や語調にあからさまに剥き出しなのが面白い。

この流れは歴史上の人物への忌日俳句を生むこととなる。俳人なのだから、俳句の先達をその忌日に思ふといふことが多いやうだが、文人や政治家や、時に國外の偉人まで、それはありとあらゆる方面の個人が對象となつていつた。

  六七句一気に成るや鬼貫忌 (俳人)陰八・二
  蛙等も兎も出でよ覺猷忌 (鳥羽僧正)陰九・一五
  去来忌や実に十日の菊の主 (俳人)陰九・一〇
  大坂の落つ火むかしや高臺忌 (北政所)陰九・六
  長養の筆に見らるれ寂厳忌 (江戸の僧)陰八・三
  若沖忌頑石を見に山に行く (画家)陰九・二〇
  世は移り六百年の夜寒かな (ダンテ忌)陽九・二四
  定家忌や薄に欠けし月一ッ (歌人)陰八・二〇
  その大を國に忘れじ南洲忌 (西郷隆盛)陽九・二四
  吉野忌やあたりゆかしき鷹が峰 (遊女)陰八・二五

すべて、作者は松瀬青々。もちろん、青々ひとりがかういふ作品を書いてゐたわけではなからうが、青々が忌日季語拡充に大きく寄与したことは確かである。

普段から尊敬の念を持つて親しんでゐる故人の忌日ならいいが、その日が偶然誰々の忌日だからと忌日俳句が量産されるのはおかしな話である、と考へる俳人もゐるだらうし、僕の中にもさういふ思ひがないでもない。逆の面から見ると、たとへば爽波を読んだことのない人が十月十八日に「今日は爽波忌なのか」と知り、爽波を読んでみる、そして爽波忌の句を詠んでノートに記してみることにより爽波に近付く、ということもあるだらう。効用などといふと「忌日とは厳粛なものです」とお叱りを受けさうだけれど、僕の一面には、さうした効用を無碍にできないと思うてゐる部分もある。

いや、僕がけふ書き留めておきたいのは、以上のやうな忌日俳句の歴史でも、その是非でもなかつた。

今までに掲げた句の全てが、ある故人に対して、その忌日に際し、偲びつつ思ひを陳(の)べた句なのであり、忌日俳句とはどこまでも一故人へ向けて書かれる俳句だといふことを、先づは覚えておいて頂きたい。

そこへ大正末以降、新たな忌日俳句が登場するのだつた。

  わが知れる阿鼻叫喚や震災忌  京極杞陽
  原爆忌乾けば棘をもつタオル  横山房子
  つつぬけのこゑそらにあり廣島忌  日美清史
  消えてより蜥蜴の蒼さ長崎忌  鍵和田ゆう子(「ゆう」は禾扁に由)

これらを先の忌日俳句と同じに考へていいのだらうかといふのが、ぼくの疑問である。いや、僕にも作例はある。考へ無しに使つてゐた過去があるのだけれど、阪神大震災に際して「阪神忌」といふ単語が生まれ、それが季語として流布するやうになつた時、僕はすごい違和感を感じただつた。

「忌」とは何か。音読みは「き」、訓読みは「い - む」「い - まはしい」。もともとは「おそれる」とか「はばかる」といふ意味の漢字らしい。その昔、死は忌まはしいものであつた。だから忌中とか喪中といつて家人は家に籠り、人に会ふことすらはばかられたし、晴の席に出ることも嫌はれた。「忌」のもともとにはさうした死への畏れがある。たとへば「Wikipedia」には「故人のための祈りに専念する期間」といふ説明があるが、本来「忌中」とは死者を出した家のものとして、その穢れを払ふ期間であつたのだらう。

ただし「子規忌」「芭蕉忌」等の「忌」は、もつと単純に考へればいい。「命日」といふほどの意味だ。僕たちが芭蕉忌や子規忌の句をなすといふのには、「故人を偲びつつ、その業績を改めて見直す」といふ意味もある。

言つてみれば、故人への尊崇の念があるからこそ、僕たちは直接謦欬に接することのなかつた人の命日にも故人を偲び、故人へ身と心を寄せることができるのである。

しかるに、「震災忌」「原爆忌」「廣島忌」「長崎忌」「阪神忌」は言葉の形からしてさうはなつてゐない。「原爆忌」は原爆の命日ではない。「震災忌」は震災の命日ではない。この言葉、「原爆忌」の原爆に、「子規忌」の子規へ向けるがごとき畏敬の念を抱けとでも言ふのだらうか。ましてや、「廣島忌」「長崎忌」「阪神忌」。廣島も長崎も阪神も死んでいやしない。

日本語として、これはおかしくないか。「阪神忌」が生まれた (鷹羽狩行が推したと言はれてゐて、なんとなくさうだと思つてゐるが、今、実証する資料は手元にない)時、関西の人たちは「阪神は死んでなどゐない」と猛反撥した。自然に腹から沸いた声であつたらう。これから復興に立ち上がらんとする被災者へ向けて、その土地の名へ「忌」と名付けること。そのおぞましさ。僕の違和感はそこにあつたのだと思ふ。

しかし、生まれてしまつた季語は歳時記編纂者によつて認知されれば掲載され流布する。角川書店『角川俳句大歳時記 冬』には「関西震災忌」といふ耳慣れない言葉が季語として立ち、傍題に「阪神忌」「阪神淡路震災忌」が記され、小路紫峡ら阪神在住の方たちの「阪神忌」俳句が多数登載されてしまつた。

六月二十三日、昭和二十年のこの日、沖縄の地上戦で守備軍が全滅した。県の定める「慰霊の日」だが、「沖縄忌」といふ単語が俳句の世界ではまかり通つてゐる。

僕は、これら俳人の言葉に対するデリカシーの無さに、無力にただ愕然とするしかないのだらうか。「廣島忌」「長崎忌」はすでに慣用化され、地元の人たちも使ふらしい。しかし、この言葉が生まれた當初、反撥の聲はなかつたのだらうか。今はSNSなどの發達もあり、小さな聲がいち早く掬ひ取られるが、「廣島忌」「長崎忌」が生まれた時、「廣島は死んでない」「長崎は死んでない」といふ聲はなかつたのだらうか。

「毎日新聞」九月十八日東京版夕刊の「季語の力 黒田杏子さんに聞く」という記事を毎日新聞社のホームページ「毎日JP」で讀んだ。杏子さんには既に、

  原發忌福島忌この世のちの世

といふ句があるらしく、また「多くの俳人が詠み、名句が生まれたなら、『原發忌』が歳時記に収められる日が来ます」と語つてをられるのだ。原發忌つて、何だらう。福島忌つて何だらう。原爆忌とも違つて、これは實体すら掴めない。

僕たちは「日」といふ言葉を持つ。なぜ「廣島原爆投下の日」「阪神大震災の日」「福島原發事故の日」ではいけないのか。

フェイスブック
https://www.facebook.com/gajau.simada/posts/567606259985921
に少し書いたら、廣島原爆犠牲者の遺族でもある俳人が「惨たらしさが傳わりませんし、わが一族の過半数が殺された命日のイメージが湧きません」と意見を開陳してくれた。

「廣島原爆投下の日」と「廣島忌」に違ひがあるとしたら、その違ひとは言葉にもたれかかる情緒なのではないのかと思ふ。原爆の悲惨にも、東日本大震災にも、情緒による装飾は不要だ。「忌」といふ言葉で全てを包み込んでしまふことをこそ、僕は恐れる。「現実がある。それを見よ!」といふことだ。だから事実としての「日」を掲げるだけでいい。

三百六十五日のうちの、その「日」といふのは重い。

ましてや、俳句作りのために矢鱈「○×忌」といふ言葉を発明する行為は、事件や災害被害者への冒瀆ですらある。

「○×忌」といふのは、我々がその人の死後も尊敬の念をもつて寄り添ひたいと願ふ大切な「個人の命日」としてある言葉なのであつた。

事件・事故・天災に用ひるのは誤用だし、すでに流布してゐるものがあるにしても、今後僕が使ふことはない。

(「東北忌」「東日本大震災忌」といふ単語も既に、俳句関係のホームページサイトに出現してゐる。それを発語してゐる多くが俳人であるといふ事実は痛い。)

2012-08-19

「輸入品の二十四節気とはずれがある」は間違ひだ! 島田牙城

「俳句」2012年8月号「緊急座談会」読後緊急報告
「輸入品の二十四節気とはずれがある」は間違ひだ!

初出 月刊俳句同人誌「里」2012年3月号(108号)(実質8月15日発行)
[吾亦庵記録] 峠の文化としての春夏秋冬、あるいは、「ずれ」といふ誤解について

島田牙城


七月二十八日から二十九日にかけて、本井英さんの肝煎になる第四回「こもろ・日盛俳句祭」に行つてきた。虚子が明治時代に行なつた日盛会なる俳三昧を現代に復活させ、三日間俳句漬にならうといふ句会形式の催しである。

句会のあと、初日に講演会、二日目にシンポジウムが行はれるのだが、今年のシンポジウムの主眼が、二十四節気の見直しを宣言してをられる日本気象協会から、このプロジェクト担当の金丸努さんにわざわざ来て頂いて二十四節気を考へようとするものだつたので、期待して会場へ向かつた。

十一年前に遡るのだが、現代俳句協会が立春や立夏などを冬や春へ追ひやるといふ無謀な俳句歳時記を編纂刊行したことに「俳句」誌上の「時評」で抗議したことがあり、その俳句歳時記の編集委員を務められた筑紫磐井さんもパネリストの一人として登壇されるらしいのだ。かういふ機会にきちんと話をしておきたいといふ思ひもあつた。

日本気象協会による日本版二十四節気の提案事業については、「俳句」八月号に「どうなる!? 二十四節気」(岡田芳朗・宇多喜代子・長谷川櫂)なる緊急座談会も掲載されてゐる。

日本気象協会による日本版二十四節気の提案事業といふものがなぜなされたのか、そして僕は、かういふ提案事業に対してどのやうな立ち位置にゐるのかを書いておかなくてはならない。シンポジウムには会場聴衆の声を聞く時間が設けられてゐたので、挙手をし、資料をパネリストに配るなどしながら、数分時間を頂いた。これから書く事は、その時の意見内容を補足するものとなるだらう。



その前に、二十四節気とは何かといふことをかいつまんで説明しておく必要がある。

これは、太陽と地球の位置関係(黄道)をもとに、一太陽年を二十四等分し、それぞれの季節に合ふ二文字の単語を宛てがつた暦であり、紀元前十世紀よりも旧い殷周の時代から冬至や夏至(二至)が中国華北地方で使はれてゐたことが確認されてゐる。

春分や秋分(二分)、立春、立夏、立秋、立冬(四立)も戦国時代(紀元前四世紀ころ)には使はれはじめ、紀元前二世紀、前漢の武帝時代の思想書である『淮南子(えなんじ)』には現行の二十四節気が出揃つてゐるさうだ。

日本には推古天皇、聖徳太子の時代には輸入され、一般に用ひられるやうになつたと言はれてゐる。

   立春 雨水 啓螢 春分 清明 穀雨
   立夏 小満 芒種 夏至 小暑 大暑
   立秋 処暑 白露 秋分 寒露 霜降
   立冬 小雪 大雪 冬至 小寒 大寒

その昔、人々はどのやうに暦を作つたのかといふと、最も小さな周期として日の出から日の出までを一日(後に太陽が真南に進んだ時を午とするやうになる)と数へ、次に身近な周期として月の満ち欠けが単位とされた。月の周期といふのは、ただ天空での変化といふだけでなく、潮の満干などにも現はれ、人体にも影響があるものだから、すごく馴染みやすかつたのだらう。

そして、月が完全に欠けた新月を朔、月の始めとし、満月を望、月の中として一ヶ月を数へる事とした。一月、二月、また一日、二日と、「月」「日」といふ助数詞を使ふのはその名残である。

では、年は何かといふと、この「年」といふ漢字は「秊」が本字で、中に「禾」のあることでも知れるとほり、稲の稔(みのり)を表す字だつた。そこから、稔から次の稔までを一年と数へたのである。

月が十二回満ち欠けを繰り返すと、だいたい同じ頃に稔の時が戻つてくるので、十二ヶ月を一年としたまではよかつたが、それでは、どうも、徐々にだけれども稔の時期とのずれが生じてくることに気付いた人たちが、太陽の一年を計つてみると、日の差す時間が一番短く影の長い日(冬至)から次の冬至までに三百六十五回朝を迎へる事が分かつた。(月の十二ヶ月は太陽の一年より約十一日短い)。

では月のはうはどうするんだよ、といふことに当然なるのだが、月は日々のことだからすごく大切で分かりやすい。ただ、一年との差は埋めなくてはならないといふことで、いろいろ計算した挙句、十九年に七度閏月を加へて十三ヶ月としてやれば、調和がなんとか図れることを知つた。稔の一年に合はせる努力をしながら月の一ヶ月を守る、これが中国で生まれ、日本で明治五年まで使はれてゐた太陰太陽暦である。

ただし、もうお分かりの人もをられようが、これだと閏月を置く十三ヶ月の年が二、三年に一度やつてくるわけで、同じ一月でも今年の一月と来年の一月では気候に狂ひが生じる。同じ一月一日でも寒さが一ヶ月ほどはずれてしまふのであつた。これでは、二月下旬には畑に出よう、四月半ばには種を播かう、十月上旬には稲刈りをしようなどと思つても、年ごとに気温差が生じるのだから、田畑を耕してゐる人には不便きはまりない。

そこで、二十四節気の登場となるのだつた。

先づ、先にも記したやうに冬至と夏至(二至)で太陽の一年を二等分し、次に昼と夜の長さが同じ日である春分と秋分(二分)を決めて四等分、その次に四つの中間点に立春、立夏、立秋、立冬(四立)を立て、これで八等分となる。

ここからは本当に頭がいいなあと感心するのだけれど、十二の月に八つの節を対応させるために、十二と八の最小公倍数である二十四を導き出し、八つをそれぞれ三等分したのだ。そこへ時節の単語を宛てがつて行く。

かうして二十四節気が完成するといふ手順なわけである。一月一日の寒さは毎年変はるけれど、立春の寒さはほぼ変はることがない、便利な暦を手に入れた瞬間である。

注意しておいて頂きたいのは、二十四節気とは、一太陽年を二十四等分したものだといふこと。すなはち陰暦とは別物であり、現在我々が使つてゐるグレゴリオ暦といふ太陽暦とも、ほぼ毎年合致(一日の差は生じる)するといふことである。

ただ、日本の暦では残念ながら、明治六年のグレゴリオ暦導入とともに、農事もグレゴリオ暦でやればいいと思つたか、二十四節気はほぼ打ち捨てられてきたと言つていいだらう。
(明治期には二十四節気を学校で教へたとか、二十四節気の正式な日時分は今でも国立天文台が計測し官報に載せるなど、打ち捨てたのではないと言ふむきもあらうが、実態としては刺身のつま程度の扱ひだ)。

  立春  二月四日
  立夏  五月六日
  立秋  八月七日
  立冬 十一月七日

これを眺めて頂きたい。漢字を表意文字、アルファベットを表音文字といふがごとき差が、ここにはある。二十四節気が表意暦だとすると、数字を宛てがつただけの日本で使ふグレゴリオ暦は、味も素つ気もない表順暦なのである。

そして、この表意暦、その意味するところが現状や日本の置かれてゐる気候と合はないのではないかといふ意見が出てきたのが、現代俳句協会の歳時記編纂動機であり、日本気象協会の日本版二十四節気提案表明といふ動きなのだ。



「ずれ」といふ感じ方、考へ方が、この動きにはあるやうだ。

立秋は盛夏、立春は酷寒の時期に迎えるため、その時分の季節感と一致しません(日本気象協會のホームページ「日本版二十四節気」の補足説明より、傍線筆者)

といふ説明は、現代に生きる多くの日本人が感じてゐることと思ふ。このことは、六月、七月、八月を夏とした現代俳句協会編の『現代俳句歳時記』「序」で、

陰暦基準でいくと、広島の原爆忌は夏、長崎の原爆忌および終戦記念日は秋という事になる(略)そのような生活実感とのズレは、陽暦を基準とすることで解消できた。

と金子兜太が記す根拠でもあつたらう。(この金子の序文は、陰暦と二十四節気を混同するといふ誤解を孕んでゐるが、それについては十一年前に「俳句」に充分書いてゐるので、今は問はない)。

今回ぼくが不思議に思つたのは、暦の研究者や、二十四節気に詳しいはずの俳人までが、この「ずれ」といふものを感じてをられるといふ事実についてだつた。

「俳句」八月号の緊急座談会「どうなる!? 二十四節気」に出席なさつた三人が、皆、この「ずれ」について肯定されてゐるのである。(長谷川、宇多は俳人、岡田は暦研究の泰斗である)。

長谷川櫂 (二十四節気が)古代中国で成立したため、日本の実態と合わないところがあります。例えば立春は二月の初めですが、日本ではとても寒い時期です。いわゆる春とはずれている。 

岡田芳朗
 二十四節気はだいたい、日本でも合う。合うけれど「ずれ」がある。それを承知で、「だいたい合っているんですよ。でもちょっとずれているんですよ。だから面白いですね」という余裕、遊びというか、それがあるのがいいんじゃないか。

宇多喜代子
 文化の厚さは「ずれ」から来ているのでしょう

(傍線筆者)

僕は、二月四日が立春であることを「ずれ」であると言ふのは間違ひなのではないかと感じてゐる。千数百年間もの長きに渡り「ずれ」てゐることを認識しながら皆が二十四節気を使つてゐたのだらうか。「ずれ」といふ確認は後世、特に二十四節気を生活の中から一度抹消し、再度その重要性を意識し始めた昨今の感じ方に過ぎないのではないか。さうではなく、日本の暦は万葉以来素直に二十四節気を受け入れ、疑ひを持つ事無く江戸期まで生活の中心にこれを据ゑてきた。

雪のうちに春は来にけり鶯のこほれる涙いまやとくらむ 二條の后藤原高子(『古今和歌集』)

などなど、それを証する文学作品は枚挙にいとまがない。

では、なぜ日本は二十四節気を素直に受け入れる事ができたのかを考へると、万葉の時代、すでに日本が農耕型の生活をほぼ確立してゐたからだといふ仮説に僕は至り付いてゐる。



その話をする前に、重要な事実を確認しておきたい。立春と立秋のころといふのが、日本の気候ではどのやうな気温なのかといふことである。

『理科年表』に、「気温の半旬別平年値」といふ表が載つてゐて、札幌から那覇までの一年間の気温の推移をほぼ五日ごとに区切つて示してくれてゐる。その一部を示してみよう(表)。





















この表で、立春や立秋のころが最も寒く(あるいは暑く)、それを過ぎると暖かく(あるいは爽やかに)なり始めるといふことが、科学的に立証されてゐることを確認して頂きたい。

そしてもつと大切な事を僕はこの表に籠めた。一目瞭然だと思ふが、大寒の次に立春があり、大暑の次に立秋がある。最も寒い時期の直後に春が立ち、最も暑い時期の直後に秋が立つ。二千数百年前、中国の人々はそのやうに季節を定めた。そしてこの定めを輸入した日本の人々も、さういふ決め事を素直に受け入れた。

最も寒い時期の後にもまだ寒い日が続く、最も暑い時期の後にもまだ暑い日は続く、そんなことは当然分かつてゐるにも関はらず、なぜまだ寒い時期に立春を、暑い時期に立秋を立てたのであらうか。これは、気象との「ずれ」でもなんでもなく、そのやうに命名する必然性があつたのではないか。

「ずれ」を言ふ人に、中国の大陸性気候と日本の海洋性気候の差を指摘する人がゐる。事実、「俳句」の座談会で岡田がその事を説明してゐた。しかし、二十四節気の生まれた中国華北地方にある北京の月別の最低気温を調べてみると、

  十一月(立冬)0度
  十二月 氷点下5度
  一月 氷点下8度
  二月(立春)氷点下5度 
  三月
 氷点下1度

となるのであつた(日本のやうに半旬別の表を示すべきだらうが、見つけられなかつた。ただし僕の示したい結論にはさして影響しないであらう)。もちろん大陸性か海洋性かの違ひから、中国より日本のはうが寒さの頂点(夏ならば暑さの頂点)が若干遅れるのだが、大本の、最も寒い(暑い)時期を過ぎたら春が立つ(秋が立つ)といふ思考には日本と中國に「ぶれ」は無い。すなはち「ずれ」てなどゐないのである。

「暖かい時期が春」といふのであれば、中国華北地方の春は三月からのはずである。しかし、中国華北地方も日本も、二月四日に春が立つのであつた。すなはち、「ずれ」を言ふ人々は、「中国華北地方の季節のずれ」をも説明しなくてはならないこととなる。



俳句祭の前夜、磐井さんの顔を思ひ浮かべながら布団の中で悶々としてゐた時、「峠の文化としての春夏秋冬」といふ考へ方が閃いた。一月から二月上旬に寒さのピークを迎へる。そのピーク、峠を過ぎたら視界が開ける、春が育ち始めるのである。立秋には秋が育ち始めるのである。僕たち極東の民族はその春や秋の育ちを大切にしてきたのではなかつたか。


宇多 日本の文化の層の厚さ。(略)季節のずれや変化があればこその陰翳礼讃。

長谷川 日本人がなぜこんな繊細な季節感を持ちえたかは、中国とずれていたから。

岡田 中国とは「ずれ」があるということは知っていて合わせている。もともとがちょっとのんびりした、余裕のある国民性だから。           (傍線筆者)


文化や国民性といつた曖昧な事で中国との「ずれ」を語り、挙句、日本の春夏秋冬はちよつと変な事になつてゐるのだと肯定してしまつていいのだらうか。そうではなく、日本の春夏秋冬がきちんとした正しい春夏秋冬なのであるといふことを僕は示したいと思ふ。
 
「峠の文化としての春夏秋冬」について、歳時記の時候季語を眺めると面白い。

 春めく・春兆す→春深し・春闌 直後に 春逝く
 夏めく・夏兆す→夏深し・夏闌 直後に 夏の果
 秋めく・秋兆す→秋深し・秋闌 直後に 逝く秋
 冬めく・冬兆す→冬深し・冬闌 直後に 冬尽く

僕たちは「春衰ふ」「春弱る」といふ言葉を持たない(夏、秋、冬しかり)。すこぶる健康的な春夏秋冬と言へる。なぜさうなつたのか、闌(たけなは)といふ峠に辿り着いたら一気に春を逝かしめ夏の兆(きざし)を育て始めるから、衰へたり弱つたりしてゐる時分には次の季節に移行してゐるのだつた。兆から季節を育て始め、闌(峠・頂点)で、うしろを振り向くことなく一気に終はらせる。

ここが欧州型狩猟民族の「Season」と、極東型農耕民族の「季節」の違ひであると、僕は考へてゐる。図にすると分かりやすいので、参考にして頂きたい。



















簡単に説明しておく。極東型農耕民族の、耕から収穫までといふ育てる意識の強い労働の仕組みが、兆から闌までを一つの季節と考へさせたのではなからうか。これには、いつ労働するのかといふことが大きく影響してゐた。即ち、後述する日中時間との関係である。秋の闌に稲は実り、一気に収穫して冬を迎へる。収穫までが秋なのであつて、それ以後は冬なのだ。狩猟民族の場合にはさうはいかない。季語でも狩が冬になつてゐるやうに、立冬を前後して狩は続く。田や畑といふ限られた大地に自ら植ゑ育てたものの場合には、一気に収穫出来て一気に冬を迎へられるけれど、野山を駈け回る獣を狩る労働は、一気といふ訳にはいかない。狩猟民族は、立冬以後も雪が深くなるまでは山へ入ることとなる。冬の生活に入るのも、その分農耕民族より遅れる。ただ、わざわざ育てる必要がないから、春の動きだしは農耕民族よりもゆつくりで、山菜が食べごろになつた頃からまた山に入るのだから、春分から春だとして丁度いい。逆に農耕民族はまだ寒い立春過ぎ、日が伸びてきたのを感じれば農機具の手入れをはじめ、啓蟄ともなると虫や蛇や螻蛄たちと一緒にねぐらを出て、田や畑を耕し始めるのである。農耕民族の春は必然的に早い。

それを人生八十年に譬へてみた。欧州型狩猟民族のSeasonは二十歳から六十歳で区切られてゐるのであり、極東型農耕民族の季節は、零歳から四十歳で区切つてゐるのだと。

明治初頭にヨーロッパの文化を無批判に取り入れた事、そのことを今さら責めるつもりも無いが、「Season」には「季節」を、「Spring Summer Autumn Winter」にはそれぞれ「春 夏 秋 冬」を、あまり疑ひもせずに訳語として受け入れたのであらう。しかし、二十四節気を使ふ農耕型民族の中国や日本の人々の「季節」と、全く別の暦を使ふ狩猟型民族の欧州人のSeasonは、大本のところで考へ方に違ひがあつた。

二十四節気では二至二分(冬至、春分、夏至、秋分)を季節の真ん中に置いたのに対し、西洋の暦ではこの四つをSeasonの初めと考へてゐるである。基準が違ふ「季節」と「Season」を同じ物として取り入れてきた結果が、現在の日本の春夏秋冬が混乱してゐる原因であり、福澤諭吉らの拝欧主義思想で富国強兵を進める中、いつのまにか暑いのが夏で寒いのが冬だといふ勘違ひをしてしまつたのであつた。



もうお判りだらうが、夏は暑い、冬は寒い、といふのは勘違ひである。冬至、春分、夏至、秋分を季節の中央に置くとはどういふ事だつたのか。日の一番長い三ヶ月が夏、日の一番短い三ヶ月が冬なのである。中国、そしてそれを輸入した日本の春夏秋冬とは、先づ第一に日の長さで決まつてきたのであつて、気温で決めた物ではない。だから当然、日本と中国になんらの「ずれ」も存在しないし、それを気温で語るとすると、兆から闌までとなる。これを、ごく自然に、農耕民族たる中国の人々が生み、日本の人々が受け入れた。

日の長さといふのは、電気が一般に普及するまでは、気温とともに切実なものだつたに違ひない。

長野を例に取ると、今年の夏至の日の出から日の入は十四時間四十分、冬至の日の出から日の入は九時間四十分と、なんと五時間もの差があるのだ。収穫が済んでから再び田畑の準備を始めるまでの日の一番短い三ヶ月間を「冬」と呼んだ、それが極東型農耕民族の冬なのである。

しかし今の生活の中で、この日の長さ、日の短さを実感出来てゐる人はどの程度ゐるのだらうか。生活習慣まで変へろとは言はないが、時々は日の出とともに起きるといふことを実践してみるのも悪くない。新聞の天気予報欄にはその日の日の出・日の入の時刻や月齢などが細かく載つてゐる。目を通す習慣だけでも、ぜひ身に付けて頂きたい。今年の八月七日、立秋だつた長野の日の出は四時五十八分、日の出てゐる時間は十三時間五十分であり、収穫の準備が始まる。

ともあれ、岡田さんや宇多さん、長谷川さん、日本気象協会や筑紫さんら影響力の強い発言者には、農耕民族の四季へ狩猟民族のSeasonを宛てがつた事による「大きなずれ」をこそ認識して頂きたいのであつて、中国と日本の気温差に惑はされないでほしい。(二十四節気に表はされた中国の気象現象と、日本のなかでも東京や京都の気象現象とで大きな違ひがあるとすると、「小雪」「大雪」くらひであらうか)。

そして、これからの日本の四季のことを書いておくと、これは、千数百年続けてきて、日本文化の基調をなしてゐる二十四節気の復権を、日本気象協会や小中学校の教育現場のご努力で啓蒙して頂くことに尽きるだらう。明治以来百四十年間、我々は間違つてきたのであり、日本気象協会の今度の提案は、二十四節気を日本列島に住む一人ひとりが再認識するための大きな機会なのである。その意味で、僕は気象協会の今回の提案を是とするものだ。一緒に考へませうと呼び掛けたいし、事実、小諸まで出掛けて下さつた協会の金丸努氏は、「二十四節気を詳しくは知らなかつた。提案以後多くを学び、再認識した。現行の二十四節気は残します」と言はれた。

議士よ我等が土に耕すを忘るゝな 松瀬青々 大6

なんぞといふ戯句もあるが、まあ、俳人だけが騒いでも何も変はらないのである。シンポジウムでは「暦の上では秋」といふ言ひ回しを止めて頂けないかと申し上げておいた。

「Summer Vacation」を「夏休み」と直訳しがことが、欧州型狩猟民族の季節感の普及に大きな役割を果たしてしまつたやうだ。夏休みの後半は「秋」なのに、明治の教育者でもある福澤諭吉らが、戦略としてこれを「夏休み」と訳したのではないかとすら思ふ。大暑(夏)から処暑(秋)までの休みなのだから「暑期休み」などの適切な語があつたらうにと、残念でならない。日本気象協会や小中学校の教育現場には、「夏は日が永く、冬は日が短い」といふ極東型農耕民族の春夏秋冬を取り戻すために力を貸して頂きたい。僕たちが大切にしてきた春夏秋冬の魂は、明治維新以来狩猟民族に売り渡してしまつた。日本気象協会の提言を逆手に取ることで、それを取り戻すことが可能となる。今、絶好の機会なのである。



ところで、僕の今の一番の関心事は、「紅葉」の季節についてである。紅葉は秋・十月の風物として日本の文学を彩つてきた。それが今、ヒートアイランド現象や地球温暖化で立冬以後の風物に化さうとしてゐる。次の機会に書く。

2010-07-25

文語つたつて、そりや貴方…… 島田牙城

文語つたつて、そりや貴方……

島田牙城

(初出「里」2010年4月号所収「吾亦庵記録」をweb用に加筆訂正したものです)
青字は引用文、引用作品です。


前号で仮名遣ひについてしやべつたので、
その勢ひで文語・口語についても話さう。

俳人には文語派が多いと言はれてゐて、たとへばそれは、
俳人の実態は、旧かなを用いる人が大多数だと思います。それは、文語を用いる俳人が大多数であることを反映していると思います。
といふ岸本尚毅の言葉(「俳句界」2月号「文語との相性を考えて」)からも、
たぶん確かなことなのであらう。
しかし、
僕にはこの部分にこそ大きな落し穴があるやうに思へてならないのである。

僕は今回のこの一文で僕なりの「文語・口語」問題への結論を出すつもりだ。
いや、
結論はすでに決まつてゐるのであつて、先に示してしまふのもよいだらう。
現代の俳句に多用される「文語」と言ひ倣はされてゐる表現は、
「俳句実作上の慣用表現」と言ひ替へるべきである。

「つぐみ」3月号(津波古江津発行)に7句寄稿するのに、
僕はわざと文語表現句を拵へることとした。
  物投げる空ありがたき花衣
は「ありがたき」が文語表現なのだけれども、
この句はすんなり何の苦もなく出来た。

しかし、形容詞を文語活用で使つてゐる句なんて五万とあるのであつて、
  明易き欅にしるす生死かな  加藤楸邨
の季語「明易き」のなかですら、僕たちは用例を知つてゐる。
夏の季語なら「夏深し」「涼し」などもある。
  五月雨を集めて早し最上川   松尾芭蕉
  酌婦来る灯取虫より汚きが   高濱虚子
  天と地の間に丸し帚草     波多野爽波
  薫風や見目麗しき頭蓋骨    小豆澤裕子

夏の句ばかりを出してみた。
江戸期から近代、戦後、現代と、
形容詞の文語活用を利用した句には事欠かない。
僕たちはかういふ句群を読みながら、
かういふ俳句の歴史の流れの先端にゐる。使ひ方は自然と身につく。

これは文語表現を学ばうとして身に付けるまでもなく、
俳句の慣用表現として
俳句を始めたばかりの人にも馴染みやすい道具なのである。
その上、インターネットで「ありがたき」を検索に掛けてみると
「ありがたき本」「ありがたき幸せ」「ありがたき出会い」などなど、
俳句とは何の関係もない人たちが幾らでも使つてゐる。
現代においても慣用表現として多用されてゐるのだ。

形容詞の文語活用程度で、「我文語派なり」なんぞと粋がつてはならぬといふことは、このことからも知れる。

続いて、こんな句を作つてみた。
  尾のごとき花盗人の花追ひつ
「ごとき」は、「ごとし」といふ助動詞そのものが文語だといふ者もゐるだらうけれど、
これも現代語にも頻出する慣用語であらう。
今は下五「追ひつ」に注目してもらひたい。
正直言ふと、この「つ」は作つた僕にも難しい。
完了の助動詞「つ」と取って「花を追つてしまつた」と訳すのが適当だとは思ふけれど、
接続助詞「つ」と取ると、その下が略されてゐて「花を追つたりなどして……」とぼやかしてゐる語法とも読めなくはない。

この「つ」の用法は俳句でどの程度使はれてゐるのかと思つて
手許の歳時記の「夏」を100ページほど繰つてみたが、出会へなかった。
意味のゆれる曖昧な表現を忌避されてゐるものだらうかと
『松瀬靑々全句集』下巻(邑書林)をぱらぱらやると、しかし、
  雪おこし北はくらうに日のさしつ  松瀬青々
  連翹を桃に与へてさし添へつ

と、あつさり見つけることが出来る。また、青々は流石で、
「さしつ」は接続助詞、「添へつ」は完了の助動詞と、
きつちり使ひ分けされてゐる。

虚子にもあつた。
  蚊帳越しに薬煮る母をかなしみつ  高濱虚子
  住まばやと思ふ廃寺に月を見つ

虚子の用法も前句が助動詞、後句が接続助詞とはつきりしてゐる。
ただ、「つ」は句会などで時々見かけるのではなからうか。そんな印象がある。
煩雑なことではあるけれど、「俳句年鑑」2010年版の
「2009年諸家自選五句」3410句の下五をざつと確認してみる。
しかし見出だすことはできなかつた
(今回は結句の「つ」のみ調査、句の中ほどに「つ」を用いてゐる句があるかは未確認)。
明治大正期にはいくらでも見つけることのできる「つ」が
現在殆ど使はれてゐないといふのは、
どういふことを意味してゐるのだらうかと考へてみると、
たぶん結論はあつさりしてゐて、
「使ひなれない表現は使へない」といふ程度のことであらう。

そしてこんな句も作つてみた。
  乗りてしか飛花を掠むる雀の背
この句の場合も「掠める」ではなく「掠むる」だから文語表現なのだといふあたりはどうでもいいのであつて、
上五の「乗りてしか」の意味をすんなり言へてこの句を理解する人が
この一文の読者にさて何人ゐるのだらうか。
この「しか」は「~したいものだなあ」といふ願望の終助詞である。
しかも平安時代になると「しが」と濁るやうになるらしく、
万葉集などの奈良期以前にしかほぼ用例はない。
だから、当時の日常語で俳句を作つてゐたであらう松尾芭蕉にも、
ざつと調べたところ用例はないやうだ。

や・かな・けりなどの切字を文語に数へる人もゐるやうだけれど、
「かな」など手許の辞書には「和歌・俳句と散文の会話文に多く用いられた」
とあるほどに、特殊且つ会話調表現だつたことが知れる。
や・かな・けりも、現代の俳句にとつて重要な慣用表現なのであつて、
文語だとするには違和感がある。
口語表現を多用する人も、切字を大いに使へばよい。
  顏おろそかやハンカチを使うとき  神野紗希
の「や」は決して「文語」などではないだらう。

俳人が使ふ文語つぽい表現は、
俳句を作る上で使ひ回されてきた慣用表現の盥回しに過ぎない。
僕たちはその慣用表現を研ぎ澄ます努力をすればいいだけのことである。
いや、無理に努力しなくとも、俳句の慣用表現は身に付いてしまふ。
それを好むか嫌ふかは、個々の俳人に委ねられてゐる。
一句に文語的慣用表現がいいのか、
口語的言ひ回しがいいのか、
それはその一句の内容と語呂の問題であつて、
ゆめゆめ「俳句は文語の最後の砦」なんぞと威張つてはならない。

2010-07-18

仮名使ひのこと再び 高山れおな氏の時評に触発されて  島田牙城

仮名使ひのこと再び
高山れおな氏の時評に触発されて

島田牙城

(初出「里」2010年3月号所収「吾亦庵記録」を
web用に加筆訂正したものです)
赤字は引用文、引用作品です。

僕なりの仮名遣ひについての思ひは今までそこそこ書いてきてゐるので、
改めて書き足すこともあるまいと思つてゐた。
若い俳人の多くが歴史仮名遣ひを使つてゐることについて、
18歳の越智友亮が「新撰21竟宴」シンポジウムで、
受け入れ難い
(『今、俳人は何を書こうとしているのか』収録)
といふ表現で難じた言葉もにこにこ聴いてゐたし、
「俳句界」2010年2月号を書店で立ち読みした時も、
「激論!! 旧かなvs新かな」といふ特集を眺め、
特段語ることもなささうだと思つて棚に戻したのだつた。

この「俳句界」の特集に高山れおながブログで即座に反応した。
(「俳句空間―豈―Weekly 第77号 2月7日アップ 「愛と仮名しみの暮玲露」)
高山は愼重に、
仮名遣いの選択などというのは、所詮末節の末節であって、
それこそフェティシズムということで済ませてしまってよい。
と書いた上で自説を述べてゐる。
これは、特集の対談で木暮陶句郎が
現代詩は、今の言葉で作るべきでしょうけど、
俳句に関しては十七音、有季定型、旧かなという決め事があったんですよ。
などと、暢気な出鱈目を語るのとは次元の違ふ意識の高さなのだけれど、
僕は高山が展開する論へのイレギュラー感を拭へないでゐる。
今回はそのことを書く。

その前に、文句を垂れておいてその理由を述べないのでは、
木暮からクレームが来かねないので、
木暮の発言の何が「暢気な出鱈目」なのかに少し触れておかう。

現代詩は、今の言葉で作るべきでしょう」はあまりにも僭越。
現代詩を書いてゐる人からは「大きなお世話」と一蹴されるだけの話である。
この「べき」には何の根拠もないし、
そもそもかういふ言葉を平気で吐けるといふところに、
俳句を特別視する邪険なこころが透けて見える。
次なる大きな間違ひは「旧かなという決め事」。そんな決め事など無かつた。
戦前の俳人たちは、普通に普段使つてゐる仮名遣ひ、
それこそ当時の「今の」仮名遣ひで俳句を書いてゐただけである。
だから「どじやう」を「どぜう」と書くやうな慣用仮名遣ひも
だうだうとまかり通つてゐたのである。

ところで、以上のやうなことはもう僕は書き飽いてゐるのであつて、
すでに興味の外である。だからくどくどとは書かない。
問題はといふよりも僕の心を奮はせてくれたのは、
高山の変体仮名への言及であつた。
正直のところこの問題、
今まで深くは立ち入らないやうにしてきたところだつたので、
痛いところを突かれたよといふのが本音である。

勿論、仮名遣ひについて時に応じて書いてきた僕の経験から言つても、
今後高山の文章に触発されて変体仮名について考へようとする俳人が現はれるとはとても思へないのだし、
それこそ高山の文章をフェティシズムの一言で追ひやることも可能なのだけれど、
「それを持ち出したら泥沼だよ」といふ思ひの一端だけは書いておかねばならないと思つてゐる。

高山の説を要約風に抜書きすると、
1,俳句の本質を表記の面から規定するなら、それが漢字仮名まじり文であるところに求められる。
2,歴史的仮名遣いが変体仮名を排除することで成り立っていることで(中略)仮名文字の本質が見えにくくなっている。
3,手書き文字から活字に移行した時に、仮名は漢字の楷書体に準じて硬化し、それと同時に、字母の異なる仮名を取り混ぜることで表記の効果を追及する文化は失われてしまった。
といふことにならう。

「1」については、肯定も否定も僕には自信がない。
割合は相当少なかつたやうだが、
西行だつて和歌に漢字を取り入れてゐたやうだし、
江戸期に入ると大隈言道のやうな仮名書きを旨とする歌人もゐるにはゐたが、
  雲雀あがる春の朝けに見わたせばをちの国原霞棚引   加茂眞淵
  筏おろす清滝河のたぎつ瀬に散てながるゝ山吹のはな  香川景樹
  音にあけて先看る書も天地の始の時と読いづるかな   橘 曙覽
などのやうに、漢字仮名まじり歌を書く人はたくさんゐたのだから、
短歌が、近代短歌に変革された結果として漢字仮名まじり文化した
とする高山説の正当性は疑はねばならない。
漢字仮名まじり文であることを俳句の本質と言つてしまつてよいのかの判断は、保留としておく。

「2」については、僕は否と言ふ。僕流に書き直すならば、
2a,近代の活字文化は変体仮名を排除することで成立した。
   その端緒に歴史仮名遣ひがあり、
   現代に流通してゐる一般的な仮名遣ひも同様の活字文化の中にある。

「3」については全面的に同意できる。

読者に分かり易くしておく。
字母とは、仮名文字の元になつた漢字のことである。例へば、
 ka=字母 可・加・閑・家・香……
活字文化がまだ未発達であつた江戸期までは、印刷物も手書き文字から版木を起こしたので、
文字とは即ち手書きであつた。
そこでは平仮名の「ka」は「か」といふ形ではなく、
可や加や閑や家や香などのさまざまな字母の崩し字(変体仮名)として書かれてゐた。
「ka」は一つではなかつた。
(「変体仮名」で検索を掛けると、いろいろなサイトで確認できる)
それを活字文化を押し進めた明治期以降、一つの音の仮名をさまざまな変体仮名の中から一つに絞つた。
「ka」の場合は「加」の変体仮名が採用され、
可・閑・家・香などの形は捨てられたのである。

即ち、活字文化が成立することによつて、高山のいふ「表記の効果を追及する文化」は潰えたのである。
これはもともと、日本語の一音一音を漢字に当て嵌めようとして成つた万葉仮名の時代に、
特に統一を図ることもなくいろいろな漢字を当てたことによつて生じた事態である。
それが平安期以降の仮名文字文化を豊かなものにしたのだが、
その豊かさは活字文化とともに消えた。

蛇足だが、この豊かさは「字母の異なる仮名」だけではなく、
「同じ字母でも崩し方が異なる仮名」(例えば乃→の)などでも、僕たちは味はふことが出來る。

さて、高山はこの文を三村純也の伝統観への批判として書いてゐるやうだ。
高山が特に問題とする三村の文を紹介しておく。(「俳句界」2月號 「日本語のかそけさ ひそけさ」)

俳句の伝統を守るという意味からも、私は歴史的仮名遣い(旧かな)を支持する。「思う」「思ふ」、「思い」「思ひ」、比べてみて、歴史的仮名遣いのほうが、かそけきやさしさを感じてしまうのは、私の独善だろうか。日本語というのは、もっとやさしいものだったはずのように思う。ひそやかな気配というものを、深く湛えていたものではなかったか。そういう息吹を、現代仮名遣いでは、表現し切れないのではないか。ふと、そんなことも思う。
高山は三村に対して、
「伝統」つて何だい、俳句の伝統と歴史仮名遣ひはどのやうに関はるんだい、
といふ問ひからこの一文を草したのであらう。
歴史仮名遣ひとは仮名遣ひの伝統(変体仮名の豊かさ)を潰えさせたところに成り立つてゐる仮名遣ひなんだよ、
と。

そして、高山はこの一文で仮名遣ひの問題と俳句の伝統の問題を峻別して見せてくれた。
これは、「決め事」とか「伝統」とかに縋るしかない歴史仮名遣ひ使用者の木暮や三村にとつてはかなりの打撃のはずである。

しかし、高山は「だから現代仮名遣ひを使ひませう」などと言ふ馬鹿げた提案はしない。
その選択はフェティッシュなものさと嘯くまでである。
だから歴史仮名遣ひを使ふものも、フェティッシュに選んでゐるだけさと嘯き返してもいいのだが、
いや、今の時代に歴史仮名遣ひを選拓するといふのは、すごく積極的なことのはずである。

僕は「正仮名使ひ」といふ言ひ方を最近し始めてゐるけれども、
世間一般は「旧かな」と呼ぶ。
「いつまでも古いものに縋り付いてゐるなよ」といふ冷ややかな目線を向ける。
その時にしつかりとした議論が出来ないで「決め事」とか「伝統」とか
はては「かそけさ」などといふ気分でしか応答しえないやうな体たらくでよいのか。

僕が高山の批評の変体仮名と歴史仮名遣ひの断裂を言ふ部分を読んで「イレギュラー感」を持つたのは、
変体仮名を持ち出したら自然と万葉仮名にまで行つてしまふではないか、と感じたからだ。
万葉の時代、母音は現代語のやうな五つではなく、ある説によると八つもあつた。
だからたとへば「き」にしても「企」は甲類音「幾」は乙類音で別々の母音だつたものを、
歴史仮名遣ひでは甲類を捨てて「幾」の変体仮名から「き」を採用してゐる。
これは不当ではないか、といふ話にまで発展しかねないと危惧したからだつた。

高山には是非、変体仮名の問題は歴史仮名遣ひとのリンクではなく、
明治期以降、現代仮名遣ひを含めた活字文化とのリンクをお願ひしておきたい。

僕は取り敢へず、
変体仮名(形態)と歴史仮名遣ひ(用法)を切り離し、
即ち仮名遣ひの選拓の問題は活字と変体仮名の問題とは別であるという認識のもとに、
活字文化以降の仮名形態で、
銀杏は「いてふ」なのか「いちやう」なのか「いちょう」なのかを考へ続けたい。

そして考へれば考へるほど、新旧の問題ではなく、正・俗・略の問題であると思へるやうになつてきた。
そこに定家仮名遣ひの「なんとかならんかいな」程度の不徹底さと、
契沖仮名遣ひの「なんとかせねば」といふ理念の深さの違ひも見えてくるのである。

だからこそ、芭蕉や蕪村が「かほり」と書いてゐるからといつても、
俗仮名遣ひたる「かほり」を僕の中で認めることは出來ないし、
略仮名遣ひたる「かおり」であつさり「w」といふ子音の効果を捨て去ることもしたくなく、
契沖以降現代まで連綿と続く研究成果が明らかにした正仮名遣ひたる「かをり」をこそ使用したいのである。

国語学のはうでは通説になつてゐるやうだけれど、
平安時代、すでに「wo」と「o」の区別は無くなつてゐたといふのは、本当なのだらうか。
「かをり」の「w」は結構怪しくつて、
たしかに「かほり」と書きたくなつてくるやうな「h」音の侵略も感じられるけれど、
「かおり」のやうに「ka」から子音を飛ばして「o」をしつかりと発音するには、相当な口の筋肉が必要だらう。
また助詞「を」に到つては、
今でも多くの人が無意識裡に「o」ではなく「wo」と発音してゐるのではないかと感じてゐる。

なほ、変体仮名の一部は、明治期から少なくとも大正期までは活字文化の中でも使用されてゐたやうだ。
  山越えに長夜来游ぶ女かな
は、『松瀬青々全句集』下巻(邑書林)に載る、大正三年「朝日新聞」初出の句だが、
「え」は「江」を字母とする変体仮名であつたので、全句集でも再現させてある。
 
また、近所の佐久ホテル玄関前にある荻原井泉水自筆句碑は、
  和羅耶布流
  遊幾通毛留
と彫られてゐる。万葉仮名である。漢字仮名まじりにすると、
  藁屋古る
  雪積もる
となるもので、昭和五年、当地での揮毫、ホテルに書が残されてゐる。

そして、変体仮名は書の方では現代でもいくらでも使はれてゐるのであつて、
僕が持つてゐる、
  牡丹の奥に怒濤怒濤の奥に牡丹  楸 邨
といふ書の二つの「の」は、一つ目が「能」の、二つ目が「乃」の変体である。
活字の変体仮名は、大正期にはどうも廃れてしまつたやうだけれど、
書で生きてゐる。
どうぞ現代仮名遣ひ使用の俳人のみなさんも、
筆を執られる時には是非、変体仮名を試してみられると楽しいだらう。
(僕は普段「歴史仮名遣ひ」と「的」を外して呼んでゐる)

2007-07-08

二健俳句のこと 島田牙城

二健俳句のこと ……島田牙城


なんとなくといふのか、やうやくといふのか、ほのかにと感じてゐる人もをられるのでせうが、見えてくるものがあるのです。

結社の時代だとか、俳人一千万人だとかといふ、かのいやらしきキャッチフレーズの薄つぺらさのことです。あのキャッチフレーズは、群れることを奨励するかのやうな、また、俳人とは群れるものであるといふことを喧伝するやうなものでした。それに乗るか乗らないかは、個々の資質の問題ではありませうが、世の中には易きに付く人が多いのも事実でせう。

それが今、俳句は、結社だとか俳句人口だとかとはまつたく違ふかたちで新たな何かを生み始めてゐますし、そのパワーは、かのキャッチフレーズに踊らされてゐたやうな無認識な享受からは遠いといふことは確かです。

「確か」などと書くと、証明せよといふ人が必ず現れますので、その人に一言応へておきますと、ここまですでに読んでこられてゐるわけですけれど、『週刊俳句』は結社とか俳句人口とは無縁のところから発信されてゐるではないですか。

あ、僕はべつに俳句結社否定論者ではございません。美しき結社像といふものも胸中深く温めてはをりますけれど、概して結社とは腐るものですから、気高き志の方が一代限りでお持ちになるのが良いかと愚考いたします。

…………………………

さて、宮崎二健を論ずるには役者不足の感を否めません。僕は回文や回文俳句には疎いのです。でも、月々に僕たちの同人誌「里」に二健さんが投じる七句の無意味性には、毎月にんまりさせていただいてをります。

例へば最新六月号には、

  好きとどぼんと饂飩不如帰

なんていふ回文俳句が載つてをりまして、さつぱり分からないのですが、

  好き→どぼん

の因果(あ、恋つて落ちるものですので)、

  饂飩……不如帰

の無関係ぶり、が間抜けな味を醸し出してゐるやうで、すぐに覚えてしまふのです。

そもそも、かういふ事をやらうとすることそのことが「ふざけ」であらうと思ひますし、ふざけとは、勿論短絡はできませんが、「俳」のことです。そして二健さんの「ふざけ」からはどこかアナーキーの匂ひが漂つてきます。アナーキーなどと言ふと大仰なやうですけれど、二健さんの楽しんでをられる世界を「無秩序」の世界であると考へることはできませう。

最近の俳句はあまりにも秩序が勝ちすぎてゐます。結社や協会やの序列もさうですが、俳句そのものがお行儀が良すぎます。そんな中で定型にも納まらない回文をもつてして「これが我が俳句なり」とノタマウといふことからして、立派に無秩序への志向であり、アナーキーであります。

またこのアナーキーは、言葉の秩序を破壊してゐることからも知れます。言葉の世界では、単語と単語を連結させて秩序ある意味の城を立てることを一般としてゐますけれど、言葉の音をさかしまにしてみたら何がうまれるのか、などといふ、いはば意味からの離脱宣言とでもいふべき作句行動、これは、生れる言葉の予測不可能性を考へるだけでも充分にアナーキーなことであらうと思はれます。

「ほととぎす」をひつくり反したところで、「すきととほ」しか生れません。ここから「好きとどぼん」を生み出す行程は、ダイナミックですらありませう。

ところで、これは回文ではないのですが、新興俳句弾圧事件を取材した五木寛之の小説「さかしまに」には、逆句(さかく)といふのが出てきます。僕は二健回文俳句を読むたびに、この逆句を思ひ出すのです。

話の筋は本(昭和56年初版 文藝春秋刊 昭和61年文春文庫化)を読んで頂くとして、そこに出てくる逆句を引用しませう。

特高警察の厳しい取り調べから転向を余儀なくされた葛根灯痩といふ俳人が、筆を折る前に転向の証明として雑誌に発表した俳句、

   かの男子新妻置きて弾も見き
   陸奥長門海岸裂くよ春の濤
   墨も荷へ艱難辛苦里着く日
   実る今いくさの御国理解満つ

これらが、逆さまに読むと全く意味を異にするといふのです。即ち、

   かの男子新妻置きて弾も見き
   →かのだんし にひづまおきて たまもみき
   →君もまた敵を待つ日に死んだのか

   陸奥長門海岸裂くよ春の濤
   →むつながと かいがんさくよ はるのなみ
   →皆乗るは翼賛会か咎名積む

   墨も荷へ艱難辛苦里着く日
   →すみもにへ かんなんしんく さとつくひ
   →卑屈とさ軍人なんか屁にも見ず

   実る今いくさの御国理解満つ
   →みのるいま いくさのみくに りかいみつ
   →罪怒り憎みの作為参るのみ

葛根灯痩はこれらの句を最後に筆を折り、戦後、家族と離れて遠い地でひつそりと死ぬのですが、逆句に秘めた無念と憤怒が、権力への反抗の姿としてすつくと立ち上がつてくるではないですか。

「俳」の本意を考へるほどに、これらの逆句は俳の句すなはち俳句と呼ぶに相応しいと、思へてなりません。(これらは勿論五木寛之の創作ですが、「あとがき」によりますと「<逆句>の中のいくつかは、…略…山形の近藤侃一氏と、現在、武蔵野女子学院で教鞭をとっておられる島村桂一氏の卓抜な着想に負うところが大きい」といふことです)

宮崎二健さんは一介のバーのマスターであり、とある女性の夫であり、生れた子の親であるにすぎません。そのことにおいて、逃げも隠れもしない人だと見えます。だから二健さんの俳句は、都会に住む一人の人間であるといふ立ち位置がぶれることがないのです。

たぶん本当はすごく弱い人なのだらうと思ふのですが、弱い人ほど依怙地に頑固なのだよなとも、思ひます。そんな人が言葉を発するとき、言葉は俳をまとふのです。

父の過去を探つていつて、たうとう父の俳句の秘密に行き当たつた葛根灯痩の娘、揺子は、逆句を確かめるうちに、「バッカみたい」と呟いて笑ひだしました。

僕たちも二健さんの俳の句をよんで、その無意味性に「バッカみたい」と呟いて、笑い飛ばせばいいだけのことなのかもしれません。

さうさう、始めの話題にもどしませう。二健さんはそんなこんなで、結社なり群れるなりといふことには、とんと縁のない俳人であらうと存じます。二健俳句に光が当たる時が近付いてゐるのだといふことになりませう。そのためにも『セレクション俳人21 宮崎二健集』の脱稿が待たれるけふこの頃であります。

いくつかを……

  中入り突破し初鳥居かな    二健(以下同)

なかなかによい江戸趣味ではないですか。歌舞伎の顔見世興行やもしれませんが、「突破」なんぞと物騒な単語が出てくるあたりが「俳」ですね。

  貸すビルクールビズか

二健さんはもともと社会性を強く帯びた方ですので、社会の動きには敏感です。

  魚に紅葉のしみも臭う

この句なんぞも渋いですね。場所はどこでせうか。渓谷を思ふことも可能ですが、ひよつとすると、裏金の行き交ふ料亭やも……

  詩歌耽溺天高し

これはまた、揺るぎなき句として言葉が立つてゐるではないですか。でも、かういふ意味の通つてしまふ句の横に、たとへば、

  鰯雲の目次わーい

つて、何やねん、これーーーー、と大声を発したくなる無邪気も見せられます。そして、こんな長いのもあるといふことは押さえておきたいと思ひます。

  公界ただ世話になります明日マリーナに早稲田体格

また、回文以外の句も二健氏は詠むのです。そのことも、覚えておきたいですね。

  血友の百合さめざめとリンガのほとり

今後ますます二健さんの「俳」に磨きのかかることを期待して、ひとまづ擱筆といたします。



2007-06-24

「金曜の悪」×「絢爛の悪」を読む

「金曜の悪」×「絢爛の悪」を読む ……島田牙城×上田信治


※以下の対話は2007年6月22日、BBS(インターネット掲示板)を利用。ログ(書き込み記録)を微調整して記事にまとめました。
小池正博「金曜の悪」・仲寒蝉「絢爛の悪」はこちら↓です。
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/06/77_17.html



信治::今回は、「セレクション柳人」という画期的シリーズの編集者であり、 俳人でもある、島田牙城さんをお迎えしております。牙城さん、こんばんは。

牙城::信治さん、どうもこんばんは。この前の天気×信治対談は面白く読みましたよ。ベクトルの話なんて、今日持ち出したいくらいで、「読まなきゃよかった」と思ってます。
まぁ、寒蝉さんのことなら、なんでも喋りますけれど、よりによって、論客・小池正博の時にぼくを指名するとは、人が悪い。
だって、そうでしょ。爽波の弟子の中でもぼくがもっとも爽波を継いでいるということを、信治さんはご存じないと見える。ぼく、理論下手の読書嫌いなんですよ。その事に関しては、100%爽波の弟子なんです。

信治::爽波さんの弟子なら、座談は、お家芸でしょうw

牙城::爽波の座談てね、一方的に自分の論を肯定するために喋るばっかりで、人の言うことを聞かない。ただ、相当集中するようで、座談をした後は体を壊していましたね。

信治::ところで、今回の、仲寒蝉さんと、小池正博さんの7×7、どういうふうに、読まれましたか。

牙城::いや、すみません。ご質問に答えなきゃね。たとえば、作者名を伏せて〈金曜の悪はきっちり中華風〉の後に、〈五月雨の中に悪所といふところ〉を読んだって、さして違和感はないとおもうのですが、どうですかね。

信治::たしかにその二句は、入れ替え可能だと思います。でも〈影踏みを止めない君を噛みにゆく〉は、ぜったい寒蝉さんやらないですよね。もともと無季ですけど、仮に「影踏み」が春の季語だとしても、「噛みにゆく」という展開はない。

牙城::はい〈噛みにゆく〉は、俳句ではやらないでしょうが、ぼくは、×ではなく+だなとおもいながら、この7×7という競詠を読みたい気がしているのです。由紀子×朝比古にしてもね。すなわち、同じ水を飲んでいるのに、彼岸と此岸で味が違うとは思いたくない。

信治::同じ土俵で、読んだ方が、生産的ということですか?

牙城::「生産」という単語はともかく、俳句も川柳も同じ俳諧の子だということでしょう。異母兄弟でも、異父兄弟でもなく、おなじ父母の子なのですよ。そういう兄弟愛が、ほしいなとつねづね思っています。

信治::なるほど。いや、じつは、自分なりに小池さんの7句を読んで、おもしろいなあと思ってるんですけど、ちゃんと読めているのかどうか、自信がないところもあって。
〈厨房でいためる匂い歎異抄〉〈金曜の悪はきっちり中華風〉の二句は、セットになっていますよね。金曜の夜に、中華料理店に集う悪庶民みたいな人たちがいる景が浮かぶんだけど(歎異抄だから悪人正機の連想が働いて)、この〈きっちり〉って、牙城さん、どう読まれます?

牙城::自信がないって、信治さんは、(よくある例で悪いけれど)ピカソの絵を、評価する批評家の目で読めなければならないとうろうろするタイプなんですか。貴方の目に飛び込んできた俳句だか川柳だかしらないけれど575の日本語をどう感じるかしかないじゃないですか。
まず初めに、俳句への向かい方、川柳への向かい方、に、差を付けないというスタンスを持たなければ、なかなか話は進まないような気がします。

信治::では、話を進めましょう。ジャンルに差をつけているか、いないかというのは、自分では、よく分からないんですよ。
あらためて、牙城さんは、小池さんの7句どう読まれました? ぼくは「熊野」から、ずーっと7句を通じて、イメージとかメタファーの連鎖があるのかな、と思ったのですが。

牙城::一般的な俳句観川柳観から離れてこの7×7を読んだとき、小池さんて、信治さんが「連鎖」と言われましたがすごく意志的ですよね。戦略的と言ってもいいかな。寒蝉さんは一句一句ばらばら。

信治::そうそう。小池さんの7句、〈熊野〉に〈蟻〉(の熊野詣で)で、次に、〈内乱〉で、南北朝から、二・二六へ行って〈処刑場〉。そこから、現代人としての作者にとっての「悪」のモチーフが展開されて。〈悪そうな雲の尻尾をひっぱって〉「悪」とは、手の届く力の夢、みたいな?〈厨房で〉で、庶民群像。でもって、〈金曜の悪はきっちり中華風〉が、やっぱり、面白いんだなあ。この一句は、屹立してるかんじがします。そうか、最後の句〈噛みにゆく〉のは〈蟻〉なのかな。

牙城::あっ、二・二六には気付かなかった。モチーフ詠をしっかりとやっているから、深読みを誘うんだろうね。そして七句の特徴として、作者と主人公とが切れていそうで結局切れていないということが上げられる気がします。いや、小池さんには切る気がないのかもしれませんがね。「蟻」には小池さんが投影されているし、「嫌な」と思っているのも小池さん以外ではありえない。
以前、川柳も俳句も短歌も、作者と主人公がべったりだった歴史がありますよね。川柳がいつからこうなってきたのかは知りませんが、やはり時実新子さんの影響は大きいんじゃないかなぁ。川柳に作品と作者を繋ぐ「意志」が刻み込まれるようになった。

信治::「作者と主人公とが結局切れていない」ということですが、そこが離れることって、だいじなんですか?

牙城::ぼくなんか、俳句の中で他者を遊ばせるけどね。〈悪びれもせず鰻重を二人前〉にしても、食ったのは寒蝉さんじゃないもの。

信治::最近の牙城さんの句が、分かりにくい理由が分かりました。『袖珍抄』のころは、すごく私性が強くて、分かりやすすぎるほどだったのにw
えーと、「社会戯評」みたいなものを拒否するエネルギーとして、川柳に「私性」を持ち込んだ作家がいたことって、よくわかるんですけど。その次のステップがあるということですか?

牙城::川柳は、誤解されてるじゃないですか。いや、誤解じゃなくって、それが表に出ているのだけれど、どうしても、サラリーマン川柳だとか、新聞投稿による時事川柳だとかに、イメージが行きがちですよね。そうじゃない575を模索する人たちがいるということでしょう。模索の途中なので、ステップというか行きつく先はまだまだ見えていないのでしょうが、個々には手応えを掴んでいる作家はかなりおられる。

信治::ぼくは現代川柳といえば、それこそ、小池さんや、樋口さんの、詩性の強い作風を連想します。俳句で、サラリーマン川柳に対応するのは「お~いお茶」とかで。
いや、ま、世間の誤解はいいんですけど、牙城さんは「作者=主人公」というのは、暗黙の了解にはされないんですね。

牙城::世間の誤解ならいいけれど、俳人も誤解しているからね。
で、作者と主人公の話だけれど、ぼくは俳句の鑑賞を書く時にいつも「作者」ではなく「主人公」と、これは相当意志的に使っています。だってぼく、個人的には(この対談、妻も読むもんで)「悪所」へは行きませんが、俳句の中で「悪所」に行こうが、「熊野」へ行こうが、それは勝手じゃないですか。

信治::対照的ですよね。小池さんの句、等身大の存在は、消し去られていますけど「私性」を強くかんじます。意味伝達の不完全さというか、意味の消し方に、その人しかやらない書き方がされている。署名があるというかんじです。
逆に、寒蝉さんの句は、いかにも本人の肉声ふうなんだけど、じつは無名性をもってるというか、詠み人知らずの風情がありますね。

牙城::おっと一気に本質論?  確かに、〈雲の尻尾をひっぱって〉いるのは、まぎれもなく小池さんですね。しかし、〈金魚とふたりきり〉なのは共感できた読者なんだよね。その「共感」の一瞬に寒蝉さんは消え去ってもいいわけです。
そのへんに、前回の天気×信治対談で出てきた「ベクトル」という問題が絡んでくる。

信治::>その「共感」の一瞬に寒蝉さんは消え去ってもいいわけです。あー、おもしろいです。川柳の獲得した「私」は、読者を「あなた」にする。その緊張感が、こういう文体を作るんだな、きっと。
俳句は、そのへん「わしら」に解消しちゃうのかなあ。今回の寒蝉さん、なんか、のんきでしたよねえ。ぜんぜん「悪く」ない。

牙城::だって、小池さんは、ええっとー、1954年生まれ、えー、本当に? 今略歴見て確認しました。70年安保に間に合わなかった人なんだね。いや、団塊だと思っていたもので……(気持ちを取り戻して言うけれど)でも一二年間に合わなかっただけで、善悪という正否を二分する基準を持っておられる世代なんですよ。
寒蝉さんは三無主義世代ですから、善悪を二分しない。

信治::寒蝉さんは、世代のせいかは分かりませんが、いかにも題詠っぽいw 
「悪」という言葉を、季題と寝かせてみたり、横に置いてみたりして、景色を作って遊んでるかんじです。
あ、そうだ、俳句で、作者の一人称を強く意識して、読んだり書いたりするようになったのって、人間探求派の流れですか? 短詩が、遊戯性を捨象して、文学性にキャッチアップしようとするとき、私性が強調されるというイメージがありまして。それって、俳句の場合、題詠的なものの否定だったのかな、と、ふと思ったのですが。

牙城::一人称には一茶以来の伝統もあると思いますよ。
ただ、写生→自然主義という、明治から大正のブンガクの大道は、関係あるでしょうね。「題詠的なものの否定」というのは正にその通りで、子規の時代は、俳句は題詠、フィクションですからね。

信治::あ、一茶。なるほど。なんか、小池さんの句を読む手がかりを、もらった気がします。すこし、句に触れていただいて、そろそろお開きかな、と思うのですが、牙城さん、それぞれの7句から、選ばれるとしたら、どの句ですか。
ぼくは、小池さんの〈金曜の悪はきっちり中華風〉寒蝉さんの〈悪びれもせず鰻重を二人前〉をいただきます。べつに一句ずつじゃなくてもいいんですけど。

牙城::え、もうお開きなの? 川柳の三要素って、知ってる? 俳句の三要素は、季語・定型・切字だよね。

信治::じゃ、もっとやりましょう。ちょっとビール持ってきますw
三要素、知らないです。なんだろ、

牙城::そこに大きな川柳vs俳句の要因がある。

信治::うーん。定型・批評・了解性? ちがうな。

牙城::あっはっは。うがち・かろみ・こっけいです。俳句の三要素と比べてみると、作者の作る姿勢が見えてきませんか。俳人は型を決めてもらっているのです。それに比べて……
ただし、今の川柳作家は、この三要素から距離を置こうという位置にいる人が多いようですが、だからこそ強く意識はされている。

信治::ははあ。つまり、川柳は型ではなく、内容、ということですか。俳句の場合、内容と型は、よくて50:50くらいかもしれないですね。

牙城::そう、俳句は要素として型を決められている。それに比べて、川柳は詠む内容を決められているのです。今、この、川柳に求められてきた「内容」から脱却しようではないか、川柳をもっと自由に、という動きがあるのだと思っています。
それが最近の「詩性川柳」の大きな流れなのだと思いますし、小池さんの七句の、大局から見た流れなのだと思います。小池さんの句、うがちは読む人によって感じ方が違うかもしれませんが、かろみもこっけいも薄いですもんね。

信治::いや、小池さんの句も、一茶と思って読むと〈内乱の蹄がうたう嫌な唄〉〈処刑場みんなにこにこしているね〉この二句には、苦笑いのようなものを、感じます。「人間、みんな悪くって、しかたねーなー」みたいなw
重い内容ですけど、どっか「言い流す」軽さみたいなものが、生じてくるんじゃないでしょうか。だって、だいじなことを五七五で言うのって、それだけで、ちょっと「こっけい」なことですよね。

牙城::はい、〈処刑場みんなにこにこしているね〉が、ぼくは今回の小池さんの句でいちばん好きです。すうっと、読者側が持っている「滑稽」にふれてくれる。

信治::>すうっと、読者側が持っている「滑稽」にふれてくれる。門外漢として言うのですけれど、現代川柳にとっての共感性って、おもしろいテーマかもしれませんね。俳句は、共感性は、前提としてあるから(そのわりに、みんな分かんない、分かんない、言い過ぎだけど)。
いま、ちょうど、寒蝉さんからメールをいただいて、
>やっぱり俳句って(私がか?)糞真面目なんだなあと思いました。もっと遊ばなければ。
だそうです(寒蝉さんには、あとで、掲載許可いただきます)。でも、寒蝉さんご本人は、まじめだけど、句は、別にまじめじゃないですよね。川柳のほうが、基本、まじめに見えるのは、逆説的ですね。

牙城::川柳のほうが、ずいぶん真面目です。川柳は前衛を経験していないんだよね。それが大きく影響している。たとえば、目の前の高柳重信が編んだ『昭和俳句選集』をぱっと開くと、
  現在を葡萄が青く垂れさがる
なんていう句に簡単に出会えるわけです。現代川柳は今、この真面目な芸術性みたいなところに、おられるのかなと感じています。そこから、現代のうがち・現代のかろみ・現代のこっけいへの道筋作りを、これまた真面目に考えておられる。

信治::前衛を経験していないと、真面目、という把握おもしろいです。いや、なんかね「現俳協若手」と、ひっくるめて言ったら失礼ですけど、たとえば田島健一さんや、小野裕三さんの句が、まじめくさってないこと、私性を感じないことって、おもしろいことだと思うんですよ。
あ、ちょっと、柳×俳から、それました。寒蝉さんの7句いかがでした?

牙城::寒蝉さんの七句、これは余り新味が出なかったなと思っています。言ってしまうと、彼の悪い部分が出たということです。この程度の句なら、彼はいつでも作るでしょう。一句褒めたい句もありますが……

信治::悪い部分と言いますと。さしつかえなければ。

牙城::彼のキャッチコピーを作るとき、僕はいつも「ヒューマン」な部分を謳いますが、そこを脱却しなくては、一皮剥けた俳人にはなれんでしょう。

信治::ははあ。いい人すぎますよね、寒蝉さんは。いや、寒蝉さんは、まず現代人としての私があって、俳句があるという作者で、今回も、いわゆる俳句的感受性に収まらないところを、見せていただいたように思います。〈絢爛の悪をちりばめ青蜥蜴〉とか、どうですか。けっこう好きなんですけど。

牙城::だって、予定調和じゃない。

信治::たしかに「蜥蜴」ときたらね。うーん。じゃ、牙城さん、一句とるなら、どれですか。

牙城::寒蝉さんでは、〈悪育つことの〉でしょう。切れの問題です。

信治::〈悪育つことのたやすき梅雨茸〉。「育つ」と「梅雨茸」を、近すぎに感じてしまうのって、俳句っぽすぎる読みでしょうか。

牙城:: 「育つ」と「梅雨茸」は離して読むけどなぁ。間に切れもあるんだし。
ぼくは「たやすき」の「き」の後に来る静かな一秒が好きなんですよ。

信治::ああ、それは、たしかに美しいかもしれません。ちょっとジーンときました。
あ、でも、それ完全に、俳句固有の読みですからね。白紙じゃ、読めません。その読みは、洗練されつくしてます。

牙城::そうなんだろうか。日本語が自然に要請している読みだと僕は思います。川柳を読むときにもこの「間」は大切にしたいと思っています。
ということで、今日は有難う。川柳人から文句がくれば、ぼくに回して下さい。

信治::いえ、そんな。ありがとうございました。