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2016-09-11

あとがきの冒険 第7回 恋・勇気・赤ずきん 小池正博『蕩尽の文芸-川柳と連句』のあとがき 柳本々々

あとがきの冒険 第7回
恋・勇気・赤ずきん
小池正博蕩尽の文芸-川柳と連句』のあとがき

柳本々々



折にふれて思い出している「あとがき」がある。次の小池正博さんの「あとがき」の一節である。

書物として完全なものではないが、未完成・未了性はのぞむところである。先へ進む精神を私は連句から学んだのではなかったか。
小池さんは「先へ進む精神」を「連句」から学んだという。私はこれを〈換喩の勇気〉と名付けてみたいと思う。

換喩とは、なにか。それは〈くっついている〉もので喩えるレトリックである。たとえば、童話の「赤ずきん」は換喩であらわされた名前だ。彼女は赤いずきんをかぶっている。赤いずきんがくっついている。だから、「赤ずきん」と換喩であらわされた。ちなみに換喩(くっついているもの)に対して隠喩(似ているもの)であらわされた童話的主人公が「白雪姫」だ。肌の白さが雪に《似ていた》から。白雪姫は白い雪に似ているが、赤ずきんは赤いずきんに似ているわけではない。ただ《かぶっていた》のだ。それが隠喩と換喩のちがいだ。

換喩が隣り合ったものを介して横にズレていくのに対して、隠喩は似たものが重なりあいその場で深まっていく。換喩と隠喩にはそういう性質上の違いがある。

小池さんは「先へ進む精神」を「連句から学んだ」というが、これはまさに「連」なる「句」(隣り合った句)によって「先」へ進んでいくという換喩的思考ではないか。

隠喩のように深く同じ場所を掘り下げていくのではなく、換喩のように・連句のように隣り合った横へ横へとずれて滑走していく〈勇気〉。たえず〈越境〉することをためらわない〈勇気〉。
ジャンルの中での自己完成という誘惑は強力だから、気をつけていないといつの間にかジャンルに囲い込まれてしまう。……
他者の言葉に自分の言葉を付ける共同制作である連句と、一句独立の川柳の実作のあいだに矛盾を感じることもあったが、いまは矛盾が大きいほどおもしろいと思っている。
「連句」は「他者の言葉に自分の言葉を付ける共同制作」であるために、自己と自己の同一化がズレゆくような経験を孕む。自分とはこうである、という自分=自分を同一化させようとする隠喩的思考がズレざるを得ないのが「連句」なのだ。

この「換喩」と「連句」をめぐっては思想家の中沢新一さんが井原西鶴について論じた文章でこんなふうに述べている。
数十秒に一句、という早業を実現するためには、西鶴の前頭葉のニューロンでは、ことばの換喩機構が、フル稼働していたはずである。数人が組んでおこなう連句の場合にも、前の人の詠んだ句のイメージを、換喩的に広げたり、ずらしたり、遠ざけたりすることによって、新しい句が新しい光景をつぎつぎに開いていく。……
ことばの隠喩的な用法がおこなわれているときには、時間意識の過去への遡行ということがおこる。ところが西鶴が挑戦していたような、換喩の高速稼働の場合には、いつも時間意識は、先へ先へと先送りされてしまう

(中沢新一「恋する換喩」『日本文学の大地』角川学芸出版、2015年)
隠喩的思考が「過去」へ遡行していくのに対し、換喩的=連句的思考には「先」へ進む時間意識が胚胎している。たとえば小池さんは最近刊行した句集『転校生は蟻まみれ』の「あとがき」をこんなふうに書いていた。
「川柳」とは何か、今もって分からないが、「私」を越えた大きな「川柳」の流れが少し実感できるようになった。けれども、それは「川柳形式の恩寵」ではない。「川柳」は何も支えてはくれないからだ。
(小池正博「あとがき」『転校生は蟻まみれ』編集工房ノア、2016年)
「川柳」というジャンルと自己とを隠喩的に同一視しないこと。「川柳」に自身が支えられていると確信したせつな、その隠喩構造は「過去」への遡行をもたらすだろう。だからこそ、小池さんは「あとがき」においてこう書いた。「『川柳』とは何か、今もって分からない」し、「『川柳形式の恩寵』」はないし、「『川柳』は何も支えてはくれない」のだと。

〈わたし〉を支えてくれる白馬の王子も七人のこびともいない換喩的存在として狼を撃ちにいくこと。それが〈換喩の勇気〉なのではないか。

小池正博を、西鶴を、赤ずきんを通して、今、私はそう思うのだ。


(小池正博「あとがき」『蕩尽の文芸-川柳と連句』まろうど社、2009年 所収)


2016-06-26

【句集を読む】水と仮面のエチカ 小池正博句集『転校生は蟻まみれ』を読む 小津夜景

【句集をむ】
水と仮面のエチカ
小池正博句集『校生は蟻まみれ』を読む

小津夜景


水の句集、と聞いて私がまず思い出すのは西原天『けむり』。最近では野間幸『WATER WAX』もあった。どちらも巧みな〈水の置〉織りなす句集だ。


小池正博校生は蟻まみれ』にも水の句の集中する連作がある。これが「柔よく剛を制す」の法とでも形容すればよいのかたいへん活殺自在にふるまう粋な水で、観察していると興味が尽きない。

悪霊を見るのは愉快だね
汲み上げた水軍の水よく燃える
一角もいて川岸の古本屋

水は善く万物を利してわず。上の句では「悪霊」「水軍」「一角」といった〈異形の現前〉の放つ気を相殺するのに水が一役買っている。

夢幻ではなく沸点の能舞台
紫探しあぐねて水ぶとり

夢幻能という〈異形の現前〉を旨とするはずの舞台を、沸騰=化によって殺いでみせた一句目。つまりこの句の「沸点」は「悪霊を見るのは愉快だね」の「」や「汲み上げた水軍の水よく燃える」の「燃える水」などと同様〈異形の現前〉をコントロールするからくりの一例である。

一方、粋の象である「江紫」が見つからず、体内に水を溜めこんでしまったのが二句目。川柳に「紫と男は江戸に限るなり」と言うが、この句の人物は侠客気分を高める道具が手に入らなくて、せっかくの水の法術を持て余しているようだ。

君がよければ川の話をはじめよう
友釣りの鮎にしばらくなっておく
突き落とされてもよい流だ
水底の杉の葉たちのひとつ話

水という柔のを介しつつ「君」相対する〈私〉。我が身を呑みこまれても突き落とされても良しとする、まこと潔い捨己人さで「友」に接する〈私〉。勢いよく火のつくことで有名な「杉の葉」が、その燃えやすき質を「水底」で抑えつつ、とっておきの話を語りあう光景。いづれの句も、澄んだ水に重ねられた綺麗な男気を感じさせる。


このように『転校生は蟻まみれ』における水は〈異形の現前〉を活殺するブースターとして働き、また句中に〈私〉が存在する場合はその私が対象に合気=同期してゆくための仕掛けにもなっている。素晴らしく面白い。とはいえ私の興味をより引いたのは、今説明したような光景が本書では〈男としての立ち居振る舞い〉にそこはかとなく重ねられていることの方である

日頃の小池作品が、異化効果などの理論的観点からアプローチされることが多い事情を省みるに、男、などといった感想は衆人を唖然とさせるだろうが、本当にそう感じたのだから仕方がない。私は小池の句を眺めるたび「この人の意識の底には、いつも責任という問題があるのではないか」と思う。しかもその時私の想像している責任とは「すべてが終わってしまい、もはや責任を果たしようのない段階になって初めて向き合わざるを得ない責任」といった類のものだ。と、こう書くとなにやら回りくどいが、これを素朴に「総括」と言っても一向に構わない。

戦争に線がいろいろありまして
明るさは退却のせいだろう
反復はもうしなくてもいいのだよ
       ふりかけの半減期なら知っている
       この町は葉脈だけで生き
       鳥去って世界はひとつ咳をする
       七色の埃が飴についている

行雲流水として、終わりの世界をなお道義的に生きること。熱狂を抑えつつ、正気の侠気を静かに掲げること。私にはあの〈たてがみを失ってからまた逢おう〉という有名句も、しさを味わいつくしたのちにがる、明るくかな風の吹く光景のように思われる(風が吹いたとて、なびく鬣はもはや残っていないのだけれど)。

水牛の余波かきわけて逢いにゆく

ここで〈私〉が逢いにゆく相手は男女のいずれか、と尋ねられれば私は「女ではない」と答する。では男? いや、そうとも言いきれない。「友のなさけをたづぬれば、義のあるところ火をも踏む」ではないが、ともあれそれは小池の義侠心をゆさぶる〈何か〉に違いなく、まただからこそ、たとえ水のない場所でも、逢わねばと思う心が「余波」を創出し、〈私〉はその水に合気=同期するかたちで、わが心を呼ぶ〈何か〉に対する礼に赴くことになる。

ここで「かきわける」のが人混みではなく水牛であるところがこの句の良さ。静かな熱い想いととぼけた味わいとが交差し、さらには言葉からどこか一歩引いた冷静さも感じさせる。


最後に触れておきたいのは次のこと。

「本書に見られる語の選択は、本当に異化効果——日常と非日常とをゆさぶり、言語と人間との関係を脱習慣化させることで新しい世界を発見すること——を目的としているのだろうか?」 

違う、と私は思う。おそらく小池正博の言葉の新鮮さ(難解さ)は、言葉が内面=意味へと沈まないようにするための仮面だ。

前九年をとりかえ後三年
水槽の模擬サンゴにも主

この世の中には「とりかえ可能な」「本物そっくりの贋サンゴ」だからこそ果たせる道義というものがある。内面という〈主体の遠近法〉が確立される近代以前は、誰もがその仮面をかぶっていた。そしてエチカとは〈擬の仮面〉を黙ってかぶる大人のたしなみ以外の何ものでもない。

小池正博は、川柳を「面」的にではなく「面」的にたしなんでいる。私はそう思う。なんのために? 言葉がややもすると産み出してしまう〈異形の現前〉すなわち〈内面の熱情〉を躱すために。そして水と共に〈仮面の倫理〉演じる、すなわち再表象化(ルプレザンタシヨン)するために。


京劇の面をかぶると波の音

【句集を読む】はじめてください、川の話を 小池正博句集『転校生は蟻まみれ』を読む 西原天気

【句集を読む】
はじめてください、川の話を
小池正博句集『転校生は蟻まみれ』を読む

西原天気


夏の空。

入道雲から水なすが落ちてくる  小池正博

その瞬間、入道雲が私の視界に立ち上がり、そこから、あのぽてっとまるい水なすがひとつ落ちてくる。これ、驚きの瞬間、ど同時に至福の瞬間。

なぜ至福かというと、驚きが私(=読者)とその周囲を一新するから。

洗いたてのシャツを洗濯機から取り出したときのうれしさ。その種の至福。



現代川柳のいくつかの句集は、ほとんどわからない句で占められていたりします。

おっと、「わからない」という言い方は曖昧でした。俳句(とその周辺)においては、多義的にも用いられる。ひとつは「どこがおもしろいのか、わからない」「良さがわからない」。意味伝達性の高い句を好む人が、意味伝達に重きを置かない句に対して「わからない」と言うとき、「句意がわからない」と同時に、それよりも強く、おもしろさ・良さがわからないという拒絶の態度。彼らにとって「わからないけれど、おもいろい・良い」はあり得ません。

冒頭で私が告白した「わからなさ」は、それとは違う。わからないけれど、おもしろがっていたりする。その「わからなさ」は、句の意味がわからないというより、私が俳句に親しむなかで享受してきた「趣向」のようなものが見いだしにくいという意味かもしれません。

カワセミが出るまでニスを塗り続ける  同

この句、句意はどこまでも鮮明です。わからないところは1ミリもない。ただ、いわゆる(この「いわゆる」は特に強調)俳句が私たちをおもしろがらせる方法(=趣向)とはずいぶん違うように思います。

だからといって、私がおもしろがれないかというと、そんなことはなくて、すんなりと気持ちよく読む。ただ、この句の趣向を説明せよと言われても、それはムリ。前に出てきた「意味伝達性の高い句を好む人」から「どこがおもいろいのか」?と問われて、説明はできない。それは、私が、俳句的言説の慣習、俳句的批評のプロトコルに慣れ親しみ過ぎた、言い換えれば、毒されたせいかもしれません。

この、私の不可能性・無能は、ときどき悲しくなります。現代川柳に親しむ人が言語化できることを、きっと私はできない。それはすなわち、語り合えないということになるかもしれないので。

それでも、私は、この川柳句集『転校生は蟻まみれ』(2016年3月)を、読むのです。読む、というだけではなく、ところどころ、とても愉快に感じながら。



とある日のコネティカットの焼き魚  同

コネティカットは行ったことがありません。悲しいかな、アメリカ北部の州というくらいしか知りません。でも、コネティカットとあるのだから、そこはコネティカットであり、特定できないある日、焼き魚。ちょっとヘンテコリンです。フィッシュをローストするのではなく、サカナを焼く。

この読み方は、ひょっとしたら、他人と違っているかもしれません。この、そのまま読む、という読み方。


別の句でも、万事この調子で、書いてあることを、そのまま、からだに入れます。

なぜそんなことになるかというと、バカだから。つまり、アタマが回らない、働かない。だから、そのまま語と語の連なりを受け入れるしかない。それ以外に方途を持たない。

そうしてでも、読みたい、ことばに魅了されたい。それはもう、性(さが)、業(ごう)でしかないのだと思います。



そのまま受け入れて、理解できた気になるのではありません。(自分にとって)わかる・わからないを混在させたまま飲み込む。そのとき、腑に落ちた(胃袋に収まった)感じと、「不思議」がそのまま残るのと、混在です。

アーチでしたか兄さんの結論は  同

この句などは不思議成分が多いままです。腑に落ちませんが、(ことばとして)美味。



そのまま読むという態度は、句が語りかけてくれば、応答するという、シンプルな反応でもあります。

君がよければ川の話をはじめよう  同

いいに決まっています。そういう切りだされ方はかなり好きだし、川の話も大好きです。この句には身を乗り出してしまう。

とか、

こんなときムササビはよしてください  同

いや、私、ムササビをどうこうしようなんて、考えたたこともないので、安心してください。否、ちょっと考えたことがあるかも。

とか、

フィヨルドの3番目にてお待ちする  同

とあれば、「そうか」と、フィヨルドが広がる。でも次の瞬間、「ちょっと待てよ、3番目って、どこだ?」と悩みます。「わからへんて!」と叫ぶ(もちろんアタマの中で)。

これも常人とは違うかもしれません。以前、ブログ記事のコメント欄で、福田若之さんの「けれど、僕は、ほとんどの俳句について、その句が僕に話しかけているとは感じません。たとえば、《約束の寒の土筆を煮て下さい》(川端茅舎)を読んで、煮てあげようかどうしようか、とは思いませんよね。」と、「思わない」ことをごく当たり前のことのように書き込まれているのを見たとき、ちょっとびっくりして、軽いショックを受けました。ああ、ふつうは、そうなのかもしれない。

私は《約束の寒の土筆を煮て下さい》とあれば、「どうしよう? 煮てあげたい」と思うのです。「煮てあげたい、でもいまは無理。煮てあげられたらいいのに!」。でも、みんな、なんで思わないの?

『転校生は蟻だらけ』に戻りましょう。

琳派だろう手術痕尋ねあて  同

この句には、一拍置いてから、「節子、それ、琳派やない。リンパや」とツッコむ。



句を読むにおいては、そのまま読む、句にそのまま反応する、という態度ではなく、《読みの枠組み》があって、それを通して分析するように読み解く、というのが一般的かもしれません。

ただ、誰もが、句と句の背後を読み解けるわけではありません。それができない私は、ただ「読む」ということをする。呆けた態度とお叱りを受けるかもしれませんが、許してください。この記事は【句集を読み解く】ではなく、【句集を読む】ですから。

不可能・無能に苛まれた人間も、句を快楽することができるはずです。おんぼろのクルマでも、美しい景色を感じつつドライブすることができるのとおんなじに。


【追記】
著者の「あとがき」にこうあります。
「川柳」とは何か、今もって分からないが、「私」を超えた大きな「川柳」の流れが少し実感できるようになった。けれども、それは「川柳形式の恩寵」ではない。「川柳」は何も支えてはくれないからだ。
川柳は何も支えてはくれない。この一文の意味するところをきちんの理解できたわけではありませんが、そういえば、「俳句はすべてを支えてくえる」と考えているフシが、私にはあります。ただし、それは「俳句形式の恩寵」などではない。その点は同じですが、支えてくれる・支えてくれないという点での俳句と川柳の対照を、自分なりに感じました。


2016-04-10

【句集を読む】小池正博『転校生は蟻まみれ』を読む 山田ゆみ葉

【句集を読む】
小池正博『転校生は蟻まみれ』を読む

山田ゆみ葉


0 鑑賞

「鑑賞は無理です」と脳科学者の茂木健一郎は、人口知能を断言する。「コンピュータが行う言葉の分析は、意味ではなくて、その言葉が文章の中でどう使われているかを統計的に分析するだけ」(『俳句』9月号)であり、「人格は感情と結びついているので、人生経験に基づいたいろいろな〝想い〟は、まだモデル化ができていないし、俳句に現れているような、文学観や世界観、人間観というものは、どうやってデジタル化したらいいかわからないんですよ」(同上)と、鑑賞の難しさを語っている。

鑑賞は、人の数だけある、たぶん。鑑賞の定番なんてものもなくて、それぞれが今持っているものをさらけ出して誠実に読むしかないのだ、きっと。

思えば、鑑賞の前段階の選句基準にも定番はない。

俳句の選句のみならず、川柳の選句も同様である。何も定番はない。考察すらされていない。

選句の大半が、選者の好みである。その好みは、文学観や世界観、人間観に基づくものであろうと推測する。中には、表層の刺激性に飛びつき、「珍し~」「かっわい~」「おもしろ~」などと感嘆するだけの選もあろうけれども。

ということを言い訳にして、川柳句集『転校生は蟻まみれ』(小池正博)を読んでみたい。


1 テクスト論

いつでも作家は、作中の「私」とは別存在であると断っているが、いまだに作中の「私」と作者とを混同する読者は多い。たとえば、又吉直樹の『火花』の感想を読書メーターで読むと、神谷か?徳永か?どちらが又吉自身か?などというやり取りが見られる。でも私は、理想論的な神谷もそこに憧れながらそうはなれない徳永も、又吉の葛藤そのものだろう、と読んだ。お笑い芸人として生きざるをえない自分の中の葛藤を洗いざらい書き上げて対象化するために、あるいはその先の課題を得るために、『火花』が必要だったのだと思う。さらに又吉は、葛藤を通して、人間とは何かを描こうとしていたと思う。

小池正博は、テクスト論を繰り返し述べている。作者と作中の「私」と混同することなく、つまり作品と作家を切り離して、「言葉」に注目して川柳作品自体を読め、と言っている。作者の思いではなく、「出発点は言葉にあるような作句方法と読みである」(『蕩尽の文芸』)と断言し、デノテーションとコノテーションの違いを挙げ、シンボルとして共感できるものを引っ張ってくるコノテーション的「作者の意図や作品の意味が空白であるような川柳」もアリだと言う。

だから、小池の川柳は、読者の理解を拒否しているように見える。どう読まれようとも、どう感じ、どうイメージされようとも、ふっふふと笑い、「好きにして」と言っているかのようだ。

小池は、十重二十重に煙幕を張り巡らす。「テクスト」論も、その用心深さのひとつに見える。


 2 異化

小池の川柳は、あえて難解である。

わかりやすそうな、読み流してしまいそうな句、

  右手と右手つないで登ってゆく

にしても、ただの仲良しの登山を描いた句ではないのだ。考えてみたら、右手と右手をつなげば、一人は逆向きになる。つまり、下山したい一人を力づくで引きずっている景色なのである。怖い川柳である。そんな景色だけをポンと提示し、その先は「好きにして」と言う小池である。

たとえば難解そうな俳句ならば、季語を拠り所にして句を読む。

自分で俳句を書いてみてわかったのは、私の季語は、ただの背景や添え物の千切りキャベツ程度の弱い効果しか持っていないということだった。だが、俳人は、自分と一体化するまで季語を見つめるのだそうだ。そこまで季語に思い入れがあって、自分へ取り込んでこそ、一句が成り立つ。

そんな俳人にとっての季語は、小池にとっては異化された言葉である。

小池の難解な川柳には、あえて異化された言葉が挿入される。「この食材は何?」と問えば、ふっふふと笑って答えない料理人を想像してしまう言葉たち。どんなおそろしい食材を使ってるのかと、読者を怖れおののかす。この異化された言葉さえなければ、ただの読みやすい句なのだが。

シフロスキーは、「日常的に見慣れた事物を奇異なものとして表現する《非日常化》の方法が芸術の方法」と考える。その「非日常化」のためにこそ、異化された言葉が顔を出す小池の句なのだろう。

おかげさんで、何度も辞書のお世話になり、ググッてやっと見つけた言葉もあった。そして、その言葉群は、日本の歴史、ヨーロッパの文化、仏教の分野が多い。京都の地名や風物の言葉も、同じように異化の作用を持つ。

だから、断言しよう。この異化された言葉たちこそ、煙幕の陰に安住している小池自身を見つけるつり糸なのだ。無意識の氷山から釣り上げた言葉だからこそ、無意識の小池が存在するのである。


 3 蟻まみれ

本書は、4つの章がある。ただ単に年代順に並べた章とは思えない。なんせ『川柳カード』の編集においても、必ず関連を持たせた見開き2ページなのである。この4つの章立ては何の意味があるのか?というのも、私の独断と偏見を行使して考えてみたい。

まず第Ⅰ章「転校生は蟻まみれ」である。

表題にもなった句を読んでみたい。

  都合よく転校生は蟻まみれ

この句の異化された言葉は、「蟻まみれ」である。あの小ちゃくて黒くて集団行動をする昆虫である(集団行動のように見えて、実は3割はサボっているのだそうだが)蟻がびっしりたかっている。「蟻まみれ」の転校生に新しい友人が寄ってくるとは、とうてい思えない。そんな転校生を「都合よく」とほざいている生徒は、それまでのクラス集団からハブされ、時にはイジメられていたのではないか?だから、「都合よく」という句語から、これで自分からイジメを逸らすことができるだろうという安堵感が見える。自分が解放されるために新たな犠牲者を差し出すのは、世の中によくある景色である。

「転校生は蟻まみれ」は第三者的な視線だが、「都合よく」に作者の主観が垣間見える。けれども、作中主体は作者ではないというのが、テクスト論のキモなので、小池自身のことと読んではいけない。あくまで自分はその外側あるいは高みにいる、それが小池の立ち位置である。

同じような小池の立ち位置を感じた句がある。

  湿原で中間小説書き飛ばす

中間小説は、純文学と大衆小説の中間にあるどっちつかずの小説だ。それを「湿原」、つまりじめじめ湿った畳に置かれた和机の前に坐って「書き飛ばす」作家(芥川賞作家だけれども西村賢太が浮かぶ)は、きっと不遇。自分の川柳も所詮そんな中間小説みたいなものだという自嘲の句と読んではいけない。小池は、ここでも外側あるいは高みに立って、批判的な視線を投げかけているのだ。

  塔に籠って紙ヒコーキ主義である

これも世間的には不遇な人物が浮かぶ。『ソドムの百二十日』(マルキ・ド・サド)は、バスチーユ監獄の中だったからこそ、読者の不在を前提に書き進められたという。読者不在だからこそ、書かれたものはより純化し、独りよがりに陥りやすくなるだろう。そんな読者不在の状況で、(句の書かれた?)紙ヒコーキを飛ばす作中主体。だが、その紙ヒコーキへ向けられる小池の視線は、決して肯定などしていない。カタカナ表記の「ヒコーキ」が揶揄的視線をいっそう強める。

つまり第一章は、読者に対して自己紹介的に、自分の立ち位置はここ、と親切に教えてくれている章なのではないか?小池の立ち位置を確かめながら読めば、他の句も取りつくシマも見つかるはず。難解な句語にケムに巻かれぬように、強調あるいは象徴として読めば、イメージは浮かぶ。

それにしても、読者を試すかのように辞書とグーグルが必要な言葉が圧倒的に多い章である。

匈奴、神風、コロボックル、上皇、草競馬、院政、北山、芥川、佐馬頭、本能寺、御用邸、ソグド人、蠱術、茶坊主、五秘密、餓鬼、六波羅、紫衣、熱月、煉獄、戻り橋、モアイ像、アルパカ、蘭鋳、ゴムの樹、禊、水呑虎、壇の浦、黒執事、暴力装置、清涼殿、模擬サンゴ、竪穴式住居、大君、環濠、輪王、鳥形霊、通り魔、前九年後三年、萩の乱、随身、青い鮫、島流し・・・などなど、かなり意味性の強い、方向性の強い句語が多用された章である。言葉に飛びつき、「おもしろ~」という読者と「これ見よがし。つまらん」という読者に大別される章であろう。

小池自身は、固有名詞について、ブログ『週刊川柳時評』(2016年2月19日号)で次のように書いている。

「印象的だったのは広瀬ちえみの選評である。
「川柳は現在行き交っていることばに左右されていると思った」
「固有名詞を使うときはその言葉自体がすでに抱えている背景を一句のなかで料理しなければならないことを強く意識するべきだと私は思う」
「俳句には季語(時間の積み重ねがある)があるが、それと固有名詞とはちがう。川柳で使われる固有名詞はどちらかといえば作者の生きている現在を呼吸している。しかし一句のなかにピタリと嵌まったときは大きな力を持つのが固有名詞である。川柳におけることばの流通を良くも悪くも考えさせられた」
俳句や川柳における「作者」「読者」「ことば」の問題は、実作と連動するさまざまな局面で深められてゆきつつある。」
ここでは、一般論で締め括っておられるが、広瀬ちえみの選評がイタイ句も『転校生は蟻まみれ』に混じっているように思う。

そんな中にさりげなく紛れ込ませた句、

  明るさは退却戦のせいだろう
  頷いてここは確かに壇の浦
  反復はもうしなくてもいいのだよ

あたりに、小池の見ている世界や現実、それに対して自分はどこに立っているのか、どう処するか、という現状認識らしきものがあると見たっ!


 4  ニスを塗る

  カワセミが出るまでニスを塗り続ける

「出るまで」と言われると、どうしてもサイコロを振っている作中主体が見えてしまう。たとえば「6が出たら上がり」という双六のサイコロである。偶然性あるいは確率に賭けるなど、そんな遊戯性を愉しむ小池とは思えないので、ここは素直に「結果が出るまで」と読むべきか?

ともあれ「川の宝石」とも呼ばれる美しい鳥カワセミが、双六の上がりであり、究極の結果なのだ。そのカワセミを求めてサイコロならぬ、ニスを塗る。しかも「塗る」にとどまらず、しつこく「塗り続ける」のだ。わざと字余りの「塗り続ける」の6音が、いつまでも繰り返される空しい作業を強調する。小池の句は、ほぼ575定型を守っているので、これはあえての字余りだろう。

しつこく塗り続けねばならないほど、なかなか手に入らないカワセミは、目ざすべき「理想」、こうありたい「願望」の比喩と読んだ。さらに「ニスを塗り続け」たところで、理想へ至るのは難しいし、叶うことの少ない願望なので、その徒労や虚しさも含めて読み取るべきだろう。

この第Ⅱ章「ニスを塗る」はおそらく、ないものねだりの「理想」や「願望」の諸相を描こう、という作者の意図があるのではないか?

「理想」「願望」っぽい句語の入った句をいくつか挙げてみよう。

  権力はウパニシャッドの師のあたり
  君がよければ川のはなしをはじめよう

  とある日のコネティカットの焼き魚
  天壇にのぼったという牛の骨
  江戸紫探しあぐねて水ぶとり

  島宇宙から島宇宙へと枢機卿
  玉虫飛んで二人の幸福度
  馬の国に行ってみたくて幻貯金

しかしどの句も、「理想」「願望」をピュアに語っているわけではない。「師のあたり」「君がよければ」などクールな視線だったり、「焼き魚」「牛の骨」「水ぶとり」のようにずり落としだったり、「島宇宙」「幸福度」「幻貯金」など嫌味っぽかったりしているので、「理想」「願望」の実現をマジに望んでいるとは思えない。句の裏側には、やりきれない想いが貼りついている。

これら以外の句も、「理想」「願望」へ至るまでの失敗やら挫折やらを書いている第Ⅱ章だと思う。


5 美の中佐

変節をしたのはきっと美の中佐

「変節をしたのは中佐」と断言すれば、新聞記事的な世界(自衛隊員の告発とか)だが、「美の」が入ったばかりに異化を深める。「美の中佐」と言われると、BLに出てきそうなイケメンでしなやかな肢体の軍服姿をイメージする。熊のような武骨な軍人など、決して想像しない。

「誰が変節したんだ!」と熊の大佐が大声で詰問するのを、ヒラの兵士たちは直立不動を保ちながら首をすくめている。ヒラ兵士の一人である作中主体は、心ひそかに「きっと美の中佐だ」と推測し、熊の大佐の横に並んでいる美の中佐の白々しい表情を見つめている。なんてまあ息詰まる場面だろう。

「変節」の対極にあるのは「一貫」だ。一貫した人生を送る人は、おそらく稀。
「お国のため」から「民主主義」へ変節した文学者・俳人・川柳人の戦後の話もよく聞く。これからの日本が「お国のため」へ逆行することも予想されうる昨今、またも変節が問われるかもしれない。また、「踏み絵」ちゅうコワイもんが、「変節」を強いた歴史もある。いえいえ。暮らしの中でも、小さな「変節」はあちこちに潜んでいる。軟弱な私は、あっさりと変節するだろう。「美のために」などと言い訳しながら、『沈黙』(遠藤周作)のキチジローのように愚かに醜く、人間的に。

この第Ⅲ章「美の中佐」は、「変節」「転換」「転向」の諸相を描いているのではないか?それを匂わせる句は、次の通り。

  東雲に空室ありと指文字
  美しい樹のそばでした蜜蜂密談
  聖域は造成されて雉香炉
  分身が死んで放浪はじまった
  鳥羽絵へと叔母は出発してしまう
  整形が済み賑やかな野菜市
  百アール蘭植えてから疾走する
  呪術破れて三千の鴉現れる
  陰謀を雨に語って返り忠
  ネクタイが楽しみな今日のダミー
  頷いた人からパルチザンになる

それに対して「一貫」を読み取れる句は、「つつがなく」的なイメージ。

  佃煮はさようさようと繰り返す
  吸って吐いて常緑の権力者
  一年を孔雀選びに余念なし

小池の句を読みながら、伊坂幸太郎の「本当に深刻なことは陽気に伝えるべきなんだよ」(『重力ピエロ』)という言葉を思い出す。「好きに読んで。ふっふふ」なんて言いながら、小池の変節は、緊張感の漂う場面をさりげなく提示しているからだ。句語の見かけのゴージャスさやら面白さやらに目をくらまされないよう気をつける必要がある。そして、変節ちゅうもんのむごさを読み取らなければならない。

この章で楽しいのは、一句まるごと会話体の句だ。一句まるごと会話体の俳句は、「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」(子規)が浮かぶ。短歌では、穂村弘など口語会話体の歌がけっこうある。

  こんなときムササビはやめてください
  稽古はやめだ君が火星を狂わせる
  龍の卵でしたね少し温かく
  客僧よ鳩の視線はやめたまえ
  人形ですか蓮の実ですか
  蘭亭の葉のかたちなど知らないよ
  急に言われてもナイルブルーありません
  舞えとおっしゃるのは低い山ですか

誰か(読者を含む)に向けて語りかける句だから、つい反応して、「すんません」と謝ったり「違います」と反論したり「その通り」と同意したり「それは何?」と聞き返したりしてしまう。

一句まるごと会話体は、『大阪のかたち』(久保田紺)など多くの川柳人が楽しんでいる。一句まるごと会話体の句こそ、読者を惹きつける川柳の強味かもしれない。

踏切を渡るんだよ大和人

歴史好きの小池なので、最初は「大和人」を「やまとびと」と読んだ。だが、これは「ヤマトンチュー」とルビを振るべきなのではないか? 「踏切を渡るんだよ」と言っている作中主体は、もちろんウチナンチューである。ヤマトンチューよ、交通ルールも倫理も人情もしっかり思い出しなはれと言われている気がする。


6 公家式

第Ⅳ章「公家式」では、まず『ねじ式』(つげ義春)が浮かんだ。

70年代の『ガロ』に連載されていた漫画で、赤塚不二夫がパロったり、映画にもなったりして、かなり評価が高い作品である。特に「メメクラゲ」(架空のクラゲ)が、中学生も愛読する西尾維新の『物語シリーズ』(ライトノベル)の登場人物である忍野メメの名前の由来と知って、改めてその反響の大きさに驚いたことがある。

メメクラゲに刺された腕を治療したいのに、「眼医者ばかり」が並んだ村(あとで産婦人科も出てくるが)をさまようコマが続く。なんとも薄気味悪い眼が次々と並ぶ通りは、何か言いたげだ。

「五感」(視覚・聴覚・臭覚・触覚・味覚)と言われるが、他者を意識するとき、視覚を通していることが多いと思う。短詩系でも、視覚を通した作品が圧倒的に多い。

とりわけ「見られる」場合、つまり他者の視線を意識することは、換言すれば、自己を第三者として客観視してとらえ直すことでもある。

たとえば『紫式部日記』を読むと、紫式部は他者をよく観察しているが、また逆に過剰に他者の視線を意識している。『世界音痴』(穂村弘)や『第2図書係補佐』(又吉直樹)でも、「誰もそんなもん、見てへん。思うてへん」と励ましてやりたいほどに過剰な自意識を持て余している。この過剰な自意識(見る・見られる)というのは、緻密な心理描写に(俳句の写生にも)生かされたりするので、表現者に必要な資質かもしれない。

ということで、まず「視線」あるいは「見る」句を挙げる。

  噂の二人は蛙の心見ています
  夢を見ているマカールという男
  青春通りで四千年前の月を見ている
  打開するにはオペラを見る必要が
  見上げれば空に背骨がないことも
  言い寄られ二つの口を見せておく

また、直接的には言ってはいないが、「見る」「視線」を感じる句も多い。

  猪避けのフェンス開く高天原
  曼荼羅を虫が渡ってゆく速度
  朝逢って昼は綺麗になっている
  木漏れ日に混じって劣化ウラン弾
  水田に逆さ睫毛が映っている
  カクテルに映るからには上意討ち
  峠から扇を振れば駆けつけろ
  合鍵渡す大陸浪人の夢
  性器から顔を出す蝗群

などなどの句を書き写しているうちに気づいた。「見られる」という自意識の句がほとんどないのである。「見られる」句は、次の3句ほど。

  晩年を猫の目をしたものが飛ぶ
  春キャベツ視線恐怖をやわらげて
  柄付眼鏡の視界の中で墜ちてゆく

小池の作中主体は、たいてい「見る」側なのだ。その視線の先にあるのは、どうにもならない社会へのやりきれなさや揶揄や鬱屈だ。

そして、締めくくる句集最後の一句は、「凝視」である。

  公家式の二行に詰めを誤るな

公家こそ、歴史の流れの中で行動せず、「見る」ことに徹した存在ではないか?暮らしの風雅を友として、ときに湧き上がる憤懣を抑え込んできた存在とも言える。

作中主体は、その公家の方式で生きてゆくと言う。しかも用心深く。「詰め」も、一行だけでは安心できずに、二行に渡って目を凝らす。つまり、集中して「詰め」を確かめている。


7 まとめ

川柳の読みには、即効性興趣と遅効性興趣がある。

句会や大会で耳から入る句に、思わず吹き出したり、ええ~っと驚いたりするのが、即効性興趣である。それから、自分を重ね合わせて共感したり、新たな視点で啓発されたりする場合もある。

遅効性興趣は、『「罪と罰」を読まない』の後書きで、三浦しをんが書いている「するめ」である。
「小説に限らず、創作物はなんでもそうだと思いますが、「読む」(あるいは「見る」「聞く」)という行為を終え、作品が心のなかに入ってきてからが本番というか、するめのようにいつまでも嚙んで楽しめる。一冊の本を読むという行いは、ある意味では、その人が死ぬまで終わることのない行いだとも言えると思うのです。」
中学生(高校生だったかな?)の坪内捻典が、屋根の上で好きな句や歌を愛誦していたエピソードを思い出す。この愛誦こそ、三浦しをんの言う「するめ」である。「余韻を楽しんだり」「想像したり」「ふとした拍子に細部がよみがえり、何度も何度も脳内で反芻する」(三浦しをん・前掲書)のも、遅効性興趣なのだ。

小説に比べれば短詩系は、ほんの一瞬を捉えるだけの物語ではあるが、ふとした折に、不意によみがえる句は、確かにある。私に断りもナシに何度も脳内を支配する句は、確かにある。

榊陽子のブログ『川柳もと暗し』では、西原天気の俳句を取り上げて、次のように語っている
「わたしは記憶力が弱い。だからどんなにいいなと思った句でも一字一句正確に暗記できないという無能さを差し引いても、ある語句だけで、あの人のあんな句があった、と思い出のようによみがえってくるということはすごいことなんじゃないかと思うのだ。」
「これも17音をソラで言えないのだけど、ゴムの木と聞くと思い出す句。
ゴムの木が運ばれている情景が焼き付いてしまった。あの、昭和の時代、うちにもあったゴムの木。大きくて分厚くて、最近のおしゃれな観葉植物が増えてきた中、気づけばそれは洗練されない姿のまま、家庭用としてはおそらく人気のない部類に入るであろうゴムの木。それが二科展という晴れの舞台に運び込まれているのである。
ゴムの木への愛着などまったくないのに、感慨深いのである。」
榊陽子の言うところの「思い出のようによみがえってくる」「ゴムの木と聞くと思い出す句」が、三浦しをんの「するめ」である。

さて私にとって、『転校生は蟻まみれ』は、即効性興趣と遅効性興趣を併せ持つ、イマドキ稀な川柳句集だった。

読者は、あたかも見せびらかす如く配置された、異化された句語に引き寄せられる。まず感じるのは、即効性興趣である。

でも私は、即効性興趣だけで終わることができなかった。異化された句語たちも含めて、読み流すことができず、数日、舌の上で転がしたり脳みそをかき混ぜたりして考え続けた。読み応えがあって立ち止まらざるを得ない、しっかり根を持っている句たちと感じてしまった。

そのうちにじわじわ効いてきて、やがて遅効性興趣を発揮する日が来ることだろう。

小池の川柳がしっかり持っている根とは何か?

意識する・しないに関わらず、誰もが生き難さを感じながらの暮らしである。

「こんな家の子、止めたいわ」と言ったのは、小2。カーラジオの子ども相談室を聞きながら、「誰にでも悩みはあります」と言い返したのは3歳半。こんな小さな子どもたちでも、生き難さを感じている。

人間は、さまざまな重層的な生き難さに取り囲まれている。

必ず死ななければならない存在として設定されていること、生物としての本能や欲望に規定されていること、コツコツ積み上げても崩れる時は一瞬という諸関係に取り囲まれていること、さらに組織と個人という背反する社会への違和感、だんだんと物が言いにくくなる気配が濃くなる現代社会、愚かさと醜さを何度も繰り返す歴史、自分は何者なのかという答えの出ない根源的な問いなどなど。

だからこそ、世の中は理不尽と不合理に満ち満ちているからこそ、思い通りにはならない日々を生きなければならないからこそ、人間は、宗教や哲学や心理学や社会学や政治学や文学を求める。

小池には、そんな生き難さの諸相が見えすぎてしまう眼があり、そんな鬱屈を一句として書き留めざるを得ない。それが小池の川柳の根ではないか?それを揶揄や諦観や詰屈をまじえながら、一句まるごと会話体を使いながら、テクストとして提示したのが、『転校生は蟻まみれ』句集なのではないか?

だが川柳は「蕩尽の文芸」なので、高度消費社会を体現するかのように、ふわふわの綿菓子や、どこも同じの金太郎飴や、激辛だけがウリのラーメンや、すぐ味のしなくなるガムのような即効性興趣だけの句が次々と流れ消え去ってゆく現状である。

そんな状況もすべて心得顔で小池は、「好きに読んで」と言いながら「いずれ思い当たる時が来るから」と、ふっふふと忍び笑いを漏らす。遅効性興趣を盛り込んでおきながら、即効性興趣だけの素振りを見せ続ける、そんな「喰えない男」が、小池だ。





2015-12-27

週俳2015年7月のオススメ記事 太宰治のいる風景 小池正博

週俳2015年7月のオススメ記事
太宰治のいる風景

小池正博


太宰治は俳句と関係が深い。連句とはもっと関係が深い。

芭蕉の「古池や」の句について述べた『津軽』の一節はよく知られている。「どぶうん」ではなくて「チャボリ」というやつだ。

『富嶽百景』では「単一表現」の美しさを説いている。このころ太宰は「軽み」について考えていた。

『富嶽百景』の構成が連句的だという人もいるが、『晩年』の冒頭作「葉」ははっきり連句的である。「死のうと思っていた」で始まる小説。この小説は36の断章から構成されている。36といえば歌仙形式ではないか。

さて太宰の忌日が「桜桃忌」。柳本々々は忌日を読む」(本誌第429号)で「桜桃忌」を用いた俳句と川柳を目配りよく論じている。キーワードは「動的」「ぴょんぴょん」「行動」。

「やっとるか」
「やっとるぞ」
「がんばれよ」
「よし来た」 (太宰治『パンドラの匣』)

本誌第430号は特集「曾根毅句集花修を読む」。六人が句評している。曾根は鈴木六林男を師として俳句を学んだ。六林男の鞄持ちをしながらいろいろなことを吸収したという。そういう話を曾根から聞いたこともあり、田中亜美もどこかの俳句時評で書いていたと思う。

あと、関悦史の「BLな俳句」(第431号)がおもしろく、馬場古戸暢の「自由律俳句を読む・矢野錆助」(第428号)は自由律の現在を知る意味で注目したが、ともに連載の一部である。

2015-01-11

小池正博に出逢うセーレン・オービエ・キルケゴール、あるいは二人(+1+1+1+n+…)でする草刈り 柳本々々

小池正博に出逢うセーレン・オービエ・キルケゴール、あるいは二人(+1+1+1+n+…)でする草刈り

柳本々々



想起されるものは、すでに過去にあったものであり、いわば後方にむかって反復される。これに反して、ほんとうの反復は、前方にむかって想起するのである。したがって、反復は、それが可能であるならば、人間を幸福にする。
(キルケゴール、前田敬作訳「反復」『キルケゴール著作集5』白水社、1995年、p.206)

  夏草を刈る夏草の関係者  小池正博

小池正博さんの句集『セレクション柳人6 小池正博集』(邑書林、2005年)からの一句です。

ずいぶん唐突すぎるかもしれないのですが、この小池さんの句に〈関係〉しようとする前に、キルケゴールの有名な、かつ読む者を関係の困惑に誘い込むような次のことばを思い出してみたいとおもうのです。
人間は精神である。しかし、精神とは何であるか? 精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか? 自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。
(セーレン・キルケゴール、桝田啓三郎訳「死に至る病とは絶望のことである」『死にいたる病』ちくま学芸文庫、1996年、p.27)
ここでわたしなりにキルケゴールの〈関係〉についての上記のことばを端的にまとめてみるならば次のようにいえるのではないでしょうか。

〈関係〉はひとつに収束するものとしてあるのではなく、〈関係〉する〈関係〉のn連鎖としての〈関係〉としてみるべきだ、と。そしてそこにこそ、〈じぶん〉はあるんだ、と〔*1〕

小池さんの句にもどります。

この句には、すくなくとも五つの〈関係〉する〈関係〉が指摘できます。〈関係〉してみます。

ひとつは、「刈る」という行為からの〈関係〉です。「夏草の関係者」は「刈る」という行為によって「夏草」に〈関係〉しています。行為によって生成されるアクションとしての〈関係〉です。

ふたつめは、「夏草の関係者」という〈記述〉による関係です。刈っているそのひとは、〈そのひと〉ではなく、「夏草の関係者」とことばによって〈属性〉として記述されている。そうしたことばによって生成されることばから派生した属性的〈関係〉です。

みっつめは、同語反復として繰り返された句における「夏草」と「夏草」の関係です。「夏草」は《二度》繰り返されたことにより、「(関係する)夏草」と「(関係される)夏草」に記号生成されていく。そうした「夏草」と「夏草」の差異=示差性としての記号〈関係〉。

よっつめは、語り手と「夏草を刈る夏草の関係者」との〈関係〉です。語り手は「夏草を刈る夏草の関係者」を(みて)、語っている。川柳として組織化している。語り手と「夏草の関係者」との〈関係〉。

さいごの関係は、わたしたち読み手とこの句との〈関係〉です。わたしたちはこの句を読むことによってこの句に〈関係〉してしまう。〈読む〉ことはいつでも〈関係〉してしまうことです。そして読み手はいつも〈単独者〉として〈関係〉を決め、あるいは〈関係〉から逃避し、〈関係〉へのみずからのふるまいを〈関係〉しなければならない。

以上、五つの関係がこの句には胚胎しているのではないかとおもうのです。

そうして、この句をひとめみた瞬間、それがなにかはわからないけれども眩惑してしまうのだとしたら、それはこの句がこの句に内在している関係の交錯した状況を一瞬のうちに束ねつつも生成してしまっているからではないか。

冒頭でキルケゴールはこう述べていました。

じぶんとは、関係する関係なのだと。

これは、関係が分断されているからではありません。

関係が関係として関係するからこそ、そうした関係をむすびあわせていく(ことをせざるをえない)自己がある/いるからです。

そしてそのような自己は川柳のひとつの主体としてもこの句にあらわれている。

ひとつの関係的主体としてまとめてみると、どうなるか。

さきほどの五つの〈関係〉する〈関係〉を〈関係〉として束ねていくならば、つぎのようになります。

夏草を刈る夏草の関係者。

という「夏草」が「夏草」に〈関係〉していくこの句。

を川柳として組織化することで〈関係〉している語り手。

に〈関係〉しつつも〈関係〉をつむぎはじめてしまうであろう読み手。

という〈関係〉を意識したやぎもともともと。

に〈関係〉してしまい今この〈関係〉をめぐる奇異な文章を読んでいる〈あなた〉。

のとなりですやすやねむっている〈だれか〉。

が夢のなかで想っている〈だれか〉。

のとなりでやはりすやすや寝ている〈だれか〉。

の……

〈関係〉とは、〈関係〉ではないのです。

〈関係〉とは、収束することのできない〈関係〉が、〈関係〉のままに続いていくことなのです。

〈関係〉とはそのような〈関係・的〉にしかとらえられないものであり、そしてその限りにおいてで《しか》〈関係〉は〈関係〉としてなりたちえないのです。

そしてその終わりのない〈関係〉のなかで、〈じぶん〉が生まれてきたり、句の意味生成がうまれてきたりする。

あえていうならば、その〈関係〉する〈関係〉をどのようにひきうけ、どのように生きるかという〈実存〉にこそ、〈わたし〉の生の、〈あなた〉の生の、川柳の意味生成の〈関係〉が発動しているはずです。

〈あれか、これか〔*2〕〉ではなかった盲目的なレギーネとの熱烈な恋愛からの婚約と、にもかかわらず〈おそれとおののき〔*3〕〉のなかで一方的な婚約破棄を行ったキルケゴール〔*4〕

彼はそういうかたちでもってさえも、〈関係〉する〈関係〉をつくっていったようにわたしはおもうのです。

ひとは〈関係〉をやめることはできない。〈関係〉をひきうけることしかできない。どのような別れや破棄も、それは〈非関係〉ではない。ひとつの〈関係〉する〈関係〉をひきうけ、それを〈自己〉としていくことなのだと。

そのとき、草刈りをしていたセーレン・オービエ・キェルケゴールは、おびえつつも・ふいうちのように小池正博にであう。そうして、ああこれも〈関係〉する〈関係〉ではないか、と次の句をみながら、キルケゴールは『死に至る病』をもういちど(おなじふうな・ちがったかたちで)書き始めるのではないか。「夏草」を断念できなかった「夏草の関係者」として。「夏草の関係者」として〈関係〉しつづける「可能性」として。

「反復は、前方にむかって想起する」。だから、

  たてがみを失ってからまた逢おう  小池正博

気絶した人があると、水だ、オードコロンだ、ホフマン滴剤だ、と叫ばれる。しかし、絶望しかけている人があったら、可能性をもってこい、可能性をもってこい、可能性のみが唯一の救いだ、と叫ぶことが必要なのだ。可能性を与えれば、絶望者は、息を吹き返し、彼は生き返るのである。
(キルケゴール『死にいたる病』、同上、p.75)


【註】

〔*1〕 訳者の桝田啓三郎はこのキルケゴールの「関係」を、「動的な関係」における「態度/行為」であるとして次のように注解している。「ここで関係と言われているものは、すでに成り立っている一定の固定的な関係ではない。そうではなくて、相反する、あるいは相矛盾する二つの関係項のあいだに、関係の仕方に応じて違ったふうに成り立つことのできる動的な関係である。つまり、二つの関係項それぞれの重さの違いに従って釣り合いがとれたりとれなかったりしうるわけで、両者のその釣り合いに応じて、できてくる関係が違ってくるわけである。(……)しかもこの関係は、客観的に成立するそれではなく、どこまでも主体的なものと考えられねばならない。つまり、人間の心の状態、というよりもむしろ、「態度」ないし「行為」なのである。」(桝田啓三郎「訳注」『死に至る病』ちくま学芸文庫、1996年、p.265ー6)。たとえば、やはりわたしなりにことばにしてみるならば、カレーかハンバーグか選ぼうとし、選びかねる関係的関係のなかで、ただ一回きりのダイナミックな蠢く関係がもちあがり、そのもちあがった関係に、自身の関係のふるまいを関係として(あきらめつつも・にもかかわらず)〈決めよう〉とするその関係する関係に関係する自己はあらわれる、といえるのではないか。きょうは、カレーに、しよう。

〔*2〕 「結婚するがいい、そうすれば君は後悔するだろう。結婚しないがいい、そうすれば君はやはり後悔するだろう。結婚するか結婚しないか、いずれにしても君は後悔するだろう。君は結婚するかそれとも結婚しないかのどちらかだが、いずれにしても君は後悔するのだ。(……)真の永遠はあれか=これかのあとにあるのではなく、そのまえにある」(キルケゴール、浅井真男訳「あれか、これか 人生のフラグメント」『キルケゴール著作集1』白水社、1995年、p.71ー2)。「真の永遠」は、いつも〈てまえ〉にある。〈あれか=これか〉のその〈てまえ〉に。「ぼくは決して始めないから、ぼくはいつでもやめることができる」とキルケゴールは言う。だから、キルケゴールは、熱烈な恋愛を婚約破棄することで〈てまえ〉に引き戻す。カレーにするか、ハンバーグにするか、わたしを選ぶのか、それともわたしではないあのひとを選ぶか、その「あれか=これか」の「あと」には「永遠」は、ない。「永遠」は、「あれか=これか」の〈てまえ〉に、ある。たとえばその〈てまえ〉に戻ってゆく〈結婚映画〉として岩松了監督の映画『たみおのしあわせ』(2008年)をあげることができるだろう。麻生久美子ことヒトミといままさに「結婚」しようとしているオダギリジョーことたみおの「しあわせ」もおそらく〈てまえ〉にある。映画ラストにはきちんとその〈てまえ〉=「真の永遠」が用意されている。

〔*3〕 「悲劇的英雄はすみやかに準備をととのえ、すみやかに戦い終える。彼は無限の運動をおこない、それからは、普遍的なもののうちに安らっている。それに反して、信仰の騎士はしばしも眠ることがない、なぜかというに、彼は絶えず試練(こころみ)られており、あらゆる瞬間に、後悔して普遍的なものへ逆戻りする可能性があるからである。そしてこの可能性は、真理であるかもしれないと同様に、試誘(まどわし)であるかもしれない。そのどちらであるかの説明を、彼はだれにも求めることができない。それを他人に求めるなら、彼は逆説の外にいることになるからである」(キルケゴール、桝田啓三郎訳「おそれとおののき 弁証法的抒情詩」『キルケゴール著作集5』白水社、1995年、p.129)。婚約を破棄し、「あれか=これか」の〈てまえ〉を選んだキルケゴールは、「普遍」の安らいを得られない場所において「逆説」を生きる「信仰の騎士」としておそらく生きることになるだろう。「逆説」を生きるとは、〈関係する関係〉を収束=集束=終息させることなく〈関係する単独者〉として耐え抜くということであり、「絶望」としての「死に至る病」のまっただなかにおいてもむしろそれを〈関係しようとする関係〉として可視化し、「夏草の関係者」として〈関係〉を生き抜くということでも、ある。刈り、つづけること。かんけい、を。

〔*4〕 キルケゴールはレギーネに婚約指輪を返送するとともに次のような短い別れの手紙を送った。「どっちみち起るにきまっていることを何回もためしたりしないために、このようにします。しかし、このことが起ってしまえば、必要な力が与えられるでしょう。だからそうします。とりわけ、これを書いている者を忘れないで下さい」。夜は別離がかなしくてベッドでめそめそ泣いていたとのキルケゴール自身による述懐もあるが、しかし、かれは、《めそめそ》にもかかわらず、《そう》したのである。「このように/そうします」と二度も〈反復〉しているように、《そう》しなければならなかったから。そう、しました。(キルケゴールの別れの手紙の引用は次に拠った。工藤綏夫『キルケゴール 人と思想19』清水書院、1966年、p.66)

トポスとしての本棚においては常に、隣り合う書物同士の並列・雑然・乱立が、〈関係〉しあう〈関係〉としての〈関係〉をひきおこす。



2014-08-24

柳俳交流発言史 小池正博

柳俳交流発言史

小池正博



1
「川柳は社交的の詩で綜合芸術である。社交なる故に没個性であり、間接感情を尊重するのである」(阪井久良伎)

2
「どこまでが俳句か、俳句の方で決めてくれ。それ以外は全部川柳でもらおう」(川上三太郎)

3
「俳句は五七五定型の詩」(日野草城)→「川柳は五七五定型の詩および非詩」

4
「俳句と川柳との接近は最近顕著なる現象である。境界線はますます不明瞭となりつつある。相互に善意の越境がしばしば行われる」(日野草城)

5
「現代俳句と現代川柳の混淆―これは重大なことである。このことについて、批評家も作家も全然触れようとしない。―これはまた重大なことである。俳句の真の秩序が見失われている証左であろう」(富沢赤黄男)

6
「俳句と川柳は十七音定型という点で同じだから、どうしても辛辣なシンパという立場を取らざるを得ない」(高柳重信)

7
「短歌は歌謡曲になれ、俳句は呪文になれ、川柳は便所の落書きになれ」(寺山修司)

8
「川柳が〈私〉を書き書きはじめたとき詩を獲得した」「川柳に自我が導入されたときに川柳における詩がはじまった」(河野春三)

9
「俳句は発句、川柳は平句」(「この歴史の示すところによって、今、川柳と俳句との相違を考える時、俳句の、俳諧の発句の独立せるものであるのに対し、川柳は前句付に直接するとはいえ、それはひっきょう俳諧の付句の独立せるものに他ならず、両者の特質特性は遡ってこの発句及び平句として各々が過去に持てるそれの中に求めらるべきであり…」(前田雀郎)
10
「俳句における発句性の喪失」(前田雀郎)

11
「川柳は何でもありの五七五」(渡辺隆夫)

12
「川柳が川柳であるところの川柳性」(石田柊馬)

13
「非詩的な、あるいは反詩的な要素をもっているがゆえにそれ(=俳諧)は詩作品としてすぐれているという逆説的な関係がそこにはあるのではないか」(廣末保)

14
(俳句)「諸人旦暮の詩(もろびとあけくれのうた)」(日野草城)
(川柳)「人間陶冶の詩」(麻生路郎)
(連句)「世態人情諷交詩」(東明雅)

15
「川柳とはリリシズムとクリティシズムの統一」(天満宮のお告げ)


【参考文献】
小池正博「柳俳交流史序説」(「MANO」9号)
同「柳俳交流史余談」(「走尾」5号)
同「柳俳交流座談」(「五七五定型」4号)

2014-01-12

【週俳12月の俳句を読む】冬の夜には夏の印象を 小池正博

【週俳12月の俳句を読む】
冬の夜には夏の印象を

小池正博



昨年、句集『仮生』を出した柿本多映の新作10句。
口語作品と文語作品が混じっているが、私は川柳人なので、口語作品の方に反応してしまう。

豚に背広斜塔には枯向日葵  柿本多映

「豚に真珠」という表現がまずあって、ここでは「豚に背広」なのだという。
「枯~」は冬の季語として使われて、「枯蓮」「枯薄」「枯芝」「枯菊」「枯草」など、いくらでも思い浮かぶが、「枯向日葵」というのはあまり聞かない。向日葵は夏のものだが、冬になるまでには切り倒されてしまうのだろう。「豚に背広」「斜塔には枯向日葵」という2セットの取り合わせから、イメージの意図的な落差やずらしが感じられる。

落椿夜は首を持ちあげて  柿本多映

椿は花びらが一枚ずつ落ちるのではなく、花全体が落ちる。切られた首が落ちるのと似ている。ここまでは誰でも思うことである。けれども、この句は更にその先を考えてみせる。落ちた椿は深夜に首を持ち上げているというのだ。「落椿」の後に切れがあるのかも知れないが、首を持ちあげているのは落椿だと受け取れる。
目に見えることがすべてではなく、見えていることの前や後のことを考える。そこに時間が存在する。古川柳に「祐経は椿の花のさかりなり」という句がある。工藤祐経はいま椿の花ざかりだが、次の瞬間には曾我兄弟によって首を落とされてしまうのである。
現代川柳では「キリンでいるキリン閉園時間まで」(久保田紺)という句がある。ふだん見ているキリンは閉園後どんな姿をしているか、私たちは実際に見たことがない。

蛇の目に鏡は眩し過ぎないか  柿本多映

「鏡」の句はいろいろ詠まれていて、鏡に映るものも様々である。
鏡には蛇が映っているのだろうか。それとも、別のものが映っているのだろうか。この句ではそのどちらでもなく、眩し過ぎて何も見えないのであるが、本当は何かが映っているはずなのだ。

怪盗王関の辺りで引き返す  柿本多映

怪盗王とは誰だろう。関とはどの関所だろう。また、なぜ引き返したのだろう。
白河の関などの古典的なイメージを思い浮かべることもできるし、西欧の怪盗を連想することもできて、読者は自由にイメージを代入することができる。それだけ、読みの楽しさがある句だと思う。

霜の夜はでんでん虫を考へる  柿本多映

でんでんむしは夏の季語。霜は冬の季語。
霜の夜に夏のでんでん虫はどうしているだろうと考える。ここでも眼前に見えないものが想像されている。
そういえば、ドストエフスキーに「冬に書いた夏の印象」という文章があった。


「豈」55号の「第二回攝津幸彦記念賞」で準賞を獲得した小津夜景。詞書と俳句のセットを連ねて、散文と俳句を融合する試みだった。
今回の「ほんのささやかな喪失を旅するディスクール」は俳句と詩の融合。融合詩といっても「豈」発表作と異なるのは、俳句→詩→俳句と三つのパートに截然と分かれていること。単独句として読んでもあまり意味はないかも知れないが、前半と後半からそれぞれ一句ずつ取り上げておく。

絵屏風の倒れこみたいほど正気  小津夜景

「正気」というのだから、当然ベースにあるのは「狂気」である。
絵屏風が倒れ込むのはどちらかと言えば狂気に属するだろうが、それを正気と言い張っているのである。

しろながすくじらのようにゆきずりぬ  小津夜景

シロナガスクジラが通り過ぎたら誰でも振り返るだろうな。それを敢えてゆきずりだと言っている。

残念に思ったのは、せっかくスケールの大きな試みなのに、最後の止めの句が「性懲りもなく愛という煮こごりを」という陳腐な表現になっていることである。



第345号 2013年12月1日
石 寒太 アンパンマン家族 10句 ≫読む
高崎義邦 冬 10句 ≫読む

第346号 2013年12月8日
五島高資 シリウス 10句 ≫読む

第347号 2013年12月15日
柿本多映 尿せむ 10句 ≫読む
小津夜景 ほんのささやかな喪失を旅するディスクール 20句 ≫読む

第348号 2013年12月22日
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2007-06-24

「悪」のあと

「悪」のあと

前号「柳×俳 7×7」に登場の仲寒蝉さんと小池正博さんからコメントをいただきました。小池正博「金曜の悪」・仲寒蝉「絢爛の悪」はこちら↓です。
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/06/77_17.html




仲 寒蝉

最初にこの話を頂いた時、「面白い、やってやろうじゃないか!」と思いました。ひとつには俳句と川柳とが共演(競演)するという企画に対して、もうひとつは「悪」という魅力的な題に対して。邑書林から刊行中の『セレクション柳人(以下セレ柳)』は時々開いてインスピレーションを頂いているのですが、早速私と競演してくださる小池正博さんの巻を読み直したりしました。またかつて「国家」というテーマで句をまとめたこともあり、当初は様々な「悪」の形を俳句という詩形で追求してみようとの高い志を以て臨んだのでした。

ところが蓋を開けてみて小池さんの力作を読んだ時、「しまった、あっさり作りすぎたな」と後悔しました。読み比べてみれば分るように小池さんの作品はひとつの有機体としてまとまっています。対するに私のは単なる句の寄せ集め。「悪」という題の素晴しさに惚れ惚れしてつい題詠そのままで句会に出しましたという感じ。セレ柳を読んだ時も小池さんの作品はあるまとまりを持ったシリーズの集合体だと感じました(あっそう言えば他の柳人にもその傾向があったような)。俳句の句集はテーマでまとめるという意識に乏しく、「季節の流れが自然にまとまりを作ってくれるさ」といった楽天的なところがあるように思います。いかん、いつの間にか自分の作品のまとまりのなさを俳句一般に責任転嫁して川柳・俳句比較論にすり替えていましたね。

 熊野へと悪を捜しに蟻がゆく

まずはこの一句で「やられた」と。好きなんです熊野が、蟻の熊野詣が、悪人達が生き生きと立ち回る中世が。これは私が詠みたい位の内容ではないか?

 金曜の悪はきっちり中華風

中国の悪人はスケールが違いますから。殺し方も半端じゃない。何故金曜なのか、謎を投げかけている句には魅力があります。

 影踏みを止めない君を噛みにゆく

島津亮という俳人の句に「怒らぬから青野でしめる友の首」というのがあり、それを思い出しました。この「君」は彼女というより同性、或いは両性具有的な妖しいものを感じます。もっと色々書きたいがこの辺で。

まあ今の私の実力としては精一杯やったとも思います。「ちっとも悪らしくない、そこがまた寒蝉さんだね」と好意的な評価をしてくださる方もいますが私としては是非またこのテーマに挑戦してみたい気がします。競演して下さった小池さん、それからこの機会を与えて下さった信治さんはじめ週刊俳句の皆さん、ここにアクセスして読んで下さった皆さん、本当にありがとう。


小池正博

「悪」というのは魅力的なテーマですね。このテーマから最初に連想したのはオーソン・ウエルズの映画「第三の男」の「ルネサンスの圧制はダ・ヴィンチやミケランジェロを生んだが、スイス五百年の平和が生んだものは…鳩時計だ」という科白です。できれば生きのいい悪を詠んでみたいと思いましたが、結局自分は小市民にすぎないということが分かり、がっかりしました。

以前、他誌で「犯罪学」というテーマで俳句を詠んだことがあります。そのときは、俳人が川柳を、川柳人が俳句をというふうにお互いのジャンルを取替えっこして詠むという企画でした。今回は「悪」の字を全句に詠み込むかどうか少し迷いましたが、テーマが「悪」であればいいかなと拡大解釈しました。

川柳と俳句の違い(いわゆる柳俳異同論)について考えたこともあるのですが、両者を峻別する立場から柳俳一如という立場までさまざまなスタンスがあるようです。俳句・川柳はかくあるべしと決め付けるのも不自由な気がしますので、いまのところ「柳俳交流」という感じで、緩くとらえるのがいいのではないかと思っています。こういう交流の機会を与えていただいて嬉しかったです。


「金曜の悪」×「絢爛の悪」を読む

「金曜の悪」×「絢爛の悪」を読む ……島田牙城×上田信治


※以下の対話は2007年6月22日、BBS(インターネット掲示板)を利用。ログ(書き込み記録)を微調整して記事にまとめました。
小池正博「金曜の悪」・仲寒蝉「絢爛の悪」はこちら↓です。
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/06/77_17.html



信治::今回は、「セレクション柳人」という画期的シリーズの編集者であり、 俳人でもある、島田牙城さんをお迎えしております。牙城さん、こんばんは。

牙城::信治さん、どうもこんばんは。この前の天気×信治対談は面白く読みましたよ。ベクトルの話なんて、今日持ち出したいくらいで、「読まなきゃよかった」と思ってます。
まぁ、寒蝉さんのことなら、なんでも喋りますけれど、よりによって、論客・小池正博の時にぼくを指名するとは、人が悪い。
だって、そうでしょ。爽波の弟子の中でもぼくがもっとも爽波を継いでいるということを、信治さんはご存じないと見える。ぼく、理論下手の読書嫌いなんですよ。その事に関しては、100%爽波の弟子なんです。

信治::爽波さんの弟子なら、座談は、お家芸でしょうw

牙城::爽波の座談てね、一方的に自分の論を肯定するために喋るばっかりで、人の言うことを聞かない。ただ、相当集中するようで、座談をした後は体を壊していましたね。

信治::ところで、今回の、仲寒蝉さんと、小池正博さんの7×7、どういうふうに、読まれましたか。

牙城::いや、すみません。ご質問に答えなきゃね。たとえば、作者名を伏せて〈金曜の悪はきっちり中華風〉の後に、〈五月雨の中に悪所といふところ〉を読んだって、さして違和感はないとおもうのですが、どうですかね。

信治::たしかにその二句は、入れ替え可能だと思います。でも〈影踏みを止めない君を噛みにゆく〉は、ぜったい寒蝉さんやらないですよね。もともと無季ですけど、仮に「影踏み」が春の季語だとしても、「噛みにゆく」という展開はない。

牙城::はい〈噛みにゆく〉は、俳句ではやらないでしょうが、ぼくは、×ではなく+だなとおもいながら、この7×7という競詠を読みたい気がしているのです。由紀子×朝比古にしてもね。すなわち、同じ水を飲んでいるのに、彼岸と此岸で味が違うとは思いたくない。

信治::同じ土俵で、読んだ方が、生産的ということですか?

牙城::「生産」という単語はともかく、俳句も川柳も同じ俳諧の子だということでしょう。異母兄弟でも、異父兄弟でもなく、おなじ父母の子なのですよ。そういう兄弟愛が、ほしいなとつねづね思っています。

信治::なるほど。いや、じつは、自分なりに小池さんの7句を読んで、おもしろいなあと思ってるんですけど、ちゃんと読めているのかどうか、自信がないところもあって。
〈厨房でいためる匂い歎異抄〉〈金曜の悪はきっちり中華風〉の二句は、セットになっていますよね。金曜の夜に、中華料理店に集う悪庶民みたいな人たちがいる景が浮かぶんだけど(歎異抄だから悪人正機の連想が働いて)、この〈きっちり〉って、牙城さん、どう読まれます?

牙城::自信がないって、信治さんは、(よくある例で悪いけれど)ピカソの絵を、評価する批評家の目で読めなければならないとうろうろするタイプなんですか。貴方の目に飛び込んできた俳句だか川柳だかしらないけれど575の日本語をどう感じるかしかないじゃないですか。
まず初めに、俳句への向かい方、川柳への向かい方、に、差を付けないというスタンスを持たなければ、なかなか話は進まないような気がします。

信治::では、話を進めましょう。ジャンルに差をつけているか、いないかというのは、自分では、よく分からないんですよ。
あらためて、牙城さんは、小池さんの7句どう読まれました? ぼくは「熊野」から、ずーっと7句を通じて、イメージとかメタファーの連鎖があるのかな、と思ったのですが。

牙城::一般的な俳句観川柳観から離れてこの7×7を読んだとき、小池さんて、信治さんが「連鎖」と言われましたがすごく意志的ですよね。戦略的と言ってもいいかな。寒蝉さんは一句一句ばらばら。

信治::そうそう。小池さんの7句、〈熊野〉に〈蟻〉(の熊野詣で)で、次に、〈内乱〉で、南北朝から、二・二六へ行って〈処刑場〉。そこから、現代人としての作者にとっての「悪」のモチーフが展開されて。〈悪そうな雲の尻尾をひっぱって〉「悪」とは、手の届く力の夢、みたいな?〈厨房で〉で、庶民群像。でもって、〈金曜の悪はきっちり中華風〉が、やっぱり、面白いんだなあ。この一句は、屹立してるかんじがします。そうか、最後の句〈噛みにゆく〉のは〈蟻〉なのかな。

牙城::あっ、二・二六には気付かなかった。モチーフ詠をしっかりとやっているから、深読みを誘うんだろうね。そして七句の特徴として、作者と主人公とが切れていそうで結局切れていないということが上げられる気がします。いや、小池さんには切る気がないのかもしれませんがね。「蟻」には小池さんが投影されているし、「嫌な」と思っているのも小池さん以外ではありえない。
以前、川柳も俳句も短歌も、作者と主人公がべったりだった歴史がありますよね。川柳がいつからこうなってきたのかは知りませんが、やはり時実新子さんの影響は大きいんじゃないかなぁ。川柳に作品と作者を繋ぐ「意志」が刻み込まれるようになった。

信治::「作者と主人公とが結局切れていない」ということですが、そこが離れることって、だいじなんですか?

牙城::ぼくなんか、俳句の中で他者を遊ばせるけどね。〈悪びれもせず鰻重を二人前〉にしても、食ったのは寒蝉さんじゃないもの。

信治::最近の牙城さんの句が、分かりにくい理由が分かりました。『袖珍抄』のころは、すごく私性が強くて、分かりやすすぎるほどだったのにw
えーと、「社会戯評」みたいなものを拒否するエネルギーとして、川柳に「私性」を持ち込んだ作家がいたことって、よくわかるんですけど。その次のステップがあるということですか?

牙城::川柳は、誤解されてるじゃないですか。いや、誤解じゃなくって、それが表に出ているのだけれど、どうしても、サラリーマン川柳だとか、新聞投稿による時事川柳だとかに、イメージが行きがちですよね。そうじゃない575を模索する人たちがいるということでしょう。模索の途中なので、ステップというか行きつく先はまだまだ見えていないのでしょうが、個々には手応えを掴んでいる作家はかなりおられる。

信治::ぼくは現代川柳といえば、それこそ、小池さんや、樋口さんの、詩性の強い作風を連想します。俳句で、サラリーマン川柳に対応するのは「お~いお茶」とかで。
いや、ま、世間の誤解はいいんですけど、牙城さんは「作者=主人公」というのは、暗黙の了解にはされないんですね。

牙城::世間の誤解ならいいけれど、俳人も誤解しているからね。
で、作者と主人公の話だけれど、ぼくは俳句の鑑賞を書く時にいつも「作者」ではなく「主人公」と、これは相当意志的に使っています。だってぼく、個人的には(この対談、妻も読むもんで)「悪所」へは行きませんが、俳句の中で「悪所」に行こうが、「熊野」へ行こうが、それは勝手じゃないですか。

信治::対照的ですよね。小池さんの句、等身大の存在は、消し去られていますけど「私性」を強くかんじます。意味伝達の不完全さというか、意味の消し方に、その人しかやらない書き方がされている。署名があるというかんじです。
逆に、寒蝉さんの句は、いかにも本人の肉声ふうなんだけど、じつは無名性をもってるというか、詠み人知らずの風情がありますね。

牙城::おっと一気に本質論?  確かに、〈雲の尻尾をひっぱって〉いるのは、まぎれもなく小池さんですね。しかし、〈金魚とふたりきり〉なのは共感できた読者なんだよね。その「共感」の一瞬に寒蝉さんは消え去ってもいいわけです。
そのへんに、前回の天気×信治対談で出てきた「ベクトル」という問題が絡んでくる。

信治::>その「共感」の一瞬に寒蝉さんは消え去ってもいいわけです。あー、おもしろいです。川柳の獲得した「私」は、読者を「あなた」にする。その緊張感が、こういう文体を作るんだな、きっと。
俳句は、そのへん「わしら」に解消しちゃうのかなあ。今回の寒蝉さん、なんか、のんきでしたよねえ。ぜんぜん「悪く」ない。

牙城::だって、小池さんは、ええっとー、1954年生まれ、えー、本当に? 今略歴見て確認しました。70年安保に間に合わなかった人なんだね。いや、団塊だと思っていたもので……(気持ちを取り戻して言うけれど)でも一二年間に合わなかっただけで、善悪という正否を二分する基準を持っておられる世代なんですよ。
寒蝉さんは三無主義世代ですから、善悪を二分しない。

信治::寒蝉さんは、世代のせいかは分かりませんが、いかにも題詠っぽいw 
「悪」という言葉を、季題と寝かせてみたり、横に置いてみたりして、景色を作って遊んでるかんじです。
あ、そうだ、俳句で、作者の一人称を強く意識して、読んだり書いたりするようになったのって、人間探求派の流れですか? 短詩が、遊戯性を捨象して、文学性にキャッチアップしようとするとき、私性が強調されるというイメージがありまして。それって、俳句の場合、題詠的なものの否定だったのかな、と、ふと思ったのですが。

牙城::一人称には一茶以来の伝統もあると思いますよ。
ただ、写生→自然主義という、明治から大正のブンガクの大道は、関係あるでしょうね。「題詠的なものの否定」というのは正にその通りで、子規の時代は、俳句は題詠、フィクションですからね。

信治::あ、一茶。なるほど。なんか、小池さんの句を読む手がかりを、もらった気がします。すこし、句に触れていただいて、そろそろお開きかな、と思うのですが、牙城さん、それぞれの7句から、選ばれるとしたら、どの句ですか。
ぼくは、小池さんの〈金曜の悪はきっちり中華風〉寒蝉さんの〈悪びれもせず鰻重を二人前〉をいただきます。べつに一句ずつじゃなくてもいいんですけど。

牙城::え、もうお開きなの? 川柳の三要素って、知ってる? 俳句の三要素は、季語・定型・切字だよね。

信治::じゃ、もっとやりましょう。ちょっとビール持ってきますw
三要素、知らないです。なんだろ、

牙城::そこに大きな川柳vs俳句の要因がある。

信治::うーん。定型・批評・了解性? ちがうな。

牙城::あっはっは。うがち・かろみ・こっけいです。俳句の三要素と比べてみると、作者の作る姿勢が見えてきませんか。俳人は型を決めてもらっているのです。それに比べて……
ただし、今の川柳作家は、この三要素から距離を置こうという位置にいる人が多いようですが、だからこそ強く意識はされている。

信治::ははあ。つまり、川柳は型ではなく、内容、ということですか。俳句の場合、内容と型は、よくて50:50くらいかもしれないですね。

牙城::そう、俳句は要素として型を決められている。それに比べて、川柳は詠む内容を決められているのです。今、この、川柳に求められてきた「内容」から脱却しようではないか、川柳をもっと自由に、という動きがあるのだと思っています。
それが最近の「詩性川柳」の大きな流れなのだと思いますし、小池さんの七句の、大局から見た流れなのだと思います。小池さんの句、うがちは読む人によって感じ方が違うかもしれませんが、かろみもこっけいも薄いですもんね。

信治::いや、小池さんの句も、一茶と思って読むと〈内乱の蹄がうたう嫌な唄〉〈処刑場みんなにこにこしているね〉この二句には、苦笑いのようなものを、感じます。「人間、みんな悪くって、しかたねーなー」みたいなw
重い内容ですけど、どっか「言い流す」軽さみたいなものが、生じてくるんじゃないでしょうか。だって、だいじなことを五七五で言うのって、それだけで、ちょっと「こっけい」なことですよね。

牙城::はい、〈処刑場みんなにこにこしているね〉が、ぼくは今回の小池さんの句でいちばん好きです。すうっと、読者側が持っている「滑稽」にふれてくれる。

信治::>すうっと、読者側が持っている「滑稽」にふれてくれる。門外漢として言うのですけれど、現代川柳にとっての共感性って、おもしろいテーマかもしれませんね。俳句は、共感性は、前提としてあるから(そのわりに、みんな分かんない、分かんない、言い過ぎだけど)。
いま、ちょうど、寒蝉さんからメールをいただいて、
>やっぱり俳句って(私がか?)糞真面目なんだなあと思いました。もっと遊ばなければ。
だそうです(寒蝉さんには、あとで、掲載許可いただきます)。でも、寒蝉さんご本人は、まじめだけど、句は、別にまじめじゃないですよね。川柳のほうが、基本、まじめに見えるのは、逆説的ですね。

牙城::川柳のほうが、ずいぶん真面目です。川柳は前衛を経験していないんだよね。それが大きく影響している。たとえば、目の前の高柳重信が編んだ『昭和俳句選集』をぱっと開くと、
  現在を葡萄が青く垂れさがる
なんていう句に簡単に出会えるわけです。現代川柳は今、この真面目な芸術性みたいなところに、おられるのかなと感じています。そこから、現代のうがち・現代のかろみ・現代のこっけいへの道筋作りを、これまた真面目に考えておられる。

信治::前衛を経験していないと、真面目、という把握おもしろいです。いや、なんかね「現俳協若手」と、ひっくるめて言ったら失礼ですけど、たとえば田島健一さんや、小野裕三さんの句が、まじめくさってないこと、私性を感じないことって、おもしろいことだと思うんですよ。
あ、ちょっと、柳×俳から、それました。寒蝉さんの7句いかがでした?

牙城::寒蝉さんの七句、これは余り新味が出なかったなと思っています。言ってしまうと、彼の悪い部分が出たということです。この程度の句なら、彼はいつでも作るでしょう。一句褒めたい句もありますが……

信治::悪い部分と言いますと。さしつかえなければ。

牙城::彼のキャッチコピーを作るとき、僕はいつも「ヒューマン」な部分を謳いますが、そこを脱却しなくては、一皮剥けた俳人にはなれんでしょう。

信治::ははあ。いい人すぎますよね、寒蝉さんは。いや、寒蝉さんは、まず現代人としての私があって、俳句があるという作者で、今回も、いわゆる俳句的感受性に収まらないところを、見せていただいたように思います。〈絢爛の悪をちりばめ青蜥蜴〉とか、どうですか。けっこう好きなんですけど。

牙城::だって、予定調和じゃない。

信治::たしかに「蜥蜴」ときたらね。うーん。じゃ、牙城さん、一句とるなら、どれですか。

牙城::寒蝉さんでは、〈悪育つことの〉でしょう。切れの問題です。

信治::〈悪育つことのたやすき梅雨茸〉。「育つ」と「梅雨茸」を、近すぎに感じてしまうのって、俳句っぽすぎる読みでしょうか。

牙城:: 「育つ」と「梅雨茸」は離して読むけどなぁ。間に切れもあるんだし。
ぼくは「たやすき」の「き」の後に来る静かな一秒が好きなんですよ。

信治::ああ、それは、たしかに美しいかもしれません。ちょっとジーンときました。
あ、でも、それ完全に、俳句固有の読みですからね。白紙じゃ、読めません。その読みは、洗練されつくしてます。

牙城::そうなんだろうか。日本語が自然に要請している読みだと僕は思います。川柳を読むときにもこの「間」は大切にしたいと思っています。
ということで、今日は有難う。川柳人から文句がくれば、ぼくに回して下さい。

信治::いえ、そんな。ありがとうございました。



2007-06-17

7×7 小池正博×仲寒蝉


小池正博 
金曜の悪     


熊 野 へ と 悪 を 捜 し に 蟻 が ゆ く

内 乱 の 蹄 が う た う 嫌 な 唄

処 刑 場 み ん な に こ に こ し て い る ね

悪 そ う な 雲 の 尻 尾 を ひ っ ぱ っ て

厨 房 で い た め る 匂 い 歎 異 抄

金 曜 の 悪 は き っ ち り 中 華 風

影 踏 み を 止 め な い 君 を 噛 み に ゆ く






仲 寒蝉 絢爛の悪       


悪 び れ も せ ず 鰻 重 を 二 人 前

悪 書 い ま 稀 覯 本 と て 曝 さ る る

悪 筆 の 看 板 か か げ 海 の 家

最 悪 の 午 後 を 金 魚 と ふ た り き り

悪 育 つ こ と の た や す き 梅 雨 茸

五 月 雨 の 中 に 悪 所 と い ふ と こ ろ

絢 爛 の 悪 を ち り ば め 青 蜥 蜴





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