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2016-11-13

2016「角川俳句賞」落選展(第5室) 18.堀下 翔 19.前北かおる  20.宮城正勝  21.吉井 潤  22.Y音絵 23.北川美美

2016「角川俳句賞」落選展■第5室


18.堀下 翔 




19.前北かおる


  

20.宮城正勝 




21.吉井 潤 




22.Y音絵




23.北川美美
(2016/11/24 01:30追加)
18. 波の飛ぶ 堀下 翔

春の雲花入れし炉のつめたさに
宿出でて春の入江の横しぐれ
玄関に電話老いたり紫木蓮
大き花涅槃の海へ流れけり
浦みちに旅長じをる雪解かな
あかるみに椿の浮かぶ盥あり
夕東風や壺中に湧ける鯉の息
浜へ出て春の墓参の暑さかな
こぼれたる杏の花に影つのる
鱒二匹入れきしきしと魚籠鳴れり
花つけて樫の木の暮れ残らざる
本堂の闇漏れいづる桃の花
藤の花ひとすぢに吹き上げられし
葉まじりの桜へ波の飛びにけり
鮎季の峠に雲の浮き古りぬ
流さるる牡丹を音と聞きしのみ
桜木にうち捨ててある蛇の衣
冷えながら届く日差やあやめぐさ
蟻の穴川瀬に細りゐたりけり
夏菊をはなれぬ影が花桶に
涼しさや聞けば疎としてお念仏
橋かけて川のしたしさ夏の雨
蜘蛛の糸一本や灰びつしりと
あをあをと梯子透けたる竹簾
水遊するとき呼んで呉れしかな
夏桔梗兆すなりける水の音
平日は本を開かず白木槿
牽牛花開けば白きばかりなる
声しげく露の御寺をあゆみきし
萩焼けばあらはに炎かをりゐる
しじまなる糸瓜の水を取りにけり
日晒しにほとけを運ぶ通草かな
樅の木や月のまはりに夜の痩せて
水甕に喉元うつる榠樝の実
川すぢに吉備訪ひて秋みじかしよ
水くらくあをぞらうつす松ぼくり
この雲を峰とおもひし柿もみぢ
みづぐるま八手の花を流したる
楚々として日輪没す枯葎
はつ冬やいづみに出づる楓の根
くづれたる波より蜜柑あらはれし
山茶花に手をたまひあふ日暮かな
見えてゐるものの暗みに実千両
寒雁のうち出でたるは音たてて
茶の花へまなざし遠くしてをらる
雨がちにゆふべの来る蕪汁
手にしたる笹より雪の落ちにけり
ひとむらの山藤の葉の氷りゐぬ
雪うすく載せおしうつる瀬なりけり
来る舟に夜の先んずる霰かな



19 .応援歌 前北かおる

応援歌いまフィールドに水撒かれ
見せつけよ我らの起こす青嵐
円陣の笑ひ崩るる若葉かな
ゴールまで飛魚逃がすやうにして
サングラス小さくガッツポーズかな
新緑や短く鳴らすホイッスル
姫女菀試合に負けて帰るなり
えごの花テニス横目に入りつつ
昼顔や女連れなる草野球
刈り払ひ野にひと本のあやめ草
主なくて死ぬるものあり蜘蛛の網
葭切やベンチのやうな橋ありて
橋涼み産卵のさまつぶさに見
凪解けの風音澄むや青芒
篁に表門あり花紫蘭
夕涼や子を抱く同士庭先に
塀に抜く四ツ割菱や今年竹
茶畑や八高線の夕焼けて
踏切の真中西日を振り仰ぐ
夕陰に虞美人草の白さがす
月見草車道のほかは舗装せず
日輪のマーガレットに没さむと
身の内に試合の余韻髪洗ふ
青蔦や一階深く窪みをり
雲の峰乗り上げて家こぼつなる
豌豆を引くや園長園児どち
針金に丸太ン棒やポピー咲く
ガム嚙んでマーガレットの花に佇つ
じやがいもの花新築の壁汚し
柿若葉鞣したてなる艶をもて
みどり子を片手に抱へ夏来る
甲冑を鎧うて鴉若楓
軽暖のたつたか跳ぬるピアノかな
牡丹や一間づつの庭の畝
忍冬新道通さする気なく
冷やしうどん土間に履きもの散らかして
若楓石垣めかす護岸かな
万緑や丸裸なる鉄の橋
蘆原に固太りなる夏柳
黄菖蒲や干上がりて泥新しき
毛虫這ふむんごむんごと尺取りて
緑陰に絵本の家や扉をひらき
花浅沙水に倒るるまで吹かれ
ほたほたとものの絮浮く目高かな
店閉めて薔薇にかしづき奉る
裏庭の薔薇の溢るる小川かな
日焼して小さきピアス光らせて
タクシーもバスも大人し夏木立
田植どき水の緑の深まれば
乗り継ぎて茅花流しの野をさらに



20. 西日のできごと 宮城正勝

慶良間沖のたうつ孤独はたた神
漬茄子や今は昔の今朝のこと
夏燕やせ細りたる川しか知らず
押し黙り麦茶置く妻舌禍以後
梅雨寒や後期高齢という異界
終わりあるは慰め蝸牛も人間も
西日浴ぶ千年一日のとある日
息するも貧乏ゆすりも五月闇
見分けしは誰ならん茸と毒茸
県道の落石注意椎の花
砂利の道ここらで夕焼と別れんか
かぐや姫眠る夕焼けの乳母車
街中の陰を浚いて日の盛り
聖書はも文語がよろし籐寝椅子
緑陰に余生という語嘘くさし
蟷螂がどうしてここに夜のキッチン
いのち果て夏大根のごとくかな
人逝きて日盛りに靴あふれけり
酒瓶が西日に転がり逝きしとか
水を欲る汗をかかざる老いの腕
片陰を歩いてほととぎす学会へ
海上の道なつかしき浜防風
夕焼けを背の軒遊び亡びけり
鱧食うて後期高齢の志を果たす
梅雨寒や喪服連れ立ち朝の路地
夕焼けは切なし笛吹童子よぎる
手土産にメロンを買うも不戦の志
眼にて追う蟻の生老病死かな
惚けざるも不幸のひとつ百日紅
死はしつこしひとりのときの蜘蛛の糸
老いたれば海月となりぬアーケード
木のベンチに一息つきて夏送る
路地をゆく如才のなき一茶の忌
待たれたるたる死なり供花は夏の花
死者生者分かち麦茶置かれあり
棺はもいつも新し百日紅
夏菊に埋まりし死顔よく生きた
前のめりのひと日夏シャツ半乾き
誰も魚籠を覗くや西日の決まりこと
手酌の夜余震本震蚊を殺す
とある日の無為のただなか土用波
六月や生き残りしは佇めり
蜘蛛の網駐車禁止の更地かな
しじまあり灼くるつとめの石の上
これを食みしは今朝か昨日か干鱈食む
夕焼けや帰りなんいざサラリーマンへ
禁煙のただだだっ広き西日かな
夕焼けや海辺なれども心急き
みな背き冷酒ぬるくなるままに
自然死が近道ならん百日紅



21. 内海 吉井 潤

花時や七宝焼の耳飾り
花の雨大極殿の高御座
仄甘きビオフェルミンや春の水
春一番逆子くるりと宙返り
アルマイト弁当箱や風光る
差入の厚焼き卵弥生尽
裏店に光呼び込む藤の花
薬缶噴き始む草餅有難う
菜の花や末広がりの河川敷
歩毎に芦の角踏む木橋かな
春の海金平糖の波頭
水底は誰もが蒼き桜鯛
初夏の原稿用紙水浅葱
卯の花の中に廃家の柱かな
あぢさゐは水の気配のセルロイド
針箱の中の骨片五月闇
雨蛙背を撫でやれば眼とづ
驟雨来る股上辺りまで濡れぬ
哨舎にも虹の一色雨上がり
腹這ひて端居の人と笑ひけり
昨日よりけふを輪切りに夏来る
じゃんけんで負けて蝉食ふ黒ん坊
噴水は淡海に水を足しにけり
土用波ロールケーキに巻き始
みづうみを挟みて淡し遠花火
地拍子がほころび弛む残暑かな
蜩の崇福廃寺谷の奥
遠近にほこる溝萩隠れ里
方言「はびこる」
磐座を乱打する音野分かな
大花野布施をふるまふ伊吹山
町筋を抜くる秋燕店じまひ
こほろぎや寄木細工のオルゴール
月見亭へと蠟燭の道標
曳山の手拭貰ふ秋祭
白鳳の伽藍失ひ秋麗
騒めきが芦火を待つや闇の中
痩する牛秋耕終り返しけり
冬めくや袷の裾にしつけ糸
内海のどちらも故郷冬麗
密柑山西行庵を腹に乗す
焼き鳥のたれでくつつく丸い椅子
拳骨を突き上げ吼ゆる焚火歌
初飛行訓練場に降り然らぬ
地吹雪に電信柱鳴り止まず
黎明の水道橋や凍つる朝
寒釣の狂喜胸まで漬かりけり
河原の湯裸の横に薄氷
下萌や地下より響くサキソフォン
春寒し人事ひとごとなどと言ふ
逢坂や堰堤の花見ざるまま



22. 渦巻 Y音絵

空洞のやうな朝なり揚雲雀
松の幹を蹴つて雀や春嵐
吐きさうな朝を囀るばかりなる
糊白く厚く乾びぬ春休
しやぼん玉高速道路見えてをり
霾や働いてゐる救急車
花時の両目を入れて顕微鏡
ピンセット沈め消毒液朧
カーテンを見る酢もづくに箸つけて
朝寝ほどほどに躑躅を見に行く日
動物病院前の柳よ久々に
クレープワゴン 遠くに密に棚の藤
ごみ箱や茫と暮せば夏が来て
鯉幟ちやうどよく日の差し来たる
別々の葉や葉桜は葉を増して
明易の肘のひりひりしてゐたる
手鏡に前歯映りぬ麦の秋
梅雨晴や鋏開くに要る力
虹の近くに阿佐ヶ谷といふ駅が
ともだちのへんなをどりや夏薊
ぬばたまのジュース注ぎけり網戸して
テレビつけつぱなし真夏の動く月
噴水の止んでゐる間の嗅覚よ
薄く盛り上がる背中が空蝉に
したくちびるや夏の終りの貯水池の
親友はどの蜩を聞いてゐる
朝顔も褪せ初めにけり撮影す
かはいくてかたい箸置オクラの旬
サルビアもこどものこゑも疲れたる
稲妻や廊下てふ角ばつた管
どの色のグミも硬くて雨月なり
ふらふらする秋分の日の自室かな
虫の夜のアルコール綿汚しけり
涼しさよ海鮮丼の安き日の
花野ありはつきりと傾いてゐる
朝寒やはちみつといふむすびつき
水際に騒いでゐたり紅葉狩
林檎焼く間を鍵盤の浮き沈み
しぐるるや監視カメラを君は指し
雨粒は手袋に落ちバスが来る
牡蠣呑めばその流速を思ひけり
オリオン座歯の裏を言葉がまはる
白息や砂場に豹のゐてほしき
だるさうに君は笑むなり綿虫へ
枯蔦やおそく歩けば靴の照る
渦巻を描けば落ちつく霜夜なり
初夢のこと砂浜にすこし話す
雪の夜の君すこやかに勉強す
探梅の途中眠たき椅子ありぬ
からつぽの漁村のやうに日脚伸ぶ




23. 不在 北川美美

手は水を掬ひにゆきぬ麦の秋
しづかなるじやがいもの花日傾く
カーテンの襞のふくらむ青葉風
香水に紙縒りの先のひらきゆく
白日傘脚美しく迫りくる
開ききる薔薇の花びら崩さうか
欄干がくるぶし高や旱草
十八で離れし家に月夜かな
山の上より遠花火遠花火
子規の忌の紐引いて消す蛍光灯
ゆふべと同じ秋茜かもしれぬ
横たはる抗議の人や天の川
第三京浜より月離れゆく
旅客機の窓ごとに顔秋の暮
すでにある脚立と籠や林檎の木
馬の尾のほど美しき秋の風
寝返りを打つたび月の遠くなり
歯に当つる林檎や北の空低し
揺れ撓る大根の葉が荷台より
凩や狼祀る木の家に
東京に古きホテルや日記果つ
元日の門を開ければ前に犬
土塊は土塊を積み寒鴉
廃屋の氷柱を見せて信濃かな
アイゼンをつけるに作法ありにけり
雪掻きを了へたる軍手なのだらう
セーターを出て人の名を思ひ出す
雪原に人のかたちの窪みあり
鉛筆は兄の匂ひや春遅々と
春の水弾みて玉にならんとす
梅一輪つめたくなりし塩むすび
菜の花の暮れて人来る空地かな
口にせし芽吹くものみな土の味
永き日のコールタールを運びけり
きのふよりふくらむさくら遊ぶ鳥も
走ることすなはち桜吹雪かな
会議室仄暗くして桜見る
夜桜に背中を向けて座る席
花の雨あまたの円を描きけり
五月来て神様を描く七つの子
青杉にわれ隠れてや誰もゐず
茄子の花に黒き管ある夕かな
夜店にて星を忘れてをりにけり
Tシャツのかがめば伸びる背中かな
石段の先に湯殿や夏鶯
かち割りを頭叩いて食べにけり
昨日の蝿が部屋から出てゆかぬ
おのづから閉まる引戸や夏館
ハンカチの正方形となりしとき
夏の月うしろ歩きのさやうなら

2016-04-10

落選展2015を読む〔2〕 大塚凱×堀下翔

落選展2015を読む〔2

大塚凱×堀下翔




»承前

●杉原祐之「日乗」

大塚:
畦塗の準備のままの猫車
遠足の子の聖堂に静まれる
明らかに人手不足の神輿来る
リビングの隅の聖樹の消し忘れ
などに印をつけています。文体が優しい印象でした。それだけに、順当な句に感じられてしまう部分もあります。〈夕立の気配に露店畳みだす〉〈報知器の響き渡れる厄日かな〉〈廃校の窓に小鳥の来ては去り〉など、正直に言ってしまうと面白いとは思えなかった。類想や季語のイメージに接近しすぎているということだと思います。
でも、冒頭に掲げた4句のようなおおらかな捉え方が魅力です。良い句には裏切りがある。それぞれ「準備のまま」、「遠足が静まる」、「人手不足」、「消し忘れ」というところにハッとさせられます。

堀下:
遊船や屋根を開きて橋潜る
明らかに人手不足の神輿来る
天の川濃くなり冷えて来りけり
土管より頭を出せば秋高し
あたりを取っています。突飛なことを言おうとしないで、目に見えるものを大切に書いていこうとする志向が充実した50句だと思います。読んでいると名詞の多いことに気が付きました。名詞が多い、ということはともすれば手抜きである場合も多いと僕は思います。とりあえず言葉を繋いで、それから季語を取り合わせて、みたいな。でも杉原さんの場合は、名詞が描写のために尽くされている。〈遊船や屋根を開きて橋潜る〉を見ると分かりやすいんですが、これは「遊船」というものを写生するために「屋根」とか「橋」とかの名詞が費やされる。念入りな描写って個性が出るんです。用言的に把握するのか、体言的に把握するのか、付属語的に把握するのか。杉原さんの句は体言的な把握が文体としてしっかり確立されている。凱君は「順当」な句が多いという印象を持ったようですが、それもこのあたりから来ている筈です。目に見えるモノをひたすら挙げていく、というのが杉原さんの書き方ですから。〈空港の管理用地の薄かな〉とか、取ってませんけど、根性を感じます。

大塚:
結局は語りたい10作品のうちにこの作品を選びましたが、それはその確立した文体に惹かれたのだと思います。ただ、50句作品は、書き手がいかに読者を飽きさせないかという腕の見せ所でもありますよね。執拗な写生はそれはそれで惹かれるのですが、やっぱり50句となるとワンダーというか、ハッとさせられる前掲のような作品がもっとあると、よりドキドキします。堀下くんの「体言的」という指摘は頷けました。

後半に〈演習の土嚢の積まれ枯野原〉から〈キャタピラの轍の残り厚氷〉まで、急に戦争俳句みたいになっているのは意図があるのでしょうか。句の善し悪しは別として、そこまで続いてきた流れがぶっ飛んでしまって残念でした。

堀下:
戦争俳句というか、自衛隊のイベントか何かに行ったんじゃないですかね。展示を見ながら書いた一種の吟行句かなと思いました。一般論としては、全部の句ではなくて一部分が連作ふうになっているという纏め方は特段気になりません。とはいえこの句はたしかに流れが全然違ってきてしまっていますね。視点が変わっていますから。

大塚:
ここらへんの連作としての感覚は人それぞれでしょうか。一部分が連作になっているからダメだ、なんて横暴は考えていませんけれど、これは50句のテーマ性というか、ゆるやかに連鎖する作品性が結構ブレてしまったんじゃないかという気がしたのです。結局は程度問題かとは思いますが。



●折勝家鴨「塔」

大塚:
冬銀河子が減り子守唄が減り
寒柝の耳にイヤホンありにけり
風ひとをさびしくさせるパセリかな
日盛や鳩を散らして人を待つ
虫の夜や遅れて消ゆる車内灯
どこかシニカルな雰囲気の漂う作品でした。〈冬銀河子が減り子守唄が減り〉といった捉え方、〈日盛や鳩を散らして人を待つ〉といった心の動きに惹かれます。他にも、季語の配し方が面白いと思います。掲句では、「寒柝」「パセリ」でうまく裏切られた感じ。その一方で、上五が「○○○○や」の句が多いなと。そこらへんは単調に感じます。

堀下:
冬銀河子が減り子守唄が減り
臘梅や水を掃きたる竹箒
声出して心戻しぬ草の花
などが好きです。完成された取り合わせの句が並んでいて、これはいいなと思いました。「鷹」が培った型の強みを感じました。季語のつけ口で句のイメージがぽーんと変わってゆく面白さ。簡潔だけど緻密な12音を書く作業、そこに新しいイメージを関わらせてゆく作業、その根気の50句だと思います。

こういう書き方をする場合、意味の切り取り方に新しさが必要だと思いますが、たとえば
理科室の棚に鍵あり梅の花
空席に木の影ありし五月かな
少年の夏自転車を分解す
あたりの句はどうでしょう、この「理科室-鍵」「空席-木の影-五月」「少年-夏-分解」といった組み合わせから喚起されるイメージは、もう読者の方でも共有ずみではないかと思います。「少年-夏」という組み合わせが陳腐なのは言うまでもありませんが、そこに加わる「分解」というイメージもまた、実は今となっては「少年」に内包されてしまっている部分なのではないかなと。この種の平凡な展開をしている句がいくつか見られたのが気になりました。

大塚:
作者の意識としては、「理科室」に「梅の花」を取り合わせることに面白さを志向したのではないかと思います。二句目は「空席」、三句目は「分解」という言葉のワンポイントで勝負したかったのではないでしょうか。それがあまり意外性の方向へ弾んで行かなかった、と。だからといって大きなキズでもないですし。フレーズに季語をぶつけるという「型」は強みでもありますし、一方でみんな読みなれている方法論ですから、高い完成度でいかに固定化されたイメージを裏切りつつけるかという根気勝負になっていくと思います。

この方法論は文体の自由度がどうしても低くなりがちです。取り合わせにおける文体をいかに更新していくか、僕も耕していきたい余地だと考えています。

堀下:
そうなんです。文体の不自由さがネックなんです。助詞や助動詞でくふうしたり、あるいは律を崩したり、取り合わせ文体の更新はやっていかないといけない。一方でこの50句の場合は、そういう革新を目論んでいるのではなくて、すでに確立した型の中で完成度を高めていこうとしている。細部の強度が必要な書き方です。たしかに「梅の花」「空席」「分解」あたりの語には瞬発力が感じられもするのですが、それ以外の部分がひどく無防備だと思いました。



●高梨章「明るい部屋」

大塚:
炎天やみるみる泣くぞ泣くぞ泣く
目刺くふ子もくはぬ子もきて坐る
空き箱をかかへて春の微熱かな
雨の日を昼寝してゐる漂流記
三月は木陰のやうに来てゐたり
文体・発想がのびのびしていてとても面白かったです。手を変え品を変え楽しませてくれている印象でした。その一方で、季節が行ったり来たりするのには疲れます。秋の句が極端に少なかったり、一句目の「炎天」から「春の月」に季節が戻るところでまず読みづらくなってしまう。50句作品のテーマ性にまで踏み込むとさらに良い作品になっていくと思いました。母の句が著しく多いですが、あまり他の句と有機的には絡んでいない気がします。

堀下:
空き箱をかかへて春の微熱かな
ずるいなあと母のつぶやく春の山
雨の日を昼寝してゐる漂流記
三月は木蔭のやうに来てゐたり
俳句らしい型を意識しない文体。毎年気になっている方です。平易な語彙の選択、ひらがなの多用、ずらしたり繋げたりする技術、いろんな要素が調和をとって、この流線的な印象を達成しています。発想としては飛躍の大きいものもありますが、それらを生のままぶつけるのではなく、冗語をさしはさんだり、時には過度に口語的に言ったりして、ゆるやかに結びつけていこうとする。言葉の密度は低いながらもイメージの結びつき方が緊密な句にいい句があると思います。ただ極端に字余り・句またがりが多いですね。その曖昧なリズムに価値を見出しているのか分かりませんが、もう少し定型感があると、より文体の自由度が際立つと思います。文体の自由度と律の自由度は別問題ですから。

大塚:
やはり、律の良し悪しも読後の疲労度に関わってきますよね。個人的には字余りや句またがりは好きなのであまり嫌な印象はありませんでしたが、堀下くんがそう言うのも納得はします。詩のことばはつまり暗喩に還元されると言えますが、この作者も取り合わせにおける文体をいかに個性的に、いかに書き手の味方につけるかという部分で勝負している。そうしていると、読んでいて疲れるような、律の問題が生まれてくるという側面もあるのかもしれません。この方法で作品がどこへいけるのか見てみたい。一句における韻律と意味が噛み合った時のパワー、その可能性を感じます。



●ハードエッジ「ブルータス」

堀下:
白梅のかたき莟の香なりけり
大学も大学院も春休
十薬やひと雨にふる雨の粒
遠ざかる一つの時代天の川
平明な読みぶりが気持ちよいです。この方も毎年気になっている作者です。
池に雨松の手入も済みたるよ 2014
運動会その翌日が土砂降りで 2013
と、これは過去の「落選展」の句ですが、どうでしょう、僕、好きなんです。口当たりのよさと言いますか、すらすらと口をついて出てきたような感じがあります。去年の落選展のときにも書いた気がしますが、はじめからこの形だったんだろうな、という素直さを感じます。〈白梅のかたき莟の香なりけり〉〈十薬やひと雨にふる雨の粒〉のような素朴な写生句を50句揃えたらかなり読みごたえが出てきそうな。一句目、「かたき莟の香」がいいですね。硬さと匂いなんてほんとうは順接で関係づくものじゃないのに、でも、あのあおくさい莟の匂いはたしかに「かたき」の感じがあります。二句目は実はどういうことを言おうとしているのか模糊としている、でも、ざあっと降った雨の一粒がありありと目に入ってきます。雨粒を描写するために雨降りを持ちだす、という単純だけど念入りな書き方。

大塚:
正直、採った句はそれほど多くない作品でした。理屈っぽさがどうしても拭えなかったから、当初は平明という印象ではありませんでした。ただ、読んでいくうちにそのなかに堀下くんの言うような面白い作品があったので頂いたという次第です。

堀下:
理屈っぽさというと、
新聞も三月三日ひなまつり
ものを煮ることなき水が噴水に
「盆踊雨天中止」が雨に濡れ
あるモチーフの意味性を取り出して、その意味から少しずらしたモチーフをもう一つ横に置く、という作り方。意味のリフレインとでも言いましょうか。でも、いや、それは面白くない。

大塚:
そうですね。〈空蝉と例へば空の段ボール〉とか、「そこで空って言う!?」って思いました。因果を感じたくないな、と思いながら俳句を読みますが、発想につながりが見えるともう因果に引きずられてしまって言葉が理知的な理解で留まってしまうような感覚です。自然の大きさと時間感覚というテーマ性においては先行句は無いとは言えませんが、〈枯野行く少し狂ひし腕時計〉なんかには因果関係がなくて好感を持ちました。それから、〈蟻の巣に入らぬものを壊しをる〉〈大根も抜きたる穴も濡れてをる〉にも素直な詠みぶりの良さを感じます。変に発想を飛ばしたり空想っぽいのものを詠んだりすると、やっぱり理知的な作り方になってしまっていると思います。

堀下:
いわゆる写生句のように見えている素朴な句も、じつは理知的に作り上げられたものなのかもしれません(だったらダメだということではないですよ、為念)。というのも、さいきん素十の句を読みなおしているのですが、写生の神様と思われているこの人の句の一部が、妙に構成的な印象を発していることに気づいたのです。
柊の花一本の香かな 高野素十『初鴉』
という句、これ、いいですよね。花の香りがする、というただそれだけのことを言った句です。素十の作品世界のつつましさ、すなわち、俳句はこれだけでいいんだ、という倫理が感ぜられます。花の香りがする、という以上のことは言わなくてもいいんです。だから柊の花なんていう長ったらしい季語にずいぶん音数を取られてしまったあとも、まだ余白がある。何も言わなくていいのだけど、十七音には足りませんから何か言わなくてはいけない。そういうときに素十は「一本」ということを書くんです。こんなこと言わなくていいじゃないですか。「柊」と書かれた時点でわれわれに「一本」は見えています。だから「一本」と言い足したところで情報量は増えません。とはいえ素十の眼の前の柊の木はたしかに「一本」ですから素十はそれを写生しているわけです。捉える対象を絞った結果、却ってヘンなものが取り沙汰されている。客観写生の威力とはつまりこういうことでしょう。

でも、この句、読みようによってはたいへん構成性に富んだ句です。小さな花があって、それをつけた木があって、その木のまわりが匂っているという、三段構えの図式がある。

彼の代表句、
くもの糸一すぢよぎる百合の前 高野素十『初鴉』
における「前」というのもそうなのですが、平明な句、強烈な美意識を盛り込まない句を書こうとすると、位置関係を把握するという方向にしばしばなるんです。となると、いま「関係」という言葉が出てきましたとおり、理屈抜きで書いた筈が、変に理屈っぽく読めてしまう、ということが起こります。重要なのは逆も然りだということです。われわれは一見写生句のような句を理屈で書くことができる。ハードエッジさんの〈白梅のかたき莟の香なりけり〉〈十薬やひと雨にふる雨の粒〉、これ僕大好きなんですが、もしかするとこれらは「かたき-莟-香」「雨-雨粒」の関係性によって書かれた理屈の句かもしれない、とそんなことを思いました。



●堀下翔「鯉の息」

大塚:
また中へ戻るはちすのうへの蠅
林が疎まつすぐ行けば水芭蕉
日時計の石痩せにけり秋燕
蟻穴を出てすぐ横にちがふ穴
深秋やさうかと思ふ竹林
好きな句がいろいろとありました。やはりなんといっても文体が確立している強さです。〈また中へ〉〈蟻穴を出て〉の句は第6回石田波郷新人賞受賞作にある〈茎を蟻登り来てまた引き返す〉などに通ずるある種のゆるい馬鹿馬鹿しさ、だけれど対象を執拗に眺めているという目線。あるいは、〈林が疎〉というフレーズに代表される表現の密度。その両者、つまり対象への目線の密度と表現の密度が中心にあります。堀下くんの堀下くんたる表現は、その助詞の用い方でしょう。〈をさなくて春暮れゆくに遅れをる〉〈こひいつもその日のことの燕かな〉のように、敢えてワンポイント的に「に」「の」などの助詞を用いています。どの助詞を用いるかで、前後の動詞や切れの置き方にも影響が出てきます。あたかも助詞から一句を組み立てていくような感覚が、堀下翔のもつ心地よさの大きな部分を占めていると僕は感じています。

堀下:
取ってくれてありがとう。僕はおしゃべりが好きなので自分の句ですが気兼ねなく書かせてもらいます。神は細部に宿るといいますか、助詞とか補助動詞とか助動詞とか、そういう部分で表現の精度を上げていくのがまず自分の仕事かな、と思っています。そういう意味で自分は言葉派と思われてもいい。でも技巧が風景に先んじているのではないということはぜひ言っておきたいです。どうも僕は外を歩くのが好きで、特に花があまり咲かない土地で育ったものですから、草木のうつくしさには心を奪われます。花を見ておどろいた気持ちをそのまま書きたい。美しいものを「美しい」と書いたところで何の足しにもならないのでしぜん言葉の細部で補強してゆかなければならない。机上派と言葉派は同義語ではないんです。さいきん気になっている句集に千葉皓史『郊外』があります。千葉の扱う題材は、多くは身辺や自然で、派手なところはありません。どの句をとっても、風景・表現ともにシンプルなんです。でも、こういう句があります。
東京に人影は秋来てゐたり
この助詞への気の配り方、はっとします。同句集所収では〈裸子がわれの裸をよろこべり〉といった句の方が有名でしょう。「裸子が」の句の助詞は一見平凡です。でも、動かない。この風景を再現するための最適解なんです。どの助詞も緻密に鍛え抜かれている。僕もこういう態度を取りたい。正直にいえば今年の角川の50句は今となっては甘い句ばかりで、読み直して赤面しています。もっともっと確かな句を書いてゆきたいです。
肉声の日々なり麦が笛になる
林が疎まつすぐ行けば水芭蕉
柿の花石白く水湧きにけり
あたりは、とりあえず残してもいいかな、という気がします。


大塚:
肉声の句なんかはさっき堀下くんが言ってた「理屈」の話に近いものを感じます(笑)

これは位置関係の句ではないけれど、平明なふりをして一種の理屈としても読めてしまう部分もあるかもしれない。敢えて批判をするとすれば、やや観念的であったり意味が取りづらくなっていたりしてもその韻律にごかまされてしまいそうになるときがある(笑)〈めくるめく史実を春の暑さとも〉などは「史実」という言葉が身に迫るかといわれるとそうではない。〈視力たのしく走りたり麦の中〉の「視力」なども挑戦は面白いけれど、「たのしく」への語彙選択に無理が生じてしまっている感があります。それを押し通してしまいかねない韻律の力強さはあるけれども、成功しているかといわれるとそうではないと思う。

堀下:
あはは、ごまかすつもりはないんだよ(笑) でも確かに観念的な句が交じっているのはよくないねえ。もっと即物的に書く根気強さを身に着けたいと思います。

大塚:
話がズレますが、「理屈」や「観念」という言葉においては、それをときにアレルギー的に忌み嫌い、ときに抗生物質を投与するような安易さで作品の評価に用いているという側面があるのではないかと懸念しています。これらの言葉の定義も曖昧ではあるのですが。「ホトトギス」昭和8年4月号に山口誓子が「詩人の視線」という題のアフォリズム的文章を寄せています。要するに京大俳句草創期に、婉曲的な表現を用いながらホトトギスひいては高浜虚子批判をした離脱表明とも受け取れる文章なのですが、そこには「選者はいまかいまかとその句を選から外そうとしているのだ」というような文脈があるのです。誓子の指す「選者」は虚子のことですが、われわれひとりひとりも〈選者〉だと拡大解釈するならば、その句を選ばなかった場合には理由を後付けているような気がしていて、「理屈」や「観念」といった言葉はそのような場合に多く用いられているような感覚が僕にはあります。これらの言葉には注意しないといけない。きっと「理屈」「観念」にも石に玉が混じっているような気がしていて、これらのことばで句を切り捨ててしまうことには反省がつきまとっています。本当に話がズレました。

堀下:
耳が痛い話です。「理屈」とか「観念」とか、あるいは僕は似た文脈で「意味」という言葉をよくネガティブワードとして使いますが、ほんとうにこれって切り捨てていいものなのか、切り捨ててしまうのは早計なのではないか、ときどきそんなことに思い至って真顔になります。「理屈」「観念」を否定するのが後付けの理由であるとは僕には言い切れません。俳句のポエジーはそういったものではないのだ、というフレーミングを長いあいだ俳句作者たちが重ねてきた結果だと思います。でも、そうではなくて、われわれが「理屈」だとか「観念」だとかと呼んで“いない”ものの中に、実は「理屈」「観念」に相当するものがあって、時としてそれを面白がっているのではないか、そういう虞を感じるのです。たとえば「この句は味があるね」というときの「味」なんかその最たるです。いったいポエジーとはどこに発生しているのか、きちんと選り分けて行かないと、うっかり「理屈」「観念」を暴力的に切り捨ててしまうことになりかねない。言葉というものそれ自体が観念の上にあるので、ほんとうは理屈がない、観念がない言葉というのはありえないんです。そこから目を逸らすのは戒めないといけない。以上の点、今年はもっと冷静に考えてみたいと思います。でも、やっぱり「理屈」は嫌いです(笑)



●前北かおる 「光れるもの」

堀下:
手堅い句が多いと思いました。
立春の水を掬つて顔に
花冷の学生服の背中かな
五本づつ炉火に挿し足す串のもの

要素が多めで、ともすれば焦点がぼやけがちではありますが、新奇さを狙わず、淡々と書き進めていく感じに惹かれました。一句目は要素が多いうえに述べ方も悠長なんですが、そのゆるゆるとした感じが景と合っています。二句目は季語がいいですね。三句目の即物性も大好きです。〈山の雨降りて明るき泉かな〉のような、自然をポエティックな印象で書きとどめようとする句よりも、掲出句のような、人間生活を着実に言葉にしていく句の方に味があります。

大塚:
僕も似た印象でした。採れる句が多かったです。なぜ10作品に入れなかったかというと言い訳めくのですが、文体に新奇性をあまり感じなかったからでしょうか。必ずしも新奇であればなんでもいいというわけではなく、それならそれで手堅さで勝負するタイプの作品も尊いものだと感じますが、それでもって強くインスピレーションを受けるほどの派手さは感じなかったです。〈立秋の候と書きさし窓の外を〉などの景色に惹かれましたが、いい意味で裏切られるような感覚はなかった。例えば花冷の句なども採ってはいるのですが、「花」の成分が「学生服」とマッチしていて、「冷」の成分が「背中」とマッチしているような感じ。句としてはいいとは思うのですが、あくまで「納得する」というレベルでの配合だったかなと思います。ちょっと順当さが拭えませんでした。

堀下:
なるほど、花冷の句の分析、納得します。たしかにその要素ごとの対応は「納得」を生むものです。一句の中にそういったいくつかの力関係があるんですよね。言葉の引力が、べっとりと全体を塗りつぶさず、微妙に拮抗している句にいいものがあると思います。



●宮﨑莉々香「眠る水」

大塚:
最初に取り上げた青本柚紀さんと同年齢ですが、あちらが象徴性の作家だとしたらこちらは切実さの抒情で読ませる書き手です(寒蟬さん信治さんの対談の方で僕と堀下くんも同年齢とされていましたが、正確には僕と堀下くんは1歳上です)。実体に対して仮想や観念を発想するという方法で作られています。

完成度が高いとは言えませんでしたが、面白くなりそうな句がありました。〈おおきな良夜のちいさなコンビニの聖書〉は「おおきな」と「ちいさな」がすごく勿体無いけれど、目の付け所はいい。〈鯛焼きを分け合い星に歴史かな〉〈春雨のあとの静かな象舎かな〉なども面白いと思いました。ただ、表現が粗かったり発想が安易である句も多いのは確かです。一般に「俳句的」ではない語彙、表現を用いようという志向があるのだと思いますし、そこに可能性を感じます。〈嵐や風の転校生は鹿をみる〉など独特なリズムに惹かれました。一方で、無理やり言葉を飼おうとしてしまっている感があって、言いたいことがたぶんうまく表現できていない。そこのバランスが取れるようになってくると、もっともっと面白くなると思います。

堀下:
鯛焼きを分け合い星に歴史かな
実感や詩のように飛ぶ春の蜂
あげまんぢゅうのぢが好きなのだ春の虫
あたりが面白いと思いました。言葉に懸けようとしていながらも、肝心の言葉の精度があまり高くないのは否めないと思います。この人のやろうとしていることは「切なさ」ですよね。平凡なものを見ている筈なのにそれが切なくて仕方がない。その切なさを、お前には分からないんだ、と言って逃げてしまうのではなくて、できるだけ分かりやすい形で相手に差し出そうとしているんだと思います。でも、言いきれていない。あるいは、いや、そんなに大したポエジーではないぞ、というケースもあります。稚拙な情感をこのひと流の文体に流し込んでしまうと、独り相撲の滑稽さになる。そういう意味で〈鯛焼きを分け合い星に歴史かな〉なんかは、情が過多といえばそうなんですが、「歴史」という言葉の軽さに見るものがありますし、それが「星」という詩語と結びついて、大がかりなようでいて実はポップに仕上がっているのも面白い。二句目の「実感や」もキているでしょう。「春の蜂」でいいのかと言われればちょっとダメだと思いますが。三句目は「春の虫」でどうにかなっているような気がしないでもないです。
卒業や写真にうつる大きな木
親戚や同じかたちの雑煮餅
みたいな、王道的すぎる詩情は、一周回ってるのが分かっている人ならばいいのですが、読者はそれほど親切じゃありませんからね。この作者と親しいわれわれなら、両句の「や」の馬鹿丁寧さあたりからその機微を察せますが、ハタから見たらやばい人になりかねません。

大塚:
堀下くんの言うように「なんでこれを面白がってるんだろう」と思う句もありますけれど、あんまりそれを指摘しても意味がないような、50句を読んでそんな気がしています。それよりも、この人にはキてる作品を書いてもらいたい。観念といえば観念の構造なのですが、それが面白い観念だという場合がある。50句作品という単位での完成度では他の方に譲る部分が大きいですが、ときどきキてる句が見られたのは幸せでした。

堀下:
卓抜した展開で揃った50句が見たいですね。そのときのために読者の方もきちんと批評できる言葉を用意しておかないと。「キてる」じゃあんまり享楽的な読者ですから。

大塚:
それは反省ですね。口走りすぎました(笑) とにかく、今後の作品が楽しみです。



●利普苑るな 「否」

堀下:
型の強みで取りました。
転校は履歴書に無し蓼の花
はいかにも蓼っぽいし、
和紙にある草のぬくみや時雨来ぬ
はいかにも時雨っぽい(あとこれは「来ぬ」もいいですね)。季語が動かないのもよさです。

あと、
鳰鳴くや鎌田實をポケットに
というのも、ちょっと俗っぽすぎるかもしれませんが、意外な感じがして好きです。優等生らしすぎるのが却ってばかばかしいような。
西国より届く白桃父米寿
の「父米寿」や
白玉や野良猫三代盛衰記
の「盛衰記」
光満ちたり花虻のホバリング
の「ホバリング」

は、その一語に俳句の面白味を求めすぎで、丁寧に書いてほしいです。

大塚:
利普苑さんも実感の書き手かとお見受けしました。

料峭やてつぺん見えぬ螺旋階〉、螺旋階段をそう略して伝わるのか微妙に思いましたけれど意外性があります。〈囀や応募葉書に貼るシール〉なんかも生活詠としていいところだと思います。その一方で〈漕ぎ出せば川岸長き薄暑かな〉〈てのひらに硬き切符や冬ぬくし〉など、実感はあるけど既視感の強い作品、パターン的な季語の付け方を感じました。ここら辺が残念に思います。これらを〈転校は履歴書に無し蓼の花〉と比べると、やはりフレーズの視点、季語の配合ともに単純な物足りなさを感じてしまいます。

堀下:
ああ、切符がどうのこうのというのは、やっぱりねえ……。〈漕ぎ出せば川岸長き薄暑かな〉も、薄暑だと、もうなんにも残らないですね。一昨年の秋に出た利普苑さんの第一句集『舵』、いいんですよ。
一行の編集後記夏来る
引算の答さみしや蟻の列
あつけなく猫の逝きたる桜かな
季語のつけ筋がはっきりしているし、他の12音の方も強度がある。さっぱりとした喪失感を書いた句がとてもいいんです。これはまあファンのわがままですけれど、今年の50句は情や生活臭が強すぎるのかな、という気がします。そういうわけで〈転校は履歴書に無し蓼の花〉が一押しでした。



●小池康生「一睡」

大塚:
手袋もをのこも行方不明なり
ゆきぐものよこにあをぞら法隆寺
降り残す雨を今ごろ椎若葉
花水木住めば覚える人の顔
安心して読めた一連でした。それはおそらく、用言を中心とした無理のない句作りによるものでしょう。緻密な写生という句柄ではなく、ものごとを大掴みなフレーズに練り上げ、季語と取り合わせるという手法です。その把握が例えば〈ゆきぐものよこにあをぞら〉というリアリティを生んでいます。その句柄は「降り残す雨」の物理的な動きを描くのではなく、「雨を今ごろ」というおおらかな言葉から椎若葉らしさを描き出しています。しかし、〈鳥交る片方だけが無表情〉や〈生身魂あの世の下見済んだらし〉などは作者が思っているよりも面白くはないと思いました。描くというよりは述べてしまっているような、身に迫る表現にはなっていないと思います。〈新暦の方の二月を愛しをり〉という暦の概念までいってしまうと、正直ついていけないという思いでした。

堀下:
ゆきぐものよこにあをぞら法隆寺
描きかけの消防車なり出動す
花水木住めば覚える人の顔 
降り残す雨を今ごろ椎若葉
あ、選がだいぶん被りました。やっぱりこのへんがいいですよね。大らかな味わいを大らかに書く句にいいものがあります。類想感の強い句(〈男湯と女湯代はる去年今年〉〈台詞なき場面のつづく涼しさよ〉あたりです)や現実世界の「あるある」をそのまま俳句にしただけの句(〈立春のトールサイズといふカップ〉〈一本も観ずに延滞春の雨〉あたり)、それから凱君が指摘したそれほど面白くない句を丁寧により分けていくと、重心のしっかりとした句が残って、それらに明確な共通点があるわけでもないようなのですが、どれも大粒で面白かったです。たぶん人情だとか通俗的なかっこよさに別段の面白味を感じて書いている作者だと思うのですが、それをそのまま俳句にするよりも、その恰好のつけ方、まなざしの持ち方で俳句的素材を扱った句のほうが成功しています。

大塚:
先ほど安定感と言いましたが、それは句末がとくに名詞で着地する傾向とも関連していると思います。読後にキッパリとする感じは、この効果による部分も大きいかと思います。

2015-11-01

2015角川俳句賞落選展 22 堀下 翔  23 前北かおる 24 岬 光世  25 宮﨑玲奈(宮﨑莉々香) 26 薮内小鈴 27 利普苑るな 28 小池康生

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22 堀下 翔 
「鯉の息」



23 前北かおる 「光れるもの」



24 岬 光世 「波の記憶」



25 宮﨑玲奈宮﨑莉々香)「眠る水」





26 薮内小鈴 
「声真似」



27 利普苑るな 「否」


28 小池康生 「一睡」





 22 堀下 翔 「鯉の息」 ≫テキスト
23 前北かおる 「光れるもの」 ≫テキスト
24 岬 光世 「波の記憶」 ≫テキスト
25 宮﨑玲奈(宮﨑莉々香)「眠る水」 ≫テキスト
 26 薮内小鈴 「声真似」 ≫テキスト
27 利普苑るな 「否」 ≫テキスト
28 小池康生 「一睡」 ≫テキスト

2015角川俳句賞落選展 23 前北かおる「光れるもの」テキスト

23. 前北かおる 「光れるもの」

立春の水を掬つて顔に
球場の穹窿鈍く霞みけり
神さぶる椿の奥に初音かな
白樺の繁からざれば雪残る
雨降れば白が俄に梅の園
芽柳にメタセコイヤに朝日さす
草はらに残れる遊具蕨生ふ
花冷の学生服の背中かな
春雨や光れるものの染まりゆく
行く雁やぐづぐづ曇りつづきなる
苗代の百畳敷のみどりかな
菫草タクシー捨てて下り出す
白藤や谷戸田に水の行き渡り
なつかしく赤味さしけり濃山吹
講堂に全校生徒更衣
卯の花や茶器掛物を賞でてきし
イーゼルを倒して風や立葵
避雷舎に入れば真昼のほととぎす
黄菖蒲の吹きつさらしにありにけり
満載の早苗ゆらゆら田を植ゑむ
五月雨の甘く匂へる板廊下
吊り橋をとほり抜けたる螢かな
めいめいの腰に蚊遣火吊りさげて
掛茶屋に昼酒過ごす蓮かな
山の雨降りて明るき泉かな
立秋の候と書きさし窓の外を
墨吸はす万年筆や星祭
小屋掛けに畠も少し荻の風
白き椅子白きテーブル女郎花
その背中芒の花を挿してをる
風なかに小叢萩置く芝生かな
神の鹿潮満ちてはや引きそむる
露の径日の山荘を仰ぎけり
奥山に金湯館や霧を積む
牛乳を飲んで朝顔数へけり
月の出や幕府すたれて八幡神
虫の音や波しづかなる奥の院
晴るる日の少なくなりて野紺菊
夕紅葉家族を置いてきたりけり
初冬の笑つてゐない絵の子ども
片時雨出雲の国のなほ遠く
霜柱係累にまた一祠づつ
熊の湯は谷の深雪に五六軒
枯蘆や自転車の鍵拾うたる
先生に呼び止められて川千鳥
日輪の赤くのぼれる凍土かな
水鳥やジムノペディーを聴きながら
夜神楽のなほ序の口の力足
五本づつ炉火に挿し足す串のもの
ひと筋にひとの流れや除夜の鐘





■前北かおる まえきた・かおる
1978年島根県生まれ。慶大俳句、「惜春」を経て、「夏潮」創刊に参加する。
第1回黒潮賞受賞。句集『ラフマニノフ』。
ブログ http://maekitakaoru.blog100.fc2.com/

2015-01-25

【2014角川俳句賞 落選展を読む】 5.書き続けるしかない 依光陽子

【2014角川俳句賞 落選展を読む】
5.書き続けるしかない

依光陽子


≫ 2014落選展






 

23. 菜の花(前北かおる)

菜の花や乳白色の雨の降る 前北かおる

50句全て春の句でタイトルが「菜の花」。50句中に菜の花の句が5句ある。
その中では掲句は見どころがあり、また50句全体でも大粒の句といえばこの句だろう。

「乳白色」に見える雨だから、かなりの粒で雨脚の強い雨だ。視点を一旦一面の菜の花畑の遠景に置き、次に近景に目を引き寄せたときの「乳白色」の効果。雨自体は透明なのに言われてみれば確かに「乳白色」に見えるときもある。

「乳白」という文字、牧歌的でありながら野趣もある。菜の花の明るさを生かしつつ、花の持つ雰囲気に落ちることなく踏みとどまっているところがいい。

白梅や縦へ縦へと咲きふえて

雪柳や連翹、萩、枝垂桜などを詠んだ写生句は、地に近いところから咲くと詠まれるのが常套だが、「縦へ縦へ」という摑みが白梅らしいと思う。

古枝ではなく、その年新しく伸びた枝からの花だ。新枝は垂直に伸びる。咲きふえるほどの枝数を持つ木だから古木だろう。ごつごつとした幹から立ち上がった緑色の枝。一木の存在感。

ちかちかと蛍光灯や吊し雛

立派な郷土館などではなくて、蛍光灯が今にも切れそうで「ちかちか」点滅している旧家の吊し雛を思わす。「ちかちか」とするたびに、別の雛に灯が当り、一つ、また一つと姿が浮かび上がる。間隔をあけてぶら下がっている様も受け取れる。

吊し雛は伊豆稲取が発祥という説や九州柳川が発祥という説があるようだが、この句以降30句ほど続く九州で詠まれた吟行句の幕切れの句と取れば、現場は九州柳川か。

さて落選展は作者がオープンになっている分、期待度と読後感との落差は、それがマイナスだった場合不完全燃焼となって胸に燻り続ける。

笑ふ山背負うて野たり都府楼址>福岡大宰府、<菜の花や山国川も山抜けて>福岡と大分の境、<一斉に野焼くやまなみハイウエイ>大分。長崎に入り、島を巡り<春の人ゆりかもめより降り立ちて>と東京に戻ってきてお台場へ。地名の入ったご当地俳句が等間隔に置かれ、観光案内書に置かれたイラストMAPのようだ。

ぷつと雲吹き出して山笑ふかな><普賢岳痘痕だらけに笑ふかな>の二句は何だろう。50句にこの句を入れたあたりで、真剣に賞を狙う張りつめ感は消えた。<卒業の迫るひと日を甲板に>のような見どころがある句も艶消しになってしまう。50句の後ろにどのくらいの句が捨てられているか。その厚みも見えなかった。


24. 草の矢 (岬 光世)


寂かだ。静と動ならば、静。

擡げられ芥もくたや霜柱 岬光世
雑草のひようと伸びたる風薫る
針仕事してをるらしや秋簾
建て替ふることなく過ぎぬ秋桜

一句目。「芥もくた」は何の役にも立たない、つまらないものという意味。具象から発生した心象的な言葉だ。作者は枯草の欠片であったり、木端であったり、人の落として行ったモノであったり、塵埃であったり。それら霜柱に擡げられた雑多なものを見て、己の内面を重ねたのだろうか。霜柱は寂と輝いている。

二句目。「ひようと」の擬音のよろしさ。この一語があることで「風薫る」がムードに堕ちることなく一句が立った。一句目も二句目もどことなく王朝物語風に読めて来る。

三句目。秋簾の裏側の所作を針仕事と見た。「針仕事」と言うと若い人よりも年配の女性を想像する。単なる繕いものではなく、それを生業としている姿であれば、猶更その人への興味は募る。

四句目。建て替えの計画があったものの、そのままとなった家。旧い家だろう。ただタイミングを逸したというよりは、そこに住んでいた人の、こののちの永遠の不在を感じる。秋桜がそう思わせる。

念力のやうに鶏頭残りたる
接木せし手のぬくもりを持ち帰る

気持ちが乗った句も静の内に描かれる。「念力のやうに」は鶏頭の強さの描写として無理のない直喩であろう。接木した手のぬくもりを持ち帰る、という発想も目新しい。ある木に別の木の命を、人の手で継いだという静かな興奮が掌に残っているのだ。

遠雪崩眠りにつけぬ闇幾重><波音の絶ゆることなく曼珠沙華>なども音が描かれているのに、その音はとても幽かだ。

お太鼓に川風とほす夏衣><人伝てに先代の所作夏の帯><幕間に箸を交ふる木の芽和>など破綻がなく服に例えれば和服の装い。句の佇まいから作者の確たる美意識をうかがわせる。だがこういった巧い句を書く人は結社に一人くらいは必ずいるものである。以前参加していた句会で、非の打ち所がない、と思うような句が出た時「これは上手なオバサン俳句ですね」と選者が一蹴していて、はたと気付いた。

その言葉の裏には、「下手より巧いに越したことはないけれど、上手くまとまった事で納得してしまう癖がつくのは宜しくない。そこを越えるべし」というメッセージが隠されていたのだ。さらに「みずすまし」「秋の蝉」のような常套句、あるいは「ハーモニカ」「花野」句のように擬古的な情緒や観念に浸ってしまった句は落としたいところ。

家具ひとつ運び出したり雪催
片側の頬の明るき冬の晴
春蘭の涙ひとすぢ読めるなら

このあたりは作者の素の部分が見え、フレッシュな印象を受けた。一句目の季題の効果。二句目の明度。三句目の心象性。いずれも芳しい。

全体的に句の低いところに重心があり安定している。あとはどう新を開拓していくか。多少粗くてもアクセントとなる迫力のある句が欲しい。ほつれや壊れた部分があるからこそ際立つ美もある。一度思い切って、築き上げた美意識を打ち砕いてみるのも俳句の方向に感覚が研ぎ澄まされる手かもしれない。


25.モラトリアムレクイエム (吉川千早)

現代詩的なタイトル。今回の落選展の出展作品一覧を見たとき、最も期待した50句である。

しかしながら、一句目からかな遣いの混同とミス。「ああ」と思わず声が出てしまった。無念。

50句の中に幾つかの死、新しい命の誕生に触れた句があり、その重大な場面に作者が直面したこと。それは読み取れた。しかし<マニキュアの塗りあいっこや夕涼み>とその次の句、さらに<子を産めばママと呼ばれて聖誕祭>に至っては、ガクリと膝をついてしまった。

二句だけ挙げる。

人生にカレー幾たび半夏生 吉川千早

馬鹿馬鹿しいのだけれど、妙に後ろ髪を引かれた句。人生に幾たびも繰り返される事はいろいろあれども「カレー」を食べることの回数など考えたこともなかった。それを仰々しく「カレー幾たび」ときた。この畏まった文体と内容のギャップ。さらに半夏生というなかなか渋い季題を持ってきた点も現代の俳諧と言えよう。季感もピッタリだ。

秋雨や祖父は死んでも大男

亡くなった祖父へのレクイエム。在りし日の姿を思い出している。祖父の存在は死んでも大きな存在。大男は単に体格だけではなく、その人格の大きさも言いとめている。秋雨の季題は、死の直後というよりは、気持ちの整理のつくまでの時間を指している。

はっきり言って作品は未成熟。けれども何だか、適当に書いた、という感じはしないのだ。俳句慣れしていてさほど苦労もなく50句まとめることが出来てしまう作者とどちらがいいかと言われたら、多分私は、未完成だがこの面妖な50句を書く作者を庇う。そしてこの名前を憶えていようと思う。

変にまとまってしまうことなく、ともかくも俳句として鑑賞できる段階まで引き上げて再挑戦してもらいたい。


26. 猫鳴いて (利普苑るな)

一弾に矢となる犬や兎狩 利普苑るな

「弾」「矢」「犬」どれも「狩」についた言葉だが、その勢いをうまく一本の棒にした。飛んでゆく弾、一弾の音を合図に飛ぶ矢の如く一斉に走ってゆく犬、逃げてゆく兎、みな地面に水平の線となって、句になった瞬間、静止し、また動き出す。

枇杷咲くや砂に昨日の泥団子
花札の蝶舞ひたがる睦月かな
萍の揺れては増えてゐたりけり
手花火の明りに昼と違ふ庭

一句目。砂場に子ども作った泥団子がある。昨日、濡れ色だった泥団子は今日はもう外側は乾いている。泥の乾いたような苞を割って白い花を咲かす枇杷の花との取り合わせが絶妙だ。日常の、見過ごしてしまう風景。

二句目。陰暦正月、陽暦では二月にあたる睦月。正月に遊んだ花札が置かれていて、札の画の蝶が舞いたがっているかに見えた。春近い気分が出ている。

三句目。萍のたくさん浮いている水面。微かに揺れている。じっと見ていたらなんとなく増えていると感じた。「揺れては増えて」の眼差しが萍の水中の根にまで及ぶ。

四句目。手花火の仄暗い明りの向こうに、昼間とは違う庭が浮かんだ。それは花火が燃え落ちるまでのほんの一時。

ものを見る目に柔軟さがある。

深読みは不要。作者はそのままの景を言葉に乗せ、読み手はその言葉のまま受け取ればいい。すると一句に描かれたモノが生き生きと見えてくる。見せる力がある。

秋霖やときをり熱き猫の息
猫と坐す真紅のソファー雁渡る

季題斡旋がいい。

一句目。猫の息のときおりの熱さを感じ取ったのは掌だろうか。秋の冷たい長雨の一日、猫と居るひととき。

二句目は絵画のような構図。真紅のソファーが目に鮮やかだ。この猫はきっと黒猫。ソファの人も猫もまるで影のように静止している。部屋からズームアウトしてゆくと、上空を雁が渡っている。いつもどこかで何かが同時進行している。雁の列も黒。一句の中の色は赤しかない。

タイトルの句<猫鳴いて初夢のこと有耶無耶に>のほかに猫の句が5句。50句に寄り添っていたら、だんだん猫目線になってきた。すると<水無月や雫のやうな香水瓶>も<声上げて番犬めきぬ羽抜鶏>も変な世界だなぁと思う。何でもない日常に潜む小さな発見を、ひょいと掬い上げて読み手に伝えることが出来るのが俳句。強引に言語世界を作る必要はない。この作者にとって世界はすでに面白いのだから。

はこべらや温室に飼ふ元ひよこ>の「元ひよこ」は表現が浅すぎる。<かなかなや若者集ふ橋の下>の「若者」という言い方にやや旧時代を感じた。

作者が面白いと掬い上げた景の、その全てに読み手として共感したわけではない。だが50句に流れる、ほんのちょっと面白くて、ほんのちょっと物悲しい通奏低音は、この作者の個性だと思った。



メイキング・落選展を読む(勝手にあとがき)

ようやく26篇、1,300句読み切った。

約二か月間、一篇一枚の用紙に縦書きで読めるよう印刷し、鞄のなかに入れ、家以外でも毎日の通勤時や昼休み、ショッピングセンターの椅子などで取り出して読んだ。毎日誰かの50句を頭において生活する中で、少なからず応援する気持ちが芽生えたことも確かだろう。

だが前置きに書いた内容は揺らいでいない。その上で、私なりの提言を鑑賞の内に含めた。全て、未知なる俳句に出会たいという我儘な欲求と、何よりも生涯不変の俳句愛に拠るものである。そぐわない事を書いたかもしれないが、そこは読者や作者の寛大さに委ねどうかご容赦頂きたい。当初の予想通り、書いた内容は全て私自身に跳ね返って来ており、妥協せず作句することはますます困難になりそうである。しかし書き続けるしかないのだ。

落選展から新たな才能が現れることを祈りつつ連載を終えたい。他のお二方と足並みが揃わなかった事、毎回ギリギリ入稿かつ長考で編集の方々の手を煩わせてしまった事をお詫びいたします。



≫ 0. 書かずにはいられなかった長すぎる前置き
≫1. ノーベル賞の裏側で
≫2. 何を書きたいか
≫3.みんなおなじで、みんないい?

2014-12-28

【2014落選展を読む】 5. 文体 堀下翔

【2014落選展を読む】
5. 文体

堀下 翔


≫ 2014落選展



読む。


23 菜の花(前北かおる)


畸形のように短いこの詩形のなかで、いつか言葉は組み合わされ尽くすのではないか、だから俳句は有限である、という考え方がある。そんなことがあるとも思われないが、ひとつこの話から気づくのは、意味は言葉の組み合わせから生ずるのだったな、ということだ。

俳句が有限か無限かという話は結局、言葉の組み合わせは無限かどうかという点にかかっている。どちらが正しいのかは知らず、作者はぼんやりと、もしかしたら言葉の組み合わせが有限であるという予感は、ある点では、人間が選ぶ言葉に必ず意味があるという信頼に基づいているのではないか、と思う。

もっとも詩に意味を求めることがほとんど重要でないのは言を俟たない。

前北の句にはときおり得体のしれないものが混じる。

菜の花や乳白色の雨の降る 前北かおる
ちかちかと蛍光灯や吊し雛

つまり、どうして乳白色が、吊し雛が、ここにあるのだろうか、ということだ。あまりに突然なその斡旋は、雑然としていて、かつ、異様である。

それはもしかしたら、写生という発想が目指していた異様さなのかもしれない。頭の中ででっち上げた想定内の光景と決別するために、目の前の事物をそのまま言う。言葉が想定のそとへと飛び出す。写生はだから楽しかった。

写生うんぬんというのは前北の句がそれであると声高に言いたかったがためではない。重要なのは、冒頭の話に回帰するけれど、この人の句は、言葉は組み合わされるもの、すなわち、どのようにして隣り合わせるか選択するものであるという事実に立っているのではないか、ということだ。

50句に通底する雑然とした感じは、要素の多さでもある。〈ちかちかと蛍光灯や吊し雛〉。ちかちかと、というのは副詞であり、副詞は動詞にかかる。ちかちかと蛍光灯が点滅している、まで言わないとこのフレーズは完結しない。それを省略して別の要素を取り込んでいるからこの句はスマートではない。そうまでして作者は点滅する蛍光灯と吊し雛を隣り合わせようとしている。

言葉が隣り合うことの魅力がここにはあるし、作者に見えているのはきっとそれなのだろう。


24 草の矢(岬光世)


情報量の少なさはそれ自体が一句のよさだと筆者は思う。ああ、これだけでいいんだ、という安心感である。「草の矢」50句はその情報量の少なさがまず心に残った。

建て替ふることなく過ぎぬ秋桜 岬光世

自分の家を建ててかなりの時間が経った。親から引き継いだ家でもいい。建て替えてしかる年数にはなっているのだけれど、そのタイミングはとうに逃している。まあ、いいか。こじんまりとした秋桜の斡旋もあって、そういった生活感がこの句には充満している。

建て替えてもよい家を、というところを言わなかったのは、もちろん巧みな省略であるが、そんなテクニカルなことであるよりもむしろ、あっさりとした文体そのものが、この作者が描きたいと思っている生活を描くのにもっとも適切であることを思うのだ。

歴史的仮名遣いの気持ちのよさを取り込むべく、多くの句は積極的に平仮名に展かれている。これも、生活を描く文体。ただ〈鳴くこゑのひとつおほきく秋の蟬〉〈出航の合図をとほくをみなへし〉といった、感じは横溢しているけれど、よく見ればちょっと常識的だぞ、という句は多い。もっと書けることはある、という気はする。

たとえば、こんなふうな。

扉なく向き合ふ壁や冬紅葉

ある向かい合った壁に扉がない。そんなものはきっとたくさんある。だけれど言葉にされたそれがこんなに読者の胸をさわがせるのはなぜだろう。ない、ということを発見することのむずかしさがある。ない、という事実が生活にはあちこちにかくされている。

むつかしき門をくぐらず枯芙蓉

といった唐突な句がいくたびか挟まれるのも50句の特徴だった。〈念力のやうに鶏頭残りたる〉など。むつかしき門、とは何のことか分からないし、念力のように残る、というのもびっくりする。この人は生活空間をそのように見ているのか、と驚く。

やはりこれらも平易な文体で述べられていて、だからこそこれらの句を読者は信用できる。


25 モラトリアムレクイエム(吉川千早)


劇的なことを書こうとしている。

ごきぶりを初めて見た日煙草吸ふ 吉川千早

ごきぶりがいない土地から引っ越してきた人だろうか。ああこれが世に言うごきぶりであるか。人生にごきぶりが加わった。その日に煙草を吸ったという事実を並べ、この二つの事柄は関係性を持ち始める。

そんなことを関連づける作者を指して「劇的なことを書こうとしている」と言う。煙草を吸うような年齢にもなって、そんな些細なことに特別な意味を持たせずにはいられない作者。〈鍵穴に鍵置いてある桃の花〉といった意外な季語の置き方や〈秋雨や祖父は死んでも大男〉といった独特の景の嗜好にもその姿が見える。

オーバーザレインボー服薬死ぞ〉などは、ちょっと俳句としては強引なんじゃないの、という気がする。


26 猫鳴いて(利普苑るな)


王道的な取り合わせが中心の50句。形が整っていることの安心感がある。その型のなかでどれだけのことを述べられるか、というのは型を意識する人全員が共有する問題だろう。たとえば、

かなかなや若者集ふ橋の下 利普苑るな

を見ると、ああよかった、季語を除いた12音でこれだけたしかなことを言い得るんだ、と思う。学校が終わった若者たち。二、三人ではなく大勢で遊ぶ。そんなとき彼らはいつも決まって橋の下に行くのだった。公園となっている河川敷。川がすぐそこに流れる。花火をすることもあるし、そうでなくても集まってしまえば、子供が使うような遊具やアスレチックを駆けまわる。〈かなかなや若者集ふ橋の下〉はほんとうにそんな若者のことを書いているのだと思う。〈サルビアや二人の記憶喰違ふ〉〈足場より叫ぶ棟梁稲の秋〉などを読むとき、われわれは、取り合わせの俳句はどんなことでも書けるのだ、という事実を確認する

一句はとてもゆっくりとしている。緩急というものが俳句には確かにあって、それは作者によっても違うし一句によっても違うのだけれど、この50句はどれもが同じスピードのなかにある気がした。〈萍の揺れては増えてゐたりけり〉〈生身魂欠伸を猫にうつしたる〉といった一物仕立ての句でも同様であり、それもやはりひとつの安心感として受け取られた。

良いお年をお迎えください。

≫ 1.その年の事実
≫ 2.嘘と事実
≫ 3.ダイナミズム
≫4.書いているところ



2014-11-02

落選展2014_23 菜の花 前北かおる

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週刊俳句 第393号 2014-11-02
2014落選展 23 菜の花 前北かおる
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落選展2014_23 菜の花 前北かおる_テキスト

23 菜の花 前北かおる

菜の花や乳白色の雨の降る
温室に曇らす眼鏡春寒し
ちかちかと蛍光灯や吊し雛
四段の鉢置き棚に桜草
まつはれる目白の声や梅の花
白梅や縦へ縦へと咲きふえて
影のなす魑魅魍魎が梅林に
自販機の赤鮮しき花菜かな
笑ふ山背負うて野たり都府楼址
永き日のベンチに胡座かきてあり
濁りなき水の溜まれる春田かな
菜の花や山国川も山抜けて
焼き頃の野の肌色や広がれる
一斉に野焼くやまなみハイウエイ
風中に野火くまりゆく男かな
一線に野焼の炎空濁す
ぬかるみに足を取られて犬ふぐり
ぷつと雲吹き出して山笑ふかな
連綿と雲の流れや春の空
うららかや翼撓めて風受くる
プランターはち切れてあり落椿
のどけしやひつじ留守なるひつじ小屋
豆這はす仕度の支柱春の鵙
青麦や今日の火の山煙吐き
火山灰をもて埋め立てしとふ揚雲雀
普賢岳痘痕だらけに笑ふかな
耕耘機畑の起伏帰りゆく
土手腹に穴まつ暗や大蜂巣
百万トンドックの後ろ山笑ふ
島抜けて水平線のうららかに
卒業の迫るひと日を甲板に
うとうとと島より戻る日永かな
春埃オリンピックの来るといふ
陽炎や草におほはれたる残土
春の人ゆりかもめより降り立ちて
歯を見せて笑へる女風光る
あたたかや広場の如き街の海
砲台の四方埋め立つ緑立つ
帆を棄てし帆柱立てり春の空
日おもてに三色菫植ゑ分けて
さるほどに花菜畑に目が慣れし
菜の花や腕を伸ばして自分撮る
腹這ひに構ふるカメラ風光る
春風やなほ転げたるフリスビー
砂利噛んで鳴きたる靴もうららかな
しつとりとサーモンピンク玉椿
図書館の飾り時計に春日さす
コーヒーをテイクアウトや春コート
ピロティーの向かうに見ゆる桜かな
ラケットの面に飛花を受けにけり

2013-11-24

2013落選展を読む(3) 書いたことは、すべて自分に 対中いずみ 

2013落選展を読む(3)
書いたことは、すべて自分に

対中いずみ


9 高梨 章「病室」

きらきらと肺侵されてすみれ草   高梨 章
輪になつて明かりをつける枯野かな 同
全集にふたつ欠けあり雪にかはる  同

作者ご自身か、もしくは身近に病む人がおられるのだろうか。「病室」とタイトルを付された一句目など、俳句としては甘いと思われるが妙に心に残る。ある寂しい虚ろなトーンは一定している。長年、詩か短歌を書いていた人が俳句を始められたような、そんな作品群だ。

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10 津野利行「餃子」

ストーブの火を消すボタン押すだけの 津野利行

脱力系の内容と詠みぶり。50句のなかに<カラオケの隅マフラーをしたままの>があるのは残念。こういう変則的な叙法は、一句あれば良く、二句あれば緩んでしまう。


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11 ハードエッジ「ならば踏めよと」

親指と人差し指とアイスの棒 ハードエッジ

意味なく、即物的な句。<もの腐る季節となつて蠅も出て><赤ゆゑの寂しさに群れ赤とんぼ>などの意味性や見立ての句よりは、掲句を採りたい。<すやすやと赤子の眠る遠花火>の「すやすやと」、<柿干すや目鼻かそけき赤ん坊>の「目鼻かそけき」などの常套語は排して、その後に出てくるナマな、新鮮な言葉をこそ読みたい。

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12 堀下 翔「生年月日」

蟻穴を出て乾きたるところへと  堀下 翔
夏場所が終はるころ家建つらしい 同

2012年俳句甲子園出場というキャリアから見ると、早熟な才だと思う。季語がまだしっかり肉体化されていないようではあるけれども、季語そのものに食らいついていこうとする姿勢が見られる。吟行に出て現場で季語そのものを詠んでいく訓練をされると伸びる人だろう。

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13 前北かおる「置炬燵」

ふぐちりのふぐのラップを外しゆく 前北かおる

この句、面白い。

襟巻にノートを当てて諳んずる 同

も可憐。

冬至柚子もらふ到着ロビーかな><吹抜に吊すあれこれクリスマス>もいいと思った。さすがに50句となると、息切れしている句もあるけれど、平均打率は高い。「ふぐちり」の句のようなホームランもあるので、今後が楽しみだ。

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14 山下つばさ「祝福」

菜の花や涙こぼさぬやうわらふ 山下つばさ
冬の蝶鉄の扉を這うやうに   同

一句目は、巻頭の句。何か幸福なものを予感させる出だしである。二句目は、集中、最も惹かれた句。鉄の扉を引っ掻く冬の蝶の脚が金属音をたてていそうだ。<深々とお辞儀の奥のチューリップ><冬の駅犬突然に走り出す>も面白い。チューリップも犬も日常生活に当たり前に登場するモノたちだけれど、切り取り方の角度だろうか、どこかユーモラスだ。

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15 山田露結「幸せの人」

蛇穴に入る眠る子の息荒く 山田露結

かろうじてこの一句をいただく。目にしたものをどんどん五・七・五に変換する能力に長けた方だと思う。しかし、作者は、『再読 波多野爽波』(邑書林)の執筆陣の一人だが、爽波の「多作多捨」はこういう句を量産せよということではなかったのではないか。爽波は多作多捨の果てに得られる、手応えのある一句を求めた。それは先ず作者自身がオドロクような一句であったはずだ。また、「季語がつきすぎであることほど味気ないものはない」とも言っていた。俳句は、発見、飛躍、言葉の鮮度を欲する詩だと思う。

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16 吉井 潤「光○追う人」

初明かり磁器を透かせばミルク色 吉井 潤
   
一人で作っておられるのかもしれない。良き仲間、指導者に出会ってほしい。

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17 すずきみのる「過日」

草むらに吹き戻されて蛇の衣 すずきみのる
秋灯下子規の千枚通し見る  同

かっちりした俳句作品を作れる方だが、それだけで終わりたくはないようで、一部、<コンタクトレンズが痛いいぬふぐり>といった稔典さんばりの作品や、<ひたひたの水にいきていたくないなまこ>などの実験作もある。多彩とも言えるが、50句一編を通して読むと、ばらばらな感じは拭えない。俳句観の確立が待たれる。

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以上、言い過ぎたり、言い足りなかったり、力不足だったろうが、何か少しでも作者に届けば幸いだ。書いたことはすべて自分にはね返ってくる。私も、実作に戻って精進を重ねたい。



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2013落選展を読む(3) 目に映るすべてのことは 三島ゆかり

2013落選展を読む(3)
目に映るすべてのことは

三島ゆかり


9 高梨 章「病室」

「病室」というタイトルからすると病中吟なのかも知れないが、ばらばらに季節が立ちあらわれ、どこか人外魔境をさまよう体でもある。挙句の「宇宙船」が全体をぶちこわしにしているような気もするが、それも含めて作者の持ち味なのだろう。

つぎつぎに翼を折りて山眠る  高梨 章

「山眠る」の前で切れる読みも可能だが、冬の連山を鳥に見立てたものと読みたい。季語「山眠る」に本来時間の推移はないはずだが、、「つぎつぎに翼を折りて」からは、日が傾くにつれ刻々と山の表情が変わって行くさまが感じられる。

人ならば先に行かせて秋の暮 同

ふつうの生活人を「どうぞ先に行ってくれ」とばかりにやり過ごし、秋の暮と同一化するのだろう。そこには人でないものとの交感もあるのだろう。

百合咲いて這ふものたちの夜となる 同

「這ふもの」が何かは特定していない。百合の香に呼び覚まされた魑魅魍魎の類であろう。

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10 津野利行「餃子」

餃子にフォーカスを当てるなら、ハンバーガーだのアイスクリームだの水羊羹だの白玉だの出さない方が作品としてはまとまるような気がするが、あえてそうしないのは、その程度の食物だけど…という愛着の証しなのかも知れない。
作業着のままに地べたの花見酒〉〈手袋のままに手術を待ちにけり〉に見られる「に」の使い方が独特である。

子離れは先送りして花は葉に 津野利行

面白い取り合わせである。時が移ろい花は葉になるというのに、私はまだ子という花に夢中である、ということなのだろう。「先送り」というぜんぜん詩的でない措辞がじつに効いている。

足袋底の松に跨る松手入 同 

まず足袋底が目に入ったのだろう。「松に跨る松手入」のリズムがたいへん心地よく、ユーモラスな光景である。

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11 ハードエッジ「ならば踏めよと」

身も蓋もない諧謔に持ち味があるようである。

灯台に蛾が張り付いてゐたりけり ハードエッジ

ぼてぼてに塗り重ねられた灯台の白い肌に(たぶん)死んだ蛾が張り付いている。それだけの景だが、「ゐたりけり」という一見冗長な措辞によって他のいっさいを消し去っているため、強い印象がある。

数へるにしても短日ばかりなり 同

「数へ日」と「短日」を一緒くたにして詠んでみせた諧謔がじつに可笑しい。まこと師走はせわしない。

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12 堀下 翔「生年月日」

対象そのものではなく、名鑑、サイン帳、地図、自叙伝、映画などワンクッション置いたアイテムを巧みに並べることによって、じつに不思議な作品空間となっている。

エイプリルフールの棚に本を足す 堀下 翔

ユーミンの歌の歌詞に「目に映るすべてのことはメッセージ」というのがあったが、この句群を読んでいると「目に映るすべてのことはまがいもの」という気がしてくる。本句は何かしら種明かしのように存在する。

音のない泉であつち向いてほい 同

今という一瞬は「音のない泉」のようにこんこんと嘘のように湧いており、人は無心に「あつち向いてほい」のようなことに興じている。なんだかとんでもなく深くてクールだ。

秋雨の天涯万里髪を切る 同

「秋雨の天涯万里」という果てしなく閉塞的なイメージが下五「髪を切る」でまさに裁ち切られる快感。ここでも「目に映るすべてのことはまがいもの」なのだ。

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13 前北かおる「置炬燵」

オーソドックスで端正な写生句だが、50句中11句も「かな」があるのはいかがなものか。

時雨たる町のプラネタリウムかな 前北かおる

「時雨たる町の」までのひなびた旅情が「プラネタリウムかな」で一気に転じる、と最初読んだが、いささか余談めくと、かの悪名高い「ふるさと創生」により全国に三百以上のプラネタリウムがあるらしい。だとすれば、そこまでがひなびた旅情で、なにも転じていないのか。

冬帝を讃へ発電風車群 同

「冬帝」という季語自体が擬人法なのだが、それを主語とするのではなく讃える対象とし、主語と読めるように「発電風車群」を置いている。「発電風車群」に意思を与え冬帝と対峙させたところがよい。

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14 山下つばさ「祝福」

17音着地の5+6+6とか6+5+6とかのリズムを多用しているが、効果が感じられず読みにくいだけに終わっているような気がする。

心臓の高さに金魚棲まはせて 山下つばさ

「心臓の高さ」という突飛な措辞が卓抜である。金魚の赤さえ深い意味を持っているように思えてくる。さらにこの句を何度も反芻していると、「棲まはせて」はもしかすると眼前の水槽ではなく、自分の体内なのではないかという気さえしてくる。

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15 山田露結「幸せの人」

いちいち小技が上手い分、「これが俺の俳句だ」というのが目立たなくなり損をしているような気がする。

畳まれて四角き顔の鯉のぼり 山田露結

いかにも俳句的なトリックであり、こういうのが憎らしい小技なのである。

包帯を解かれし腕や更衣 同

「包帯を解かれし腕」に「更衣」を斡旋するというのも、憎らしい小技の類だろうか。

樹の瘤は樹の顔ならず冬に入る 同

樹の瘤に人の顔を見る俳句はいくらでもありそうだが、「樹の顔ならず」と云った俳句はあまりないのではないか。

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16 吉井 潤「光○追う人」

ほとんどの句が切れのない作りになっているので、奇をてらわない反面、自らハードルを上げてしまった感もある。

がらくたに春の怒濤を見つけたり 吉井 潤

作者をして「春の怒濤」と言わしめたがらくたを見てみたい。

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17 すずきみのる「過日」

「湖水」「京都駅」「水都」「四条」などを散りばめて、それとなくゾーンをほのめかしてまとめている。「変わり」「わらわ顔」など仮名遣いの誤りが惜しい。

春灯の範疇トイレ使用燈 すずきみのる
喫茶店などにある、トランプのキングやクイーンみたいなのが灯るあれを、「春灯の範疇」を云っておどけてみせている。

四条まで時雨の舌は届かざる 同

「時雨の舌」という措辞それだけでもよいのだが、「四条」「時雨」「舌」と頭韻を揃えたことにより、「時雨の舌」になんとも湿潤なエロスのようなものを感じる。地名のゆかしさもよい。

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2013-11-03

2013落選展 13 置き炬燵 前北かおる

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週刊俳句 第341号 2013-11-03
2013落選展 13置き炬燵 前北かおる
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2013落選展テキスト 13置炬燵 前北かおる

13 置炬燵 前北かおる

冬至柚子もらふ到着ロビーかな
凩や塀また塀の城下町
御廟所へ石畳踏む冬至かな
切長の松陰像や冬座敷
ふぐ宿の傘差しくるる仲居かな
ふぐちりのふぐのラップを外しゆく
露天湯へ霜夜の扉押しひらく
灯の果てに寒椿かな露天風呂
明りては細る寒夜の灯台よ
磯辺より椿林へ分け入りぬ
時雨つつ椿林の花辿る
灯台を見て引き返す朝時雨
蜑小屋の自販機灯る時雨かな
常磐木に埋もるる火口山眠る
冬の雨選挙の済みしポスターに
城下より城下へ時雨たる旅を
時雨たる町のプラネタリウムかな
駅頭に蒸気機関車山眠る
ちくわぶの残骸浮いておでん鍋
ストーブや板廊下なる洗面所
塞ぎたる北窓に風しがみつく
草枕電気毛布にくるまりて
もみぢ葉の積もる千本鳥居かな
冬帝を讃へ発電風車群
冬濤の磯に砕けて我が生地
置炬燵四世の孫に対面す
子ら巣立ち孫どち巣立ち冬籠
歳晩の母系の墓所に参じけり
照り翳り照り翳りして冬の浪
水仙や海風に耳ふさがるる
山茶花の雪に塗れてゆけるかな
ぼた雪をはたき落として風神は
前髪を雪の簾にしてゐたる
大雪のマンホールより水の音
吹抜に吊すあれこれクリスマス
襟巻にノートを当てて諳んずる
雪晴の朝一番の登城かな
楠の垂らす雫や雪晴るる
橇に乗せ二人がかりで引きまはす
北風に出づれば天守屹立す
スリッパを履いて登城や底冷ゆる
橋の雪掻いては堀へ投げ棄つる
風花やブルドーザーが土均す
足跡の凍つてゐたる日陰かな
かいつぶり水輪消ゆれば泳ぎ出す
手袋をはづして涙拭ひやる
荒波や小さくなりし鴨の陣
冬菊の日を失へる黄色かな
枯れ尽くす芒の糸に残る棘
旅戻りサンタクロース来る家に


2013-03-24

第3回10句競作 岸本尚毅のオススメ 前北かおる 春水

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週刊俳句 第309号 2013-3-24
第3回10句競作 岸本尚毅のオススメ  前北かおる 春水
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2012-12-02

【落選展2012を読む】落選展よ水戸橋よ(一) 島田牙城

落選展2012を読む
落選展よ水戸橋よ(其の一) 

島田牙城



さういふ橋はきつとあるだらう。

うん、あつた。水戸街道の小菅あたり、綾瀬川に掛かる橋らしい。真上に首都高速小菅ジァンクションが掛かつてゐる。このジャンクションを通る人はこの先、この下が水戸橋かと思つて下さいね。

水戸黄門が妖怪を退治したのに因む命名だと、あるウェブサイトに記されてゐた。真偽は知らぬ。

僕が黄門様な訳も無いし、これから読む二十三編の落選作が妖怪な訳も無いけれど、なんといふ誤変換よと、楽しくなる。

ただ、このタイトル、気に入つてゐる。

俳句にとつて、付かず離れずなんてもう古いのではないか。波多野爽波が難解だと毛嫌ひされ、田中裕明が正しい理解もないままに打ち捨てられてゐた時代を過ぎ、今この二人に注目が集まつてゐるといふのは、「離れてゐるのに付いてるみたい」な俳句が面白いよねとなつてきたからではないか。

この理解からは、

帚木が帚木を押しかたむけて 爽波
大き鳥さみだれうををくはへ飛ぶ 裕明

には近づけないけれど、少なくとも、

大金をもちて茅の輪をくぐりけり 爽波
更衣一神教に遠けれど 裕明

などの理解を助けてはくれるだらう。

大金と茅の輪に、更衣と一神教に、それぞれ何の因果も無いのと同じやうに、落選展と水戸橋にもなんの因果もないのであつた。



では始める。

恋愛が模型の丘に置いてある 福田若之


「現代」を「今」の言葉で「自由」に書かうとして「さびしい」んだね。この人は。

模型の丘を言葉通り街の模型とか玩具を想像するよりも、現代の都市の丘をかう表現したと読む方が面白からう。

遊歩道が整備され、芝が貼られ、立ち木が程よく配置された中に、四阿やベンチが設けられてゐるやうな人工的な丘。

そこには恋愛発生器が置いてあり、恋愛もまた人工的に作り出される。

いや四阿やベンチと同じやうに、男女がキスをしてゐるやうな恋愛模型が置いてある図か。

動物の本能が生ましめる恋愛を離れた、模倣としての恋愛。綺麗事。人を好きになることまでをマニュアルに頼らなければならなくなつた現代の若者像か。

のどかだねカチューシャは凶器になるね 同

も面白いけれど、全体を通すと「書かう」としてゐる意識が目障りであつた。

からだから滲み出す倦怠感がもつともつと句の奥に沈潜すると、ユニークな書き手になるのではないかな。



銭湯の番台に煮るおでんかな 杉原祐之

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五十句目で漸くチェックが付いたのだけれど、この句にしても「まんま」感が拭えない。

推敲すればこの題材から十句は生まれるだらう。その下書きで終はつてゐるといふことだらう。

〈おでん煮えゆく銭湯の番台に〉〈女湯遠しおでん煮る番台に〉〈番台に煮えるおでんへまるはだか〉……百句くらゐ書けさうな予感がしてきたから、やめよう。それだけ、素材としては昭和半ば生まれの男を刺激したといふことだ。

〈年礼→新しく〉〈宿直→朝一番〉〈朝日→眩しく〉〈遠花火→終点〉〈空地→虫〉〈御用納→シュレッダー〉

おいおい。俳句を甘く見過ぎてゐやしませんか。



大桜の日裏の枝の濃かりけり 前北かおる

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あと〈前に富士背に上総富士浅蜊掻く〉〈各棟へ道分かれゆく菫かな〉かな。

ただ、掲句には注文がある。「大桜の」の〈の〉は要らないでしよ。〈日裏の枝の濃かりけり〉がしつかりした把握なのに、この〈の〉で間延びさせてしまつた。

それとこの人は、一句に材料が多すぎるよね。

〈城門・駐車・藪椿〉〈石畳・白杖・彼岸寺〉〈店先・電車・桜餅〉〈糸桜・日本・郵便局〉〈春昼・鳩・イルカショー〉。

踏み込み不足だから材料が増えるのだらう。もつともつと我慢の句作りをしてほしいなあ。



関節の足らぬさるすべりの咲けり 飯島葉一郎

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面白さうな人発見。目を瞑りながら物を見てゐる俳人とでもいふのだらうか。

シュールといへばさうなんだらうけれど、この人は、目と実景の間にある見えない壁を取り払ふことで始めて見えてくる景色を書いてゐるのではないだらうか。

写生派や極楽派は、見てゐるものを疑はないんだよね。

見てゐる目が曇つてゐるかも知れないし、目と実景の間にたくさんのフィルターが掛かつてゐるかも知れないのに、疑はないんだよ。

さるすべりは植物であるといふことを疑はないから、さるすべりの関節が見えないんだよね。でも、葉一郎さんにはそれが見えてゐる。

穴子百匹夜の大動脈にもぐる 同

この大動脈つて何だらう。

穴子のつぶらな目が二百、僕の心臓めがけて泳いで来る図を想像してごらん。総じてこの人の俳句は、僕を身震ひさせてくれるんだよ。

異端の正統派。

ただ、五十句で読んでみると、後半バテたのかな。〈椅子に椅子積み重ねてや春の暮〉とか前半はいつぱい印を付けたけれど、後の方にいくと〈モモイロハリエンジュの蕊いつまでも頭上にある〉など数句にしか印がつかなかつた。

そして〈河童〉〈舌〉〈言葉〉など特異な材料の重なりも気になるなあ。

大きく化ける人だよ、きつと。



はくれんやちひさな駅で乗り換へる 高梨 章

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この句はすごく気持が良い。句に広やかなものが流れてゐるからだらう。

ただ、あとの四十九句とのギャップが僕には理解出来ない。

そもそもなぜ「音楽」といふタイトルなのだらうか。

風ひかる音楽室に水充ちて〉はあるけれど〈音楽室〉と〈音楽〉は違ふだらう。

そして五十句のあちこちにちりばめられた短律や長律の句の語感は、ちよつと僕とは相容れない音感の持ち主のやうだ。ごめん、読めない。



永き日や擦つて燐寸に火の点けば 上田信治
五月の雨自分の靴が歩いてゆく 同
てふてふの誰とも遇はず日の暮に 同
月おぼろ二つのごみを一つにし 同

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「二つ」がタイトル。

〈月おぼろ〉の句が及第点であることをちやんと理解してゐる人といふことなのだし、……、あれ、一句目が〈二つある小さな方が春の橋〉なんだね。

これさあ、狙ひが見え見えではないのかなあ。

で、この句、議論出来るよね。〈小さな方が春の橋〉でいいのか〈大きな方が春の橋〉のほうが面白いのか。僕は〈大きな方〉へ挙手するな。

それと、後半に行くにしたがつて「て」の多用が気になつたよ。

(以下、次号)