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2026-02-08

岡田由季【句集を読む】岩淵喜代子句集『末枯れの賑ひ』評 冬の明るさ

 【句集を読む】

冬の明るさ
岩淵喜代子句集『末枯れの賑ひ』評
 
岡田由季

※ににん95号(2024年7月1日発行)より転載。


句集『末枯れの賑ひ』には十章に分けられて二六一句が収められている。秋の句に始まり、秋の句に終わる。各章のタイトルは、その章の一句目に置かれた句から採られている。どれも象徴的なタイトルだ。

『末枯れの賑ひ』の多様な句を読んでゆくにあたって、まずは日常の現実的な場面や、実体のあるものを題材とし、詩情ある印象的な景として提示している作品に注目した。

秋深し夜ごとに紅き栞紐

灯火親しむ候の読書の景であり、内容としては新しいものではないのに、目を引く句である。本、読むといった説明の言葉は省略され、「夜ごとに」という表現から、作中の人物が本に没入していく様子が、その息遣いまでもありありと伝わってくる。また栞紐の色が紅であることに映像効果があり、秋の夜の陰翳が伝わってくる。

電球の振れば樹氷林の音

「樹氷林」という比喩に詩的な飛躍があるものの、伝わってくるのは誰にも経験のある、切れたフィラメントが電球のガラス面に触れて立てる音だ。切れたばかりの熱の残る電球ではなく、おそらくもう冷め切ったものだろう。あの繊細で硬質な音は、確かに樹氷林につながっている。

白桃を水の重さと思ひをり

「水の重さ」という言葉単体からイメージされるものは漠然としているようであって、この句の場合にはすっと腑におちる。一個の白桃を掌にのせてその存在感を確かめているのだろう。重さと書かれているものの、単なる質量ではなく、白桃の弾力や、瑞々しい質感など、様々なものが喚起される。それらを含んだ「水の重さ」という措辞だ。

綿の実を握りて種にゆき当たる

綿の種は、ふわふわとした綿に厳重に包まれていて、その中のどこにあるのか、一見しただけではわからない。しかしその柔らかい実ごと握ってみると、種の固い感触に「ゆき当たる」のだ。実感のある句であるが、「ゆき当たる」という言葉にはそれ以上の広がりもあるように感じる。

ここまでに挙げた句は、映像であったり、音、触覚など、実体ある対象の様子を、的確な措辞により、まざまざと伝えてくれるものだ。そこから実景以上のものがたちのぼる雰囲気はあるが、書かれている範囲ではあくまでも現実の景だ。それに対し、作者独自の把握の仕方で、世界の不思議な様相を提示するような作品群がある。

雛市のことに明るき井戸の底

雛市の華やかな景に対し、井戸の底に着目することに意外性がある。井戸の底が明るいというのはどういうことだろうか。たまたま覗いた井戸に、雛市の明るさを投影したものだろうか。「井戸の底」という言葉からは、常識的には「暗さ」を連想するだろう。それを裏切っている。井戸の底から、雛市の明るい空を見ているような視点の逆転も感じる。世の秩序に、ほんの少しの揺さぶりをかけている。

ひとびとに柳絮飛ぶ日の来たりけり

柳絮が飛ぶのは一年のうちごく一時期のことだろう。その時期が到来した。「ひとびとに~来たりけり」という書き方は、どこか、ただならぬ雰囲気を纏う。柳絮が幻想的にふわふわと漂う、そのひと日を境に何かが起こりそうな、世の中ががらっと変わってしまいそうな予感がある。それは良いことかもしれないし、その逆かもしれない。自然がもたらす季節の穏やかな景を書きながら、予言のような不思議な印象を与えている。

魂を取り出せさうな青葉闇

「魂」は俳句の題材としては珍しくないが、この句で驚くのは「取り出せさう」という言葉だ。青葉の頃の生命感、鬱蒼とした暗さと魂の取り合わせには納得感があり、それを「取り出せさう」とすることで、生々しさが読み手に強く伝わってくる。魂に手触りがあるかどうかは不明だが、まるでそれを知っているかのように納得させられてしまう。

大げさな言葉を使わずに不思議さ、あたり前を超えたものを感じさせるのは、措辞の的確さや細部の行き届いた表現によるものであり、それは表現が巧みであるということだろうが、単なる技巧ではなく、対象へのまなざしの深さ、見つめることの集中力により、それらの表現が導き出されているように思える。

ここまで作者が対象を客観的に見ている句を中心に読んできたが、より作者自身やその思いが投影されている句も見ていきたい。

いつも拠るわが鬣の冬欅
欅の木は、夏は鬱蒼と茂っていて、冬に葉が落ちると箒型の樹形があらわになる。作者が自己を重ねているのは、この裸木の方の欅であり、鬣もライオンのような豪華な鬣ではなく、素朴で力強い印象の鬣だ。「拠る」というのは精神の拠りどころであるということだろうか。作者は裸木というものに好もしさを感じているようだ。

あとがきに「末枯れが始まると、林はその空を少しずつ広げて、いつの間にかどの樹も残らず裸木になってしまうのです。毎年その経緯を眺めながら、林の根元に日差が行き渡るのを、なぜかほっとしながら眺めています。」とある。夏の木々は生命の力に満ちている一方、前述の〈魂を取り出せさうな青葉闇〉の句のように、得体のしれないものをも抱えていそうである。木々の葉が落ちて見通しがよくなり、さっぱりと清潔な感じのする、明るい冬の林を、作者は親しく感じているのだろう。私事ながら筆者は野鳥観察をするので、葉が落ちると急に視界が良くなり、枝にいる鳥や地面を歩く鳥の姿が見やすくなることを体感している。夏よりも日光の強さや日照時間という物理的な明るさは少なくなるが、冬独特の視界の良い明るさがそこにはある。同じ章に〈八十路とは冬の泉のやうなもの〉という句があり、この句も「冬の泉」の透明感により、冬欅の句と共通の清々しさを感じる。これも冬の明るさである。

友といふ冬日の岩のやうなもの

『末枯れの賑ひ』の中には、ひとりの状態であったり、誰かが不在であったりと、孤の世界の句が多い。しかしこの句は「友」を題材としている。「冬日の岩」からは、温かくて頼もしい印象と、頑なでありどこか拒絶するような感じとの、異なった二つのイメージを受け取る。ひとりの親友のことを言っているようでもあるし、友というものの概念を言っているようにも読める。友はどこへもいかず傍らにいてくれるけれど、やはり自分とは異質のものだ。友のことを言いながら、この句からも孤心が伝わってくる。

天狗でも出ればと思ふ祭笛
空蟬の中より虹を眺めたし
羅を着て牢輿に乗りたかり
出会ふことあらばと思ふ酔芙蓉
鬼などに出会ひてみたし露めけば

直接に願望のかたちをとって書かれている句を抜き出してみた。異界への憧れの句が多い。天狗や鬼と会ってみたいという思いや、変身願望など、幻想の世界が書かれている。しかし空想的である、というのとも少し違うように思える。例えば〈空蟬の中より虹を眺めたし〉では、空蟬についてつくづくと、色々な角度で考えたり、眺めたりした末に、ついにふっと異界への扉が開き、その中に入っていく、というような手触りがある。対象を見つめ続けた先に、境界を少し越え、異界にひと時遊ぶ、そんな心の自在さが表れているのではないだろうか。

月夜には眼鏡の歌など歌ふべし

 眼鏡の歌とは何だろうか。可笑しみを感じる句だ。対象に深く迫る句がある中、このような緩やかなユーモアの句もある。例えば「月に模様」という章では〈鱧食べてしばらく月の赤かりし〉〈蛸の足食べて火星の近づく日〉〈半島の真ん中をゆく蝦蛄食べに〉と食べる句が続いており、構成の楽しさも感じる。他にも句集中にきっと作者の遊び心がそっと忍び込んでいる箇所はあるだろう。

水涸れて浮世の果ての古本屋
  
本を読むというのも、現実とは違う世界に遊ぶということだ。古書店で手に取った本に、知らず知らずのうちに夢中になっていたのか。ふと目をあげると、そこは浮世の果てのように感じられた。作者の視線はどうしても境界的な領域へ向かうようだ。「水涸れて」の、もの寂しい景も「果て」のイメージにつながる。

死というのは、誰でもがいずれ到達する異界である。『末枯れの賑ひ』には死についても独特の捉え方の句がある。

菊枯れて他人の仏間見えにけり

 「他人の仏間」のドライさにはっとさせられる。仏間というからには仏壇があったのだろうけれど、仏壇に祀られている故人や先祖との関係はその人のプライベートなもので、他人には関係ない。立ち入るべきではないものが、ふと見えてしまった。「菊枯れて」と直接の因果はない。しかし植物が枯れる頃、やはり作者の感覚は鋭くなるようだ。   

友の死を友の子が告ぐ鰯雲

『末枯れの賑ひ』中の死を扱った句には湿度を感じさせないものが多いが、この句も友の死という切実なことがらに対して乾いた物言いである。高齢となり、同じく年齢を重ねた友の死を知る場面は、実際このようになるだろう。現実を突きつけられたような気分になると同時に、友が正しく次の世代へ命をつないでいることにほっとするのだ。

広島の六日のあとの星祭

広島の六日とは当然に八月六日で、強く死のイメージと結びつく。そのすぐ後に来る旧暦の星祭は、鎮魂の祈りが行われるであろう。この句は八番目の章の第一句目に置かれており、そこから章のタイトル「六日のあと」が採られている。そう思って読むためか、この章には、死や生を見つめた句が多いように感じられた。〈初嵐われの命を置き去りに〉〈墓石に没年記すあかのまま〉

夫が来てしばらく桐の実を仰ぐ

この句も「六日のあと」の章の中にあり、そのこともあり、「夫」は既にこの世の人ではないように思われた。実際に桐の実を仰いでいるのは作者ひとりではないだろうか。そこに夫が来ていたような気配があった。生者と死者が同じ桐の実を見て、しばらくの時間を共有する。そんな静かなできごとが描かれているのではないだろうか。

『末枯れの賑ひ』には、不思議を感じさせつつも、ふっと視界が開けるようなすっきりとした読後感の句が多い。それはあとがきに書かれている、冬に向かう季節の木々が葉を落として裸木になってゆくイメージと、やはり通じているように思う。

 






2023-12-24

古書と枯木 岩淵喜代子『末枯れの賑ひ』の一句 西原天気【句集を読む】

【句集を読む】
古書と枯木
岩淵喜代子末枯れの賑ひ』の一句

西原天気


古書増えて枯木が増えて雀たち  岩淵喜代子

《古書》と《枯木》はよく親和する。時間の経過をともなうからだろうか。買ったばかりの新刊本のページをはじめて開くときは、新樹の下が似合うのと対照的に。

作者は《古書》に《枯木》に囲まれて暮らす。そこにやってくるのが《雀たち》、あのかわいらしい鳥たちなら、愛すべき場所、愛すべき時間といっていいのだろう。


句集『末枯れの賑ひ』は、集中、ほかに、《電球の振れば樹氷林の音》(むかし電球を振って確かめた。フィラメントが焼き切れたら、かすかな音がした。樹氷林とは白さでもつながる)、《夜ごと咲く月より白き烏瓜》などの繊細な句、また《待春の海より明けてきたりけり》《ひとびとに柳絮飛ぶ日の来たりけり》《父の日や二階から見る大欅》など、おおらかでのびやかな句(付言すれば、いずれも切字が効果的)が心に残った。

岩淵喜代子『末枯れの賑ひ』2023年12月13日/ふらんす堂


2018-03-11

【句集を読む】書物という世界 岩淵喜代子『穀象』の二句 西原天気

【句集を読む】
書物という世界
岩淵喜代子穀象』の二句

西原天気


句集を読んでいて、離れたページに収められた二句あるいは数句がセットになって心に残ることがある。

緑蔭の続きのやうな書庫に入る  岩淵喜代子

古書店に籠りて鳥の巣の匂ひ  同

一句目。緑蔭と書庫の類似は、色ではない。形状は、互いに遠くはないが(左右両側に樹々が、書架が並ぶところ)、それほど似ているわけでもない。にもかかわらず、得心できるのは、遮蔽され、包み込まれる感じ(物理的ばかりではなく、気持ちの面で)のせいだろう。

イメージの美しさは、緑蔭と書庫の属性の交換に起因するのだろう。すなわち、緑蔭は書庫から、その古びた外観、時間の蓄積を受け取り、書庫は緑蔭から有機的な質感を受け取る。

二句目。古書店のあの匂いに、藁やら土を感じ取るという句。鳥の巣を嗅いだことはないが、きっと古書の埃っぽい匂いがするのだろう。

二物(古書店と鳥の巣)の形状の(それほど近しくない)類似が妙味。同時に、「籠りて」の一語が「鳥の巣」にも響き、二物のイメージ・質感が往還する。


二句ともに、書物の世界が、閉じて、小宇宙の様相。このとき、書物がブツとしても世界を構成している点、注目すべき。多くの場合、ブツではなく、書物に描かれた世界・書かれた内容が意味する世界を要素としているのだから。


岩淵喜代子『穀象』(2017年11月/ふらんす堂)

2013-11-24

岩淵喜代子 広場 10句

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週刊俳句 第344号 2013-11-24
岩淵喜代子 広場
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10句作品テキスト 岩淵喜代子 広場

 広場  岩淵喜代子

大いなる真昼や海桐の実が熟れて
日曜の広場へ蹴り出す鬼胡桃
誰からも見えて広場の冬帽子
パソコン壊れ冬の泉がわが広場
冬雲雀第二広場は石畳
冬萌や石に埋もれし石の貝
冬ざれや古墳を据ゑて大広場
霜月の身を水平にして深夜
梟を迂遠の果てとしてゐたる
梟に胸の広場を空けてをく


2008-06-08

麻里伊さんとの再会 岩淵喜代子

〔俳句つながり雪我狂流→村田篠→茅根知子→仁平勝→細谷喨々→中西夕紀→岩淵喜代子→麻里伊

麻里伊さんとの再会 ……岩淵喜代子




麻里伊さんと初めて出会ったのはいつだったのだろうか。

とにかく、まだ麻里伊さんが、同人誌「や」を創刊するずーっと前である。

出会ったのは、赤坂にある岡田史乃さんの家。辻桃子氏がお仲間を引き連れてきたのだが、その中に俳号を、ご夫婦でマリーとキュリーと名乗る方がいた。解説するまでもないのだが、その名は科学者マリ・キュリーのもじりである。当時、そのことが妙に印象に残っていた。

二度目に出会ったのは、どこかのパーティだった。そのときはじめて、あのときの麻里伊さんであることを確認し合った。そうしていつの間にか、麻里伊さんの店で行なう句会にお邪魔するようになっていたのである。

当時は、その名前が印象的であったが、いま麻里伊さんを思い浮かべるときに、「十朗が…」という口調が一番印象的である。

十朗さんとは、「や」の編集長であり、「アン」の料理長なのである。なんだか麻里伊さんが「十朗が…」というときに、呼ばれた中村十朗さんが大型犬セント・バーナードに見えてしまう。

私はいつも、その大型犬のセントバーナードの手料理を食べるのが楽しみで「アン」に通っているのだ。店で句会をしているときに、なかなか名乗りが上がらないと、誰かがカウンターの向うへ「十朗さんの!」と声をかける。そうすると料理の手を止めて、「あ! そうだ」と、いかにもセントバーナー犬のようなのっそりとした声を上げる。

麻里伊さんの第一句集『水は水へ』はそうした句会で手渡された。それさえ私が「ににん」を創刊してからだから、現在は出会ってから20年くらいの月日が流れていることになる。

人去りて花野あらあらしく在りぬ

青空のなみなみとある十二月

声ひそと蛍箒を先頭に

松茸の土も木の葉も有難く

水は水へ流れて夏の盛りなる

以上の句は、「あらあらし」「なみなみと」「声ひそと」「有難く」「水は水へ」の目次になった作品。そうして最後の作品が句集名「水は水へ」となる。

俳句に思想が現れるとしたら、それは作者の視線を辿れるか否かである。一句目の人の去ったあとの花野を見詰める孤独感。二句目のきわめて日常的な充足感。三句目の懐かしさ。四句目の松茸への手放しの喜び。五句目の視点を据えた季語の扱い。句集全体に、大見得を切るような句は一つもない。

象を見て寒い寒いと帰り来し

春の宵電車揺れればみな揺るる

椅子の上にこれから帰る冬帽子

階段があれば見上げてクリスマス

人形のやうに筍抱き帰る

咲いて椿落ちて椿とおもひけり

葉桜の蔭に男を置いておく

こうあげてくると、麻里伊さんが、きわめて等身大で浮かび上がってくる。象を見て寒いと帰ってくる日常の宜い方。電車に揺れれば同じように揺れて、椅子の上に置かれた来客の冬帽子への視点が優しい。なにかとても安心するのである。

もう、そろそろ第二句集を出してもいいのではないかと、待っているこの頃なのである。 


(了)


2007-10-21

岩淵喜代子  迢空忌

岩淵喜代子  迢空忌




手 の な か に 温 か く な る 棗 の 実

舞 茸 の 軽 し 芭 蕉 像 な ほ 軽 し

な に も な し 萩 の ト ン ネ ル く ぐ り て も

火 の や う に 咲 く 花 も あ り 迢 空 忌

枝 々 の 中 透 き と ほ る 返 り 花

出 棺 に 真 昼 間 使 ふ 烏 瓜

三 度 目 は 猫 に 転 が す 烏 瓜

大 叔 母 や 末 枯 れ て ゐ る 杏 の 木

晴 天 の 樹 に 樹 の 拠 り て 末 枯 る る

見 慣 れ た る 欅 も 木 の 葉 落 と し け り