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2024-04-21

ゴリラ読書会〔16号~20号〕十句選

十句選


◆小川楓子

私が『ゴリラ』研究を始めたきっかけは谷佳紀の作品の変遷を知ることであったため、最終回は谷の十句を選びました。

言葉の骨はこのコーヒーの残暑かな 18号 谷佳紀(以下同)

言葉の骨とは、何だろう。俳句の文体か。あるいは「骨のある人」のように自らの信念を貫くような言葉について表しているのだろうか。谷に尋ねれば「言葉の骨は、言葉の骨ですよ」と言うような気がする。「コーヒーの残暑」には気だるい初秋の皮膚感覚がある。「このコーヒー」があるからこそ閃いた一句なのだろう。

残暑の候一掴みの服にバッタ乱れ 18号

「一掴みの服」という措辞は、薄く軽い夏服、さらにはバッタの羽を想起させられる。残暑の候→一掴みの服→バッタ乱れ、と言葉が言葉を追うように作句されているので、意味は追わず言葉の質感を味わいたい。

道路の肉ゆらいで透明昼深し 19号

「ゆらいで透明」なのは陽炎だろうか。肉体を持つ作者が立っている道もまた肉であるならば、母体回帰のような感覚を得たのかもしれない。観念に重きを置く書き方は、その後の谷ならば一蹴したにちがいない。

言葉たち水たち仏画の筋肉たち 19号

平安時代に描かれた普賢菩薩像や孔雀明王像を思い描いた。柔らかな皮膚や脂に包まれたように見える仏の姿であるが、浮くために脂肪を必要とする水泳の競技選手のような筋肉が仏にもついているのだろうか。あるいは、画力のことを筋肉と表しているのだろうか。いずれにしても水に漂う言葉と仏画への想像は自由だ。

ダルマ落としもピテカントロプスもしみじみ引力 19号

たま「さよなら人類」がリリースされたのが1990年。「二酸化炭素をはきだして/あの子が呼吸をしているよ(中略)今日人類がはじめて/木星についたよ/ピテカントロプスになる日も/近づいたんだよ」という歌詞は当時より今の方がリアルに感じる。「しみじみ」がユーモラスである。

私から前方が出て地のすべて 19号

「走るときはウルトラマラソン、歩くときは作句」の谷にとって地面は、何より近しいものだっただろう。風を切りながら道を走ると自分の両側の風景は変わってゆくが、前方はどこまでも似たような地面が続く。私である作者が迫り出して地が生まれるような疾走感が伝わって来る。

梅の木の空腹に凭れとまどう 19号

私の空腹が凭れた梅の木にも伝わって空腹を分かち合っているような気がしているのだろうか。いや、とまどっているのだから違う。作者は、梅を眺め、香りに満足しているが、梅の方には渇望する気配を感じたのだろう。梅の欲のなんと健やかなことか。文体の捻じれ方のレトリックがこの時代の谷にはまだ残っている。

引力は好調僕らの手がつつむ 20号

経済が安定成長期から、バブル景気に向かう時代に引力というのは前向きな言葉としてよく使われていたように思う。トヨタ自動車の1983年「コロナFFセダン」キャッチコピーは「僕らに引力、コロナの引力」であった。「引力は好調」という措辞は、谷の元よりの明るい性質から生まれたと感じるが「僕らの手がつつむ」は、経済や科学の進歩が様々な課題を解決できるという希望のある時代だったからではないだろうか。

山裾の揺らぎは雨中の山高帽 20号

山裾が雨でよく見えないことを揺らぎとして捉えている。山裾さえもはっきりとは見えないのだが、山の全体像を想像して山高帽を思い描いたのだろう。ya-yu-u-u-ya-uという揺れるような音の響きから導かれた言葉として、山高帽がすっと頭に浮かんだのかもしれない。

鳥たちへ川がひじょうに落ちついている 20号

非常に落ち着いている状況が日常なのだろうということを「ひじょうに」という表記から感じる。鳥たちへ/川がひじょうに落ちついている と読むと私信のような独り言のような呟きに感じられる。上五で切って読まないならば、鳥と川の存在が溶け合っているような不思議な風景が見えて来る。歌人の永井祐の作品を彷彿した。


◆川嶋ぱんだ

ゴリラ作品は、この読書会でも韻律が話題になっていたように、口に出して読んでみると独特な調が楽しく感じられます。今回の課題であった『ゴリラ』16号~20号の選をするとき、各号20句前後は抜いてしまい、最終19句に絞ってかなり迷って泣く泣く9句落として10句を選びました。選んだ俳句についていくつか感想を述べます。

馬鈴薯が芽立つ瞬間貴族とは 行田泓

馬鈴薯の芽が出た瞬間の光景を想像するとき、春に下萌のように、やわらかな地中から芽がにょきっと生えてくるところを想起します。「貴族とは」が、下五に出てきますが、貴族的な人物や生活などは想像することがなく、貴族の「貴」という言葉のイメージから、そこに光が降り注いでいるような読みをしました。

あ・い・うインク壺から独逸 早瀬恵子

「あ・い・う」と中黒を使った表現は、インクが滴っているような感覚があります。独逸もここではヨーロッパのドイツを意識するよりも漢字で書いたときの独逸の「逸」という字から、インク壺からインクが滴り漏れるという感覚があります。

後略の三日月 プチブル的に ぬ 荻原久美子

一字空け作品というのが私の個人的なテーマであるので選んでしまいました。一字空けは言葉のイメージを強調する作用がありますが、この句の場合は最後の一字「ぬ」という文字(音)が強調されています。本来的に「ぬ」一文字的には何も意味を持たないはずですが、「プチブル的に」という溜めが効いていて、「ぬ」が小市民の将来の不安というか、人生のまだ見えぬ欠けた部分の屈折が出ているような気がしました。

天の川ロー足かざしてはるばる 久保田古丹

ロー足は、そのままローソクの意味で捉えました。ローソクって上はメラメラと灯っていますが、足元には溶けたローが溜まるじゃないですか。だからこの「ロー足」は上部の火よりも足元の部分に注目が集まる感じがしています。天の川という遥か遠くのものと、ローソクがつながる感覚が面白いと思いました。

軀のうちに樹のうらにまわる霧さむいね 原満三寿

軀から樹、樹から霧へと次々に展開していくのが面白いと思いました。「う」と「き」の音の連続でテンポ良く読めるのですが、最後の「さむいね」でストンと現実に戻るような感覚があります。文字の羅列としては長いのに口に出してみると五七五の定型よりも速い感覚があります。

校庭は影の静寂落し穴 谷佳紀

五七五には収まっているのですが、意味的なつながりがあまり感じられない言葉の連なりで、面白く感じました。「校庭は影の静寂」という日常会話ではあり得ない言葉の結合ですが、「校庭は影の静寂」と言い切られてしまうと静かな放課後の光景をイメージせざるを得ません。そこに出てくる「落とし穴」は人生の落とし穴みたいに、なにかしらの意味として捉えてもいいかもしれませんが、校庭に突如として大きな落とし穴が現れるような虚構の景として読むと静寂が掻き乱されるようで心がざわざわしました。

しんがりや駱駝と分かつ鼻音グー 鶴巻直子

「しんがり」は、「しりがり(後駆)」の音が変化したものだそうです。音が変化したことが関係しているとは思いませんが、後ろを歩いてそうな駱駝、駱駝といえば、鼻、鼻といえば鼻音というふうに連想ゲーム的に広がっていきます。光景としては縦に長く広がった隊列の象徴として駱駝が鼻をピクピクさせているように思いました。

カーテンに目玉が一個目的地 谷佳紀

大きなカーテンから感じる視線。目玉が一個なので片目で覗いている光景だと思います。その目玉が恐ろしいものかと思ったら「目的地」と着地する。「目的地」と言われることで、恐ろしさから、地図上に示されるピンマークのような無機質で安心できるものに変わります。

坑内にしたたる水は血じゃないぞ 在気呂

軽い感じで書かれていますが、発想のなかに、洞窟のような場所から滴る水が血かもしれないということが暗示されています。軽い感じでユーモアたっぷりに書かれていますが、実は軽くなく、ホラー的な句なのかなって思いました。この句を一読した時にやはり小川楓子さんの「にんじんサラダわたし奥様ぢゃないぞ」という作品が思い浮かびましたが、在気呂さんの作品の方が意味的な色合いが強く出ているような気がしました。

泣くから抱くけっきょく揚羽きて哭く 原満三寿

この句を見たとき、音の反復が山口誓子の「たゞ見る起き伏し枯野の起き伏し」のように感じられました。

かなり要素が詰め詰めで、音はつながっているけど、意味は途切れ途切れで前半部の「泣くから抱く」と後半部の「けっきょく揚羽きて哭く」は繋がらない。そこで断絶があるから音的には気持ち良くても簡単には読めないという感覚があります。


◆黒岩徳将

ほうれん草になりそう石に耳が湧く 谷佳紀

「なりそう」の後の中間切れを大きな断絶ととるか、シームレスにフレーズ同士が感覚でつながっているととらえるかで感じ方は大きく変わりそう。そもそもほうれん草になりそうなのは私?石?私の方が面白いか。ほうれん草は石というよりか土に親しい。どんな石か?「湧く」も耳が複数だと思うと恐ろしい。耳はほうれん草になりそうな私の鼓動を聞いているのか。
 
臍にくる過剰の空と水の股間 谷佳紀

臍、空、股間と視点移動がめまぐるしい。無茶な句だが映像ではなく身体感覚で捉えよといっているかのようにも考えられる。

ぽおちどえっぐキリンひとりを裏山へ 荻原久美子

ポーチドエッグとフレーズには何の関係もない。せいぜい卵の暖色とキリンの色味ぐらいだろう。キリンに裏山へ勝手にいかせるのは寂しさと奔放さが1:1である。「ぽおちどえっぐ」平仮名表記はどうか。この黄身が流れ出すゆっくりな速度感でキリンが山へいくのかもしれない。

静脈瘤にふれ鎮守の森のめまい 早瀬恵子

まだわかりやすい水準な気がする。鎮守の森に馴染めていない。感覚の揺らぎを読者と共有できる範疇で句をおさめようとしている。この句がどうというよりも、破天荒な句にある程度慣れてしまったのかこの句がまだ「読める」かもしれないと思っている自分の感覚に不思議さを覚える。

曙を噴きつつタンクローリ母系なる 原満三寿

母系と書かれると父系との対比を思わざるを得ないのだが、タンクローリの中にある液体を想起しているのかもしれない

さるすべり白さるすべり次いで喪主 前田圭衛子

暑さが続く中の色の赤→白→黒の移行。「次いで」と植物と喪に服す人間が同じ地平に置かれていることの感慨などを感じた。

又逢う日までと小さな旗が消えていった 久保田古丹

久保田の句は11-15号よりも素材やリズムの張りが薄れて、さざなみのような郷愁を感じられるものが多い。これも平明と言えなくもないラインの俳句かもしれない。

ハンカチほど濡れて昼星離りゆく しものその・まゆみ

「濡れ」具合で二つの物をつないでおり、抒情的な句のように見えるのだが、リズム感に少しのごつごつ感があり生命感もある。

語を失す潦たえずさざなみ 上田睦子

「言葉」というものが失われた世界の空虚感がぼおっとしたリズムで消えゆくように書かれている。技巧的にも見えるが自然に紡がれた感じを魅力的だと捉えた。

染めても白い髪戦争を観ている 多賀芳子

10句中「カラス浮き雀がのぞくヘイ立春」のような気楽な句もあるなかで落差が大きい。白に黒を入れても白というのは過去の俳句が「白」や「黒」を塗り重ねてきたこととはまた違う虚脱感があるのではないか。観ているのはテレビなどの映像か。


◆外山一機

手があらわれ顔のあたりを降りてゆく 猪鼻治男

具体物というよりも、突然現れるものの不気味さと暴力性を、どうしようもないまま目のあたりにするしかない傍観の感覚そのものを書いているのだと思います。触覚や視覚に訴えるような書きかたに説得力を感じます。

うとうとと母が目を欲る十三夜 荻原久美子

夢うつつの母の様子はいかにも平和ですが、その母に意外な精気が宿っていることを思わせる不意打ちのような一句だと思います。

春魚の目をあけてする共食いや 原満三寿

「目をあけてする共食いや」というフレーズのインパクトが秀逸だと思います。それだけに、上五(あるいは下五)をどうするかが問題になります。「魚」としたことである種の理屈(合理性)が生まれていますが、「春」としたことで共食いの爛れたような美しさが付与されて、さほど理屈が気にならないように思います。

さらさらと川原無尽の蝌蚪のしみ 上田睦子

おたまじゃくしがたくさんいる様子を書いているだけといえばそれまでですが、「さらさらと」というオノマトペが中原中也の「一つのメルヘン」の河原に射す陽ざしを思い起こさせ、何だか水のない川に「蝌蚪のしみ」が無数に残っているようにも見えてきて惹かれました。

焚火して日本とよぶ国のありし 久保田古丹

焚火という、野趣があり数名で囲んでいることをも思わせる火を前に、遠い日本への思いを馳せているのでしょうか。日本への愛憎を感じさせる一句だと思います。

大夕焼匙に吐き出すものの核 しものその・まゆみ

遠景の夕焼と近景の核という構図が美しいと思います。「匙に吐き出す」というところに、ここに描かれている人の慎ましい生き方が見えてきますが、同時に、その人の生々しい身体感覚を見逃さずに描いているところがリアルだと思いました。

立葵ひとり離れて夕べのひとり 山口蛙鬼

一つだけ離れて咲いている立葵のさまを書いているようにも見えますが、どう咲いているかはともかく、立葵の咲いているさまに自らの孤立感を投影しているのだと思います。立葵の発見から投影までの過程が「ひとり」のリフレインによって見えてくるように感じました。

耳鳴りの春雨のさざなみに入る 市原正直

耳鳴り・春雨・さざなみの音としての類似性に着目して詠まれた句だと思います。それだけであれば安直ですが、この「入る」の主語が「耳鳴り」なのか「春雨」なのか判然としないところや、「さざなみに入る」が「さざなみのように聞こえる領域に入る」ということなのか「春雨が(春雨自体がさざなみをかきたてるように)さざなみに対して降っている」ということなのか判然としないところが、かえっておもしろいと思いました。

夜の川早し蓬に手を触れて 大石和子

黒々と流れる夜の川の早さと、その川の思いがけない表情に怖じ気づきふいに触れた蓬の手触りや匂いが感じられました。ただ、この「蓬」に託されているイメージはもう少し深いものがあるような気もします。

かの沖にかのびいどろやうたかたや 荻原久美子

沖の波間に浮かぶ「びいどろ」ではなく、その「びいどろ」を想起しようとしている人間の言葉をそのまま句にしているような句。「かの」「や」の繰り返しが独り言めいていて、その人にはこの「びいどろ」が見えているのだということが伝わってきました。


◆中矢温

質問したいこと:今回私は「好きであること」と「定型でないこと」を判断基準として、十句選をした。次の十句のなかの任意の句について、解釈しやすい・しづらいを三段階で評価してみた。他の参加者の方の印象との違いを話してみたい。

※★が多いほど、私にとって読みやすかったことを意味する。

眼下君の背ひかる川と共に ★★★ 山口蛙鬼
新年であり杭十本蒸発す ★★ 谷佳紀
ひなまつり分別の乳流す ★★★ 早瀬恵子
点線まで死までアイロン軽すぎる ★ 鶴巻直子
青空をたべて消化しきれない木馬 ★★ 久保田古丹
自由の女神のよだれ月と歩く ★★★ 早瀬恵子
ギャと板を泣かせホッホと泣いている ★ 谷佳紀
古本売る日が来た枯野きんきらきん ★★★ 行田泓(ぎょうだ・こう)
アパート借り排水音の多忙のむ ★★ 山口蛙鬼
昨日は茶を欠いて土の虫を掘った ★★★ 大石雄介

眼下君の背ひかる川と共に 山口蛙鬼

『ゴリラ』の句群のなかでは、比較的解釈しやすい句だと感じた。二人の人間が横に並ぶのではなく、少し遠いところから見下ろしていることから、君と作中主体の人間関係のあわいにポエジーがあると思った。★★★

新年であり杭十本蒸発す 谷佳紀

『ゴリラ』の句群のなかでも、解釈の難しい句だと感じた。この世界のある柵から杭が十本消えてしまったのだろうか。かつて2000年問題があったように、新年はデジタル的に言えば桁や数値が切り替わる。人為的暦の切り替わりと、人為的な境界を作る杭の蒸発が呼応していると読むのは、あまりに説明しすぎだろうか。★★

ひなまつり分別の乳流す 早瀬恵子

授乳期において母親は乳の張り具合をコントロールできるわけではなく、「分別」なく乳が張ることもある。ここの「乳流す」は、作中主体が搾乳機から取った乳をシンクに「流」し捨てているのかもしれない。あるいは「血を流す」というように、「乳」を「流」しているのかもしれない。アイロニーのある句だと感じた。女の子の健やかな成長とは何なのだろう。次の17号に野地菁子の小説で乳児を母親一人で育てる話があったので、そこともリンクして今回頂いたかもしれない。★★★

点線まで死までアイロン軽すぎる 鶴巻直子

「点線」から「死まで」ではなく、「点線まで死まで」なのだ。ここの「点線」とは何だろう。またここの「アイロン」は家事のひとつの「アイロン掛け」と理解していいのだろうか。「軽すぎる」に滲む不満の気持ちをどう解釈しよう。★

青空をたべて消化しきれない木馬 久保田古丹

消化不良で苦しんでいる木馬がいると思うと、何だか途端にかわいらしい。身に余る餌に手を出してしまったのだろう。★★

自由の女神のよだれ月と歩く 早瀬恵子

微笑を浮かべて遥か遠くを見晴るかす自由の女神にも、食欲故か、うたたね故かよだれを垂らすことがあるかもしれない。近くの大きな自由の女神と、ニューヨークの夜を散歩する作中主体と、遠くの小さな月との三者が面白い対比を生んでいる。『ゴリラ』の句群のなかでは、比較的読みやすい俳句だと感じた。★★★

ギャと板を泣かせホッホと泣いている 谷佳紀

板は何に使う板だろうか。「ギャ」という声は驚きや苦痛を表していそうだし、「ホッホ」という声は笑い声かもしれないし、そうでないかもしれない。『ゴリラ』の句群のなかでも、解釈の難しい句だと感じた。★

古本売る日が来た枯野きんきらきん 行田泓(ぎょうだ・こう)

古本の査定なり回収なりの来客・車を待っている感じがした。雪のあとか雨のあとかきらきらと大地が光っている。郊外の寂しい枯野を思い出した。『ゴリラ』の句群のなかでは、比較的読みやすい俳句だと感じた。★★★

アパート借り排水音の多忙のむ 山口蛙鬼

キッチンの水やトイレの水、お風呂の水、ベランダの排水口のなかはまっくらで、多忙の日々の忙しなさと重なり合うところがある。ここの「排水音の多忙のむ」は「排水音が多忙を飲み込む」ということだろうか。文法的には違うかもしれないが、個人的には「排水音の/私が多忙を次々と飲み込んでいく」という風に解釈したい。★★

昨日は茶を欠いて土の虫を掘った 大石雄介

「茶を欠く」というのは茶葉を切らしたということだろうか。あるいは茶を飲む機会を逸したとうことだろうか。「土の虫を掘る」という措辞に、あまり農作業という感じがしない。報告的な俳句だが、作中主体の晴耕雨読的な暮らしぶりが透けているようで印象に残った。★★★

今回の号の感想:俳句

十句選には挙げなかったが、新しい参加者の方(例えば18・19号に「しものそのまゆみ」)もおり、最後まで活発な同人誌だったと思った。

詩の寄稿(17号の丈創平の「鈴」や、20号の市原千佳子の「黒い領地」)や小説の投稿もあり、間口が広い俳句雑誌でよいと思った。俳句を広く捉えるゴリラ編集部のお二人の姿勢がここからも読み取れると思った。因みに昔の写真雑誌には写真のコツ等の他に映画情報の欄があったりした。他の俳句雑誌の掲載コンテンツも、過度に俳句に縛られる必要はないのかもしれない。

計二十号を通読するなかで、特に好きな作家が見えてきた。「象の鼻の半径手紙まつしろ」の多賀芳子、「芭蕉忌や遊んで遊び足りないと思う」、「白盲の海よ一私人として泡か」の毛呂篤、「マカロニ並列この夏の空っぽ」「曇天ヴギウギ蟹も来たり」「ひんやりと緋の非売品フラミンゴ」の鶴巻直子の三人が特に好きだと思った。


◆中山奈々

猪鼻治男の10句

妻を呼ぶすでに荒野となりし部屋 猪鼻治男(以下同)

部屋も荒野となったが、呼ぶ人物も荒野となってしまった。妻も一緒に荒野となってくれるだろう。

玄関を海と書いたが時間が不足

導入部を大きくしてしまってそのあとが続かない。時間が足りない。しかし今は。いつかはなされるはずだ。

僕の燃焼しずかに犬の尾を焦がす

僕のなかにくすぶるような燃焼かと思ったけど、他にも影響を与えるようだ。犬だけど。犬だけど。でもこの犬、ケルベロスってことはないかい?

上手ないちにち夕陽みづから断頭台へ

何もかもうまくやれた。誇らしく死ねるぐらいに。さて死は訪れるだろうか。断頭台を燃やしてしまうのではないか、夕陽。

飛行機の胴体が行く窓を買った

窓を買ったというか、この窓がある家を買ったのだ。滑走路が近すぎる家なのだろう。胴体が行くは見えるということではない。胴体の発する振動が窓に来ているのだ。
 
青年の背後で疲労を化粧する

事後のことか。青年はすやすや眠るが、こちらは青年が起きる前までに顔はもちろん身体も化粧しなければならない。

病室のエネルギー兼ポリバケツ

嘔吐を入れているのか。嘔吐はエネルギーを必要とする。そしてあんな疑いようのない青色。嘔吐とポリバケツが出合う。パワー!

象というアスファルトなり水撒かれ

象とアスファルトを重ねた面白さ。どっちにも水を撒いてほしい。はやく。

めざめなり憲法の本いつも裸体で

立派に鎮座していそうな憲法の本が実は裸体。無防備。自分は攻撃されないと思っているか、真面目な顔した変態質なのか。憲法の本と裸体と、わたしはどちらに目覚めたのか。

あき部屋の人骨ひびき合っている

「あき」「ひび」のさみしきひらがなの形、音。秋、日々、罅へつながる。かつて誰かが住んでいた思い出が、肉体の奥の奥のさみしい形で立ち現れる。


◆三世川浩司

草になりそう石に耳が湧く 谷佳紀

感覚の写生句ですね。発語から自発する韻律に導かれ生起する、内面を吟遊するような想念が自覚できれば十分です。

世界は暮色手を合わせど合わせど 久保田古丹

景ではなく、リフレインによる心情が具体的です。生まれる前から定められていたと思わせる、魂の孤独が胸を打ちます。

青空をたべて消化しきれない木馬 久保田古丹

耳が痛くなるほど無音で人の気配がまったくない映像にただよう、憧憬にも似た寂寥感のなんと切ないことでしょう。

指の先は微熱の石であり夜明け 谷佳紀

プロセスそのものも美しい作品です。ひどくデリケートな身体感覚が、純粋な観念へ丁寧に置換されています。

ギャと板を泣かせホッホと泣いている 谷佳紀

内容を負わない突然の「ギャ」から引き出された、作者らしい手つかずの感情である韻律に、ただ心が遊びました。

青空も鳥の空腹どっと梅林 原満三寿

空間おおきな自然からの感応を率直に定着したがゆえの、フリーハンドな感興を好ましく思います。

紅梅かなあたらしい階段は官能 前田圭衛子

中七以後の観念を、ただちに追認できます。季語ではない、オリジナルの紅梅の物証感が強烈に担保していますので。

自動車に虹がはりつき全速全員 山口蛙鬼

日常での偶然の出来事を鋭敏に感覚し、振幅ゆたかな感情へ転換できることに、憧れさえいだいています。

鳥手なずけていたり全部墨染 前田圭衛子

ここでの墨染は、エロティックでもあります。概念性を抉る、ナンセンスでいて必然な世界観に惹かれてやみません。

白牡丹それから酸素不足なり 前田圭衛子

よくぞ白牡丹を把握したものかと。作者の身体経由で再構築された直截な感応により、全面的に生理が更新されました。


◆横井来季

わがどくろならべて医師が雲を刺す 猪鼻治男

医師のキャリアは、助けた患者の数と死なせてしまった患者の数で決まる。この句では、まさに後者の場面に放り込まれた医師が、自分のメスを雲に突き刺している様子が見て取れる。「雲を刺す」には、医師の美しさを感じる。では、猪鼻は何故患者を死なせてしまったこの医師を美しく描いたか。それは、手術の途中で匙を投げる医師に、猪鼻が反感を抱いているからだろう。結果の良し悪しに拘らず、最期までメスを握っていた医師は美しい。

点線まで死までアイロン軽すぎる 鶴巻直子

手が滑り、アイロンが、すっと死に触れてきたら……という句。点線までに軽いのは使いやすくていいが、死まで軽かったら、困る。この句が発表されたのは1990年。ダーウィン賞が出来たのが1994年ということを考えると、もうこの頃には人の生き死を軽んじる風潮も生まれていたのかもしれない。

傷だらけの魚すくわれて廊下をはしる 猪鼻治男

「ゴリラ」の句は、従来の俳句セオリーから離れようとする句が多い。その影響か、「雀海に入りて蛤となる」というような、伝統的荒唐無稽さと重なる俳句も作られている。この句も、その一つと言えるだろう。意味について、特に言及することはない。この魚の勢いを楽しみたい感じの句だ。

言葉の骨はこのコーヒーの残暑かな 谷佳紀

残暑が混じっているコーヒー。考えると、とても不味そうだ。甲虫のすりおろしが、澱のように浮かんでいそうだ。そしてそれこそが言葉の骨である、と谷は言っている。言葉の骨は、谷にとっては、泥臭い膜に近いものだったかもしれない。いつでも折れるが、いつでも治せられるような感じがする。

ドライフラワー脳死に似てるから嫌い 安藤波津子

平明な句。ドライフラワーだけでなく、ドライフラワーが好きな人も嫌っていそうなところがいい。「脳死に似てるから」が率直すぎるところがあるが、現代の価値観に反抗する姿勢がよく見えていると思う。

又逢う日までと小さな旗が消えていった 久保田古丹

こちらも平明な句。「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」を思い出したが、こちらはもっと情緒的だし、どこかノスタルジーを感じさせるところがある。

草笛のみんなびしょぬれとなりつつ一つに 山口蛙鬼

草笛を吹き終わった様子を考える句は数多い。これは、大量の草笛が子供達に捨てられている場面だろう。「びしょぬれとなりつつ一つに」は、うす気味悪さを感じさせる表現である。「みんな」という表現の幼さに隠されているが、この「みんな」は、実は「全体」と言い換えられる類のものだろう。この句の内容を、そのまま評論で書こうとしたら、きっと仰々しいものになるだろう。しかし、それを全く感じさせないところいい。

染めても白い髪戦争を観ている 多賀芳子

社会が発展した結果、現代日本にはカラーが溢れることになった。阿部がいうよう
に、多賀は、戦中・戦後の傷を負ってきた者だ。だから、多賀にとって、戦争といえば、太平洋戦争を映した白黒の映像なのだろう。世界では、既に有色の戦争が始まっており、テレビにもそれが映っているが、多賀にとっては、それらはどこか作り物に見える。だから、この「観ている」には、どこか他人事な感じがある。

二十二時砂だらけの蛇口にひとりいる 市原正直

どうして二十二時なのだろうと、こういう句を見るたびに思う。大抵は、意味自体ない(=語感が重要)ものが多い。この句も、「二十二って、上から見たら蛇口っぽいなぁ」ぐらいしか特に思うことはなかった。二十二時→砂だらけの蛇口→ひとりであるという状況が、うまい具合に噛み合いすぎているきらいもある。だけれど、状況がぽつんぽつんと現れてくる感覚が、嫌いではなかった。

知らぬ部屋では胃は砂袋ぬれて重い 市原正直

基本的に、人間は知っていることしか俳句にすることができない。だから、知らない部屋に放り込まれると、意識がどうしても自分の身体の内側に向かう。俳句や詩が、身体化している人ほどそうなるだろう。だから、「ぬれて重い」のしんどさは、俳句や詩が身体化していることのしんどさでもあると感じる。

2019-11-03

【週俳9月の俳句を読む】逃げ 川嶋ぱんだ

【週俳9月の俳句を読む】
逃げ

川嶋ぱんだ


私は、俳句を読むとき、一度俳句の解釈を行ってから俳句を鑑賞するという手順を取ります。頭からしっかりと読み下して解釈を行うと、何が書かれていて、何が分かり、何が分からないかが、はっきりすると考えているからです。

本稿は、(  )内に俳句の解釈。その後、俳句の鑑賞を行なっています。本稿は、もっぱら自分の勉強のつもりで書いたため、なにぶんおかしなところもあるかもしれません。解釈や鑑賞におかしいところがあれば指摘していただけることを期待しています。


蟬の時間 五十嵐秀彦

大河往く黒蝶の遠きサイゴン  五十嵐秀彦

(大河を往く黒蝶にとっての遠くのサイゴン。)

大河は逆流することはなく上流から下流へ流れていく。「往く」は行ったきりで帰って来ないことを示しているのかもしれない。黒蝶にとって遠いサイゴンは、別の世なのかもしれない。ちなみにサイゴンはいまのホーチミンのことらしい。

頸椎の組糸ほつれゆく炎暑  同

(頸椎という組糸がほつれてゆく炎暑)

「首」と「頸椎」は同じ体の箇所だが、頸椎と表現されるとひとつひとつの骨を意識する。さて、それを組糸と表現したとき、折り重なってできた糸的なものを想像できるかというと、すこし難解な気もする。「炎暑」の体現止めが、力なく崩れていく頸椎の様子をイメージさせ、骨同士が折り重なっている感がある。

炎天や母さん死はまだ怖いですか  同

(炎天だ母さん死はまだ怖いですか)

「炎天や」のこの場所に母は、いない気がする。「母さん死はまだ怖いですか」というのはなんとなく死者である母に対しての呼びかけで、つまりは自分の死に対する恐れを表現している。気がする。

踏切は植民の鐘浜蓮華  同

(踏切は植民の鐘のように聞こえる。浜蓮華が咲いている)

踏切を植民の鐘(経済発展のための侵略か、迫害の追放か)だとは普段の生活で思ったことはない。なるほど、行きたいところには汽車で行けるが、行きたくないところに運ばれていくことも歴史的にあったのだ。たとえば汽車で運ばれる様子がホロコーストを連想させるかもしれない。この句では浜蓮華は思ってもみたかった場所に生えていて、綺麗且つ絶望のようだ。不安がよぎる象徴として踏切と浜蓮華が存在している。


蟬の時間聞こえなくなるまで涅槃  同

(蝉の時間の聞こえなくなるまで涅槃に)

蝉の声がしている間は煩悩から解き放たれた。と取るべきか、蝉の声がしなくなると煩悩だらけと取るべきか。句のテーマが<閑さや岩にしみ入る蝉の声 松尾芭蕉>に近い気がする~で、読みが止まってしまった。もっと広がりがある読みのできる方の評を聞きたい。

迸る滝にヒト科をかがやかす  同

(迸る滝にヒト科をかがやかせておく)

「迸る(ほとばしる)滝にヒト科をかがやかしている」という状態は難解で光景を頭で描くのは難しい。無理やり落とし込むなら滝行か?

アルゼンチン・タンゴ窓辺に置く桔梗  同

(アルゼンチン・タンゴをしている窓辺に桔梗を置く)

アルゼンチン・タンゴを見たことがなかったのでユーチューブで検索してみた。やや暗い場所の動画が多かったので窓もやや暗い気がする。「窓辺に置く桔梗」のフレーズの既視感は強いが、表現攻めてばかりでも単調になるので、手堅い言葉の置き方の句があってもいいのかもと思った。

満潮の香にあぢさゐの朽ちゆけり  同

(満潮の(潮の)香に紫陽花が朽ちていったんだなぁ)

過去の詠嘆「けり」があるから満潮を過ぎてやや潮が引きつつある時間帯と捉えたい。潮と花が朽ちる(枯れる)は理屈が通りすぎるかも。

鶏頭や終りし時がはみ出して  同

(鶏頭だ!終わった時がはみ出して)

「や」で切っているから単純に、あかあかと咲いた鶏頭が枯れたあとの姿だとは読めない。「終わりし時がはみ出して」の捉え方が難しいが、無理やり解釈すると、部屋の使用時間が過ぎているカラオケみたいなことか。

反世界色の日暮や秋薔薇  同

(半世界色の日暮だ。秋薔薇)

角川俳句歳時記によると薔薇は夏だけしかのってない。<思はずもヒヨコ生れぬ冬薔薇>は河東碧梧桐の代表句であるから、冬薔薇くらいは季語として項目が設けられているかと思ったがなかった。それはさて置き、「半世界色の日暮」というフレーズだけだと分かりにくいが、「秋薔薇」まで読むとブラウンぽい世界観なのかなと思った。


水を注ぐ 若林哲哉

窓といふ窓開いてゐる昼寝覚  若林哲哉

(窓という窓が開いている昼寝覚)

窓という窓が開いている昼寝覚は心地良さそうだが、「昼寝覚」だと一句全体で意味が通りすぎて余白が少ないか。

父の髪母より長しねぢれ花  同

(父の髪が母より長い。ねぢれ花が咲いている)

ねぢれ花は、たしかに髪を束ねている感がある。上五中七にかけて、すこし句材そのまま感があり説明しすぎと思ってしまった。俳句は分かりやすい方がいいと言う人もいるので句会では点数が入りそうだが、「長し」の言葉の使い方が名詞を信頼していない感じがする。

揚花火果てて砂漠の匂ひかな  同

(揚花火が果てて砂漠の匂いだなぁ)

揚げ花火から砂漠の匂いというのが詩的な飛躍で素敵に思う。においは火薬の臭いなのだろうけど、ここでは心地よく感じられる。ここでも「果てて」が言い過ぎで、どうしても理屈に流れる要素のように思われる。

出目金や天津飯の全き円  同

(出目金だ天津飯が全き円だ)

出目金のぷくぷくと丸い感と天津飯の円の共通点を紡いだのは手柄か。やはりここでも「全き」までダメ押し的に言う必要があるのかなぁ。と私の感覚。

太腿に缶挟みをる油照  同

(大腿に缶挟んでいる油照)

「大腿に缶」が曖昧な捉え方で、缶ジュースの缶もあれば、はごろもフーズの缶もあってそれぞれ全然形が違うし、親切に読めばジュースの缶だろうけど、はごろもフーズの缶の線も否定する要素がないので。どんな缶だったのかまで描ききって欲しいと感じた。大腿に挟んだ缶と油照のベタベタ感の雰囲気だけでは完成度が物足りない。

パイナップル喉をとげとげしく通る  同

(パイナップル喉をとげとげしく通る)

頭からそのまま読めばよい句で、すっきりしていて分かりやすい。サーフェス(表面)をセンス(感覚)として捉えたことは成功だと思う。句群の中で一番立っていたように感じた句だ。

おとがひのゆつくり乾く扇子かな  同

(おとがい(下顎)がゆっくり乾く。扇子だなぁ)

おとがいがゆっくり乾くが難解。濡れたままの顎をそのままにしていたのだろうか。「扇子かな」には、たしかにゆっくり乾く感がある。

蟬しぐれコーラの泡のせり上がる  同

(蝉しぐれのなか、コーラの泡がせり上がる)

コーラの泡がせり上がる様子を蝉時雨の生命感と取り合わせた。調和と取る人もいるだろうが、やや作り込み過ぎ。一読の驚きが少ない

肌脱の男と水を注ぎあへり  同

(肌脱の男と(どこかへ)水を注ぎ合っている)

さて、「と」の相手は男だろうか、女だろうか。水を体に掛けているとして、相手が女なら、この男は益荒男?男なら男色?何かの肉体労働としてなら、世界観として近世から近代くらいだろうか。欠けている部分が読みの幅を広げるに至っていない。

標本の鯨の眼窩夏の果  同

(標本の鯨に眼窩があった。夏の果であった。)

標本の鯨には眼窩はそりゃあるだろう。それを夏の果と置いたことで得るイメージは夏休みの終わりくらいだった。標本の鯨に眼窩に焦点を当てたところから更にもう一歩掘り下げるような表現を期待してしまう。


杉檜 クズウジュンイチ

立秋や老いて十指のあたたかく  クズウジュンイチ

(立秋だ老いて十指のあたたかくある)

立秋になって夏の暑さが和らいだころ、十指のあたたかさに老いに芽生えた感覚といったところだろうか。老いてないので実感を得られなかった。

蜩の声は曲がらじ杉檜  同

(蜩の声は曲がらない杉桧の生える山)

蜩の声はまがらない。どうしてだろう。その答えはこの句にはないが、蜩の声が曲がらないことで杉檜の木の硬さのなかにある質感の違いに意識が向けられる。気がする。

静かなばつた口から泡を噴いてゐる  同

(静かな飛蝗は口から泡を噴いている)

飛蝗が泡を噴いているのかそこまでじっと飛蝗を見たことがないのでわからなかった。「静かな」が蛇足のようで、飛蝗の口の細かな動きまでイメージさせるのに効果がある。

いなごあたかも銃撃の砂埃  同

(いなごがあたかも銃撃の(ように飛んでいる)砂漠)

かつてテレビの仰天映像でみたような気がする光景。

棋士の指反つて小皿の黒葡萄  同

(棋士の指が反って小皿の黒葡萄を取った)

「棋士の指が反つて」までで、駒を動かすところをぎりぎりまで想像させておいて小皿の黒葡萄という裏切り。面白さだけでなく、黒葡萄を取るときの指の動きの繊細さまで想像させられたので、悔しい。いとも簡単にこういった句のような構成を作れるようになりたい。

鵙鳴いて襟が合成皮革かな  同

(鵙鳴いて襟が合成皮革だなぁ)

別に鵙か鳴いたから襟が合成皮革だったと気がついたわけではない。「柿食えば」でもいい気がする。それよりも、「襟が」の「が」のひねり。他は??と思わせ想像の余地を作っている。

同じ田に椋鳥同じ木に帰る  同

(同じ田に椋鳥同じ木に帰る)

同じ田んぼの椋鳥が同じ木に帰るところまでは見ていないだろうから、描写したわけではないと思うが、リフレインを駆使して、つがいを想像させる上手い句。

紫は通草に染みて卵焼き  同

(紫はあけびに染みて卵焼き(は黄色い))

紫色の通草ではなくて、通草に紫がしみたという表現の倒置は俳句の骨法のように感じる。通草に紫が染みる代わりに、卵焼きからよごれた色が抜けたような感覚になる。ふわふわした黄色がきれいな卵焼きをシメージさせる。

やさしくて指をしたたるレモン汁  同

(やさしいので指をしたたっているレモン汁)

ささくれがあると、レモン汁は指にしみて痛いような気がする。「やさしくて」の措辞が「かなしくて」になってもあまり変わらない気がした。

死にながら墜ちて櫟の実なりけり  同

(死にながら墜ちていく櫟の実であったんだぁ)

櫟の実が落ちていったんだぁ〜という実感について「死にながら」という形容があまりピンとこなかった。


蓑虫の不在 鈴木健司

着火からはじまる宴竹の春  鈴木健司

(着火から宴が始まる、辺りは竹の春だ)

着火から宴が始まるとは、焚き火のことだろうか。竹をさわさわと風が吹き抜けて気持ちが良さそう。

釣瓶落し少し怠惰になる轍  同

(釣瓶落としに陽が落ちて、少し怠惰になっている轍だ)

釣瓶落としに陽が落ちる、さっきまでくっきりとあった轍がぼんやりと見える。「怠惰になる轍」が難解で言葉の面白さに頼っている感は出ている。

旧友のこと思ふなり鳥威  同

(旧友のことを思っていると鳥威(がきらきらひかる))

旧友のことを強く思っている。鳥威は近くにあってもいいが、この句の場合は故郷の光景を眼裏に描いたと捉えることもできそう。

肉厚な林檎の皮を弄ぶ  同

(肉厚な林檎の皮を弄ぶ)

「肉厚な林檎の皮」まで描くと下五の置き方が難しい「弄ぶ」の着点は既視感が強く、言いすぎた感もある。

三日月の枕を高くしてゐたり  同

(三日月の枕を高くしている)

「三日月の枕」が比喩になっていて、ここを面白いと思えるかが勝負。「三日月の枕」以後を捻り過ぎても面白くないし、そのままでも面白くない。「三日月の枕」だけで世界が完結してしまっている。

言ひ訳はいらない蓑虫の不在  同

(言い訳はいらない。蓑虫は不在である)

何に対しての言い訳かは分からないが、言い訳は必要ない。そして蓑虫は不在である。この句では、ふたつ並べることの面白さが分からなかった。

稲妻や回送列車の薄笑ひ  同

(稲妻だ回送列車が薄笑い(しているようだ))

稲妻で一瞬の明と暗を表現するのはとてもきれいに決まっている。「回送列車の薄笑い」の比喩が想像できる範疇に収まっている気もする。

足元にからまつてゐる秋思かな  同

(足元にからまっている秋思だなぁ)

秋思のように概念を物体にする方法は多い。また、「〜は秋思だと」認識する方法も多い。今回は概念を物体のように捉えたパターンでこの方法で無限に作れてしまう。

木の実落つ明日閉店の喫茶店  同

(木の実が落ちた。明日閉店の喫茶店がある。)

木の実が落ちる場所の喫茶店が明日閉まる。木の実が落ちるので喫茶店としての立地は良さそう。

三角を繋ぎて秋の野に至る  同

(三角を繋いで秋の野に至った。)

三角を繋ぐが分からない。分かるのは秋の野にたどり着いたということだけだ。だが「秋の野に至る」というフレーズには既視感がある。

好きな句を選んで評をつけたり、褒めやすい句ばかり選んだりするのは「逃げ」な気がしたので全句に評をすることにした。率直に書くことは自分の勉強になると思って書いたため、いくぶん偉そうになってしまった。作者の五十嵐さん、若林さん、クズウさん、鈴木さんには乱暴な評をつけ、些か申し訳なく思います。この句評に時間を注ぎすぎて、仕事が進まない。その代わり、かなり真剣に書いたが、それでも雑な評になったものもあるのではないかと公開を恐れている。だが、全句に触れたおかげで、同じ9月の週俳を読むの他の評者と比較できるので、それを私は楽しみたい。


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若林哲哉 水を注ぐ 10句 ≫読む
646 201998
クズウジュンイチ 杉 檜 10句 ≫読む
6482019922
鈴木健司 蓑虫の不在 10句 ≫読む