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2020-10-04

【句集を読む】暮色 照屋眞理子『猫も天使も』の一句 西原天気

【句集を読む】
暮色
照屋眞理子『猫も天使も』の一句

西原天気


かなかなや暮れてみづがね色のこゑ  照屋眞理子

声には色がある。音が色として見えたモーツァルトの例を持ち出さなくとも、五官はそれぞれ独立して働くばかりではないから、ここに奇妙や不思議を感じることはない。

水銀でもなく、Hgでもなく、マーキュリーでもなく、メルクリウスでもなく、quicksilverでもなく「みづがね」と呼ばれたその色は、他の語を排して「みづがね色」であると同時に(ほかでもなく、みづがね色)、読者それぞれの重層の上なる「みづがね色」(ことばもヴィジョンも音も、かならず重層的だ。あなたが1秒前に生まれたまっさらな感覚器でないかぎりは)。

生きているかのような金属、天体、神話といった重層の上に/と同時に、「みづがね」という古色を帯びてなめらかな感触をもつ語でしかあらわせない声を、作者は聞いた。

「や」で切れるから、この声は「かなかな」の声ではないとの解したのちも、かなかなの鳴き声は伴奏のようにきらきらと鳴っている。おまけに、かなかなはヒグラシ。「暮れて」と重なり、句の後半部分の音や響きへと連続する。声の主はさだかではなく、さだめる必要もない。

誰かの声も、かなかなという声も、すべてが「みづがね色」だったのだろう。

今年は、9月が深まってからも蟬の声がなかなかやまなかった気がします。

●

照屋眞理子さんは2019年7月15日逝去。『猫も天使も』が遺句集となった。




照屋眞理子句集『猫も天使も』2020年7月/角川文化振興財団



2019-01-27

【週俳12月の俳句を読む】絵本の外 照屋眞理子

【週俳12月の俳句を読む】
絵本の外

照屋眞理子


飛行機も車も喋り絵本冬   相子智恵

「小さい頃は神様がいて……」と荒井由実が歌った「小さい頃」というのは、まだ人間ではなっかた頃をいうのだろう。

まだ人間ではないものの周りでは、ありとあらゆるものが喋っていた。それは絵本の中だけに限らない。

まだ人間ではないものは、そのままでいたいものだとも思う。
 
だが、そのような存在のおかげで、否応なく親という人間になってしまった側の存在は、そうはいかない。

子育てというのは、人間以前の存在を人間に仕立て上げ、社会に漕ぎ出す船に乗ることが出来るようにしてやらなければならないからだ。

飛行機や車が喋るのは、絵本の中だけのことにしておいてもらわなければ……、そう思う。

子育てということを経験したことがないものには、それがどんな体験なのか、よく解らないのだが、この句の下五、「絵本冬」という、一切の説明を省いた着地の仕方に、子育てという一見楽しげな時間の中に混じる、名付けようのない寂しさ(に似たもの)を感じてしまった。


第608号 2018年12月16日
■花谷 清 おとぎ話 10句 ≫読む
第609号 2018年12月23日
■樋口由紀子 清潔な靴 10句 ≫読む
■浅沼 璞 冬天十韻 10句 ≫読む
■相子智恵 短 日 10句 ≫読む

2016-09-11

なぜ歴史的仮名遣いか 照屋眞理子

なぜ歴史的仮名遣いか

照屋眞理子



遅まきながら、夏井いつき第一句集『龍』の復刊を読み、ついでに既に手許にあった第二句集『梟』も思い出して開いてみたのだが、初めて、二冊には、作品の変化よりも先に大きな違いがあることに気がついた。

第一句集は歴史的仮名遣いであるが、第二句集は現代仮名遣いになっており、第二句集の「あとがき」には、「『歴史的仮名遣い』の呪文めいた効果を捨てがたく、迷う時期が長く続いたが、‥‥肝要なのは自分の感動を表現するのに最も適した『手法』『文体』『律』等を探し求めることであって『文語表現・歴史的仮名遣い』の遵守に腐心することではない……」とある。

夏井氏の決断に異を唱えるつもりは全くないが、「『歴史的仮名遣い』の呪文めいた効果」は、はてそれだけのことであろうかと、ふと思った。

いささか不細工な例文だが、

「蝶々はハ長調である」

という短文(「蝶々」は童謡のタイトルとでも思っていただきたい)をどのように〈読む〉か、考えてみる。〈読む〉は、正確には音声化すると言った方がよいかも知れない。

まず、現代仮名遣いでルビを振ってみると、

ちょうちょうはハちょうちょうである①

となるが、さてこれでこの短文が読めるだろうか。実は読めない。

歴史的仮名遣いでルビを振ると、

てふてふはハちやうてうである②

となり、こちらには読み方が示されているのである。

例えば、①を、日本語を学び始めたばかりの外国人が読むと、おそらく、「チョウチョウはハチョウチョウである」と、全ての母音「ウ」をはっきりと読むだろう。事実、私の知る外国出身で俳句を作る青年は、ローマ字表記を用いるとき、「chouchou wa ha-chouchou de aru」というような表記の仕方をしていた。
①はそうとしか読めないのである。

では、②はどうか。

これは、「チョーチョーはハチョオチョウである」と読む。

ローマ字で表すなら、「chōchō wa ha-choochou de aru」となる。

つまり、長音について、現代仮名遣いは読み分けるには不都合があるが、歴史的仮名遣いはきちんと読み分けているということである。

ハ行の仮名表記は「ー」で読み、「ちやう」など表記に「au」(または「ou」)が含まれている場合は「オオ」と読み、「調」や「兆」の「てう」の他、「灯」や「棟」の「とう」など単純に「う」で表記されている場合は「オウ」と読む、という具合に分化されているのである。

現代仮名遣いの不都合を、思いつくまま、もう二、三例。

「大通り」、これは現代仮名遣いでは「おおどおり」であるが、歴史的仮名遣いでは「おほどほり」とハ行の仮名が用いられている。

つまり、歴史的仮名遣いなら「オードーリ(ōdōri)」と音を思い浮かべながら読めるが、現代仮名遣いではそうは読めない。

「文明堂」、現代仮名遣いでは「ぶんめいどう」であるが、歴史的仮名遣いでは「ぶんめいだう」、すなわち「ブンメイドオ(bunmeidoo)」ときちんと読める。

尾崎紀世彦のヒット曲には不都合はないが、賛美歌はやはり「またオー(ō)日まで」と歌わなければ格好が付かない。しかし、現代仮名遣いではそのタイトルを「また会う日まで」と表記するしかなく、不格好が気になって仕方がない。

少し前の話になるが、オリックスに仰木という姓の監督がいた。テレビなどから聞こえる音声は「オーギ監督」であった。字面からは思いもよらない読み方のように思われるが、これも何の不思議もない。「仰木」は歴史的仮名遣いでは「あふぎ」で、「オーギ(ōgi)」と読むように表記されているという訳である。

さて、長音について、かなり端折った説明をしたが、何が言いたいのかというと、歴史的仮名遣いは、音の違いを、出来る限りその通りに表記しようと工夫した結果生み出された、非常に良く出来た発音記号ではないかということなのである。

それは音の違いをその通りに読み分けて味わいたい、という願いから生まれたものではないだろうか。

現代仮名遣いでは外来語の片仮名表記にしか用いられない「ー」までもきちんと表記しているのである。

現在では、短歌俳句の定型詩以外にはほとんど用いられない歴史的仮名遣いであるが、両定型詩にこれが残っているということは、何を示すのだろうか。

音を疎かにして定型詩は成り立たない、ということだと思う。

意味より先に音を楽しむ、定型詩にはそんな楽しみ方がある。現在まで歴史的仮名遣いを残してくれた数多の先達は、そのことをよく知っていたということではないだろうか。

音を楽しむという、詩の音楽性の一端を歴史的仮名遣いは担っているのではないか。

そして、やや乱暴で唐突な飛躍かも知れないが、言葉の音を蔑ろにすると、言葉は意味だけが幅を利かせてしまう。そんな風に考えるのだが、いかがなものだろうか。

現代仮名遣いと歴史的仮名遣い、新旧どちらが正しいかと言うことではない。

ただ、どちらが楽しいかと考えるなら、歴史的仮名遣いの方が断然楽しいという話である。


2013-02-10

照屋眞理子 雪の弾 10句


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週刊俳句 第303号 2013-2-10
照屋眞理子 雪の弾
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