〔週俳8月の俳句を読む〕田中亜美
もはや子どもではない作者の覚醒
絵扇の中へ帰れぬ子どもかな 山口優夢
子どもには帰れない場所が、いくつもある。たとえば午睡のみじかい夢、空想のふしぎな物語。帰れないということは、いちどはその世界の住人だったことを意味しているのだろうが。
絵扇の絵も、初めは誰かによって眺められ夢見られることで、描き出された世界だ。その絵の世界へ、現実と夢幻の世界を難なく<ワープ>して入り込んでしまう子どもがいる。そのような子ども時代もあった。しかし、扇が広げられても、すぐに折り畳まれてしまうように、夢の世界もすぐに消えてしまう。
「帰れぬ子ども」を見つめているのは、もはや子どもではない作者の覚醒であり、「絵扇」の典雅な響きに、深い情趣が感じられる。
星合にささめく音の製氷機 小林鮎美
「ささめく」の響きに惹かれた。下五の「製氷機」と相まって囁くようなS音の響きが一句を貫いている。「星合 hoshiai」というやはりS音の入った季語の選択も、爽やかでナイーブな逢瀬を連想させる。
<明け方に通り雨あり秋に入る>のA音、<じゃがいもを潰す厨の暗さかな>の中七下五に籠められた、かるい鬱屈を感じさせるU音の母音など、韻律の感覚に優れた作者と思う。
金胡麻を炒るひとときや蝉の夕 津久井健之
蝉が降り注ぐように鳴く夏の夕暮れどき。戸外にはまだ陽光がのこって明るい。蝉の声と西日の眩しさを感じながら、台所で金胡麻を炒るひとときは、至福の瞬間に違いない。
この句から感じられるのは、晩夏の光景だ。ぐったりするような残暑ではなく、来たるべき秋を予感させる、恩寵のような夏の夕べ。酷暑をくぐりぬけたからこそ訪れる、恵みの季節への希望。そうした連想を可能にさせるのは、「金胡麻」、とりわけ「金」の美しい一文字である。
鏡には映り阿部完市話す 関 悦史
不思議な文体を用いた句である。はじめ、この句を読んだとき阿部完市という俳人を表象する上で、鏡や鏡に纏わるメタファーを用いることはいかにもありがちと思った(阿部完市=「あべかん」は精神科医でもあり、無意識は彼の作品ならびに作品論に通底するテーマだ)。だが、繰り返し読むうちに、「鏡には」の「には」の措辞に、意味の関節を外すような、あべかん俳句の世界を感じた。
無粋を承知しつつも、この句を既存の構文にあてはめてみたい。全体の主語(S)は「阿部完市」で、動詞(V)は「話す」となる。つまり、読み手がメッセージとして理解するのは、ともかくあべかんが話している、というだけのことだ。それ以上は、よく分からない。
ここで鏡「に」映りながら、あべかんが話している、というならば、一定の状況説明にはなる(つまらないけど)。ところが、作者はここで、鏡「には」と、思わせぶりな強調をほどこして、何が映るのかということに、注意をうながす。とはいえ、映っているものは示されない。不分明なまま、一句は、鏡のように、阿部完市の話している、その世界へ、あるいはその世界を映すことへと、うつろってゆく。
言い換えれば、ここには、不在の主語Xが隠蔽されながら暗示されており、それが阿部完市の作品世界と重ねあわされるのだろう。
ところで阿部完市といえば、<絵本もやしてどんどんこちら明るくする><精神はぽつぺんはいうぞぽつぺん>など、宙吊りにされたような独特の文体に非常に魅力がある。分かりそうで分からない、分からないけど何となく分かる世界を、その世界の豊饒を、いわば真空パックのまま、読み手に開示させるのが、うまい。
ゆえに、私はあべかん俳句を読むたびに、その構文の分析を試みたいような誘惑にもかられるのだが、それこそ、この句の作者・関悦史の示す「鏡」の術中にはまるということなのだろう。
今朝秋の針を落としてボブ・ディラン 山田露結
森の絵に色なき風を加へけり
残暑厳しき折、「森の絵」と題された十句に接して、爽涼の季節を少し先取りしたような気持ちになった。
第一句。この句を読んで、無性にボブ・ディランが聴きたくなり、しばらくは彼のCDばかり聴いていた。ややくぐもったその声に(音源自体がレコードじゃないの、という話はさておき)、レコード針が溝に着地するときの、独特の浮遊感を懐かしく思い出し、ギターのサウンドには、晩夏から初秋への移ろいを感じた。今もCDを流しながら、ボブ・ディランってこんなによかったっけ、と不思議な感慨にかられている。
とはいえ、ボブ・ディランの固有名詞が、アナログな音や初秋の訪れを感じさせる音楽の代表であるかといえば、必ずしもそうではないと思う。ふさわしい音楽は、ほかにいくらでもある。しかし、掲句の魅力は、この決まったような、決まらないような、不思議な固有名詞の提示の仕方ではないだろうか。今朝の秋を感じ、レコードでボブ・ディランを聴いた、というだけのシンプルな報告。そのことが想像の領域を広げており、一句に余韻をもたらしていると思う。
読み手の想像に任せるという傾向は、第二句の「森の絵」にいっそう顕著である。「森の絵」に「色なき風」を「加へけり」という、その行為の主体は、一応は作者と考えられる。だが、絵に描かれている森がどんな森であるのか、色の無い風とはどのようなものなのか(自然の風は透明であるが、それを絵として再現するためにはなんらかの色を用いなければならないだろう)は、一切説明されていない。この絵の描かれたキャンバスは「読み手」の想像と、想像に基づく創造をくぐりぬけることで、はじめてひとつの輪郭を結ぶのだ。
ここで「読み手」と定義されるもののなかには、おそらく作者自身も含まれているのではないだろうか。
己にとっても他者にとっても未知の世界があり、そこに投錨する、その投錨のために書かれる一句というものも、きっとあるだろう。
■ 西川火尖 「敗色豊か」 10句 →読む■ 山口優夢 「家」 10句 →読む■ 津久井健之 「蝉」 10句 →読む■ 中原寛也 「あなた」 10句 →読む■ 小林鮎美 「帰省」 10句 →読む■ 山田露結 「森の絵」 10句 →読む■ 関 悦史 「皮膜」 10句 →読む
■ 田口 武 「雑草」 10句 →読む
2008-09-07
田中亜美 もはや子どもではない作者の覚醒
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2008-07-13
【週俳6月の俳句を読む】田中亜美
【週俳6月の俳句を読む】
田中亜美
上書き保存のように漂い流れながら
あやめ咲ききつて古鏡となりにけり 八田木枯
空井戸をのぞき渓蓀となつてゐる
「華」と題された一連の作品には、ぼうたんや薔薇の句もあるが、終わりにおかれた「あやめ」の二句に、とりわけ魅かれた。
深い青紫や白色の花をつけるアヤメの花は、杜若や菖蒲の花によく似ている。「いずれアヤメかカキツバタ」ではないが、実際、「あやめ祭り」といっても、咲いているのは、菖蒲だったり杜若だったりすることもあるらしい。大きな違いは、杜若や菖蒲が水辺に咲くのに対して、アヤメは、草原などの乾燥した土地に咲く花であるということだという。もっとも、「あやめ Ayame」という言葉の響きは、五月から六月の、水気をたっぷりふくんだ、薄暗い、少し重い空気と、親和性があるような気がする。(むしろ「杜若 Kakitsubata」という乾いた語感の方が、よほど乾燥した土地に咲く花に、ふさわしいのではないか)。紛らわしいのは、仕方がないのかもしれない。
この句の面白さは、アヤメの花をめぐるそうした揺らぎを、平仮名の「あやめ」と、漢字の「渓蓀」で表記している点だ。「あやめ」と表記されるとたおやかで、少し湿度を帯びた感じがある。それが、古来は呪術的にも用いられたという古鏡のイメージと響きあい、翳りを帯びた、神秘的な世界を創り出している。
それに対し、空井戸の「渓蓀」は、からっと乾いた、物質的な感じ。白昼の印象がある。
花そのものの実体がある。そして、言葉によって紡ぎだされる、現象的な花がある。
「あやめ」は花の実体であり、「渓蓀」はこの花の現象とかさなりあう、作者の存在を想像させる。「なりにけり」「なつてゐる」の措辞の微妙な差異も、とても素敵だ。
花のあいだを自在に往還しながら、「華」という独自の時空を、作者は生み出している。
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硬球の縫目のごとき百足虫かな 齋藤朝比古
むちうちのやうな首もて扇風機
機知(ウィット)の句である。既存の意味を、くるんと反転させているのが、面白い。
第一句目。硬球の縫い目を見て、百足虫のようだと思うのは、よくある発想だ。ところが、作者の視点は、百足虫に向けられている。うねうね動くこの生きものの方が、硬球の縫目という静止した像に、収斂されている。逆転の発想が、実にシュールだ。
第二句目。最近は、ますます首を振る扇風機が、増えた。彼らは目を合わせるのも気の毒なほど、首を振っている。
平成のスピードにむりやりあわせた、昭和の家電なのだろうか。
ペーソスとしては別の味わいだが、<縦よりも横に長くて泉なり>も可笑しかった。
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雪の日のやうな朝日が紫陽花に 佐藤文香
ひた並ぶ昼の街灯あげはてふ
第一句。紫陽花にかかる朝日を、「雪の日のやうな」と見立てているところ。繊細な感覚が通っていると思う。雨の日はもちろんのこと、明け方や黄昏の薄暗い光源こそ、紫陽花によく似合うものだ。「雪」という、時空(季節)の上では離れたものを、ふっと持ってきたのもいい。雪の日の清新な呼吸まで、伝わってくるようで、涼やかな情趣が生まれている。
第二句。静かなモノクロ映画を観ているような味わいがある。「ひた並ぶ」「昼の」のhi音の頭韻が、夏の昼どきの気だるい、蒸したような空気を伝えている。昼の月もそうだが、昼の街灯という存在は、もっとも心もとない感じがする。それを「ひた並ぶ」と、やや思い入れをこめて擬人化させるところに、作者の心象が見えてくるような気もする。
<明易や吊れば滴るネガフィルム>という句もあるが、ちょっと不思議な仕方で、世界を感光させて、定着させている作者と思う。
ところで、「標本空間」というタイトルを、私は最初、無意識のうちに「漂本空間」と読んでいた。というのも、作品全体から何ともいえない、流浪の感触が伝わってきたからだ。
「標本」とは、「生物学、医学、鉱物学などで研究用または教育用とするため、個体またはその一部に適当な処理をほどこして保存したもの」(広辞苑より。傍点部筆者)である。それは一言でいえば、保存の欲求の産物である。
このことを敷衍させていうならば、十七音という限られた器のなかに、言葉を盛りこむ俳句という形式、そもそも、言葉を発するというそのこと自体もまた、保存への志向性を孕んだ、「ヒョウホン」的空間なのかもしれない。
だがしかし、この作者の言葉の使い方は、―たとえば、パソコン上の<名前をつけて保存>のように―がっちりと「標(しる)す」というものではないのではないか。
保存ということ。生存ということ。まるで<上書き保存>のように、「漂い」流れながら、運動そのものを「標して」いる。そんな気がする。
「標本空間」。―魅惑的なタイトルである。
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砂粒の光り出したる水着かな 榊 倫代
照り付ける太陽、潮風の匂い。子ども時代の海水浴の情景を、思い出した。焦点のぴたりと合った、気持ちのいい句だ。一抹の郷愁感も感じる。
「水着」には、<水着脱ぐにも音楽の要る若者たち 横山白虹>、<身にひしと乙女の頃の水着着る 赤松蕙子>など、その年代ならではの発見に満ちた句が多い。この句の場合は、小さい子どもの、小さな水着のような気がした。だからこそ、砂粒というごく小さなものが、自然にクローズアップされてくるのではないか、と。
全体の作品のなかには、<とんと背をたたき夏野へ子を放つ>などの分かりやすい吾子俳句もあるが、掲句の方に、よりつよく、母親の視点を感じた。
懐かしい、原風景に出会えるような喜び。吾子俳句を読む楽しさのひとつである。
夏休みが、待ち遠しい。
■八田木枯「華」10句 →読む
■佐藤文香 「標本空間」10句 →読む
■齋藤朝比古 「縫 目」10句 →読む
■望月哲土 「草」10句 →読む
■大野朱香 「来し方」 10句 →読む
■榊 倫代 「犬がゐる」 10句 →読む
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2008-03-09
【週俳2月の俳句を読む】 田中亜美
【週俳2月の俳句を読む】
それはもはや「手」という輪郭ではない田中亜美
花時のちひさき店に入りけり 矢口 晃
梅咲いてできない事はあきらめる 同
桜の花のさかり、午後のゆったりとした時間を想像する。「ちひさき」店には、店の規模などのほかに、これまで裸木だったところに花が咲き満ちて、店舗そのものが急に小さく感じられるようになったことへのかるい驚きがあるのかもしれない。桜のトンネルを潜り抜けて、ふっと店に立ち寄ること。華やぎにすこしだけ隔てられた、うつけた思い。
「梅咲いて」の句にも同様の、明るいメランコリーを感じた。
風船を膨らませたる手の匂い 神野紗希
海に降る霰の音を誰か聞く 同
風船そのものが持つゴムの匂いがある。風船に息を吹き込んでそれを膨らませる行為もある。だがこの句はそうした風船に纏わることがらではなく、あくまで「手の匂い」に焦点をあてる。このような絞りこみからみえるものが、風船を膨らませた際、どのくらい手にゴム臭さが残るのかといった現実的な問題では、つまらないだろう。ごつごつした手やしなやかな手、さまざまな手の感触を思い浮かべ、はたしてどんな手が「風船を膨らませたる」「匂い」を持つのにふさわしいのだろうかと、やや非現実的なものおもいにひたるのが、楽しそうだ。
すぐに飛びたってしまうもの。ある種の喪失を前に少しだけ触れる手の感触は、こんな感じなのかもしれない。それはもはや「手」という輪郭ではない、「匂い」という淡く希釈されてゆくものとして――。
感覚が鋭い作者と思った。まぎれもない自分の感覚したものを、その感覚の当事者としてではなく、すこし離れて傍観(傍―感?)者の位相から、「誰か聞く」ように書きとめる。
一人称と三人称、あるいは二人称。そう呼ばれるもののあいだを、汽水域を彷徨うような、レトリックが面白かった。
マフラーの僧と仲良くしておりぬ 宮嶋梓帆
訃報記事財布に入れて着ぶくれて 同
身近な人を亡くされて見送ったときの連作なのだろうか。全体を通して、とくに前半では、時間的継起がよく分かる。それだけに、より点綴的というか、モザイク的な後半の句群に魅かれた。
お坊さんがマフラーを巻いているくらいだから、よほど寒い日だったのだろう。その寒さが、互いの立場はひとまずおいて、つい「仲良く」させてしまうのかもしれない。日常のなかの非日常、ほんの少しぎこちないものを、親和感をこめて書いている。
「訃報記事」には、かろやかだが内向的な印象がある。レシートやらポイントカードの増殖する主婦の財布を持って久しいが、こうしたナイーヴな財布の使い方をしていた時期もたしかにあった、と思う。ここなら失くさないという安心感と誰からも触れられたくない密室感。
記憶もこんなふうに膨らんでゆくのかもしれない。
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ほほほほと口に手を当て毛皮夫人 中嶋憲武
酔うて寝て死んだふりする毛皮夫人 同
屏風絵にうなづく毛皮娘かな さいばら天気
いとをかし毛皮娘も伊勢海老も 同
<毛皮夫人×毛皮娘>は今回、もっとも興味深かったシリーズである。
最後にも書いてあるように、このシリーズは中嶋憲武氏とさいばら天気氏が、2008年1月のmixi内のそれぞれの日記の「一日十句」より自選したものである。記事作成にはWikipediaが参考にされているという。日付のそれぞれに付されたニュース記事があたるのだろうか。
「興味深い」というのは、同時に得体の知れないという意味も少しあって、mixiに入ってない=SNSの言説が実地で分からない、Wikipediaもあまり利用しない私には(ネットに疎いだけです。すいません)、どこまでこの<座>を共有できるのか、かなりまじめに悩んでしまった。具体的には、このシリーズを、「週刊俳句」のプリントアウト法にしたがって①各々の31句として読むか、②一連の流れで読むか、③両方を読むか――ということに最後までこだわってしまったのである。①は普段の方法である。③は妥当だが、アンケートの「どれでもない」に○をつけるような気もする。②で読んでみた。
いちおう定点観測を試みる。「毛皮」の言葉が出てきたのは、1月11日。二人とも使っているところを見ると、兼題だったのだろうか。1月15日も同時。そのあとはばらばらに二回ずつ(たぶん)。特定の誰かを暗示しているのか、あるいは、創られたキャラクターが動き出しているのか。よく分からないが、奇妙なリアリティがあった。
共感の理由らしきものを考えてみた。今年の冬はけっこう寒かったから、毛皮という季語の使いでがあった。どうも女のひとをめぐっては、本物、フェィクに限らず、生まれながらの毛皮属性値があるらしい。それはどうやらポケモンみたいに進化してゆくらしい(アニマル柄も同様で、無い人はまったく無いと思う)。あとは、何となくだが、自分も世の中も、脱脂されてなめされた皮膚のようになってきた、と。毛皮という語が喚起する野生のイメージとはうらはらに。
2008年1月という日付を前後して、単純にそう思うことが多かった。最近、目にした短歌に<何を偽装されてもきっとわからない 五感疲れてこの国に居る 齋藤芳生>というものがあった。
■宮嶋梓帆 記憶 10句 →読む■矢口 晃 いいや 10句 →読む■神野紗希 誰か聞く 10句 →読む■毛皮夫人×毛皮娘 中嶋憲武×さいばら天気 →読む
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2008-01-13
田中亜美 オマージュ
【週俳12月の俳句を読む】
田中亜美オマージュ
鏡中のこがらし妻のなかを雲 田島健一
「鏡中」「こがらし」という冷たく澄んだものと、「妻」「雲」という茫洋としたものを、大胆に対比させた一句。鏡中にこがらしが吹きわたるとは、どこか現実と乖離した思念、観念の領域に属することがらの暗示かもしれない。それに対して、リアルな存在である「妻」、そして「雲」にはやわらかく、かすかなぬくもりまで感じられる。
「中の」「なかを」の措辞も印象的だった。鏡の世界のできごとは、私たちの現実の虚なる<鏡像>に過ぎない。もしかしたら「雲」もまた、妻そのひとの曖昧な何か、とらえきれないなにものかの比喩であるかもしれない。
うつろいゆくもの。とらえがたいもの。しかしたしかにそこに感受された、愛おしい<他者>として。
一葉忌句点ほろりとぶらさがる 笠井亞子
pageと題された一連の作品には、書物、行間、頁といった、書字にかかわるモチーフが、ちりばめられている。メタ言語というか、書物そのものを題材にした書物といおうか。文学ではむかしから繰り返されてきた仕掛けではあるが、あらためて俳句になると、やはり面白い。
掲句、「ぶらさがる」に惹かれた。「読点(、)」などと較べると、文と文の切れ目に打つ「句点(。)」は、きっぱりとした記号という気がする。それを「ほろりとぶらさがる」としたところが、面白い。句点を打つ作家の、呼吸のようなものまで、つい意識してしまう。痩身で偏頭痛もちだったという樋口一葉そのひとを、想像してしまう(たぶん冷え性でもあったのでしょう。熱燗がおすすめです。足湯もよいそうです)。
<書く>という営為。そのなかでふとかいま見せる女性の情感、弱さのようなものが、「ほろりと」に感じられる。テクストと作家、両方へのオマージュ。
地に雪嶺生れ雪嶺に雲うまれ 相子智恵
対句的表現を巧みに生かしたスケールの大きい句である。「地に雪嶺生れ」で、地平線から空へとむすばれる壮大な景色がたちあがり、「雪嶺に雲うまれ」でさらに天へと空間がひらかれる。「あめつち」の時空。視点が下から上、地から天へ向かっているところに、なんともいえない臨場感がある。「雪嶺」の語の持つきっぱりとした清潔感も、とても心地良い。
一読、大きな「空間」を詠んでいるようで、悠々とした「時間」をつよく感じさせる。対句表現にかくされた力なのだろうか。
同じ作者に<深海に幻魚どろりとクリスマス>があるのも面白かった。
■ 浜いぶき 「冬の匂ひ」10句 →読む
■ 小池康生 「起伏」10句 →読む
■ 田島健一 「白鳥定食」10句 →読む
■ 太田うさぎ 「胸のかたち」 10句 →読む
■ 冨田拓也 「冬の日」 10句 → 読む
■ 相子智恵 「幻魚」 10句 →読む
■ 笠井亞子 「page」 10句 →読む■ 中原徳子 「朱欒ざぼん」 10句 →読む
■ 矢羽野智津子 「四〇二号室」 10句 →読む
■ 仲 寒蝉 「間抜け顔」 10句 →読む
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2007-12-02
田中亜美 エアポケット
田中亜美 エアポケット
羽の国の羽毛のやうな鱗雲 久保山敦子
全体にすっきりした端正な句が多く心地良く読めた。なかでも掲句は何でもないようで、いちばん心にのこった。
音読して、羽の国、羽毛、鱗雲のウ音ではじまる頭韻が印象的だった。
u no ku ni no 羽の国の
u mô no yô na 羽毛のやうな
u ro ko gu mo 鱗雲
全体はu , o音の母音がほとんどをしめる。上五・中七で「羽(u)」の音を重ねたのちに「やうな」でふっとあかるいa音へひらかれる。そして下五の「鱗雲」へと柔らかく着地する
復唱するうちに、今度は「羽の国(くに kuni)」の母音のi 音が響いてくる。奥羽山脈をいただく羽の国の風土。山国の夕焼けを繊細に感受する作者の姿が浮かんでくる。思いの深さも滲んでくる。
微妙に差異を含みつつ展開するリフレーン。音律のうつくしさをよく生かした句と思う。
生姜から生姜の花を育てけり 寺澤一雄
「生姜の花」ってどんな花だろうと思ったが(不勉強ですみません)、ジンジャーの花と思い、納得した。
ジンジャーの花は南国産の真っ白い花、清冽で甘い芳香を放つ。ごつごつしたスパイシーな生姜から花が咲くことには、言われてみれば、醜いアヒルの子が白鳥になるような驚きがある。おまけに(たとえば生姜焼きとかの)「生姜」って、(トロピカルな香りとかの)「ジンジャー」なんだよなぁと、あらためて言語記号の恣意性だとかに思いを馳せたりもする。そうこう考えるうちに「育てけり」という措辞がますます面白くなる。
この句もリフレーンを生かしているが、表記の点でとくに面白いと思った。
さつきから太陽に蝿枇杷の花 加藤かな文
陽溜まりのなかに蠅の居る風景を詠んだのだろう。「さつきから」の措辞に、ぼんやりとした冬の陽射し、なんともいえぬ倦怠感が感じられる。
「太陽に蝿」は、蝿があたかも太陽の黒点のように静止しているようなシュールな構図、鋭い感性の生きたスナップショットだと思う。だが、それ以上に「枇杷の花」という季語の斡旋が見事だと思った。白い小花が身を寄せ合うようにして咲く枇杷の花だからこそ、冬陽の柔らかい光源まで見えてくるのではないか。
ターナーの絵に描かれた太陽のような優しいイメージ。こんな陽射しにくるまれている蝿も悪くないなあと思えてきた。
月面が芒を過ぎてから見ゆる 鴇田智哉
十月の壁が染まつてきてをはる 同
私は氏の作品をまだ多く読んでいる訳ではないのだけれども、助詞の使い方の面白さに惹かれている。たとえば掲句の「月面が」「壁が」といった主格の助詞「が」である。
助詞「が」が使われることで、「~が~する」という構文上の主語・述語の対応は明確になる(それは多分に散文的でさえある)。ところが、主語と述語を対応させつつ意味を辿っていくと、今度は微妙にはぐらかされてしまう。そのことが前者のギャップと相俟って、このテクストが詩であることをより意識させているような気がする。
それにしても「十月の壁」が「染まつてきてをはる」というのは、何が「をはる」のだろうか。「壁」が毅然とした境界線のようなものの比喩だとしたら、裡側/外側から「染まって」くることは、「壁」そのものの存立を脆くする(=「をはる」)ということなのか。
思うに十月というもの自体、暑いような寒いようなひどくあやふやな、どうにも染まりやすい季節ではある。そしてそれは豊穣な実りの季節から末枯れの季節へ、ひとつの「をはる」ことへと向かう時空ではあるのかもしれない。
まるでエアポケットにはまりこんだ感じ、そしてそのエアポケットにはまること自体が、楽しい。
■ 久保山敦子 「月の山」10句 →読む■ 鴇田智哉 「ゑのぐの指」10句 →読む■ 寺澤一雄 「生姜の花」30句 →読む■ 加藤かな文 「暮れ残る」10句 →読む
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2007-07-08
田中亜美 白蝶
田中亜美 白 蝶
帆 船 は 祈 り の 位 置 に 夕 薄 暑
し づ か な る 拳 緑 蔭 過 ぎ る 鳥
頬 い つ も 張 り つ く 痛 み 夏 の 蝶
白 百 合 の 臓 腑 あ ら は に 咲 き に け り
白 き 砂 利 心 臓 に し て 金 魚 か な
白 日 傘 真 空 管 と し て あ ゆ む
息 止 め て し ま へ ば き つ と 踏 ま れ ぬ 蟻
い つ 逢 へ ば 河 い つ 逢 へ ば 天 の 川
ス ピ ノ ザ は レ ン ズ を 磨 き 天 の 川
擦 り 切 れ て 犬 と わ た く し 蝉 時 雨
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