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2021-09-26

【空へゆく階段】№51 歌仙という仕掛け 丸谷才一・大岡信・井上ひさし・高橋治『とくとく歌仙』 田中裕明

【空へゆく階段】№51

歌仙という仕掛け
丸谷才一・大岡信・井上ひさし・高橋治『とくとく歌仙』 

田中裕明

「晨」第48号・1992年3月

歌仙というのは三十六韻の連句のこと。これくらいは俳句を作るものなら常識として知っていよう。しかし実際に歌仙を鑑賞したり作ったり(巻いたり)ということになると怪しくなる。歌仙を楽しんだ経験のある人はほとんどいない。それだけ現代俳人は連句と疎遠になっている。

この本の初めに「歌仙早わかり」と題して丸谷才一と大岡信が対談で歌仙というもののなりたちと勘所を説明している。その中に現代俳句と連句との関係について触れたところがある。
(丸谷の、現代俳句は個人主義文学だという発言を受けて)
大岡 そうですね。現代の俳人が慎重な態度で連句に対しているのも、それをどこかで敏感に感じているからなんですね。連句に手を広げると、自分たちの俳句が子規以後の近代・現代俳句の本道から外れてしまいそうだという予感あるいは警戒心があるんだと思うんです。
丸谷 当然そうなんですよ。ただ本当のことをいうと、歌仙をやってみたほうが、現代俳句は新しい展開が出てくるだろうと思いますけどね。
たしかに俳人が歌仙を忘れてしまったがために失ったものは大きい。俳句が座の文学だと言っても、ほんとうは連句がそうであって俳句はもっと孤独なものだ。大岡が言うように個人主義文学は交渉相手として、あるいは仮想敵として共同体の文学というものを念頭においていないと先細りして駄目になるというのはまったく正しい。

また同じ対談の中で『武玉川』について述べたところもある。『武玉川』は江戸時代の付句集で、ほとんどが雑の句、つまり季語のない人事句である。川柳に近い滑稽な句が多いのだが、こういう雑の句が俳句というものの伝統を支えている(つまり『武玉川』の付句を生むような江戸の文明が明治以後の俳句の母体になった)という議論をおもしろく読んだ。それも現代俳句に対する共同体の文学の一つだろう。

しかしこの本を俳人が自分の俳句を腑活するために読むのは、この本の正当な読み方とは言えない。そんな特効薬ではない。もっと楽しい読物として、付合そのものや、その苦心談をおもしろがったらいい。

丸谷才一、大岡信が数人で歌仙を巻いて後からそのいきさつを座談形式で解説するというつくりの本はこれが初めてではない。一番初めは昭和四十九年で、この時は石川淳(夷齋)、安東次男(流火)と行っている。

そのなかにつぎのような大変に面白い付合がある。

  引くに引かれぬ邯鄲の足  夷齋
 モンローの傳記下譯五萬円  才一
  どさりと落ちる軒の残雪  信

俳句の中にマリリン・モンローが出てくるようなことはまずないから、かえって前後の句との関係が鮮明に見えた。歌仙はきまりや約束ごとがやかましいけれども、それだけ自由になれるようなところがある。

当時の歌仙から今回のこの本の歌仙まで二十年の時間が経過している。その間のものも出版されており、丸谷、大岡としてはかなり手慣れた感もあるが、今回は井上ひさしが加わって独特の彩りを出している。歌仙は四つおさめられていて、そのはじめは「菊のやど」と題されている。発句から第三までを引く(今回、丸谷は玩亭という号)。

 翁よりみな年かさや菊のやど  玩亭
  また湧き出でし枝の椋鳥  信
 名月に道具の月を塗り足して  ひさし

少し説明すれば、この歌仙の行われたのが芭蕉ゆかりの山中温泉で、奥の細道三百年祭が催されていた。だから翁とは芭蕉のことに違いないが、奥の細道の旅で山中にきた頃はまだ四十幾つである。発句はそういう諧謔も込めた挨拶になっている。

第三句で芝居の道具を持ち出したことによって、脇の椋鳥がまるで旅の役者たちのことを言っているようになる面白さ。この句については、後の座談会では次のような発言がある。
大岡 趣向を作るっていうのは、具合がものすごくいい場合があるけれども、場合によっては、連句の全体の流れの中で言うと変にコブみたいになるんです。上等な趣向だなと思うのが、流れとしては逆にコブみたいになるときがあるんですね。
井上 ぼくは最初、連句で一番大事なのは前の句に付けることだと思っていたら、実は、次の人がいるんですね。
小説家はドラマをつくりすぎるということか。俳句でもこういうことがありますね。

三人の中では井上が一番苦労しているが、時にはその井上の句がたいへんに楽しい。

  月に遊ばば我も李白ぞ  信
 なつかしや宇宙にうかぶ露ひとつ  ひさし
  宗達ゑがく松の島々  玩亭

読者は、宇宙空間をただよっている一粒の露になって、地球に青い日本列島を見るだろう。歌仙は一篇の長編小説だという発言もあったが、それは歴史小説でもあればSFでもある。

現代の文人たちの優雅な遊びの中に詩情があふれている。


2021-03-14

芭蕉から進むために 『連句新聞』創刊のこと 高松霞

芭蕉から進むために
『連句新聞』創刊のこと

高松霞


連句には「芭蕉に帰れ」というフレーズがある。十八世紀後半、芭蕉五十回忌から百回忌にかけて起こった蕉風復興運動のスローガンである。そして時折、現代連句の座においても同様のフレーズが口にされる。「芭蕉によれば」「芭蕉に用例がある」「芭蕉に帰れ」……しかし我々は本当に芭蕉に帰るべきなのだろうか? そこで、現代連句の作品を鑑賞し、この疑問への答えを導き出してみたい。

2021年春に連句総合サイト「連句新聞」がスタートした。全国10結社の連句作品と連句内外の創作人コラム、新形式を紹介するコーナーなど、現代連句の最新情報が網羅できるサイトである。

現代の連句作品は連句界の中だけで流通しており、外部からは実体が見えない状態が続いてきた。そこで、高松霞と門野優が「連句に興味のある人なら誰でもアクセスできる場所を」というアイデアでつくったものである。年四回、四季に合わせた作品を掲載し、現代連句とはなにかを提示できる媒体を目指していく。

では実際に「連句新聞 春号」の作品を見ていこう。

花冷やメモ箱からは物語 小池正博
 猫のよこぎる闇に東帝 角谷美恵子
春雷は寝床の中で遠く聴く 蒲生智子
(半歌仙「花冷えや」の巻)

「大阪連句懇話会」の作品。第三まで引用したが、幻想的で詩性の強い流れである。発句、メモ箱からしたためられた物語が出現し、それは闇の中の猫と春の神であった。第三で「寝床」という現実へ転じている。

フクシマのデブリ鬱々月凍る 山地春眠子
 息止めて聴く神の旅立ち 岡部瑞枝
約束を守らぬと蹴飛ばしますわ 春眠子
(二十韻「瞬転の無重力」の巻)

東京の「草門会」の作品。東日本大震災直後、震災に関する語句について山地春眠子は「まだ早い」と言って採らなかった。連句には時事句が組み入れられるが、いつ、なにを、どのように詠むのかについて、捌きと連衆は見極める必要がある。

手放しの猫好きがゐて恋すてふ 志乃
 「私の罪」をほのと匂はせ  真紀
きぬぎぬの改札通る右左  祐
(歌仙「蝶の風信」の巻)

東京の「解纜」の作品。猫好きが恋を捨て、それを罪だと言って改札を抜けていく。連句では恋句は3~4句続けるとされており「ベタ付き」になりがちだが、この作品は句ごとに場を転じている。繋がっているような、いないような、現代連句らしい絶妙な距離感である。

しずしずと朱夏をつらぬく僧の列 狩野康子
 放射線にも河童軟骨 永渕丹
仮の家にとてちれしゃんと生きている 丹
(胡蝶「純心が」の巻)

「宮城県連句協会」の作品。河童軟骨とは、鳥の胸骨の先端部をいう。宮城県連句協会の作品にはたびたび震災詠が含まれる。被災者としての実感がありつつも俳諧味がある句である。

麦藁帽にせめて黒いリボン付け 鈴木漠
 噛む青林檎に問ふ実存 三木英治
夢を印刷する機械を想像 梅村光明
(糸蜻蛉「遠き春」の巻)

兵庫の「海市の会」の作品。糸蜻蛉は林空花創案「胡蝶」のヴァリエーションで、中盤が自由律になる。今回引用したのはその部分である。空想的な内容の中にある、黒、青、夢という色の展開が面白い。

現代の連句人口は減少の一途をたどっている。連句とは何かと聞かれたときに提示できるのは『芭蕉七部集』しかなく、子規の「連俳は文学にあらず」という言葉以降、近現代の連句史は停滞している。しかし、「連句新聞」にあるように連句の座は各地に点在している。連句を主に行う作家は高齢化しているが、短歌や俳句といった背景を持つ若手作家が連句を巻いたという声も聞くようになった。筆者が各地で行っている連句未経験者のためのワークショップ「連句ゆるり」も来年10周年を迎える。連句は蕉風の思想を持つ者だけのものではないし、連句の作法を知る者だけのものでもなくなってきているのだ。個の文芸が根底にある現代において、連句は個人と個人、作品と作品を繋ぎ合わせていくことを目標とすべきなのではないだろうか。それが連句史の更新に繋がるのだとしたら、いまの我々が唱えるべきは「芭蕉に帰れ」ではなく「芭蕉から進め」なのだ。



2017-04-23

歌仙「水の春」始末記

歌仙「水の春」始末記


捌き:佐山哲郎
連衆:トオイダイスケ宮﨑莉々香堀下翔大塚凱佐藤りえ福田若之生駒大祐西原天気

発句  十代はときめく日々や水の春  ダイスケ
脇    風吹き抜ける岸の藤棚  哲郎
第三  エンジンの音が雲雀を打ちあげて  若之
     ペットボトルをおかねにかへる  莉々香
月   熊笹に出でしなの月結ぶ頃  翔
     秋意は紐で出来てゐるらし  天気
初折裏 ぎんなんがシュレディンガーの猫である  若之
恋    爪ぴかぴかにされたるをとこ  ダイスケ
恋   髪に触れひかりの匂ひとも思ふ 大祐
     厠の裏ににはとりの棲む  凱
    チャイムはや飛び出してくる児童たち  ダイスケ
     顔面セーフだけど痛いよ  若之
夏の月 涼しくて月から鏡までの距離  凱
     ほたるが散つてわからなくなる  莉々香
    小石川庭園地下の断面図  りえ
     糸井重里たちが見る夢  若之
花   花吹雪からてのひらが子をさらふ  凱
     はつらつと逝く春にてあれな  翔
名残表 それぞれに祈りつづけてゐる薊  莉々香
     思ひ出すべてダムに沈める  大祐
    ともだちと死体ごつこを暮れるまで  凱
     団地の中に公園ふたつ  翔
恋   人妻と菊名でつくる雪だるま  莉々香
恋    プラットフォームの赤いセーター  ダイスケ+天気
    呼ぶ声も呼ばるる声も飴のやう  りえ
     山彦どもが灯す隧道  若之
    ネパールの仏像の鼻欠けてゐて  大祐+天気
     ゑんどう蒔くを民の千年  凱
月   月を見る翁※月を見ぬ媼  ダイスケ ※休符記号
     能舞台とは萩の闌けたる  翔
名残裏 清水に一面の秋惜しみをり  若之
     豆腐小僧とすれ違ふ坂  りえ
    十字路を行く草原を行く如く  大祐
     たてがみ越しに透けるきさらぎ  凱
花   窓に見て橋の向うの花盛り  莉々香
挙句   図鑑に飽きて吹く石鹸玉  大祐

起首:2017年4月16日 13:00
満尾:2017年4月16日 17:00


【解題】
オフ会・昼間興行の連句(お知らせ記事≫こちら)、顔ぶれがわからないまま、は4月16日(日)13:00、蓋を開けてみると、錚々たる若手が集まり、スタート。

捌きは佐山哲郎さん。私・天気は捌きの手伝い(書記etc)と賑やかし(アホなことを言って、連衆の肩をほぐす)。

途中、佐藤りえさんが加わり、佳境へ。

ところで連句の進め方には大きく「膝送り」と「出勝(でがち)」があります。「膝送り」は連衆に順序が決まっている。次の付句は誰々、といういわば指名制。「出勝」はひとつの位置に連衆(全員)が付句を出し、良いものを捌きが選ぶ(詳しくはググってください)。今回は、スピード重視で「出勝」の変則型。数人から数句出て、いいのがあれば付句とする。付句に採用された人は2回休み。

連句は意外に時間がかかります。スピード重視のスタイルを採ったものの、この日、4時間では、「きっと巻き終わらないだろう」と思っていましたが、途中、進捗状況と時計の針を見て、「ひょっとしたら満尾するのでは」と、捌き助手の期待がふくらみました。果たして、終了時刻の17:00まで少し時間を余して、めでたく満尾。

おめでとうございます。ぱちぱちぱちぱち。

捌き・哲郎さんの手腕もさることながら、連衆がナイス。なおかつ、終始和気藹々で、なかなかに良い雰囲気。

個人的見解としては、《ペットボトルをおかねにかへる 莉々香》で勢いがつき、連衆のカラダがほぐれた感。

署名箇所に「+」とあるのは共作。この句に限らず、皆で智恵を出し合った句もあります(連句は、「作者」「個人」といった近代概念以前の遊び)。

最後に、硝子戸越しに見える名園・小石川後楽園の景観も、この日の歌仙で一役買ってくれていたことを書き添えておきます。(西原天気・記)