ラベル 飯田龍太 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 飯田龍太 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2025-06-29

龍太はなぜ、それを言ってくれないのか 上田信治

龍太はなぜ、それを言ってくれないのか 

上田信治

(「ku+ 1号」より改稿転載)


芭蕉の〈此秋は何で年よる雲に鳥〉は、飯田龍太がその俳論にもっとも多く引用した句だろう。

角川書店『飯田龍太全集』(全十巻)収録文中、引用はじつに十三回。〔1〕尋常ではない傾倒ぶりだ。

しかし、それだけの引用をしながら、彼は決して〈此秋は〉の句の良さを具体的に書かない。一回をのぞく全ての文章で、その良さは説明できないということを繰り返している。

彼はこの句を「それは言えない」と言うために引用しているらしい。

一方、龍太の(おそらく、もっとも有名な)殺し文句に「詩は無名がいい」がある〔2〕

名句を説明しないことと「無名」を価値とすることは、彼の中で絡まりあって一つの俳句観を成しているように思われる。〔3〕

まずは、その理路を追ってみよう。

龍太においてすら、名句がいつも説明を拒否するわけではない。彼はその、ただ一回だけ〈此秋は〉の機微にふれた文章で次のように書いている。

むろん季節は秋季と解すべきだろう。(…)しかし、下句の調べにはこころの大きな屈折が見える。(…)その茫洋たる様にふるさとを求める一抹の甘美さを感ずる。このことはあるいは私の念頭から、春の季語としての「鳥雲に入る」という言葉がこの句を見るたびに思い浮んで、それを拭い去ることがどうしてもできないためかもしれない。(…)旅の秋空に故郷の暮春を思う。あり得ることではないか。(「悲愁の中の明るさ」昭和四五年)。〔4〕
掲句の秘密に迫るすばらしい読解だ。

しかし彼はその直後「だが実のところ、私には句解の正否などどちらでもいいのである。解釈の深浅によって作品の高下など考えてもみない」と続け、その読みを取り下げてしまう。

考えてもみない」とは、そうは思ったが認めたくないということだろう。この身ぶりは多くのことを語っている。

そもそも、高次元の了解を必要とする言葉が、作品の価値の源泉であって何がいけないのだろう。

あるいは、彼はなぜ「それ」を言ってくれないのか。

龍太は、名句とは、俳人に限らず「誰もが理解し得て誰のこころにも感銘共感を与える作品である」ということを繰り返し〔5〕述べ、それは「無意識に記憶を強いる〔6〕ものであり、また「時を経れば、誰の目にも秀句は秀句として見える〔7〕と断言する。

彼が挙げる名句の条件は、多くの人に記憶され、時間の経過に堪えること、さらに、そのために読者が一読、作品の感懐を自分の感懐にできることだ〔8〕

それは、ひとことで言って愛誦性である〔9〕

「愛誦」という概念は、たしかに、作者を必要とせず読み手を限定しない。

最高の読み手にも批評が不可能であるような句が、万人に理解され愛されること。そこに龍太は、文学の高踏性を拒む俳句の理想を見る。

しかし、それをすべての俳句の標準とすることは、芸術や技芸の世界の常識に反する。

スポーツを例にとれば、大衆に理解できるのは勝ち負けどまり、選手がしのぎを削るレベルの内実が分かるわけではない。

俳句も同様、大多数の判断基準は好きか嫌いかでしかなく、誰にでも良さが分かるのは例外的な大「名句」に限ってのことだ。

解釈の深浅」によって、受容される価値は大きく異なる、それは龍太は百も承知のはずだ。

しかし彼が再三、名句は誰にでも分かると言い、かつその深奥を言語化することを拒むこと、あるいは俳句に個性は不要だと取れる発言を繰り返すこと〔10〕、「普段着の文芸」「日用の雑器」「日常心の所産」「木綿の肌着」といったフレーズ。

それらすべてにおいて、龍太は、俳句の価値判断一般が大衆的な基盤を持つ「べき」であると、誤読させる(そういうムードを醸成する)。

そして、どういうわけか、彼は、その俳句観を、ひっくるめて「無名」と呼ぶ。

彼が「無名」の呼び名の元に価値を称揚する句は、ほぼ、虚子、子規、芭蕉らの大有名句ばかりなので、その名づけは、ほとんど彼の、祈りとか願望であったようにしか見えない。

人の思想の根拠を伝記的事実に求めることには、パッとしない展開ではあるが、周知のとおり龍太には父・蛇笏と二代にわたる境涯上の挫折がある。彼らは、文学者として中央で名を上げることを望み、果たせなかった。

無名の価値をもって俳句の特殊性を強調することは、近代芸術のエリート主義(個性主義とも有名主義とも言える)を斥けることでもある。

彼の俳句観がその境涯に胚胎したという可能性に、留意する必要はあるだろう。

若い時に、名聞無用ということと同時に、耐える文芸として、俳句を自分の生涯の命の綱として考えるということが、私は、最近になってなるほどな、というある共感が生まれるんです。(「飯田蛇笏について」平成四年スピーチ)。〔11〕 
俳諧とは(あるいは俳句は)本来布衣の文芸。今様に言うなら、肩書きを持たぬ庶民の詩。庶民とは名もなく、またそれを求めて得られない人々の意であると同時に、そこに充足のおもいを持った姿ではないか。(「詩は無名がいい」昭和四六年)。〔12〕

周知の通り、芭蕉も龍太も、とんでもない言葉遣いによって幻影を生む俳人だった。

此秋は〉の句には、ただ今と、全人生と、永遠の、三つの時間が一つの場面に描き込まれている。〔13〕

手が見えて父が落葉の山歩く〉は、自解によると実景だそうだが、こんな自分勝手な句が、個に執することなしに書けるわけがない。

以前、伝統系の若手俳人(複数)から「俳句に個性はいらない」という発言を聞いた。

また「いい俳句」とは何かを言挙げすることには、多くの俳人が、強い抵抗を感じるらしい。

そこに間接的にでも龍太の影響があるなら、そこには、なにか罪作りな誤解がある。

「いい俳句」とは何か。飯田龍太にそう聞けば、間違いなく適当にはぐらかされるだろう。

それが「俳句は自得の文芸」ということなのかもしれないが、今日、それを言わないこと、それを秘教化することは、長く続く俳句の無方向的(アノミー)状況の追認であり、それは逆に偏狭なエリート主義ですらある。

野暮は承知。真のエリート主義かつ大衆路線とはこういうことだろうと、本誌(※「ku+」)は今回の質問を広く俳人諸家に投げかけた(※本稿は「ku+ 1号」特集「いい俳句」の解題として書かれた)その問いと答が、諸家並びに読者諸氏の元にさらなる波紋を生むことを期待する。



注 巻数頁数は『飯田龍太全集』(全十巻 角川書店)よりの引用元。
 

〔1〕5巻 14・22・329頁 7巻 112・145・156・180・182・188・245・303頁 8巻 156頁 9巻 159頁 

〔2〕のちに彼自身「(この言葉は)一人歩きをして、私の考えとは、いささか違った意味合いでしばしば引用される」と書くことになる。

〔3〕「むろん、俳句は言葉である。だが、ほんとうにいい作品は、作品が言葉から解放されている。同時に作者からも離れて自在に飛翔する」(「好尚一句」昭和四八年 7巻113頁)

〔4〕7巻 303頁

〔5〕7巻 237・255・249頁他

〔6〕5巻 258頁

〔7〕5巻 243頁 

〔8〕5巻 21頁・7巻 105・197頁他

〔9〕「作品が愛誦されたら、もう作者は誰でもいい」(「詩は無名がいい」昭和四六年 7巻 106頁)

〔10〕5巻 207頁 7巻 112・236頁他

〔11〕7巻 327頁

〔12〕7巻 105頁

〔13〕頭上の雲と二重写しに、年が波のように「寄る」ことが見え、鳥は、下五の凝縮された語法によって現在に嵌めこまれ、永遠に静止している。(上田)  

2021-09-18

【空へゆく階段】№50 句との出会い 現代俳句展望 田中裕明

【空へゆく階段】№50

句との出会い 現代俳句展望 

田中裕明


「晨」第19号・1987年5月

俳句に出会うというのは、どういうことなのだろうか。

俳句研究三月号で飯田龍太氏が「怒濤秀句」と題して加藤楸邨氏の第十二句集を取り上げている。その鑑賞文の中から俳句に出会うことについてヒントとなるものを見つけだしたい。

『怒濤』には知世子夫人を失なったさいの「永別」と前書する句がおさめられている。

豪霜よ誰も居らざる紅梅よ

持主の失せて手帖の冬谺

霜柱どの一本も目ざめをり

冬の薔薇すさまじきまで向うむき

冬木立入りて出でくるもののなし

裸木にひたすらな顔残したり

冬の蝶とはのさざなみ渡りをり

虚空雪降る一途なる妻遊べる妻

これらの諸句に対して飯田龍太氏は「どの作品もきびしい抑制がなされているだけに無言の慟哭は深い。わけても『虚空雪降る』の一作は、消しがたい故人の詩心を逐い、忘れがたい面影を求めて、ひたすら彼の世の安息を断念しているように見える」と書いている。

俳句を読むということ、俳句に出会うということの非常にセンシティブな側面が、とくにこれらの深いかなしみを秘めた作品、それもきびしく抑えられた差において現われている。霜柱の句もあるいは裸木の句もすでに十分な表現が得られているけれども、それらの作品よりは却って「虚空雪降る」の句を取る龍太氏は単に俳句の読み巧者というよりも俳句との出会いを大切にする人であるように思われる。

俳句の解釈に正解と誤解があるとするならば、いまここに言う俳句の読み手とは必ずしも正解にばかり与する人ではないだろう。すこし長い引用になるが、同じ文章の中で龍太氏は次のように書いている。
あるいはまた、同じ六十一年の頃に収める。

 何か言ひたげてのひらはもう春の月  楸邨

を、故人追慕の作と見るとき、いわく言い難い感銘をうける。
ふっと浮かんだ面影はあまりにも瞭らかだが、その言葉はもうきこえぬ。しかし、その眼はなにかを訴えている。それに応えるように思わず手をさしのべる。ひらいた掌に、いつか春めいた月明り。月光はいつか故人のこころとなり、無弦の矢となってわが心に入る、と。
龍太氏は右のように書いたあとで、この句の正しい解は故人ではなく、この世の姿しかも命終間近のひとであろうと言う。そして、「矢張り私は前解に身を寄せたい。ことほど左様に、この作品は痛切であり、かつまた、慈愛に満ちているように思う」とつけくわえている。すなわち鑑賞者としてあえて正しいとは思われない解につくということだ。

正しい解釈が俳句との出会いに導いてくれるとはかぎらない。かえって読者の勝手な読み方がその作品との真の出会いのあり方であることもある。あるいはそんなソリューションでしか読み手は作品に近ずくことはできないのかもしれない。

俳句には幾通りもの解釈がある。読者の数だけあると言ってもよい。それらをふまえたうえでわたしたちは作品に出会いにゆくのだ。

同じ俳句研究三月号に大串章氏「白き山」五十句と大屋達治氏「冬源」五十句が掲載されている。

鮭が来て白鳥が来て黒瞳の子  章

春うたふため黙然と辛夷の木

綿虫を見てゐる牛と思ひけり

雪の栗鼠仁王の裾に逃げ込みぬ

雪山に憑き川に沁み茂吉の目

旅吟というのは、もしかすると一番むずかしい俳句の作り方かもしれない。俳句の歴史のはじめから、旅吟はその流の中心を占めていたけれども、とくに近年生みだされる俳句では旅吟は中心でなくなってきている。それはモヒフとして旅が古くなったというよりも、交通が便利になりすぎたのではないだろうか。そのために日常の言葉と旅の言葉の差異がなくなってしまった。

大串章氏の作品は東北での旅吟である。先程、旅での俳句の困難さについて考えていたことすべてとは言わないけれども、かなり払拭してくれた作品である。もちろん、旅吟は難しい。それは旅の言葉が困難であるからだろう。

「春うたふため」の句にしても「雪の栗鼠」にしてもへんに思いつめたところがない。しかも読者に対象との距離を感じさせない速度がある。そう、作品がある速度を持っていない場合には読者はそのモチフに対して距離を感じて、つまらなくなる。俳句が運動していなければ、と言いかえてもよい。大串章氏の作品はその逆だろう。次の作品も同じだ。

撞木と鐘と凍てたる宙にあり

独活の山蕗の谷知り薬食

鉄瓶に湯を足して雪たのしまず

氷柱あり夜陰を飛んで来し如く

屠蘇くめば障子日ざして来たりけり

絵巻物雪はなやかに降りにけり

こうなると旅吟と言うには当たらないかもしれない。日常の言葉と旅の言葉が同質になったというのではなく、どちらも丈高くなっている。だから旅の言葉が困難だというのはまちがっているのだろう。

とくに「独活の山」と「氷柱あり」の句にひかれた。どちらもたしかに旅の作品であってしかも、芭蕉が古人も多く旅に死せるありと言ったように、ひととびで日常からやってきたように思える。

大屋達治氏の「冬源」五十句は、さきの大串氏の作品にくらべると明解とは言えない。

焚火おく枯野の端の渚かな

焚火中一本強き枝崩る

激情の冬の夜閉す銀の鍵

日の武蔵雨の相模や年暮るる

船売れぬはなし莨に頬被

表現されている内容が格別複雑なわけではないのだけれども、やや曇っている。透明感に欠けるというところだろうか。

作品の生活と俳句との関係がよくわからないからかもしれない。生活と俳句が遊離しているのではなくて、あるいは大屋氏はかってないほど俳句が生活のなかに溶けこんでいるかもしれないけれども、それが読み手には伝わらない。「焚火中」の句はなかでも明解なように見えるが、やはりレアリテが少ない。レアリテの量が作品の価値を決めるのではないから、「年暮るる」にしても「頬被」の句もただ通りすぎるわけにはゆかない。

菜をところどころ見事に冬ざるる  達治

凧ひとつ秩父に上げて忘れたる

雪原に合ふ川ふたつ音違ふ

酒蔵に酒濁りゐる吹雪かな

きさらぎや旅籠に古りし実母散

婚ちかき君の白顔深雪晴

俳句の上で、「筋を通す」というのはどういうことなのか。ふとそんなことを思った。読める俳句とはあまり聞かない言葉で、読める俳句に出会うというのはこの頃の所謂、俳句に付き合っている限り、滅多にないことだと言っても、何のことやらわからない。

ただ俳句の批評という不思議なものがあって、読めもしない俳句を読むあるいは読んだふりをするときに、俳句との擦れちがいを言うことは無駄でないばかりか、むやみに誉められるような俳句を作らないためにも役立つ。

いまは俳句との擦れちがいを言いたい。それは平凡な事実かもしれないが、自分にとって俳句が読めるものであることを少し確認したいと思う。

わが過ぎしどの水無月も山の音  達治

扇より風がゆくなり畝傍山

をみならの名残の花火草のうへ

句集「絵詞」より。大屋達治氏の俳句が読める俳句の典型だと言うと嘘になるかもしれない。たしかに同じ句集のなかに「浦といふ夏のこころの言葉かな」とか「洋上も蝉鳴いてゐる水葬後」という俳句があってこれは読めない。しかしながら読める俳句と読めない俳句が一冊の本の中に混在していることは不快ではない。句集が読者に快感をもたらすために存在するとしたら、その句集は読める俳句ばかりが並んでいる必要はないのだろう。たまに「山の音」や「畝傍山」があればよいと思う。そんなふうにしか俳句には出会えないのだろう。


2020-04-05

僕の愛する俳人・第2回 不思議な龍太 西村麒麟

僕の愛する俳人・第2回
不思議な龍太

西村麒麟

初出:「ににん」第74号

1. 龍太について

数年前に親しい方から角川書店刊行の飯田龍太全集(全十冊)を譲っていただきました。どの巻にも教科書のように赤鉛筆で線が引いてあり、さらに読み終わった日付が巻末に記されていて、大切に扱われてきた事が伝わってきます。

龍太の世界を深く覗きこもうと思うならば、全句を繰り返し読む事よりも、十冊の全集を読む方が近道かもしれません。龍太の大切にしている美意識は、釣りや石垣などの一見なんでもないようなエッセイにたっぷりと詰め込まれています。龍太が楽しそうに残した、さりげない、なんでもないような話にこそ、大きなヒントを感じます。

2. 俳句の技術とは

龍太には明朗な句が多く、読者を良い気持ちにさせてくれます。確かな技術を感じさせる句もたくさんありますが、その全句を通して読むと、技巧派というイメージは湧きません。もっとほのぼのとした、暖かな印象があります。後ほどまた龍太の俳論に触れますが、次のような言葉があります。
格別、芸などと考え、術と意識することなく、ただただ表現の妙をたのしむことに専心したのではないか。(「月並礼讃」より)
龍太は俳句の技量のようなものが作品の前面に押し出す事を照れ臭いような、嫌味な感じがすると考えていたのではないでしょうか。もしくはそんなものは真の技量ではないとも。

それでも「龍太時代」とまで表現された人ですから、その生涯で飽き飽きするほど「名人」のような呼ばれ方をしてきた事とは想像できます。しかし、どうも全集を読んだ印象では、「巧い」なんて評価に喜ぶ人ではないように思いました。全句集にはやや妙な句や不思議な句がたくさん収録されており、それらの句には上手く説明が出来ないような魅力があります。代表句〈一月の川一月の谷の中〉もそのような一句ではないでしょうか。

そもそも、実作における俳句の技術(巧さ)とは一体どういう事を指すのでしょうか。回答者の数だけ答えがあるような問いですが、僕は例えば次のように考えます。

詠みたい内容を的確に表現する事が出来る。

感動を定型(あるいは破調でも)に上手く嵌め込む能力と言っても良いかもしれません。その能力で言えば龍太は十分上手い作家であると言えます。三十四歳で刊行した第一句集『百戸の谿』の句をいくつか見ていきます。

夏富士のひえびえとして夜をながす  『百戸の谿』

強霜の富士や力を裾までも

露草も露のちからの花ひらく

鰯雲日かげは水の音迅く

代表句の一つ〈春の鳶寄りわかれては高みつつ〉は二十六歳時の作品です。上記の句はどれも詩情と明快さを合わせ持った作品です。当たり前の事を言っても大して面白くはありませんが、青年時代から龍太は高い技術を持った作家聞こえるでしょう。

しかし龍太の魅力はどうも別の部分にあるような気がします。今回はそんな「不思議な龍太」の紹介が出来れば嬉しく思います。

3. 『童眸』

第二句集『童眸』の有名句と言えば

大寒の一戸もかくれなき故郷

雪の峯しづかに春ののぼりゆく

晩年の父母あかつきの山ざくら

等でしょうか、どの句もよく知られている句です。では次にこれらの句はご存知でしょうか?

子の声と翡翠のゆくへ澱みなし

鍬の影するどくあそぶ土の熱

雀歩くたのしさ霜のトタン屋根

豪華な愚かさ夏富士のいただきまで

百姓のおどけ走りに雪嶺湧く

有名句の例として挙げた句と比べると、乱暴な言い方をすればどこか素人らしい句にも見えないでしょうか?結社の句会やカルチャー教室では省略をもっと効かすように、と添削されてしまうかもしれません。例えば「するどくあそぶ」「たのしさ」「豪華な愚かさ」「おどけ」は過剰表現(言い過ぎ)と判断され、よりスマートな形に添削されてしまう可能性がある言葉です。しかし無駄にも見えるその部分こそ必要な表現だったはずです。

4. 『麓の人』から『涼夜』まで

省略が出来そうな表現、詩になるのかあやしい題材などはますます増えていく傾向にあります。細かく拾ってはきりがないのでいくつかご紹介します。

春の湖山脈西をたのしくす 『麓の人』

灼熱の炉の奥やさし雪の夜は

冬の灯の消されてきえる児童の絵 『忘音』

種蒔くひと居ても消えても秋の昼 『春の道』

返り花風吹くたびに夕日澄み 『山の木』

妹の籠のトマトをひとつ食ふ 『涼夜』

呆然としてさはやかに夏の富士 『今昔』

もちろんこの期間にも誰もが知っている名句は詠まれています。〈一月の瀧いんいんと白馬飼ふ〉〈どの子にも涼しく風の吹く日かな〉〈一月の川一月の谷の中〉〈吊鐘のなかの月日も柿の秋〉〈かたつむり甲斐も信濃も雨の中〉等は季節ごとに誰もが思い出す有名句作品です。

それらの名句と上に挙げた句を同時に発表した真意は何でしょうか。古典となり得るような有名句がいくつもある中で、まるで子どもが詠んだような句も収録されています。龍太の句は何度も通して読んでいますが、時々どんな句を詠めば良いのかがわからなくなり事さえがあります。

5. 龍太俳論より

実作の美意識が読み取れるような龍太の文章をいくつかご紹介します。ほんの一部から切り取って引用しますので、気になった方はぜひ全集から全文を読んでいただけたら幸いです。
どうも私には感覚だの個性だのと言ったものは、それだけでは格別な俳句として上等なものとは思われない。そのひとでないと作れまいと思われるうちは、まだ最上級の名作とはなるまい。(「好尚一句」より)
名句は俳人だけの評価で定まるものではない。真の名句とは、俳人以外の人々のこころに響いて共感を得た場合に生まれる。(「俳句の隆盛」)
特に高浜虚子の句を語る文章(「表現としての俳句の面白さ 虚子『五百句』について」)には興味深いものが残っています。多くの虚子の作品を褒めながらも、以下の有名な虚子の句に対しては低評価です。例を挙げてみます。

白牡丹といふといへども紅ほのか

凍蝶の己が魂追うて飛ぶ

爛々と昼の星見え菌生え

一句目、発見に興じ、表現に過信が見える。二句目、表現に重くれがある。三句目、知恵が入っている。というのが評価しない理由です。一般的には指摘された箇所が句の要点ですから龍太の考えは興味深いものです。これらの龍太俳論を踏まえた上で最後の句集『遅速』に注目してみたいと思います。

6. 『遅速』について

飯田龍太の句集は生涯で全十冊。その最後の句集が『遅速』です。この句集の大きなポイントは、自選である事です。つまり最後の句集ではあるけれど、遺句集ではないという点が重要です。他者の目ではなく、龍太自身の選によって編まれた最後の句集となります。『遅速』は六年間の作品の中から二三六句(龍太の句集では三番目に少ない収録数)。捨てた句は八四九句と中々の厳選です。この句集には、技術的な上手さ(巧さ)に重きを置かない龍太の美意識が最も強く表れています。

満月に浮かれ出でしは山ざくら

おのがこゑに溺れてのぼる春の鳥

それぞれの中七は言い過ぎかもしれません。しかし、龍太の詩魂が山桜に、春の鳥になりきっているように見えるところが、これらの句の魅力です。そのやうに考えると、やはり削れない表現なのでしょう。今までの句集は自然と近い距離を感じさせるものでしたが、『遅速』は作者が自然そのものになりきっているような句が特徴的です。

二三匹菜虫をつまみ文化の日

巫女(かんなぎ)のひとりは八重歯菊日和

兼好忌おたまじやくしは蛙の子

座布団のいろのさまざま春隣り

俳句は最短の詩形ですから、省略を利かし完璧な姿を求めがちです。まるでより完璧な刀を造ろうとする刀工のようです。龍太が最後の句集で示した俳句は、完璧な刀とは程遠い作品です。それどころか、木刀のような、生の素材を感じさせるものです。龍太はおそらく、「完璧な刀」が纏う冷たさのようなものを嫌ったのではないでしょうか。俳句は表面的な技術を追求し過ぎると、作品が大理石の彫刻のような冷ややかな印象を纏います。しかし読者の共感の方を重視すると、多くの賛同を得る代わりに表現は「月並」になってしまいます。現代の俳人の多くは「月並」を嫌い、技術面を優遇しがちではないでしょうか。どちらかが俳句の作り方として正しいわけではありません。実に厄介な事ですが、どちらも手放してはならないものなのでしょう。

僕の好きな『遅速』の句をもう少し紹介します。圧倒的に有名なのは〈涼風の一塊として男来る〉ですが、今回は『遅速』ならではと思う句を。

新涼の離れて睦む山と雲

鶏鳴に露のあつまる虚空かな

眠り覚めたる悪相の山ひとつ

露の夜は山が隣家のごとくあり

ひたすらに桃食べてゐる巫女と稚児

耳聡き墓もあるべし鶫鳴く

龍太の句が特に人から愛される理由は、技術と共感のどちらの要素も一句の中に多量に含まれているからではないでしょうか。だから龍太の句はどこか陽だまりのようにあたたかい。〈どの子にも涼しく風の吹く日かな〉という代表句はその事がよく表れている代表句です。

7. 不思議な龍太

僕が愛唱しているちょっと変わった龍太の作品をいくつか紹介させていただきます。龍太は全句集こそ面白い。

肉鍋に男の指も器用な夏 『童眸』

雪光の中に風呂焚く豪華な音 『童眸』

餅搗のこころ浮遊す石だたみ 『麓の人』

ころころと畳に死蛾を掃く少女 『忘音』

鉦叩元関取も老後にて 『山の木』

涼しくてときに羆の話など 『涼夜』

あかつきの湯町を帰る鰻捕り 『今昔』

涼新た傘巻きながら見る山は 『山の影』

精選句集ではちょっと入集しにくいこれらの作品にこそ、龍太の作家としての面白さが惜しみなく出ています。俳句とはこういうものだ、という考えから自由になる事は、熟練の俳人ほど難しくなってきます。龍太のすごさは俳人としての自由度を最後まで失わなかったところではないでしょうか。

8. 最後に

今年の一月、どうしても一月の狐川が見たくなり、山廬を見学させていただきました(もちろん事前に許可をいただいて)。現在の当主の秀實さんが敷地内の丘に案内していただいた日は、目を開けていられないほどの強い風が吹いていました。秀實さんはいきいきとした表情で「これほどの八ヶ岳颪はめったにない、良い時に来たね」と心底面白がっている様子でした。

龍太に対して上手いなんて表現はつまらない、そうじゃない。大きいだとか、新鮮だとかそんな呼び方の方が似合っている。猛烈に吹く八ヶ岳颪を浴びながらそんな事を考えていました。最後に〈一月の川一月の谷の中〉における龍太自身の文章を引用します。
幼児から馴染んだ川に対して、自分の力量をこえた何かが宿し得たように直感したためである。それ以外に作者としては説明しようがない句だ。(『現代俳句全集』第一巻より)
龍太は大きい、その俳句も。

2008-04-13

山廬を訪ねて 広渡敬雄

山廬を訪ねて ……広渡敬雄

初出「青垣2号」(2007年6月)


飯田龍太氏が亡くなったのは、二〇〇七年二月二十五日だった。生前に一度訪ねてみたいとの漠然とした思いがあったが、その思いが高まったのは、「俳句朝日」2007年4月号の龍太追悼特集にあった龍太邸(山廬)の写真だった。

山廬に着いたのは、朝六時四十分だった。四月一日にしては、ことのほか暖かく、前日の雨のためか、盆地のみならず、境川の小黒坂地域もやや霞んでいた。

途中で地元の人に言われた通り大きな桜のある「堂」を左折すると、山廬が俯瞰された。大きな赤松、けやきの大木、銅葺きの平屋建ての景が、朝靄の中、眼前にあった。


家紋が入った二階建て瓦葺の家がある。これは隣の飯田家のものか。ちょうど鳥たちの目覚め後の活況な時で、囀りが終始耳にここちよかった。しばらく山廬を離れ、坂を登る。

  春暁のあまたの瀬音村を出づ

すぐに左手から、川の瀬音が聞こえる。龍太の傑作〈一月の川一月の谷の中〉の山廬の裏の狐川である。護岸のコンクリートがやや気になるが、川幅は四~五メートル位か。

  鶏毟るべく冬川に出でにけり

小さな竹林の横を、川に沿って下っていくと、鉄板の橋があり、裏山につながっていて、しっかりとした道がある。ひっそりと菫が咲いていた。

途中に山口素堂の句碑がある。さらに登るとやや台地となって視界が開け桃畑となり、ピンクの花が香しく匂い、又南アルプス他四囲の山々、甲府盆地の絶景が拡がる。

  いきいきと三月生まる雲の奥

  雪山に春の夕焼滝をなす

また、この飯田家所有の裏山では、多くの佳句が生まれている。

  手が見えて父が落葉の山歩く

  父母の亡き裏口開いて枯木山

  冬耕の兄がうしろの山通る

裏山を下り、橋を渡って道に出るため家屋の間を抜けようとすると小さな堀池があり、黒々とした鯉が何匹かいる。ピンと来るものがあった。客人をもてなすために、龍太が自宅で飼っている鯉を移し替えて、泥臭さを抜かせた後に供した「鯉こく」がことのほか美味であったという文章が小林恭二の『俳句という遊び』の中にある。

  別の桶にも寒鯉の水しぶき

そのまま家屋の横を進むと玄関に出た。玄関には、大きな瓶があり、二三本の満開の桜の枝が挿されていた。表札は「飯田龍太」とあり、亡くなって一ヶ月がたつものの生前のままの雰囲気である。

門は三メートル位の左右対称の石で左門に「飯田」との彫りが入っており、蛇笏の頃からの石門かと思うと感慨深い。その間には、木製の車止めがあった。

玄関から門までは、十メートル余。かなり大きな飛び石がある。離れ具合は、ちょうど龍太の歩幅くらいか。

庭には、堂々たるさるすべりと、龍太の書斎に寄り添うような大きな赤松。有名な雪吊りは取り外してあったが、枝を南に向けて水平伸ばし、庭師の見事な技を見る思い。

  雪吊りの縄の香に憑く夕明り

他には、木椅子と陶のテーブルと石燈籠。龍太と「雲母」の人達が座して楽しく談笑している様子が想像された。しだれ桜のそばを燕が横切った。初燕か、、、。

  初燕木々また朝をよろこべり

やや低い練塀越しに、山廬全体が見通せる。

囀りが、ずっと山廬を含む小黒坂一帯を包み、桜、桃、馬酔木等が鮮やかに咲き乱れていた。

  百千鳥雌蕊雄蕊を囃すなり

山廬を訪ねた余韻に浸りつつ坂を下る。

坂の途中に、道祖神、庚申塚があり、「俳句の散歩道」との道標もあった。勿論、下から山廬への道のことである。

  ふるさとは坂八方に春の嶺

やはり、この小黒坂地区そのものが龍太の作句工房なのだと改めて思いを深くした。もう既に「俳枕」とも言えるだろう。

  大寒の一戸もかくれなき故郷