私が「週俳10月の俳句を読む」「週俳11月の俳句を読む」 への寄稿をお断りした理由
鶴岡加苗
あれっまた来た。
「週俳11月の俳句を読む」の執筆依頼。
さて、どうしたものかとしばし考え込む。
でも考え込む暇があったら、どうしたものかと思う経緯を書いて載せてもらっておくのも良いのかもしれぬ、とパソコンに向かうことにした。
先月「週俳10月の俳句を読む」の執筆依頼を頂き、もちろんお引き受けするつもりで該当作品を読ませて頂くべく、週刊俳句をひらくと次の記事に出会った。
■角川俳句賞受賞作「ふくしま」他5作を、ハイクマシーンが読む……佐藤文香・上田信治 ≫読む
私も今年角川賞に応募して予選落ちしていたので、興味津々で読み始めたのだが、途中でがっくり、最後まで読んで気分が悪くなった。
がっくりした部分は・・・
受賞作「ふくしま」の以下の作品、
避難大事恋愛大事チューリップ
雁風呂と名付けて六日振りの風呂
みごもるといふ知らせあり虹かかる
これらを挙げて「耐え難い鈍感さ」と評した上で、
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shinji ueda
作品の中に探したけどね、切実さ
パーソナルな、この人だけが感じたものを
だから、この人の俳句が、結果として鈍感だったというだけで、この人が鈍感とは言ってないです。
a8ca
それ、しっかり言っといた方がいい。人格攻撃に聞こえた。
shinji ueda
人格攻撃ではないです。
でも、言ってしまうと、俳句って人を鈍感にするものだ、ということを、見せつけられた気がするよ
●
作品が結果として鈍感だったと批評した上田氏が、後段では「俳句って人を鈍感にするものだ」と括っている。
私は「ふくしま」を読んで、正木氏のように涙を流したわけではないが、作者である永瀬氏はご自身が震災の真っ只中にいて、本当にまじめに丁寧に俳句を作ろうと努力されたんだろうなというその姿勢は十二分に伝わってきたし、「チューリップ」や「虹かかる」という季語が使われていたからといって、それが鈍感さにつながるとは全く思わなかった。そういった季語を使わざるを得ない現場の状況が逆に見えてきて胸が痛くなったし、募金しかできなくて本当にごめんなさいという気分になった。
確かに切実な俳句作品とは違うと思ったけれど。
それは置いても、上田氏の発言は作品批評を越えて作者への攻撃になっているのではないかと、がっくりしたのだ。
そして気分が悪くなったのは、最後の
●
a8ca
……あ、ふらんす堂HPの俳句日記、11月は30句連作「ふくしま」です。
shinji ueda
だははは
a8ca
乞うご期待。では!!
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の部分。
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a8ca
当事者であろうがなかろうが、詠む人はいていいし、その作品がよかろうが悪かろうが、別にいいんですけど、それを自作として「発表する」、もしくは選者が「選ぶ」、雑誌に「掲載する」といったときに、幾重にも「待った」がかかる必要があるというか。
(中略)
a8ca
そうですね、震災ののちの立場がいろいろですから、思いを及ばせねばならない読者の種類が、あまりに多い
●
と発言したあとで、震災俳句をHP上で毎日発表するという宣言がよくもできたものだと思ってしまったのだ。それも受賞作「ふくしま」と同じ題で。
それを「だははは」と受けとめる上田氏。
そしていくら校正はほとんどしないと言っても、このような人物攻撃になりかねない内容や、受賞作「ふくしま」に対抗するための作句動機を宣言する内容を、いまや5万アクセス/月 を誇る週刊俳句がそのまま掲載してもよいのかという疑問が私の中でどうしても消化できなかったのである。しかも上田さんは週刊俳句編集者のお一人である。
そこで、ご依頼を頂いた編集人に今回は執筆をお断りさせて頂きます、と以下のようなお返事をしたのだった。
ご依頼ありがとうございます。
喜んでお引き受けしますと言いたいところだったのですが、今回はパスさせてください。
本日upの上田さん佐藤さんの対談を最後まで読んで気分が悪くなりました。居酒屋で話す内容ならば誰かがまあまあと嗜めて終わりかもしれませんが、週刊俳句はいまやアクセス数も注目度も俳句のサイトとしてはNO1だと思います。そこにこの内容はちょっと・・・と思ってしまったのです。ほかの人はどう思われたが分かりませんが。
内容というよりも、一番ひどいと思ったのは「震災俳句は幾重にもチェックされなければならない」と言った佐藤さんがふらんす堂HP!で「ふくしま」30句を発表すると宣言したことかも。
週刊俳句はとても魅力的なサイトだとは思いますが、今回の記事が掲載されたということが、私の中でどうしても消化されませんのでせっかくのご依頼ですがパスさせて頂きます。
長々とごめんなさい。
編集人からは以下のような回答を頂いた。
了解いたしました。
記事についてのご感想も、ひとつの見識として、真っ当なものと思いますし、 (もちろん、あの記事をどう受け止めるかは、人それぞれですが)、 それをもって、執筆依頼を「諾」とせず、という見解も理解いたしました。
真摯な対応であると思ったし、実際このときには私がこの記事に対して過剰反応しすぎただけだったんだろうかという自問も生まれていた。
そしてひと月後の再度の依頼である。
この依頼は別の編集者からだったので、前月私がお断りした経緯が全く伝わっていないのかもしれない。もしくは、一ヶ月経ったからもう消化されただろうと解釈して頂いたのかもしれない。それは確認していないが、やはりこの経緯を無視して、「週俳11月の俳句を読む」のコーナーに自分の名前がクレジットされることにどうしても抵抗があった。
今回お断りした経緯を載せて頂くことで、私の中でこの記事がまだ消化されていないことと、執筆を引き受けることとの整合性が生まれるかもしれない。要は心の整理がつくかもしれないということだ。
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2011-12-04
私が「週俳10月の俳句を読む」「週俳11月の俳句を読む」 への寄稿をお断りした理由 鶴岡加苗
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2011-05-01
【週俳4月の俳句を読む】鶴岡加苗 自らを深入りさせて
【週俳4月の俳句を読む】
自らを深入りさせて
鶴岡加苗
春の野に触るる指先広げたり 矢野玲奈
ピクニックか、散歩の途中か、春の野に腰をおろして手をついた。その手から指先へと焦点が絞られたのち、さらにその指先を「広げた」ところが、この句の眼目だろう。なんでもない日常の風景に、自らを深入りさせていくような感覚。作者と春の野との交歓に共鳴した。
私の個人的な好みではあるが、このような一見さりげない表現の句に、上質のエロスと女性性を強く感じる。
実は、この句について書こうと抜き出しておいて考えているうちに、私の中で勝手に「春の野に」を「春草に」と置き換えて読んでしまっていた。「春草に」の方が具体的で、広げていく指先の感触もよりセンシティブになるのでは、とも思う。しかし、春の大地との交歓というスケールの大きさこそ、今この作者の目指しているものなのかもしれない。
彼女の句に、「ぎちぎちと革手袋の祈りかな」があるが、手指の感覚に優れた句を作る人だと思った。
第206号 2011年4月3日
■ひらのこぼ 街暮れて 10句 ≫読む
■天野小石 たまゆらに 10句 ≫読む
第208号 2011年4月17日
■矢野玲奈 だらり 10句 ≫読む
■福田若之 はるのあおぞら 10句 ≫読む
第209号 2011年4月24日
■関根誠子 明るい夜 10句 ≫読む
■羽田野 令 鍵 10句 ≫読む
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2010-12-12
〔週俳11月の俳句を読む〕鶴岡加苗 足で稼いだ
〔週俳11月の俳句を読む〕
鶴岡加苗
足で稼いだ
11月の週刊俳句のレギュラー10句作品はそれぞれに個性的で読み応えがあった。惹かれた句もたくさんあったし、10句をまとめて読んだとき、その作者の俳句性・作家性のようなものも伝わってきて、10句という(多すぎでも少なすぎでもない)句数の力を改めて考えさせられた。
しかし今回は、あえて投稿作品からの異様なる一句を挙げさせて頂く。
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蛇を食ふ女のショーや酉の市 高橋透水
題の「ぶらり・酉の市」のとおり、酉の市を訪れた際の嘱目なのだろう。少なくとも残りの9句は。
この1句のみ、えっ本当に?とつっこみたくなる程異様なのである。酉の市で本当にこんなショーをやっているのだろうか。
真偽は分からない。しかしながら、熊手がところ狭しと並ぶ様やあの景気のよい手締めは、ある種のいかがわしさを感じさせる。他のどんな祭より「俗」な雰囲気が漂っているのだ。そんな酉の市のはずれにて、こんな一場面に出くわしたなら、それは即一句にしなければならないだろう。
足で稼いだ(と思われる)一句に一票を投じたい。
■彌榮浩樹 昼の鞄 10句 ≫読む
■武藤紀子 ゲバラの忌 10句 ≫読む
■柘植史子 鎌 鼬 10句 ≫読む
■清水良郎 父の頭 10句 ≫読む
■近 恵 赤丸 10句 ≫読む
■久留島元 五十音図(抄) 10句 ≫読む
■山口優夢 冬の一日 10句 ≫読む
■寺澤一雄 秋 九十九句 ≫読む
■山口都茂女 泊まつてけ 10句 ≫読む
〔投句作品〕
■久乃代糸 肌ざわり ≫読む
■富沢巧巳 魚の粗をしゃぶる会が詠む ≫読む
■高橋透水 ぶらり・酉の市 ≫読む
■矢野風狂子 兎は逃げた ≫読む
■俳句飯 つくりばな ≫読む
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