2007-11-04

羽田野 令 生きている途中

〔週俳10月の俳句を読む〕
羽田野 令 生きている途中



鳥・砦 の こ ら ず 照 ら す 夜 の 銀 杏   振り子

銀杏の大樹がそびえていて、光がある。そういう秋の一風景の中に鳥と砦を描くとき、空を飛ぶ黒い影と風化した岩の廃墟のような幻影とが浮かび上がる。「とり・とりで」とはじまっている。その二つは、飛翔のかたちと、片や地にじっとある、何らかの意志の遂行のための拠り所となる場所とである。至る所にかつて砦であったところはあるのかもしれないし、自分だけの砦であったと言える場所もあるのかも知れないとも思う。

「鳥・砦」の音の繰り返しの心地よさが何と言ってもこの句の中心である。同じ音を持つゆえにあらゆるものの中から選ばれた鳥と砦は、銀杏の金色の輝きに隈なく浴している。この二つに代表させて全てを語ろうとする作者の心意気のようなものも見えて面白い。


幹 く だ る 魂 の 鱗 や 居 待 月   五十嵐秀彦

木を上り下りする虫がいる。蟻が木や草花を行き来する。夜に黄金虫の類がゆっくり木の幹を這っているのを、もうずっと昔に見たこともあるが、「幹くだる魂の鱗」と言われるとそんな光景を思い出す。いや、別に虫と限らなくてもいい。大きな木は、見ていると何か下りて来そうな気がすることもあるから。樹木は古来神宿るものであるが、その霊性を帯びて地へ下りるものたちは木の魂の一片一片であるのか、もっと大いなる自然の魂であるのか。居待月とは、満月から三日後の月の名であるが、字に「居」や「待」があるのでやはり待っている気分が全体に漂う。


少 年 の 歯 型 盗 ま る 桃 の 寺 院   大畑 等

歯形という身体の一部が写しとられたもの、少年だから少し青々しい感じのあるそれが盗まれたと言う。そしてそれは桃のであるという。「桃の」が倒置されていると読むとそうである。歯形は桃につけた歯形だから。しかし、「盗まる」の後で切れるとして「桃の寺院」と取ることも可能だ。桃の寺院とは不可思議なものだが、「桃の」はどちらにもとれるように置かれている。

言葉と言葉が作り上げる世界、自分の内にある何かに形を与えて組み立てられた言葉たちは、現実世界の整合性をはみ出していても何かをよく表現し得るということはある。掲句では、それぞれの言葉の持つ世界が重なりあい、より鬱蒼としたエロティックな世界が表されている。

寺院はゴシック建築の大伽藍を思うのがいいのではないか。人間が神の高みを求めて伸ばした尖塔を持つ荘厳な様式の中に、メタファーの世界が、盗まれるという密儀として完結するのは素敵だ。


は は き ぐ さ 雨 戸 を 閉 め る 途 中 な り   柿本多映

今の家はあまり雨戸を閉めることもないが、昔は夜雨戸を閉めたものだ。戸の横の戸袋に手を突っ込んで引き出した。雨戸を閉めると真っ暗になった。一日の暗くなり始める時間、母親達はからからと雨戸を引いた。

闇へ向かって雨戸は水平に、時間軸のレールを滑るように動く。一方「ははきぐさ」は、天へ向かって垂直にいくつもの茎を伸ばしているような植物である。いや、茎なのか枝なのか葉なのかはっきりとしないような、幾本ものすじが地面から放射されたような形態、と言ったらよいであろうか。その茫とした立ち姿の植物の名に、「はは」すなわち「母」があることも、この移ろいの時間の景を深くする。ははきぐさと戸の動きの二つのイメージが交差して薄暮が何か壊しく描かれている。「途中なり」は、今生きて在ることを戸を閉じる途中にあると言っているのかもしれない。


火 の や う に 咲 く 花 も あ り 迢 空 忌   岩淵喜代子

火のような色、火のように真っ赤、というのは花の形容としてよくあるのだが、咲き方を火のようだとは普通言わない。水で育つ植物にしては異端ということか。火のようにカッと燃える咲き方、生き方と配されている迢空忌。迢空はいろいろ語られている。ひそけさ、かそけさを詠んだ人であるが、「基督の真はだかにして血の肌(ハダヘ) 見つゝわらへり。雪の中より」という歌にあるような妖しい火を、生涯抱えていた人なのだろう。一つの生き方を、「~もあり」と客観的に言っているのは、私はそのようではないけれど、ということも含むのだろうか。



齋藤朝比古「新しき夜」10句  →読む振り子「遺 品」10句 →読む五十嵐秀彦 「魂の鱗」 10句 →読む大畑 等 「ねじ式(マリア頌)」10句 →読む岩淵喜代子 「迢空忌」10句 →読む柿本多映 「いつより」10句 →読む津川絵理子 「ねぐら」10句 →読む

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