2007-11-04

鈴木茂雄 多種多様

〔週俳10月の俳句を読む〕
鈴木茂雄 多種多様



角川『俳句』11月号【大輪靖宏・筑紫磐井・櫂未知子・合評鼎談11「選と句会は俳人を鍛えるか」】の中で「週刊俳句賞」が話題として取り上げられていたが、ところどころで腑に落ちない発言があり、インターネット句会を知らない人に誤解を与えかねないような印象を受けた。ことは『週刊俳句』にかぎった問題ではなく、インターネット句会に参加している者として看過できないものがあった。

その全文を引かないで語るのは片手落ちの懸念を抱かないわけではないが、角川『俳句』の俳句愛好家および俳人に及ぼす影響は大きく、従ってその発言は重く受けとめられる。とくに「安倍内閣と同じで、お友達俳句会のような気はする(笑)。角川俳句賞が、いい悪いは別にして純写生派からシュールなものまで混じっているのと比べて、同じ傾向の作品が多い感じがしました。句会でも同じような現象が出ているかも知れないという気がしたのですが。」という筑紫氏の発言である。なかでも驚いたのがつぎの発言だ。【櫂「横だとさっと読み下せないから、句を選ぶスピードが遅くなる。それと、ネット句会って大体が、協会はどうか知りませんがタダでしょう。それもありがたくなくていやだなあと思うんです。」大輪「伝統俳句協会は有料ですよ。登録した上で投句するんです。」櫂「なるほど、それはえらい。普通のネット句会だと大体取らないんです。遠隔地に住んでいる者同士が句会をやりたいというのだったら分かるし、体が動かないから外に出られないという人がネット句会をやるのは必要というか仕方がないと思うのだけれど、ちゃんと体が動く人がネット句会をやって何か意味があるのかと私は思うのです。(略)」】【筑紫「私はプリントアウトしない限り俳句でも文章でもないと言いたい(笑)。」櫂「私は顔を合わせて句会をやりたいので、基本的に自分が行う句会は欠席投句は一切認めません。参加したければ京都からでも仙台からでも来いと言い放っています。」】と、言いたい放題。「紙」様を信仰するのは自由だが、インターネット句会にもオフ会(off-line meeting)というのがあって、実際に会ってお互いに親交を深めているという現実があることも知って欲しい。

また前置きが長くなってしまったが、上記の記事について触れたのは、別段他意があってのことではない。ただ「雑誌(紙)」対「雑誌(インターネット)」といった画一的な比較の構図はナンセンスだと思ったからであり、後者の作品はみな同じような顔に見えると言っているように思えたからだ。では、はたしてつぎの俳句たちは彼らの目にはどう映るのだろうか。作品の評価は別にするとしても、わたしには、みな、じつに個性的な顔つきに見える。

齋藤朝比古「新しき夜」10句
振り子 「遺 品」10句
五十嵐秀彦 「魂の鱗」10句
大畑 等 「ねじ式(マリア頌)」10句
岩淵喜代子 「迢空忌」10句
柿本多映 「いつより」10句
津川絵理子 「ねぐら」10句


す こ し づ つ は だ け て き た る 踊 か な  齋藤朝比古

今回は上記の七作品を読ませていただいたが、なかでもこの句は季語「踊」という言葉が内臓する「盆踊」という民間の伝承文化を引き継いで、しかも「踊」という季語をひとつ更新したような新しさが、その表現にある。「すこしづつはだけてきた」と言って、踊りにあわせて「踊子」の浴衣の胸もとが次第に開いていく様子を描写し、踊りの輪そのものも時間が経過するにつれて、だんだん踊る人と人との間隔に乱れが生じる様を大景として把握。しかもこの「はだけて」には「手や足を大きく広げる。また、目・口などを大きくあける。」という意味が二重奏になっていて、踊子の踊るしぐさがだんだんと大胆になり、踊りの輪も次第に勢いが増していく、そんな様子まで生き生きと力強く描き出すのに成功している。


髪 型 が 姉 と 同 じ の 飛 蝗 と ぶ  大畑 等

「飛蝗」の頭部を「髪型」と言い、しかも「姉と同じ」という発想が新鮮だ。この「髪型」はフェミニンなものではなくボーイッシュなもの。つぎに飛蝗に出会ったらきっとこの斬新な「髪型」が思い浮かぶに違いない。新しい飛蝗像がここにまたひとつ完成したと言っていいだろう。


舌 を 出 す 倣 ひ 通 草 は 宙 に 熟 れ  柿本多映

柿本多映と言えば「美術館に蝶をことりと置いてくる」「もう春の山脈として濡れてゐる」「炎帝の昏きからだの中にゐる」「わたくしが昏れてしまへば曼珠沙華」「月光はコクヨの罫に及びけり」等の秀句で知られる著名な俳人だが、こんなところでふいに意中の俳人の一人にめぐり会えるのもこれまたインターネット俳句のいいところである。

一読、冒頭の「舌を出す倣ひ」とは何だろうという思いに駆られる。「舌」というのは断るまでもなく味覚を感じる感覚器官だが、それに付随する言葉の意味から受ける印象はというとあまりいいものはない。「二枚舌(うそをつくこと)」「舌が長い(おしゃべりだ)」「舌が回る(よどみなくよくしゃべる)」「舌の先(コトバのうえだけ)」などがそれである。また「舌」は喋るという行為を象徴する記号でもある。昔から「ウソをついたらエンマさんに舌を抜かれる」という民間の言い伝えがそれを如実に物語っている。

再読、揚句の「舌を出す」という行為は、「アッカンベー」に見られるように、人をからかい侮蔑するしぐさか、あるいは自分の失敗を誤魔化すときにおどけて、ペロッと舌を出してみせる照れ隠しのしぐさだということに気がつく。いや、それともこれは、かわいく見られたいためにときとして見せる、女の仕掛けとしてのしぐさではないだろうか、ということに思い至る。いつしかそんな「倣ひ」がこの作者の身に付いたという自嘲の詩、そんなふうに解しては作者に対して礼を失することになるだろうか。

三読、「通草」がひとつ「宙に熟れ」ていると言う作者の声が聞こえてくる。それなら通草の実の表皮は裂け、その中には黒い種子をたくさん含んだ通草の白い果肉がざっくりと見えているはずだ。甘い匂いがする。官能的でさえあるが、その実はすでに「熟れ」、そして誰にも触れられず、採られず「宙に」ぶら下がったままだ。この「舌」が災いしているからだろうか。通草の熟れる秋の華麗で残酷な風景。この作品からは、作者の生と死の美学まで読み取ることが出来る。


つぎの作品も印象深かった。

手 も 足 も さ び し き 秋 の 電 気 街  振り子

秋 麗 や 鳥 人 三 山 に 参 る  五十嵐秀彦

出 棺 に 真 昼 間 使 ふ 烏 瓜  岩淵喜代子

げ ん こ つ で ほ ぐ す 足 裏 蓼 の 花  津川絵理子


現代俳句は今後この「週刊俳句」をはじめとするインターネットという舞台でさらに個性的で多種多様な役柄を演じてくれることだろう。



齋藤朝比古「新しき夜」10句  →読む振り子「遺 品」10句 →読む五十嵐秀彦 「魂の鱗」 10句 →読む大畑 等 「ねじ式(マリア頌)」10句 →読む岩淵喜代子 「迢空忌」10句 →読む柿本多映 「いつより」10句 →読む津川絵理子 「ねぐら」10句 →読む

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