2008-01-06

12月の俳句を読む 村田篠

【週俳12月の俳句を読む】
村田篠
いつもそこに、当たり前にあるもの
 



冬萌や米軍基地は囲はれて  浜いぶき


その句の中に、なにが詠まれているのか、ということに、目が向く。特別な事柄、珍しい風景ではなく、いつもそこに、当たり前にあるものがどう詠まれているのか。目の前に米軍基地がある。作者はそれが「囲はれて」いると書いた。そう書くことで、米軍基地は、私たちから(あるいは私たちが)疎外されている変な空間として、一句の中に立ちあがってくる。「囲はれて」という言葉が、「米軍基地」という空間を一句の中の新たな空間として詠み直すための仕掛けとして、十全に機能していることを感じる。


鏡中のこがらし妻のなかを雲  田島健一


なにかを映すものとしての鏡、そして妻、という把握に惹かれる。いや、ただ映すだけではない。その中を、こがらしやら雲やらが通ってゆくのだ。鏡中「の」、妻のなか「を」、と助詞を使い分けることで、風と雲の質感、それぞれの流れゆく速さの体感的な違いが書き分けられているところも、面白い。


暖房機しくしくふうと止まりたる   太田うさぎ


稼働している暖房機は、なにやらいつも一生懸命な風情である。一生懸命なゆえにあたたかく、空気は乾燥している。そんな暖房機が止まるときの音を、どのように言葉にするか。「しくしくふう」。なるほど。暖房が止まり、一生懸命が消えて、空気がほんの少し湿りを帯びたときの、吐息のような音。いわれてみればそんな感じがするが、いわれてみないと思いつかない。私たちはいま、ひとつの音声の創造に立ち会ったのだ。


一千年前の詩を読む霜夜かな     冨田拓也


詩を読むとき、「これは一千年前の詩なのだ」という事実をしっかり念頭に置いて、そのことを強く意識しながら読むことは——研究者ならばままあるかもしれないが、たんなる読者の場合は——それほど頻繁にはないと思う。むしろ、読んでいるうちにふと「一千年前に書かれた」という事実に気づいて、その遠さに、ふわっと体が浮き上がるような感覚に襲われる。この句を読んで、そんなときの気持ちを思い出した。一千年という言葉がたんに事実の説明ではなく、霜夜に大きな広がりをもたらす「かたまりのようなもの」として機能しているところが、なんとも魅力的である。


ひよろひよろと幻魚干されぬ雪催   相子智恵


雪催という季語に対するならば、わざわざ「幻魚」とせずとも「魚干されぬ」とすることで、一句は十分に幻想的でありうると思う。しかし、作者は「幻魚」とした。そして面白いことに、「幻魚」とすることによって、かえって幻想性が薄められ、ひょろひょろと細長い、名も知れぬ魚の干物が見えてくるのだ。「幻魚」の正体を知りたいと思う読み手の意識が、言葉の中から、何とかリアルなものをつかまえようと働くからだろうか。


枯庭や栞の分けるきのふけふ    笠井亞子


昨日までに読み終えたページに、栞がはさまっている。そして今日はここから、また読み始める。本好きにとって、栞は特別なものである。栞は、いろいろなものを分ける。昨日と今日、リアルと幻、幻滅と期待、自分と他人。栞は、いろいろなものを分けながら、いつも本の間で生き生きと存在する。たとえそのとき、すべてが枯れ切った色のない庭を目の前にしていたとしても。


街並の落ちゆく冬のマンホール    中原徳子


『朱欒ざぼん』10句は、フィリップ・ジャンティ・カンパニーの舞台に寄せられているが、私のようにその舞台を見たことがない読者でも、さまざまなイメージをふくらませることのできる10句に仕上がっている。なかでも、掲句のもつ崩落のイメージは強烈だ。街が崩れてマンホールに吸い込まれてゆくブラックホール的感覚は、だれでも一度は体験したことがあるような無重力の悪夢を連想させもするし、それこそ、10句の最後に書かれているような、マフラーに包まれた世界のやわらかさに通じているようでもある。そして、この句の「冬」は、おそらく代替不可能である。



浜いぶき 「冬の匂ひ」10句 → 読む
小池康生 「起伏」10句    → 読む
田島健一 「白鳥定食」10句  → 読む
太田うさぎ 「胸のかたち」 10句  →読む
冨田拓也 「冬の日」 10句  → 読む
相子智恵 「幻魚」 10句→読む
笠井亞子 「page」 10句  →読む
中原徳子 「朱欒ざぼん」 10句→読む
矢羽野智津子 「四〇二号室」 10句 → 読む
仲 寒蝉 「間抜け顔」 10句 → 読む


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