2008-02-17

上州の反骨 村上鬼城 第5回 初句集『鬼城句集』と虚子 斉田仁

上州の反骨 村上鬼城
第5回 初句集『鬼城句集』と虚子   斉田 仁



            第1回 新時代・明治と若き日の鬼城
            第2回 抵抗の精神
            第3回 小説から俳句へ
            第4回 農民の反乱「群馬事件」



鬼城がはじめて自らの句集を出版したのは、大正六年(一九一七年)四月、中央出版協会からの『鬼城句集』である。菊半截、平福百穂装丁、三十五銭とある。

ここでちょっと寄り道して今日ではあまり知られなくなった画家「平福百穂」のことにも触れておきたい。

平福は明治十年(一八七七年)生まれ、秋田県角館のひと。上京して日本美術学校に学び、日本的写実と西洋的写生の融合を完成させたまさに秋田蘭画の先駆者である。後年はアララギ派の歌人としても名を知られたようであり、この辺でも鬼城と不思議な因縁のようなものを感じる。親交あった川端龍子を通じて当時の『ホトトギス』の挿絵画家でもあった。角館には平福記念美術館があるようだが、私自身は未見である。ただ一昨年秋田市を訪れた折、秋田県近代美術館にて偶然この人の作品を見かけたことがある。

閑話休題。この句集には高浜虚子が長文の序を書き、編者の大須賀乙字自身もまた序文を書いている。虚子と乙字のこの序文によって今日の鬼城の評価が形成されたことは間違いない。

虚子の序文の一部を書いてみる。大正二年(一九一三年)、虚子が内藤鳴雪と共に出席した、高崎における俳句大会ではじめて直接の出会いがあり、そのおり、鬼城の作品「百姓に雲雀あがって夜明けたり」が虚子の天位に入ったことを紹介しながら、次のように述べている。

同君(鬼城のこと・著者註)は極めて調子の迫ったやうな物言ひをしながら、こんなことを言った。
「どうも危なくつてとても人中へ出られません。ちつとも耳が聞えないのだから、人が何を言ってゐるのか更に解らない。どうも世の中が危つかしくて仕方がない。今夜のやうな席に出たことは今日がはじめてである。」
とそんなことを言って笑ひもせずにまじまじと室の一方を見詰めていた。(中略)もし同君を見て単に偏狭なる一奇人となす人があるならば、それは非常な誤りである。同君が高崎藩の何百石といふ知行取りの身分でありながら、耳が遠いといふことの為に適当な職業も見つからず、僅に一枝の筆を力に陋巷に貧居し、自分よりも遥かに天分の劣ってゐると信ずる多くの社会の人々から軽蔑されながら、ぢつとそれに堪へて癇癪の虫を噛み潰してゐるところに、溢れる涙もあれば沸き立つ血もある。併し世間の人は其を了解するのに余り近眼である。(以下略)

先に述べたように、今日の村上鬼城の評価はこの文章によって決まり、今日でもその埒外へ出ることはない。

虚子の懇切な序文は、たしかにこの時点での鬼城をよく捉えている。しかし、その生涯にある上州特有の反骨までは見抜いていない。これがそのまま境涯の作家として鬼城の評価となったのは、私にとっては残念である。

鬼城このときすでに五十三歳、その前々年に耳聾の悪化のため高崎区裁判所構内代書業の許可を取り消されていた(ちなみにこのころまでの、ただ裁判所の許可を受けるだけの裁判所構内における代書業という職業はこのすぐ後、一九一九年に制定された司法代書人法によって、ひとつの地位が確定し、さらに一九三五年の司法書士法によって現在の司法書士という資格まで続いていくのである)が、皮肉なことに、このころからやっと名を知られるようになった鬼城は逆に俳壇的にはしだいに忙しくなってゆく。

大正三年(一九一四年)には『ホトトギス』虚子選の雑詠欄にて初巻頭、翌年は『ホトトギス』発行所を訪問、虚子、鳴雪、水巴、石鼎、青峰、零余子、普羅、泊雲、たけし、等十名に鬼城慰藉会をひらいてもらうなど、また生活の面においても小野蕪子らの尽力により裁判所の構内代書に復帰している。

こうして鬼城はしだいに俳壇的地位を高めていった。しかし、それから二十年、昭和十三年(一九三八年)、七十四歳で逝くまでの、いわゆる俳句安定時代の鬼城は、私にとってはあまり面白くない。苦しみながらも、初期のころの湧き出るように、克明に俳句に向かい合おうとした鬼城のほうに、私は大きな興味を感じる。

しかし、こんなことは明治から大正のころばかりではない。現在でもあまり変わりないのではなかろうか。多くの俳句作者が、若き日の溢れるような意欲を喪い、ただ俳句の巧みなだけの人間となっていくのがこの世界である。そして、このことも私がこの駄文を書いた理由のひとつである。


(つづく)



※『百句会報』第116号(2007年)より転載

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