2008-04-27

俳句とは何だろう 第6回 鴇田智哉

俳句とは何だろう ……鴇田智哉

第6回 俳句における時間 6


初出『雲』2007年6月号


前回、「ほーうお、ほけきょ」といううぐいすの鳴き声は、俳句一句の長さに似ていると言った。俳句一句は、一目で見通せる長さをもっている、ということであった。今回は、俳句が一目で見通せる長さである、ということについて、更に考えたい。

「会得の微笑」──俳句の理解はそこに始まる、と山本健吉氏はいう。例えば「古池や蛙飛込む水の音 芭蕉」を読むとき。まず一度終わりまで読んでみて、それからもう一度繰り返して低吟する。そして、頭の中でイメージの整理をし、やや時を置いてから、「なるほど」と頷き、にやりとする。この、にやりと洩らすのが「会得の微笑」であると。「なるほど」と頷く、ということで、この「会得の微笑」とは、感情よりも思惟の力に多く訴えるものであるという。そしてこの「思惟」という言葉は、山本氏の中では、ものを「認識」することと、ほとんど同意で使われている。

彼は、

  鶏頭の十四五本もありぬべし   子規
  帚木に影といふものありにけり  虚子

の二句を挙げ、次のように述べる。

これは体験による直観的な真実の把握ではあるが、とにかく感情よりも思惟の力に多く訴えるものであることに変りはない。俳句は宇宙の万象に対する的確な認識が含まれることを理想としている。鶏頭は「十四五本もありぬべし」といった具合に生えるものなのである。帚木は「影といふものありにけり」といった具合に立っているものなのである。
(山本健吉『挨拶と滑稽』)

帚木の句を読んで、「なるほど」と頷いたとき、つまり帚木について「的確な認識」を得たとき、読者は「会得の微笑」を漏らすということである。では、こうした認識はどのようにして生じるのか。それを山本氏は、「時間性の抹殺」という言葉で説明する。

彼によれば、俳句とは「十七音の言葉の連続が必然的に担わされた形式の時間性を抹殺して、おのおのの言葉を同時的に現前させようとする試み」である、という。おのおのの言葉が同時的に現前するというのは、例えば芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」の句でいえば、「古池や」と「水の音」とが同時に存在するということである。つまり彼は、一句の中のすべての言葉が同時に存在するということを、「時間性の抹殺」と呼んだ。してみると、この時間性の抹殺とは、もう少し噛み砕いていうなら、「一句が一目で見通せる」ということと同じではないだろうか。

ところで、山本氏の言葉は、以前引用した阿部完市氏の言葉と内容がよく似ている。阿部氏は同じ虚子の「帚木の…」の句について、次のように述べていた。

この一句は私を「いきなり」うち、たたき、直感せしめ、よしと思わせてしまう。私は、「といふものありにけり」の音の流れ、その早さ、その一筋さ、真直さが、私にこの一句を直感させ「よし」の感を与えるのだと思いこんでいる。
(阿部完市『絶対本質の俳句論』)

こうした俳句の読み方を、阿部氏は「直感読み」と読んでいるのであるが、ここで出てくる「よし」とは、山本氏のいう「なるほど」とよく似ていると思う。この「よし」はやはり一種の「会得」に違いない。一句を一目で見通すとき、この会得は生じるのだと思うから。

ここで気づくことがある。

山本氏と阿部氏、二人が感じていることは、かなり近いと思う。少なくとも〝俳句を《読む》〟という体験のレベルにおいて二人が感じていることは、ほとんど同じであるだろう。

違っているのは、体験のあとの二人のものの考え方の癖、自分が得ている何らかの感触を言葉にするときのニュアンスである。山本氏はより論理的な言葉を好み、阿部氏はより感覚的な言葉を好んでいるように見える。だから山本氏は「思惟」と言い、阿部氏は「直感」と言うのだ。

もっと言えば、阿部氏は、彼の言う「近代俳句」の合理的、理知的なあり方から意識的に決別しようとしているというところが違う。また、山本氏が「十七音の言葉の連続が必然的に担わされた形式の時間性を抹殺して」のように、俳句の十七音がもつ韻律をともすれば否定するかのような言葉を吐くのに対して、阿部氏はあくまで韻律としての俳句にこだわる、という違いが見てとれる。

そして、二人の違いが最も顕著に表れているのは、山本氏が俳句を「時間性の抹殺」という言葉でとらえたのに対して、阿部氏は、俳句は「時間詩」であるととらえているところだろう。似た体験を二人は、「時間」をキーワードにして、正反対ともとれる言葉で表現することになったのである。

実際阿部氏は、山本氏の文章をかなり読んでいるようだ。例えば、〃俳句がねがうものは、一つの認識の刻印である〃(『純粋俳句』)という山本氏の考えについて、「認識の刻印」というものを理論的、理知的な把握としてではなくて、もっと直感的に感覚的にとらえようとしているくだりが、阿部氏の文章にある。解釈に幅が生じやすい山本氏の言葉を、より自分の心に近づけて解釈してみたいという阿部氏の思いの形跡が、その文章からはうかがえる。

阿部氏は、山本氏の文章が「合理」に陥ってしまうこと、つまり読者としてそれを合理的、理知的文脈において読んでしまうことを、避けたいと思っているのである。それだけ、山本氏の文章は、読み手いかんによって、解釈が違ってくる余地が大きいということでもある。

いずれにせよ、俳句というものが一目で見通せる長さをもっている、という考えは、二人のどちらからも引き出すことができると思う。

(続く)



第1回 俳句における時間 1 →読む
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