2008-07-27

池田澄子インタビュー・中編

池田澄子16000字インタビュー
「前ヘススメ」も「バナナジュース」も・中編

















初の評論集
『休むに似たり』(ふらんす堂)を上梓された池田澄子さんのインタビュー2回目。話題は、池田さんの師・三橋敏雄の句風の変遷に。(聞き手 上田信治・佐藤文香)

95パーセントは三橋先生


池田 『真神』(三橋敏雄の代表作とされる第2句集)の次、『鷓鴣』(同第3句集)でしょ。『鷓鴣』にはすごくいい句があるんだけど、前作と同じようだから、埋もれるんだよね。

それで、以後は、その作り方から、なかなか出られなかったんだと思うの。

それで『畳の上』(第4句集)でちょっとすこし「あらい」感じに変られた。だって行き場所ないじゃない、あんなすごいの書いちゃったら。

佐藤 それで、ちょっと池田さんみたいの書かれたりして。

上田 『畳の上』の〈どこにもある冬も緑の非常口〉とか、おかしいですよね。あと『しだらでん』ですけど〈突立つてゐるおとうさんの潮干狩〉。

初期から、三橋さんの句を書き抜いていて思ったのは、あんまり完璧でね、人が書いたと思えないような句があるじゃないですか。

たましひのまはりの山の蒼さかな〉とか。もう、芭蕉か、というような(笑)。

池田 そう、だから、なんか親しみを持たせないところがあるねえ。

上田 言葉とイメージの関係で完璧にできあがっちゃって、言葉としてだれかが言ってる必要がない。それはある意味、俳句の理想かもしれないですけど。

池田 そうなんだねえ。完璧・・・もっと人気あっていいと思うんだけどねえ。最近になって、ある人から三橋敏雄っていいんですねーって、言われて。

上田 なんで今ごろ、と(笑)。

あの話飛びますけど、今年2008年は、ほうぼうで田中裕明さんを読み直そうという機運があって、あれはすごくいいことだと思うんです。(「澤」創刊8周年記念号「特集/田中裕明」、ふらんす堂HP「田中裕明全句集を読む 昼寝の国の人」など)

だからこれから、三橋敏雄を読み直そうって、言って回りますよ。微力でも、みんなでちょっとずつ言うと、物事、だんだん実現してくるから。

池田 この本の95パーセントはそれ。三橋先生。

佐藤 あと5パーセントは。

池田 できれば、将来にでも万が一、私の句を読もうと思ってくれた人に参考になってくれれば、嬉しいけど。


むしろ、気分を書きたい


上田 『休むに似たり』の後半、句集の評や紹介として書かれた文章には、お考えが凝縮された文章が、次から次へと出てきて、俳句についてのアフォリズム集のようにも読めます。

三橋先生について書かれたところも含めて、ほんの一部ですが、引用させていただきます。


想望の方法は、(三橋敏雄の※上田注)後の生涯を通じて貫かれた。目の前の事実が真実を見せているかの問い、あるいはそれ以上に、想い見たものを言葉によっていかにリアリティをもたせるか(…)P18(『休むに似たり』以下同)
経験か想望かではなく一句の結果としてのリアリティが問題だということ。(…)言語表現者として自身の想像力を恃む(…) P22
想望により見るものは、むしろ見る人の素質を露わにする。(…)心情の具象化(…)自身を普遍の景の一部をして創造する意思 P30
ある時の写生は(…)普遍の景色の提示に至る。P38
定型に束縛されねじ伏せられたと見せかけながら手玉にとる。(…)空地の面積を数倍に見せようと(…)P102
〈妙に合う〉というところが勝負所である。P160
よく視るということ、発見するということ、それは適確な言葉に辿りつくということであるらしい。P254
俳句の新しさとは何か……それは分からない、現われてみないことには。P248



上田 いくつかキーワードがあると思うんですが。非常に考えさせられたのが、想念・観念の具象化から「普遍性」に到達するということ、もうひとつ、結果としての「リアリティ」という部分です。

それって、両方「どこで一句ができあがるか」ということだと思うんですが。〈湯ざましのでる元日の魔法瓶〉どうやって、ここで湯冷ましをだしたんだろう、と(笑)。

池田 ポットから湯ざましは出たかもしれない。じゃ「いつ」あるいは「どう」湯ざましを出したもんかな、って、こしらえていくんだよね。

上田 じゃあ、ここは「元日」でリアリティが立ち上がった。

池田 元日はつくりものよね。

上田 〈元日の開くと灯る冷蔵庫〉も同じ作りだと思うんですけど、ぼくは「開くと灯る」が好きなんですよ。

佐藤 私、冷蔵庫って、ずっと光ってるものと思ってた。

池田 それ、私も確かめようとした気がする。思いついて、間違ってたらたいへんだから、冷蔵庫、確かめようとしたんだけど、開けると点いちゃうからね(笑)。

上田 (笑)それでですね、普遍性とリアリティって、場合によって両立しがたいこともあると思うんです。

たとえばそれこそ三橋さんの句が、普遍性に達するとき、その時その場限りの景っていうんじゃなくて、永遠に通用する内容の句になる。

ただ、虚子の〈川を見るバナナの皮の手より落ち〉のような、その時限りしか起らないことにも、これが現実だー、という感動がある。三橋さんの句は正に対極にあって、あれだけ永遠性のある表現ていうのは、虚子をこちらにおくと、標語にちかづく危険がある。

でも〈戦争と畳の上の団扇かな〉は、これ、その日、畳の上に団扇があった!っていう一回性を感じるんです。いや、本当は、畳も団扇もなかったかもしれませんけど、そう感じさせる。しかも永遠性も手放されず。

池田 そういう偶々のような現象の積み重なりが、この世である、という普遍性。それにしても、どうしてこんな句が書けるかと思うね。

上田 ほんとに。でも、ちょっと〈元日の開くと灯る冷蔵庫〉にも似ている。

池田 (笑)そういうふうに読む?

上田 いや、ほんとに。

池田 その団扇の句がいちばんむずかしいんだわ。

上田 泣けますよ。

池田 〈畳の上の団扇〉から、きてるのかしらね。戦争から書き始めた句じゃないような感じがするね。

上田 はい、三橋さんの他の戦争の句とは違って、戦争から演繹的に書かれてはいないような気がします。理屈じゃない。

あ、でも両方かな。たぶん、自分の今の日常の上にどう戦争がのっかってるか、っていう意識を持たれていて。一方で、ただ団扇があって、演繹と帰納がまんなかで出会ったというか。

あと、池田さんは、三橋敏雄が「自分の」恋を書かなかったことについて、書かれていて、

完璧な表現への志が、自己の気分の告白を切り捨てた。このニヒルなシラケはどこから来ているのか。それは怨念あるいは絶望に近いものであったかもしれない。p16

この本の中で、最高にかっこいいところの一つなんですが、池田さんご自身は、その「気分」ていうものを捨てないじゃないですか。

池田 捨ててないねえ。むしろ、気分を書きたいところがある。

上田 そこが、三橋さんから見て、羨ましかったところじゃないかと思うんですよ。

えーと、何の話でしたっけ、あ、そうだ、つまり、澄子さんが、気分と日常性のなかに、三橋敏雄的な普遍性を志向するのだとしたら、それはどういうことか。

佐藤 本に書かれている澄子さんの言葉で「この世やそれを包むものや自分を眺めながら」(p12)とか、「私を私とせず人間の一例として」(p245)って。

池田 うん、そう。私は単なる一つの素材なんだよね。

佐藤 自分の話をしたくてするんじゃなくて、一例なんですよね、

えっと〈有り難く我在りこぼす掻氷〉(『たましいの話』)の「我」は、澄子さんとは限らないだれでもいい「我」で、〈茄子焼いて冷やしてたましいの話〉もそうだけど、近いところから発して遠いところに行く。

上田 日常性を梃子にして遠くに行く、ってことでしょうか。ぼくは〈ゆく春の製氷皿の区切る水〉(同)みたいな、どこにも行かないのも好きだな。

池田 それも、できたとき、嬉しかった、私。みんな同じ穴のむじなだねえ、世の中たいへんなのに、こんなことで喜んでて(笑)。


(次回・後編につづく)


池田澄子さんインタビュー・前編 →読む



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