2009-03-08

〔週俳2月の俳句を読む〕小林鮎美 もう一人の自分を作る

〔週俳2月の俳句を読む〕
小林鮎美
もう一人の自分を作る




書初の仮名文字女々しむつかしく  如月真菜

一読して「あ、あるある」と思った。もともと女性が使うものだった平仮名。曲線が多く、書きにくいし、漢字より小さく書いて全体のバランスを取るのも難しい。
女性である作者が、その「女々しさ」を「むつかしい」とさっぱり言い切る、その姿勢が好きだ。


しぐるるや耳を嫌がるヘッドホン   越智友亮

このヘッドホンはきっと耳の穴に突っ込むタイプだろう。ヘッドホンというよりイヤホンみたいな感じの。私もそうなのだけど、あれは耳の形が合わないと、うまく入らなくてぽろぽろ外れてしまう。あの感じは、確かに「耳を嫌がる」という表現がぴったり。


私を描くな少女よ今は「イ」を選べ  佐藤文香
田辺君他女子を見送るコートは我 

教師(みたいな立場の人)が、「教師と生徒」という形からはみ出た気持ちを表すと面白い。小池光の「佐野朋子のばかころしたろと思ひつつ教室へ行きしが佐野朋子をらず」とか。「私」が少女に抱く親しみが、ドライでユーモラスで、なんていうか、現代的。田辺君に対してもそう。

個人的に、俳句を作るようになってからずっと、俳句を一句作るってことは、その句の向こう側に、もう一人の自分を作ること・作ってしまうことなんじゃないか、と思っている。俳句は基本的に一人称の文学だし、何かを文字に起こすと、それはその時点で「作られたもの」になって、本当の自分が感じたこととは離れてしまうし、私(達)は俳句を読むときにどうしても後ろにいる作者の姿を意識してしまうから。どんなに自然にそのままに感じたことを句にしても、それが他人に読まれる(どこかに発表する)かぎり、私達はそこから完全には逃れられない。

「ケーコーペン」10句はそれを意識した上で、うまく作られているように感じたけれど、いきなり最後に、「佐藤先生僕の消しゴム嗅いで去る」という、違う視点(人称)が入ったので、なんだか全体でまとまりがなくなってしまった気がした。もしかしたら、作者に何か狙いがあったのかもしれないけど。


撫でてをるのは春水のおもてがは   島田牙城

花粉症のせいか、春がそんなに好きじゃない。「春」という言葉からはなにか優しくて柔らかい印象を受けるけれど、その印象の裏に、なにか隠されているものがあるんじゃないか、と思う。私は、春水の裏側を撫でられそうな気がしない。



越智友亮 東京 6句  ≫読む
高崎壮太 ちやんぽん屋 6句 ≫読む
佐藤文香 ケーコーペン 9句  ≫見る
島田牙城 靴下の匂ひ  10句 ≫読む
彌榮浩樹  鶏  10句 ≫読む
関悦史 60億本の回転する曲がった棒 10句 ≫読む
川口真理 雛祭  10句 ≫読む
如月真菜 女正月 10句 ≫読む
岡田佳奈 きたよ 10句 ≫読む


 

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