〔週俳5月の俳句を読む〕
箭内 忍
それにしても高士氏
●メトロ 下村志津子
野遊びやをんないくつも袋持つ
女性はとかく荷物が多い。滅多に使わないカラーペンを筆箱にぎっしり詰めて句会に来ているご婦人、一泊旅行なのに家出するぐらいのスーツケースを抱えてくるご婦人、荷物の多い理由としては決まって「何かあった時のために」と言う。掲句、「野遊び」という開放的な場所に来ても女性というものは「何かあった時」のために袋を持参しているという女性の習性を詠んだ機知が面白い。
雲雀野やひとりぼつちが遠くにも
野原に置かれた二等辺三角形の構図がみごと。自分と遠くに見えるもう一人が底辺、頂点は天上にいる雲雀。三点の距離は、離れれば離れるほど、ひとりぼっちの孤独感が増していく。その距離は読者に委ねられている。
思ひまた父へとかへる青田風
作者の頭の中には常に父がいる。老齢なのか体調がすぐれないのか、心配なのだ。日常の雑事の中で父を忘れており、ふと「青田風」を感じた瞬間、また頭の中に父への思いが戻ってきた。「青田」と「父」の取り合わせの句は多いが、この句の良さは、「青田風」が一句の中のすべての言葉に呼応し、しかも支えているところだ。
●鳥の巣 星野高士
鉄骨の静かに組まれ春の昼
「春の昼」の得体の知れないまったり感の中心に「鉄骨」という現実に重量あるものを据えたのがみごと。実際、鉄骨を組むには騒音を立てていると思うが、作者は「音」の聞こえてこない遠い場所で見ていたのだろう。「音」が消えていることで、まるでスローモーションのような現実離れした世界が描かれている。
虚子旧居まつすぐ行けば春の海
鎌倉の虚子立子記念館は町の喧騒からやや入った山裾に位置している。そこからどんどん下って鎌倉の街並みを抜けていくと海に突き当たる。作者は心に迷いや乱れが生じた時、何度も海を目指したのだろう。「まつすぐ」は作者の願望なのだ。それにしても高士氏、今までに何句虚子の句を読み、作ったことだろう。虚子の句といえば手垢にまみれざる得ない環境下で、いったいどうやったらこんなに素直な詠み方ができるのか。「まつすぐ」は作者の少年性に通ずるのかもしれない。
●仏陀の目 夏井いつき
まるごと「いつき組」プロデュース号でいつき氏は、「俳句はエンターテーメントだ!俳句という舞台の上で作り手と受け手が共有し得る楽しみを追及してみようじゃないか!そして、それは本物でありたい」とテーマを掲げている。そこで、私なりの楽しい度を☆でつけさせていただいた。
『仏陀の目』は、その企画のひとつ、「6時間耐久ラブワゴン」という席題即吟で詠んだ作品が多いようだ。(「ラブワゴン」の未公開部分は拝読していないので、即興俳句以外の句が含まれている場合は予め失礼をお詫びします)
☆☆☆
炊飯ジャーのしゃべる日本語目借時
昨今のしゃべる電化製品、映画でも機械の言う通りに操られる人間がいた。そのうちに現実と仮想現実の区別がつかなくなるのではと怖くなる時がある。「目借時」という時代がかった季語が逆に未来へと想像を広げる。
戦果とは野に潰したる蛇の数
夜光虫ジャーナリストの死の報道
即興俳句だからこそ噴出する作者の日頃の問題意識だと思う。「死」のリアル感が妙にクセになる。
☆☆
吾は春の鵙であったという事実
痒くて痒くていっそ杉菜になってやる
これだけ対象を自分に引き寄せられたら、さぞや痛快であろう。作者の楽しみ度としては五つ☆ではないだろうか。
耆那教教典に紙魚つぶれたる
マルクスは拒否して目高など飼って
「耆那教は不殺生を重んずるから〜」と意味づけて読むとたちまちつまらなくなる。「マルクス」も同じ。大物とミクロの取り合わせが愉快。
沈丁花の香は何の色水の色
酸味ある梅雨の夕日でありました
「香」から「色」、「味」から「夕日」へのずらした飛ばし方が絶妙。しかも、「沈丁花」と「水」、「酸味」と「梅雨」と、二重構造になっているところで更に言葉間の連結度が増す。私の先師吉田鴻司は初心者指導時に「盗むなら言葉や型ではなく、景と視点を盗め」言っていた。このマトリックスな飛ばし方は、盗みどころだ。
☆
おいどんは山です山は笑います
孫太郎虫おまえ泳げたのか
夜の百合をこんなに責めていてよいか
素人が型を盗むと手痛く失敗するタイプの句。なんだかよくわからないけど感覚的に面白いし楽しめる。
この「楽しみ」には一過性のものと、ずっと心に残る「楽しみ」がある。いつき氏の言う「本物」に繋がるかはわからないが、☆☆☆作品は私にとっては永続的に楽しめる作品。☆作品は、リズムがいいので覚えてしまう作品ではあるが一過性の楽しみのように思えた。
●むくげむくげ 十亀わら
威嚇かもしれずリラの束が胸
リラの花束を抱えた人を「威嚇」と捉えた感性に感服。リラの花自体は大柄ではないので派手さはなく、ゆえに花の量感を感じる。花束を持って歩くだけで妙に緊張している男性が目に浮かぶ。
炎昼の赤き新潮文庫かな
「文庫」とくると、どうしても鈴木六林男〈遺品あり岩波文庫『阿部一族』〉と比較してしまう。当然、作者もそこは承知の上での固有名詞であろう。その意欲にエールを送りたい。ちょっと前に流行った『蟹工船』が確か赤い表紙カバーだったような。「炎昼」の中、『蟹工船』を持って立っている白髪中年をイメージすると面白い。
青ぶだう食めば泣けてもくるだらう
もうさびしがるな小鳥など待つな
こう言われると「そうだなぁ」と思ってしまう気の弱い読者を惹きこむ力のある句。どちらも、強がりばかり言っている実は淋しがり屋の女の子、という印象。口語体のインパクトと内容の不可思議さが相乗効果を発揮している。
●百年の恋 渡部州麻子
百年の恋は椿を踏んでから
「百年の恋」と言うと、恋愛小説やドラマのタイトル、商品名、または「百年の恋も一時に冷める」という慣用句が浮ぶ。ともすると俗的方向に傾きやすい「百年の恋」という言葉を一手に支えているのが「椿」の一語。掲句は恋愛の永続性、長さという意で百年を用いているのだろう。椿を踏み越えていく勇気と決意が永遠の恋への入口なのだ。「踏んだから」と開き直られると一気に怖い女になる。
柳絮飛ぶ嗚呼思ひだせさうなのに
誰しも共感するシーンではないか。顔は浮かんでいるのだが名前が思い出せない。忘れ病は、最初はハリウッドのスターの名前から日本の俳優、ついには身近な知人にまで及んでくる。掲句は、何かを思い出せない時のあのイライラ感、「柳絮飛ぶ」にピタリとはまっている。
春月つめたし人形に生殖器
どんな人形だろう。男か女か、それとも一対なのだろうか。素材はソフトビニルか布製か。「春の月」はつきすぎではないか。色々思いが巡り惹かれる句だ。景としては置かれた人形の窓越しに春の月が見えている。人形の顔は逆光で見えず輪郭だけのほうがいい。ひとつひとつの言葉には温度や固定情緒があるのに、並んだ時に現れる全体に漂う硬質感がこの句の何よりの魅力だ。こんな句に出会うと17音の言葉の深みを痛感する。
●指間 加根兼光
鶴帰る澪に残れる微振動
何かが去った後の景を詠むのは常套。掲句は、鶴が発つ羽ばたきの強さや大空から一転して「微振動」の仔細に迫った対比がいい。凍った湖の鴨の群が飛び立ったら湖ごと持ち去ってしまい、後には大きな穴が残ったというスケールの大きなアメリカンジョークを思い出した。
惜春の指間に薄き膜生まる
惜春の光に向って手をかざすと、指と指の間がオレンジ色に透けて見える。人間が進化の過程で一度失った膜がふたたび生まれてきたというのだ。何のための膜なのだろう。泳ぐための水掻きではない。「惜春」の失いたくない何かを受け止めるための膜、作者のそんな思いを感じ取るべき作品である。
いちじくはないのとつぶやかれました
鉛ぽたぽた鉱石ラジオは夏へぴー
インパクトとリズムはある句だとは思うが、軽みというか、軽い。作者は景をじっくり詠んでいる作品群の中に、なぜにこの2句を入れたのだろう。
●天辺 こしのゆみこ
みどりの日猫はしずくのように降り
確かに、我が家の猫も着地の時にポトリと音がする。あの着地の軽やかさを「しずくのように降り」と比喩したのには、思わず手を打つほど嬉しくなってしまった。「みどりの日」のつけ方も上手い。
箱庭に無難な兄を立たせたる
どうしても引っかかるので上げずにはいられなかった句。「箱庭」と「兄」両方同時に現実の存在として景を浮かべることが難しかった。どちらかを象徴だとすると「箱庭」が家庭の象徴なのかも。「無難な兄」の箱庭の中のような人生と詠んでいるとしたら皮肉が利きすぎ。いずれにしても作者は箱庭の外にいて、「立たせたる」という程度にその人生に関わっているわけだ。裏返して羨望かとも思える。
フルーツパフェ天辺にある夏の雲
思春期の少女が詠んだような可愛らしさを良しと取るか、悪しと取るか。若手俳人の先駆者的ポジションにいる作者には、私は、あえて後者だと言いたい。掲句自体は遠近法が効いた爽快な一句。けれどこの視点は、松任谷由美の「ソーダ水の中を貨物船が通る」以降既に使い古されている。ましてや「フルーツパフェ」ではあまりにも近い。
●はさむほど しなだしん
半分はいそぎんちやくとなつてをり
磯巾着は棒でつついたりと何かの刺激を受けると拳を握ったようにぎゅっと縮まる。しばらく眺めているとそれが少しずつ元に戻ってくる。その戻りかけの状態を作者は捉えたのだ。観察眼の効いた写生をユーモアのある表現にのせたところが魅力である。
雨ならば雨をよろこびつばくらめ
殴られて殴りかへして麦の秋
まつりから覚めて祭へ出でゆけり
鋏虫はさめばはさむほどかなし
10句中4句が言葉のリフレインを用いている。作者の俳歴を考えると技巧が乏しいとは思えないので、リズムが好みなのか、単に好きなのか。それにしても多すぎではないか。効果があると思えるのはそのうちの一句。〈まつりから覚めて祭りへ出でゆけり〉の句。祭の日の夜までのひと時に祭の夢を見た。おそらくはやる気持からであろう。そして、夢から覚めて現実の祭に出掛けてゆく。あんなにはやっていた気持は夢と共に少し冷めてしまっている。誰しもが覚えのある経験だろう。現実と夢との二重に交錯する感覚を言い得ている。「まつり」と「祭」の表記も効果的だ。
●朝曇 日原傳
穴熊といふ戦法や夕長し
時々、数日引き篭もりたくなる。誰かが玄関でチャイムを鳴らしても居留守を使うことがある。そんな気分の時は、遅々とした夕暮れに身を置いてみたりするものだ。
束の間に古書肆の前の花の塵
一読、予定調和で安定した句。自分と古書肆と花の塵、まったく別々の時間の流れの中で存在していた三者が束の間、重なる一瞬。そこにそれぞれの存在の価値が生じる。そして、またそれぞれの時間の流れる方へと向うのだ。仏教の「一切は刹那…」を思わせる句である。
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■渡部州麻子 百年の恋 10句 ≫読む
■加根兼光 指間(しかん)10句 ≫読む
■山下知津子 影光らざる 10句 ≫読む
■こしのゆみこ 天 辺 10句 ≫読む
■しなだしん はさむほど 10句 ≫読む
■日原 傳 朝 曇 10句 ≫読む
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2009-06-07
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