〔週俳5月の俳句を読む〕
浜いぶき
ちいさく胸が苦しくなった理由
みどりの日猫はしずくのように降り こしのゆみこ
人間ではない「もの」を扱うとき、こしのさんの句は視覚的な形状がとても印象的だと思う(猫は「もの」ではないけれど)。
塀からかフェンスからか、一匹の猫がとび降りる。みどりの日の頃の日差しとよく繁る青葉(もしかしたら木下闇のようなところかも)、それを背景に「しずくのように」とび降りる猫。猫特有の、敏捷なようでどことなくぽってりとした降りかた。あの滞空時間のながさと「一粒」感は、ちょうど「しずく」の形だ。
しゃぼん玉のよくでる家のありにけり 同
心太式に九九掛算うたう
息吹きかけて地球儀磨く水無月の
フルーツパフェの天辺にある夏の雲
しゃぼん玉や地球儀の丸。それも、次々に飛んでゆくちいさな球と、両手で抱えるほどの球体とのちがいがあざやかだ。心太式、という言葉はやはり心太の細長い直方体が四角く揃って押し出されるさまを想像させるし、どっしりした硝子の器に入ったフルーツパフェは、円錐のオブジェのように眼前にイメージされる。その「天辺」には、厚みのある立体的な白い雲。しっかりと各々の「かたち」を持ち、手に取ることができるように思える「もの」たちばかりだ。
*
10句のなかで描かれる「人間」=「家族」も、ある意味で物質的に描かれている。
しゃぼん玉父の横顔とおりすぐ 同
父の日の父の生きているものおと
「父」という語につられ、親しい存在のつもりで読もうとして、ふと気付く。これらの「父」は、どれも、こちらを向いていない。注意をはらってこちらがみとめた父の姿が、ただ画で、音で、描写されているだけだ。この句でとおりすぎていく「しゃぼん玉」は、すぐに割れてしまうとは思えないような、たしかな存在感である。それに対して、並置されている「父の横顔」の輪郭の淡さはなんだろう。その横顔からは、例えば静けさ、といったことの他に何も読みとれない。
二句目でも、作者は音だけをたよりに、父の姿、存在を感じている。それは、辛うじて、とも、克明に、ともとれるけれど、「生きているものおと」という即物的な表現が、精神的なものとも違う「父」の把握を示している。作者の、「父」との不思議な距離のとり方がみえてくる。
箱庭に無難な兄を立たせたる 同
兄を箱庭に立たせる、という、人形をつまんで置いているかのような、「もの」めいた感覚。「無難な」ということは、誰か箱庭に立たせるべき(しかも立たせれば「箱庭」が「無難」でなくなるような)存在が他にいるということだろうか。(それは父ではなかったのだろうか、と思うのは早計にしても。)
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そして、「人間」=「家族」を物質的に捉えることからはなれるとき、作者にとってそれはとても曖昧で、どこか幻にも似た、はっきりとは捕えがたいもののようである。
草笛を吹こうとすると覚める夢 同
ぴちぱち鳴る曹達水越し家族
「草笛」を吹いている自分の姿を、この句は結局描ききれずにいる。吹こうとすると、目が覚めてしまうのだ。草笛、というのはどうしても幼い頃の記憶、あるいは家族の記憶と結びつきやすい季語だと思うけれど、その草笛を吹くことが、作者は結局、出来ないままでいる。
「曹達水」の句のなかでも、家族の姿はかがやいていて、けれどとても淡い。ソーダ水の中を貨物船がとおる、という歌詞が荒井由実にあるが(「海を見ていた午後」)、ぴちぱちと、陽気で儚いちいさな音を立てて、やがて消えていく透明な泡「越し」の「家族」は、さらにもっと淡い。輪郭や強度はわからなくて、ただ色彩だけがにじんで見えるような、ぼんやりとした不思議な印象だけを、この「家族」は残している。
うつろいやすく、あわあわとした、薄い絵の具で描いた水彩画のような捉え方は、冒頭の「もの」の描写の仕方とは大きく異なっている。(きっと、そのなかには作者の感情が気付かれないくらいに薄められているのだと思う。)それが作者のもつ句の世界の触れ幅であり、それらが絶妙にとりまぜられているのが、10句を読んでいて何度も、ちいさく胸が苦しくなった理由のような気がした。
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2009-06-14
〔週俳5月の俳句を読む〕浜いぶき ちいさく胸が苦しくなった理由
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