〔週俳5月の俳句を読む〕
笠井亞子
季語のヴァージョンアップ
みどりの日猫はしずくのように降り こしのゆみこ
猫は「いつのまにか」そこに居、そしていなくなるものです。ふと見れば高いところで毛づくろいをしている。その猫がふいに降りて来た。ぽとり。
「しずく」と感じた作者が選んだ季語はみどりの日です。昭和天皇の誕生日から変身したこの休日は、1989年施行という歴史の浅さからか(2007年からは5月4日に移行、4月29日は「昭和の日」となる)、残念なことにあまり奥行きを感じることはできません。しかしここではどうでしょう、万緑という季節の中、馥郁たる春の一日という時間の中、一面緑の海の中から、猫が降りて来たようなみずみずしさです。まるで緑のエキスのように。すばらしい使われかたをすると、季語がバージョンアップしてしまうのですね。
制服の刺繍の社名春落葉 加根兼光
見たはずだが聞かれるとあやふやになる。気付いてはいるが、特にそれについて思うところはない。そのようなことがらは、いったいどこに行ってしまうのでしょう? どこかに「ある」のでしょうか? パソコンで消去したデータはどこかに「澱」のようにたまっている気がしています。そのようにでしょうか? あ、単なる老化ですって?
(深くうなずきはしますが)ともかく、制服の胸にはありました、確かに刺繍。少しつつましく、しかし染めともプリントとも違う光り方をして。
「些末なもの」を取り出してくる、取り出してきて季節の場所を与えてやること。それだけで充分おもしろいという俳句の力を感じます。ただそこにあるものをそれと言っただけのことなのに。しかし成功させるのは簡単ではない。漢字の多いこの句。中でも、「刺繍」という文字の稠密さは視覚を、質感は触覚を刺激してきます。(「制服の胸の社名」ではこれほど皮膚感覚をヒットできません)そしてSE-SHI-SHAというしゅーしゅーした不思議な韻律。声に出してみると大変愉快です。また刺繍されているのは模様などではなく「文字」であり会社の名前であること。この限定がもたらす哀感とユーモアがなんともいえません。(作者は口にのぼらせくくっと微笑んだに違いない)時は駘蕩たる春ではなく何気ない落葉の春。するっとできたように見えて、どうして重層性のある句です。
蝶二頭乾いた街に流れつく 下村志津子
まるで西部劇の放浪のガンマンのようなこの蝶。痛快です。アサギマダラという蝶は日本から南西諸島、台湾にまで旅をすると聞きます。それは目的があってのこと(たぶん)。しかしこの二頭はふらっと、あるいはやむにやまれぬ事情があって「流れついて」しまったんですね。しばらくしたら埃っぽいこの街とも「おさらば」するのでしょうか? その映像には、夕日をバックに口笛が聞こえてきそうです。
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■こしのゆみこ 天 辺 10句 ≫読む
■しなだしん はさむほど 10句 ≫読む
■日原 傳 朝 曇 10句 ≫読む
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2009-06-14
〔週俳5月の俳句を読む〕笠井亞子 季語のヴァージョンアップ
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