2009-06-07

〔週俳5月の俳句を読む〕月野ぽぽな 儚さへの憧憬

〔週俳5月の俳句を読む〕
月野ぽぽな
儚さへの憧憬


野遊びやをんないくつも袋持つ  
下村志津子

一読すると、実景としての女の子がビニール袋か何かに草花を摘みながら野遊びをしている様子がまず浮かんできます。 読み返していくうちに、この「をんな」が実景としての特定の存在でなく、もっと普遍的な「女性」として立ち上がってきました。たとえば、女性は男性にくらべて鞄を好む傾向(個別的には男性でも鞄好きはいるでしょうし、女性でも鞄に興味の無い人もいるでしょう。あくまでも一般的に見た傾向という意味です。)があり、洋服にあわせて数多く所有しているさま。 更には女性の身体的特徴、子宮や卵巣を備えていることまで思いが至ります。この重層的な光景と、実景としての「野遊び」から発展した「人生」の象徴としての「野遊び」のありようとが相まって、肉厚な読み応えです。

鉄骨の静かに組まれ春の昼  
星野高士
都会の只中にいると、始終どこかで進められているビル建築を目にします。恐ろしい程の大きさの鉄骨はクレーンによって、確かに、静かに注意深く運ばれては組まれ、ビルは着々とその高度を上げてゆきます。巨大な物体であるからこそ、その静けさは少し異様で軽い目眩を起こしそうです。 この景が「春の昼」と出会ったことで「春の昼」に潜在する、少し現実から離れた浮遊感が顕在化し、白昼夢のような空間が立ち上がりました。


春雨へ漕げばとろりと揚子江  
夏井いつき
揚子江を実際に訪ねたことはありませんが、映像で見るそれは、川幅太く土色の水を湛えてゆったりと流れています。やわらかい春の雨が降り注ぐ大河へ漕ぎだすさまを「とろり」とは言い得て妙。句を声にしたときの韻律の心地よさも手伝って、得も言われぬ駘蕩感と旅情を味わうことができます。行きたい。

炎昼の赤き新潮文庫かな
  
十亀わら
この文庫への、作者の思いが伝わってくるようです。 現に存在する本であれば、その内容や背景を知って更に味わいが増すかもしれませんし、もし存在する本でなくても、この字面からただならぬ強い、滾るような思い入れを感じることができます。 そこには「炎昼」「赤」はもちろんのこと、「新潮」の字面も大いに貢献しているように思います。他の出版社の名前に入れて比べてみると、その感触の違いを知ることができそうです。 「炎昼」を具現する文庫といったら「赤き新潮文庫」以外にないと思えてくるから不思議です。

猫は尾で淋しいといふ春の星  渡部州麻子
生きとしいける物は皆「淋しさ」という言葉によって掬い取ることのできる感情を持っていそうです。それをどうやって発信しているのでしょうか。 「猫は尾で淋しいといふ」。では他の生き物、たとえば人間はどうやって発信しているのでしょう。「淋しい」と意識して口にすることだけが「淋しさ」の発信の方法ではないでしょう。それは総体の中のほんの一部に過ぎず、むしろ心身から、もっと言えばその存在全体から無意識の内に、自ずとにじみ出てくるものなのかもしれません———。 「猫は尾で淋しいといふ」。それが鳴き声でない分、一層しみじみとした感情の深さが伝わってきます。時は春、恋の季節です。「淋しさ」は「恋しさ」に限りなく近づいていきます。 「春の星」のやわらかい空間が、猫の淋しさをやさしく受信しているようでも、また具体的な受信者の存在を暗示していうようでもあります。


制服の刺繍の社名春落葉  
加根兼光
なにか劇的な事件や出来事の中にではなく、日常の営みの中にこそ、それを生きる人間の深い思想がふっと見えてくるものかもしれません。 掲句の上五中七の映像、おそらくこれは毎日の労働のために着られる制服の左胸に小さく刺繍された社名でしょう。本来、刺繍という言葉からは、それが装飾の為に施されることが多いため華やかな印象を受けますが、社名を告げるためのそれは、その華やかさを最小限に抑えたもの。そこに向けられている視線の奥には、微かな屈折を含みつつも慎ましく静かな感情が見えます。 「春落葉」は松や檜なのど常盤木の落葉のことで、新しい芽が生まれるとそれと交替するように葉が落ちること、その様子やその葉そのもののこといいます。 決して大げさではなくささやかに、でも確実に降る春落葉のそのありようが上五中七の映像と呼応し、ある心情が、つまり日々の仕事に対する静かな矜持といったものが伝わってきました。


まひるまのひたひの暗さ藤の花
  
山下知津子

「まひるまのひたひ」は、韻律も美しくそれ自体が詩の言葉ですが、その「暗さ」———春の昼の明るさの中にありながら———というところに、女性特有の生理としての倦怠感がにじみます。 それが「藤の花」と出会うことで、ある気分が、———それは藤の花にある優美さゆえの憂鬱に通じるもの———藤の花の色や香りとともに濃厚にたゆたいはじめ魅力的です。


草笛を吹こうとすると覚める夢  
こしのゆみこ
この滑らかでしなやかな一本の詩の魅力の一つは、それを読んでいくと、日本人が大切に培ってきたある観念を体感できることかもしれないと思い立ちました。 目が覚めて、今までの体験がすべて夢であったと気づくまでの、あの短時間に集中する狼狽、気づいたときの肩すかしを食らったような空虚感。それは、たった今までそこにあったのにもうないという儚さの体験です。渾身で吸い込んだ息のやり場のなさが、この体験を一層際立ったものにしています。この儚さに強く惹かれるのです。 そう、日本人は儚さを長い間慈しんできました。これは日本人の美意識に深く関係する無常観に通じます。泡沫、露、桜、夢、また人生も然り——— 「草笛」は泣きたくなるような郷愁を誘うので、この一句への情は更に深まるばかりです。


殴られて殴りかへして麦の秋  
しなだしん
「殴られて殴りかへして」と、頭韻を踏みながら、この簡潔で美しい上五中七を読んでいくと、ほぼ同時に、その動作の映像が鮮明にうかんできます。この句が、単にその殴るという行為への名前である「暴力」という範疇に着地せず、物理的にも心理的にもにもっと大きな景を手に入れる事ができたのは、まさに「麦の秋」の働きでしょう。たとえば「麦の秋」のかわりに、「夏座敷」としてみた場合とくらべてみるとその違いが見えてくるかもしれません。 心身の成長がめざましく、それ故に不安定で傷つきやすいけれど、人生の中で最も眩しい季節、「青春」がここに具現されています。


研ぎ終へて庖丁光る朝曇  
日原 傳

大切に使い続けている包丁を丹念に研ぎ上げた後、目の前で包丁の角度を変えながら研ぎ具合を確かめます。包丁の光は達成感そのものなのでしょう。ここで「朝曇」。この空間と出会ったとき、湿り気のある空気に研ぎ立ての包丁が、むん、と香り、更なる充実感となって広がってくるのです。 日常の営みの一齣に顕われるその人の生活の思想。決して大声で語らない誠実な生き様です。


下村志津子 メトロ 10句  ≫読む
星野高士 鳥の巣 10句  ≫読む
夏井いつき 仏陀の目 30句 ≫読む
十亀わら むくげむくげ 10句 ≫読む
渡部州麻子 百年の恋 10句 ≫読む
加根兼光 指間(しかん)10句 ≫読む
山下知津子 影光らざる 10句  ≫読む
こしのゆみこ 天 辺 10句  ≫読む
しなだしん はさむほど 10句  ≫読む
日原 傳 朝 曇 10句  ≫読む



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