2014-03-02

俳句に似たもの 3 もらい泣き 生駒大祐

俳句に似たもの 3 
もらい泣き

生駒大祐

「天為」2012年7月号より転載



最近友人の結婚式に出ることがあった。そこでうっかり感情移入してしまい「これで新婦やご両親が泣きだしたら僕も泣いてしまうな」という感覚が、式中で何度かあった。いわゆる「もらい泣き」というやつの一歩手前の段階だ。そういう言葉がある位なのだから、他人が泣いていると人はおそらく泣いてしまいやすい状態になるのだろう。そこで悔しいのは自分の涙の閾値が環境の如何ではなく他人の涙という視覚的情報に規定されているという点だ。人間はふっと脈絡とか状況ということを超越して、遠隔操作的にびびびと「伝わってしまう」ことがある生き物なのだろう。自分の涙くらい自分で制御したいものであり少し悲しいが、人間にはもともと「伝わる」器官がプリインストールされてしまっているのだ。

取り合わせや切れという技術が多用されることを見れば判るように、俳句は言葉ごとのイメージ喚起力に多分に依存した文芸である。摂津幸彦がインタビューに答えて、「ある人がある名前で呼ばれて、それがその人のすべてを象徴するというのは、非常に不思議なことじゃないか、っていう気がすることってありませんか。(中略)ただ単なるシンボル、記号であるべきものが、なにかその人の生涯とか運命とかも決定してしまうような、そういう姓名というものはなかなか怖いものだなあ、と。」〔*〕と語っていた。姓名は特にそうであるが、言葉はひとつのものを指し示すかのように思えて、当然場合によって違うものを指しているという事実を巧妙に隠した記号である。そう考えたときに俳句において意味を伝える方法というのはおそらく二つあって、ひとつは文脈がすっと通るような言葉の使い方をすることで文脈による力を単語に与え、本来は通らない言葉の意味を伝える方法。もうひとつは文脈を薄くしてヴェールのように言葉に纏わせ、勝手に漏れ出てくる意味を読み取らせる方法である。簡単に言ってしまえば、伝わることを「信じる」か「信じない」かという宗教裁判にも似た身も蓋も無い話になる。

これは作者論であるが、翻って読者論の立場から見るとどうか。読者にとって作者がどういう意図を持ってその俳句を作ったのかを真に知ることはできない。作者に聞いたところでその意味を伝える記号も言葉であるので性質が悪い。よって読者にできるのは文脈とか作者情報ということを超越して、意味が伝わることを信じるか信じないかということを無視して、びびびと伝わってしまう意味を感じることだけではないかと思う。そういう思考停止的な俳句の読み方は少し抵抗があるかもしれないが、人間には嬉しいことにもともと「伝わる」器官がプリインストールされてしまっているので、仕方がない話なのである。

大海のうしほはあれど旱かな 虚子

よこぶえ吹くに横むく少年ころせえ 幸彦


〔*〕インタビュー「できあがった瞬間、全く無意味な風景がそこにある、という俳句が書きたいんです」:『攝津幸彦選集』(2006年/邑書林)所収
 


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