2014-12-21

【週俳11月の俳句を読む】キーワードの明滅 小池康生

【週俳11月の俳句を読む】
キーワードの明滅

小池康生



秋尾 敏「何かある」

獺祭忌眼鏡に空を置き忘れ

眼鏡を置き忘れるのではなく、眼鏡のレンズ面に空が置き忘れられている。言葉を追うと、一瞬、意識がぐらりと来ることに快感を覚える。そこに残っているのは、松山の青空だろうか。

島は吉兆稲妻はマグマに及び

日頃、自分が作ったり読んだりしている句とは別の世界。そこが刺激的。
吉兆とこられることに、戸惑いと新鮮味。句会で採るかというと採らないだろうが、しかし、採らなくても面白いものは面白い。

けやき落葉す時間を溜めすぎた

この「す」はなんだろう。〈けやき落葉時間を溜めすぎた〉では、〈けやき落葉/時間を溜めすぎた〉となり、〈時間を溜めすぎた〉のは、けやき落葉と別のものになってしまう。この句は、けやき落葉が時間を溜めすぎて、その溜めすぎた時間の落下を描いていると受け止めた。だから、〈す〉が要るのだろう。しかし、〈す〉がすんなり入ってこない。言葉は自由に使えばいいし、作者の世界で昇華されていればそれでいいわけだが、わたしには、「落葉す」がとても息苦しい。


九里順子「心なき窗」
ここには、テーマがあり、世界がある。
構造があり、構成がある。
構造と構成は、別のものである。

心なき窗より鴫の飛び立てり

「心なき窗」とはなんだろう。「心なき」などとむき出しの言葉を使った句は、この段階ではまったく謎である。鴫であることの謎も伏線として引っかかる。

山水を嵌めて花鳥の塒かな

逆の視点。山水に花鳥の塒を嵌め込んでいるのではなく、花鳥のねぐらの周囲に山水が嵌め込まれている。そしてその塒に「かな」を捧げている。ここでぐっと、作品群に入り込む。自然界が、螺鈿で作られた世界のように展開する。

羽化登仙爪の先まで草紅葉

「羽化登仙=中国古代の信仰で、からだに羽が生え仙人となって天へのぼること。また、酒に酔ってよい気持ちになったときのたとえにいう」。掲句は、〈爪の先まで草紅葉〉。羽が生えたのではなく、草紅葉になり天へ登ってゆくという。この草紅葉、羽の代わりもできる立派なものなのだろう。ただの羽ではなく、草紅葉の羽ならば、天のなかでも特別なところへ行けるかのようだ。

ひとふでで描く稜線野紺菊

「稜線」と「野紺菊」だけの世界。「ひとふでで描く稜線」によって引き出される「野紺菊」。スマートな世界。ところで、「心ない窗」とはなんだろう。

秋寂びの声が出てくる喉ぼとけ

立派な喉ぼとけなら、低音が響き、秋寂とは別のベクトルの声が出てきそうだが・・・。
ここで、作者は、喉仏の「仏」という漢字を隠した。
野紺菊、羽化登仙、螺鈿で作られたかのような花鳥の世界、秋寂・・・〈心なき窗〉とはなんだろうか?

その窗の深さに秋日差し込まぬ

また、窗が現れた。窗は深いものなのか。この窗は、どこにあるのだろうか。

わたくしを骨まで愛せ鰯雲

骨まで愛してなんて言われると城達也を思い出す。
〈わたくしを骨まで愛せ/鰯雲〉
愛せで切れて、鰯雲。愛せと誰に命じているのか。
上5中7の12音と、下5は別の世界だろうが、鰯雲に対して〈わたくしを愛せ〉と言っているようにも読める。わたしはそちらを取る。
つまり、作者は、なんらかの事情があり鰯雲に感情移入していて、骨のない鰯雲の骨まで愛している。そして、愛した量と同じだけのものを自分の方向へも求め、〈わたくしを骨まで愛せ〉というフレーズが誕生したのでないかと想像する。
壁を押せば同じベクトルで自分が押し返されるように、鰯雲を愛し、同じだけの愛を鰯雲からもらいたいのだ。
ただ、なぜ、鰯雲に心を預けているのか。そこに大きな省略があり、薄っすら「窗」というキーワードが明滅する。

すつぴんでするりセーター脱ぎながら

すつぴんでなければ、セーターはひっかかると言っているよう。
化粧を施した女性は、とてもご苦労があり、するりとはいかないご様子。
箸休めのように軽い句を読み、ホッとする。

柿色に燈るはるかな夜長かな

「はるかな夜長」とは、どういうものだろう。
柿色に灯る日本の原風景のような世界、そこでの夜長を想像させる。
「はるか」が、現代人が経験する夜長とは遠くにあるという意味の「はるか」なのか。それとも、今、経験している夜長にまだまだ奥の深い世界があるという「はるか」なのか。そこはどうも不明なのだが。

月の蝕一重瞼は窓になる

「窗」がすこし解き明かされる。
一重瞼、そこが窓であるという。ならば、〈心ない窗〉とは?
劈頭の〈心なき窗より鴫の飛び立てり〉に戻れば、窗だけが心ないのではなく、作者自身が心なき状態になっていて、心なき自らのココロの中から鴫が飛び立つと読めてしまう。深読みが過ぎるのだろうか。いずれにしても、繋がりながら謎をばらつかせ、ひとつの世界を追わせる。


岡田一実「美食の耳」

冬帽をおほきな耳と考へる

この調べのよろしさ。この説明のなさ。気持ち良い。

耳があるつづきに顔がある炬燵

余程の耳をお持ちの方が、炬燵の向こう側にいらっしゃる。
耳へ目がいく。いつもこの人物に目を向ける時、耳に目がいき、その続きに顔に目がいく。この人は、耳なのである。耳の存在感がたまらないのだ。人格のような耳。


太田うさぎ「シナモン」

大天使彫りたる鐘の寒さかな

神と同席することを許される大天使が掘られている鐘。
分厚い鐘。沁みる寒さ。そこに描かれている大天使。
今は鳴っていないが、美しい音色が想像できる。
大天使が掘られているからこそ。この季節ならではこその音色。

以上、勝手なことばかり。頓珍漢な深読みが過ぎるのかも。
さらに付け加えれば、取り上げた作品よりも、取り上げなかった句が気になって仕方ない。そこに、わたしの読みの至らなさがあったからかもと思うからだ。
とりあげられなかった句は、つまり書くことができない句。わたしの向き合えない句と、多少意識しつつ・・・。


第394号 2014年11月9日
秋尾 敏 何かある 10句 ≫読む
九里順子 心なき窗 10句 ≫読む
かたしま真実 凹み 10句 ≫読む
荒川倉庫 豚三十句 ≫読む
岡田一実 美食の耳 10句 ≫読む
太田うさぎ シナモン 10句 ≫読む

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