【週俳8月の俳句を読む】
よすてびとのうたⅤ
瀬戸正洋
結婚して妻と同じイニシャルであることに気付いた。子どもがふたり生れてイニシャルを同じにした。長男が結婚したいと連れて来た女性のイニシャルも同じであった。長男夫婦に子どもが生れ彼らは名前を付けた。同じイニシャルであった。私は、これで幸福になれると確信した。家族全員が同じイニシャルなのである。私は、既に、幸福なのであったのだ。
ひよこがねかわいい歌だと思った。こんな俳句ができればいいと思った。作詞家を調べたらサトウハチローであった。私が子どものころクイズ番組の解答者としてテレビに出ていたような気がする。顔と名前は知っていたが作品については知らずにいた詩人であった。
おにわでぴょこぴょこかくれんぼ どんなにじょうずにかくれても
きいろいあんよがみえてるよ だんだんだあれがめっかった
すずめがね
おやねでちょんちょんかくれんぼ どんなにじょうずにかくれても
ちゃいろのぼうしがみえてるよ だんだんだあれがめっかった
(「かわいいかくれんぼ」詞:サトウハチロー)
夜の枇杷つまむ会へなくてつらい 宮﨑玲奈
会えないときには会えないのだ。いくら会いたいと願っても会えないのだ。真夜中に枇杷をひとりでつまむ。果汁の甘さが口中にひろがる。会うことのできない辛さをひしひしと感じる。何と幸福なひとときなのだろう。
テレビから音出て黴のコンセント 宮﨑玲奈
ひとりの暮らしは寂しい。家に帰ると必ずテレビのスイッチを入れる。テレビの中での話し声が部屋中に流れる。ふと気が付くと、コンセントに黴が生えている。黴の生えたコンセントをながめていると、テレビのスピーカーから流れ出るものは何もかもが雑音であることに気付く。そのことが面白く感じてすこしばかり気が紛れたりもする。
麦茶注がれていびつな氷だと気づく 宮﨑玲奈
麦茶を注いだときにはじめて氷がいびつであることに気付いた。いびつな氷とは市販されている氷である。家庭の冷蔵庫の製氷機で作る氷よりおいしく、かたちも大きさも異なる氷である。いびつなものには特別な何かが隠されている。
葛餅の皿がもつとも蜜に濡れ 宮﨑玲奈
いつも優しい気持ちで接客するとは限らない。たまには落ち込んでいるとき不快なときもあるのだ。そんなときの客の仕草に何かを感じた。皿に葛餅と蜜を垂らす。蜜は決まった量なので葛餅のうえに垂らさなくてもかまうものかと思った。
その客は俳人であった。テーブルのうえに出された葛餅を食べようとして違和感を覚えた。俳人は俳句手帳を取り出しこの句を書き留めたのであった。
ヤギの乳あらはにあきらかに夏だ 宮﨑玲奈
本来の目的のためならばヤギであろうと牛であろうとひとであろうと乳とはあらわなものなのである。目的とはこどもを育てるためのものだ。そう考えると「あきらかに夏だ」という言葉からは、こどもをのびのびと育てようとする意志も感じられる。
たしかな蟬がたしかに死んでゐるそこで 宮﨑玲奈
蝉が死んでいるのである。アスファルトのうえであお向けに死んでいるのかも知れない。あるいは、蟻に運ばれてしまった蝉の残骸だけなのかも知れない。だが、作者は気付く、死んでいるのは私自身なのであると。つまり、「たしかな私がたしかに死んでゐるそこで」となる。
子の宿る体を洗う薄暑かな 柴田麻美子
シャワーを浴びている。何れは私にも子が宿るのだ。不安もあり期待もある。暑さを感じる季節になった。心も身体もその日の準備をはじめなくてはならないと思う。
水蜜桃かじりて我は雌である 柴田麻美子
人間は動物なのである。そう思った理由は妊娠したからなのである。妊娠したからこそ雌であることを強く意識したのだ。水蜜桃をかじったときの口中にひろがる甘さをかみしめる。しばらくは、本能の趣くまま生きてみようなどと考える。
知り合いもなくて夏祭りに二人 柴田麻美子
はじめての土地のはじめての夏祭り。自分たちは特別であるかのように思い優越感にひたって歩いている。見るもの全てが新鮮な驚きなのである。誰もが自分たちのことを注目していると思っている。
子は生まれいつかは死ぬる油蟬 柴田麻美子
生きていること事態が不安なのである。はじめての出産を控えて不安になることは当然のことなのである。無事に生れることを願っているうちに思いがけない方向に考えは進んでいく。自分自身に対する不安、母親になることへの不安。油蝉はしつこいくらいに鳴いている。
夕焼を見たいとせがむお腹の子 柴田麻美子
お腹の子に夕焼けを見せたいと思った。ただ、それだけのことを言っている。だが、言葉にしたら、お腹の子が夕焼けを見たいとせがんでいるということになってしまった。これも真実なのである。出産前に、子と母のこころがひとつになったという幸福な瞬間。
夕虹を指すに遅れて嗚呼と云ふ 青本瑞季
夕虹を最初に見つけたのは私なのだと思ったが先を越されてしまった。がっかりして「嗚呼」とため息をつく。こんなことにがっかりして、ため息までついてしまう自分に対して「嗚呼」と、さらに、ため息をつく。
木曜の山羊よこたはる暗さかな 青本瑞季
木曜日は誰もが元気なのである。もちろん山羊だって元気なのである。元気だからこそよこたわるのである。元気がなければよこたわることさえできない。作者自身元気だからこそ、目の前にある暗さを感じることができるのである。
少年の眼濁流めく午睡 青本瑞季
午睡をしているのは誰なのだろう。ただ、少年の眼が濁流めいていることだけが事実なのである。ところで、眼が濁流めいている少年とは、いったいどんな少年なのだろう。
夏木光足りず黙禱のまなうら 青本瑞季
はっきりした残像を残すためには太陽の光が足りない。ましては黙禱をするのである。夏木を焼き尽くすくらい、あるいは、ひとを焼き殺すくらいの激しさで太陽は地上に光を注がなければならないのである。
藪つ蚊を打つまでは目の澄んでゐし 藤井あかり
藪蚊を打つ前も後も澄んでいるのである。目の澄んでいるひとは藪蚊を打とうと打つまいと澄んでいるのである。ただ、後悔はしている。目の濁っているひとは決して後悔などしないのである。
秋蟬の声といふ鋲降つてくる 藤井あかり
鋲は確かに降ってきたのである。地表の何もかもが傷ついている。秋蝉をあなどってはいけない。いちばん傷ついているのは作者自身である。これはあたりまえのことなのである。
詰め寄るごとく花葛の正面に 藤井あかり
花葛を脅すのである。余ほどのことがない限りひとはそのようなことはしない。そのようなことをしないで生きていきたいと誰もが願っている。正面に立つということは、行く手を阻むということだ。それでも花葛は何も言わずに咲いている。正面に立っている作者は自分の自制の無さに呆れ果てている。
洗ひたる手をまだ洗ひ秋の水 藤井あかり
ひややかな澄んだ水で手を洗う。さらに、洗い続けたいと願う。掌で秋の水の感触を楽しんだりしている。澄んでいることは正しいことなのである。濁っていることも正しいことなのである。作者は秋の水に恋をしている。
落蟬をひとつだけ弔ひにけり 藤井あかり
落蟬の霊が漂っている。数十数百の霊が漂っている。作者には、それが見えるのである。作者は自身のこともよく知っている。自分にはひとつだけ弔うことが相応しいのだと。作者の頭上には蝉が鳴いている。
バス停の蚯蚓を踏んでゐた時間 大塚凱
バス停でバスを待っていた。バスに乗ろうと思い足元を見ると蚯蚓を踏んでいたことに気付いた。蚯蚓はまだ生きている。どのくらい踏んでいたのかということに興味を持った。何故ならば、作者も得体の知れない何かに踏まれ続けているから。
真清水が指紋の渦を巻きなほす 大塚凱
指の先が生きているということを「指紋の渦を巻きなほす」と表現した。作者は真清水に手を浸したときに確かにそのように感じたのである。真清水は生きている。指の先も生きている。
向日葵を裏より見れば怒濤かな 大塚凱
正面から見ているだけでは何もわからない。上からも下からも横からも裏からも見なくてはならない。向日葵は心の優しいひとだなどと思ってはいけない。向日葵は内に、真夏の太陽を打ち負かすだけのエネルギーを秘めているのだ。その激しさがなければ、あれほど美しく咲き切ることなどできないのである。
八月のラジオ海流のぶつかる音 大塚凱
ラジオ体操第一が流れている。白い帽子と体操服の小学生たちが整列し身体を動かしている。前で指導するのも小学生だ。断崖の下では海流のぶつかる音が無気味に響いている。小学生たちは自分たちのいる場所も知らない。無気味な海流のぶつかる音も聞こえない。ただ、教師の指導をひたすら守りラジオから流れるラジオ体操第一に合わせて懸命に身体を動かす。
棒読みの防災無線南瓜切る 江渡華子
訓練かあるいはそれほど切羽詰ってはいないのだろう。棒読みであることが面白く感じたのだ。それで、手を休めることなく南瓜を切っている。防災無線は棒読みでなくてはならないのである。
台風前夜壁紙の染みにも目 江渡華子
台風はこちらに向っているようだ。テレビの進路予想図には、はっきりと台風の目が映っている。何気なく壁紙を見ると壁紙の染みも、なんとなく台風の目のような形をしている。台風がこちらに向って来ていることを確信する。
悪口を言ふために呑む、鈴虫の相槌が上手い 中山奈々
批判、あるいは悪口等は創作には繋がらない。故に、ひとは自制する。だが、酒の神は、それを許してくれるのかも知れない。酔いが身体をまわるたびに自制の力は緩んでくる。作者は自制を緩めるために酒を呑む。そんなひとときも必要なのだと考える。鈴虫の存在は貴重なのである。相槌のうまいひとは大切にしなければならない。
誰かに死ぬなよつて言はれて生きてゐる、満足 中山奈々
死ねと言われなかったことに満足している。生きていたいのである。だが、何らかの迷い、あるいは不安があり、賭けてみようと思ったのだ。それで、問いかけてみたのである。自分が生きているのは自分の意志ではなく、誰かに死ぬなよと言われたからだという確証を得たのである。だが、誰が言ったのかは特定されていない。作者は、また同じことを誰かに問いかけるつもりなのだろう。そうして、誰もが生きている。
リストカットしない代はりにぼろぼろの鰯雲 中山奈々
岩波「国語辞典」第六版は、平成十二年の刊行である。そこに「リストカット」はなかった。ウィキペディアの説明に「言語化できない鬱積したストレスの表現方法の一つである」とあった。私は「リストカット」とは自殺する行為であると単純に思っていた。作者は「リストカット」の代わりに「ぼろぼろの鰯雲」という言葉を見つけたのである。もちろん「ぼろぼろの鰯雲」とは鬱積した自分自身のことなのである。
母さんが優しく健康に産んでくれたので飛蝗捕る 中山奈々
飛蝗、つまり害虫を撮るのである。それは、優しく健康である私が捕るのである。何故、私が優しく健康であるかといえば、母さんがそのように産んでくれたからなのである。私が飛蝗を捕るのは私の意志なのではないと言っているのだ。作者は母に対して何か特別な思いがあるのかも知れない。「誰かに死ぬなよつて」の誰かとは母のことなのかも知れない。
病気になつたら名句ができるなんて嘘だよ秋の酒 中山奈々
嘘が世の中を動かしているというのは真実である。本当のことなど実にくだらないことなのである。病気になろうがなるまいが名句なんて存在しないのである。だから、秋の酒は心に沁みるのである。
財布から夏がゾロゾロ気もそぞろ 中谷理紗子
財布に入っているものはお金ではなく夏なのである。私たちは財布から「私の夏」を支払い欲しいものを手にする。お金など不要のものなのである。お金なら何も考えることなく使い切ってしまえばいいのに「私の夏」なのでそうはいかない。欲しいものを手にした喜びよりも「私の夏」を失ったことの方が重大なのである。
猛暑日は地球の腕の中に居り 中谷理紗子
地球には腕がある。その腕が地上を抱えることにより猛暑日となる。猛暑日とは地球の意志によるものなのだ。地球が自転しながら太陽のまわりを回っているなどということは嘘っぱちなのである。大地を踏みしめて生きる。それで私たちは十分に幸せなのだ。太陽、月、星は、春夏秋冬、それぞれの美しさを私たちに与えながら天空に存在しているのである。
草を刈っていると小鳥が舞い降りて来る。羽が黒色でむねのあたりが白色の小鳥である。裏庭の草を刈っているときでも、表の畑の草を刈っているときでも舞い降りて来る。舞い降りて来ないと何か淋しい気持ちになる。老妻に、そのことを話したら「私が洗濯物を干しているときも降りて来るわよ」と言った。草を刈ったあとの地面にいる虫を食べるためだけに舞い降りて来るのではないのだと思った。
買い物に車で出掛けようとしたら「あの小鳥でしょ」と老妻が指差す。庭の草むらのうえをぴょんぴょん跳ねていた。私たちを見送ってくれているようだった。小鳥の種類もわからず、それでいて、野鳥図鑑で調べようともせず、名前は「ピーコ」だ「ぴょんこ」だなどといい加減なことを言う老妻に対し「だめだよ。イニシャルが違うしゃないか」と私は答えている。
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第432号 2015年8月2日
■宮﨑玲奈 からころ水 10句 ≫読む
第433号 2015年8月9日
■柴田麻美子 雌である 10句 ≫読む
第434号 2015年8月16日
■青本瑞季 光足りず 10句 ≫読む
第435号 2015年8月23日
■藤井あかり 黙秘 10句 ≫読む
■大塚凱 ラジオと海流 10句 ≫読む
第436号 2015年8月30日
■江渡華子 目 10句 ≫読む
■中山奈々 薬 20句 ≫読む
■中谷理紗子 鼓舞するための 10句 ≫読む
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