2016-12-11

【週俳10月11月の俳句を読む】学生特集号、前・後篇を読む 遠藤由樹子

【週俳10月11月の俳句を読む】
学生特集号、前・後篇を読む

遠藤由樹子


私はたぶん年齢というものをあまり意識せず生きてきて、あれあれよと言う内に来年は六十歳になる。この特集の作者たちとは四十歳前後の年齢の開きがあるのだけれども、そういうことは特段、頭を過ぎらない。人は生まれたその時から等しく年をとる。つまり遥か彼方に過ぎ去った時代ではあるが、私もかつては若かった(凡庸な歌の歌詞みたいだけれども)。その頃と変わったかといえば、案外変わっていない。むろん、頭の中はだんだん錆びついてきているが、錆びついていない部分もある。作品鑑賞とは何ら関係のない個人的な呟きだが、せっかくだからせめて、自分のこの呑気さ加減が痛ましさを帯びるまで俳句を作り続けられたらと願っている。

話が脱線しそうなので、琴線に触れた点、触発された点について、拙い感想を書かせていただく。一見しなやかではあるが、学生である以上に作家であるという自負を持って詠まれた俳句の数々であろうから。


樫本由貴「確かなあはひ」

塔といふ涼しきものや原爆以後〉で始まり、〈木の実降る限りこの川原爆以後〉で終わる一連の作品。この十句に描かれているさまざまな場面の人のいとなみは、1945年8月6日以後、広島で刻まれ続けている時間の延長だ。それを作者は〈確かなあはひ〉という。〈あはひ〉とは文字通りに理解するなら、ものとものとの間、そして時と時の間である。今、私たちが生きているこの日常は、人智を越えたうねりのどこかの点景に過ぎないのだろう。そう思うと、〈空をして確かなあはひ雁の飛ぶ〉の句の中の、おそらく透きとおるように青いであろう雁渡る空の存在感が確かなものになってゆく。〈朝や僧まづかげろふを掃いてゆく〉〈火葬場のけふを紅葉の坂なりけり〉〈花カンナからりと生けて授乳室〉などに描かれているのは、生と死がないまぜにある日常だ。

この作品は一句一句を鑑賞するというより、五感を澄まして、十句全体から発せられるものを受けとめるべきという気がする。メッセージに陥ることを細心に避けた〈確かなあはひ〉 の描く世界は重層的だ。失い難いものは常に微かな危機をはらんでいる。


野名紅里「そつと鳥」

とてもよく使われる評言かもしれないが〈そつと鳥〉の作品はなべて瑞々しい。

それぞれの句から零れ落ちる等身大のビビッドな詩情に魅かれた。作者自身の現実の若さが瑞々しい句として結実している。そしてもちろん、作者自身が若いという事と、作品自体が若い詩情を蔵していることは似て非なることでもある。この瑞々しさはあくまでも作者個人の持って生まれた資質だろう。

その良質な個性がよく表れている〈月光に知る公園のかたちかな〉と表題の句でもある〈朝寒や植物園にそつと鳥〉の二句。立ち去りがたい気持ちになる作品だ。何をもって世界と呼ぶのかは人それぞれだろうが、この二句はある静かな世界のありようを確かに伝える。侵しがたいというほど大げさではなく、そこにい合わせた事を幸運に感じて、守りたいという気持ちにさせられる世界だ。

パレットの端に石榴のいろ作る〉〈消火器の剥き出しにある文化祭〉の二句。何気ないようだが、句の中に盛る内容に過不足がなく、それでいて独自の視点がある。〈切実な嘘なら許す柿たわわ〉にも惹かれた。句の鑑賞から逸れるけれども、嘘は許さないより、許せる方がよい。


福井拓也「冬が来るまでに」

冬が来るまでに〉の十句を読んで、連想の妙を感じた。先ず一句それぞれの中に意味性を絶つような飛躍、或いは言葉から言葉への連想がある。さらに、完全に独立している一句一句の間にも表立ってはいないがイメージの連鎖があり、集合体としての魅力があるのだ。おそらく言葉に対する感度を常に磨いている作者なのだろう。

例えば〈旅人はギリシヤの木槿銀時計〉〈とんばうとなりときどきは日の流れ〉〈燃ゆるならてのひら月の便りかな〉などは、法則を介在させない言葉のつながりが詩性を獲得していて魅力的だ。〈傾くと露とは軽き眠りかな〉〈秋風を誘へる笛の小さかり〉などの読み手に琴線にすっと届く句もまた、表現の精度が高い。そして思いがけないような優しさが滲む。

私が最も惹かれたのは、十句の掉尾に置かれた〈歩くほど砂漠へと冬隣かな〉。砂漠が何かを暗示しているなどと考える必要はないだろう。文字通り茫漠たる砂漠を思い描けばよいのだ。この句には説明のつかない良さがあると思う。言い換えれば、詩としての力があるのだ。


斉藤志歩「馬の貌」

屈折の無さが魅力的で、句柄が大きいと先ず感じた。句柄が大きいというのは何も気宇壮大なことを詠もうとしているとかではなく、十七文字の読み下し方に言い切る力強さがあるということだ。堅実に身の回りの出来事を題材にしながら、一句の世界は豊かで広い。俳句という詩形と相性がよい作家の句を読む時に抱く気持ちよさがあるのだ。大切に伸ばすべき個性だと思う。

朝寒やおとなの馬の貌をして〉〈蜻蛉に肉の貧しき躯かな〉の二句は、言われてみれば誰もがうなずきたくなる把握だが、類想感がない。鮮度がとてもよいのだ。対象を切り取る角度がこの作者独自のもので且つ、自然だ。馬の貌を思い浮かべてみた。馬齢に拘わらず、その顔立ちはほっそりと引き締まり、聡明そうだ。朝寒の大気の中に、仔馬から若駒になろうとする馬が立っている。〈おとなの馬の貌をして〉の一語に対象への愛情が宿る。蜻蛉の句には痛快感がある。言われてみれば本当に、肉など全くついてない貧しい躯だ。

肉入れて波の立つなり芋煮会〉〈かりがねや展望台の窓の罅〉〈籠を開ければこほろぎの匂ひ濃し〉の三句も確かな句で、この作者ならではの伸びやかさがある。


平井 湊「梨は惑星」

題材は多岐にわたり、一句一句の印象が鮮明である。作者の俳句を詠む若々しい勢いが、読み手に読む喜びを与えるとでもいえばよいのか、読後感が心地よい。この作者もまた、俳句の骨法との相性がよいのだ。若くして俳句のリズムが身についている。選ぶべくして俳句を選んだのだろう。

爽やかに号砲を撃ち直しけり〉〈星流る港と灯台のあひだ〉の二句には広やかな抒情性がある。真青な秋空の下、撃ち直した号砲が周囲に響く。爽やかな波動が句の中に広がってゆく。〈港と灯台のあひだ〉と詠んだことで、句の中におのずから夜の海の確かな存在感も感じられる。省略のきいた表現が生きている。

酔つてゐて惑星に似た梨を買ふ〉〈湯上がりの人の剝きたる林檎ぬくし〉の二句は、実感を伴った作者独自の発見である。特に二句目の、湯上がりの体温を林檎に感じるという把握にはオリジナリティ―があるのではないか。

秋霖や物書くにリハビリが要る〉〈火恋し画集の海のみな日暮れ〉のどこか陰翳を帯びた世界も魅力的であった。


加藤静夫 失敬 10句 ≫読む

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