2026-06-07
『聲』遠藤由樹子さんと遠藤容代さんへの「10の質問」〔俳誌の中の人に訊く〕
2022-05-29
【句集を読む】牛乳と夏蝶 遠藤由樹子『寝息と梟』の2句 西原天気
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2020-01-26
【週俳12月の俳句を読む】それぞれに冬 遠藤由樹子
【週俳12月の俳句を読む】
それぞれに冬
遠藤由樹子
実験のための明かりや冬景色 井口可奈
冬の夕べ、明かりのついている研究棟を少し離れた場所から眺めているのか。作者は建物の外から見ていても実験室の場所がわかっている。〈実験のための明かり〉とは文字通り、科学研究の目的の下実験を行うために点されている照明。情緒的な明かりではない意外性が印象を深める。実験室のある建物の周囲には冬景色が広がる。冬木立やよく刈り込まれた枯芝。点在する年代を経た校舎。夜風とも夜気ともつかない冷気。人影は少ない。何となくそんな景色を思い浮かべた。私はどちらかというと情緒纏綿とした人間なので、この句の中の明かりを思い描いてみるだけで、世界の端に心もとなく立っているような気がしてくる。
子供にも旅荷ありけり石蕗の花 松本てふこ
ふたりの娘がまだ小さい頃、旅行に行くときの荷物はこどもの分まで私が揃えて旅行鞄に詰めた。パジャマや着替え、小さな靴下等々。心配事も多いが賑やかな日々。私が詰めた荷物以外にも、こども用のリュックサックに娘たちはそれぞれ大事なもの、どうしても持参しなくてはならないものを詰めていた。ぬいぐるみやお気に入りのタオルケット、ゲームやお菓子、はては手品まで。
石蕗の花の咲く頃の旅。真冬にはまだならない時期の海辺だろうか。石蕗の花は決して派手な花ではないが、明るく鮮やかな黄色の花弁をひろげる。私は日を浴びた石蕗の花に出会うと幸福な気持ちになる。
小春日のほこりとなりぬ蓄音機 浅沼 璞
蓄音機にはレトロという言葉が似合う。エジソンの発明した当初は手動で、エジソンはのちに蓄音機を最も愛する自分の発明と語っている。円盤状のレコードも今や隔世の感があるが、蓄音機といえば更にアンティークの趣を持つ装置。ここに詠まれた蓄音機も長いこと使われていないような気がする。全体に埃を被っているのかもしれない。この句を読むと、蓄音機そのものが〈ほこり〉と化しているような印象を受ける。そして、その〈ほこり〉は決してマイナスなイメージではない。過ぎ去った年月の穏やかな時間の堆積といえばよいか、そんなふうに感じられるのは偏に〈小春日〉という季語によるところが大きい。
黒豆の覚悟を決めた艶つぽさ 樋口由紀子
私はたぶん野暮なのだろう。ふっくらとした黒豆の照りから艶っぽい話を連想したことがないので、面白いことを考え付くなというのが正直な感想。「少しくだけすぎたかしら」などと頓着しない自由さが横溢する一連の作品。お節料理を題材にイメージを膨らませて、お重の中の一品一品をキャラクターに仕立てた趣向のようにも読めて楽しい。バツ一やバツ二の栗きんとんもいれば、にせものらしい棒鱈も登場。棒鱈はさしずめ自称○○のやさ男。お重の中では、ちょっとした人間模様が繰り広げられている。いかがわしくもあり、愛すべきこの世が新しい年を迎える。
凩や石もて潰す貝の殻 相子智恵
凩の吹く寥々とした海辺の光景か。何の為に石で貝の殻を潰しているのだろう。今の時代、目的を持って、つまり何らかの作業として石で貝を潰すということはないような気がする。筋道を立てて考えるというほどではないが、少しばかり物思いながら寒々とした海を背に貝の殻を潰しているのか。石で潰すことのできる強度だから、栄螺とかではなく、比較的割れやすい二枚貝の片割れかもしれない。そもそも貝の殻を潰しているのは誰なのだろう。作者? それともこの作品の表題ともなっている少年? 句の中では〈凩〉と〈貝の殻〉と〈石〉だけがクローズアップされていて、その潔い省略の利かせ方が余韻をもたらす。
寂しみは鯛焼きの鰓その陰り 福田若之
鯛焼きの鰓に寂しみを感じるか否かは人それぞれで、それほど肝心なことではないだろう。この句の中に置かれた〈寂しみ〉という言葉によって、鯛焼きの鰓が俄かに寂しみを帯びた存在になる不思議。この次に鯛焼きを食べる時、私は温もりの残るほの甘い鰓をしげしげと眺めてみるだろう。もしその時、寂しさに似た感情を抱えていたら、この句の〈寂しみ〉の一語が柔らかい痛みを伴って私を包むかもしれない。ぱくぱくと幸せな気分で頬張ったとしても、その気分の中でこの句を反芻してみるだろう。一度、文字となって生み出された言葉は、そうやって一人歩きを始める。
降誕祭ワカケホンセイインコ群れ 岡田由季
空を流れるインコの群を初めて目にして、「この鳥ってもしかしたらインコ?」と驚いたのはずいぶん前のことだ。変哲もない東京の空に生息しているはずのないインコが群れなしていて、心が一瞬弾んだ。長い尾を持つ若草色の鳥たちを単純にきれいだなと仰いだことを覚えている。この鳥の和名がワカケホンセイインコ。ペットとして飼われていたものが野生化して全国的に拡散。果物や農産物を食い荒らしたり、野鳥の巣を乗っ取るなど、少なからず悪影響が出ているらしい。クリスマスの日の冬空を、逞しい流浪の民さながらに群れなしていたのだろう。立ち止まることで、日常が違った光景として目に映ることがある。
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2019-05-19
【週俳4月の俳句を読む】春だから 遠藤由樹子
【週俳4月の俳句を読む】
春だから
遠藤由樹子
フリージア働かぬ日の君の耳たぶ 金丸和代
「君」という言葉は呼びかける言葉。「あなた」と言うよりもう少しきびきびとして、親しい響きがある。若い頃の対等な友人関係や恋愛関係が続いているかのような君という言葉。あるいは自分は年齢を重ねて、年少の相手に語りかける言葉。君という一語から、作者と作者が「耳たぶ」を見つめる相手との間に流れる一種、親密な空気が伝わる。誰かの耳たぶを、しげしげと見つめることはあまりない。よほど親しい間柄でなければ、耳たぶという身体の一部をあらためて見つめることなどないだろう。そもそも自分の耳たぶを意識することもあまりないだろう。よくよく見ればその人らしさが表れている耳たぶ。見慣れているはずなのに不思議な耳たぶ。休日の昼下がり、耳たぶも無防備になるのかもしれない。この句は「君」と「耳たぶ」の二語で、心地よい二人の距離というものを詠み手に伝えてくれる。花瓶に差したフリージアの香りが二人の間に春を運ぶ。
スカートの裾を抓みてシクラメン 常原 拓
この句を読んで反射的に思い出したのは、京極杞陽の〈性格が八百屋お七でシクラメン〉の句。このインパクトの強い句に詠まれたシクラメンの色は真紅だろうか。それと比べて〈スカートの裾を抓みてシクラメン〉の句のシクラメンは優しいピンク色のような気がする。鉢植えのシクラメンの花の一つ一つがひざ丈のフレアースカートの裾を抓む女の子。一時代前の少女の愛くるしい所作が浮かぶ。
アンデルセンに「イ―ダちゃんの花」という童話がある。イーダちゃんという女の子が真夜中にそっと起きて、月明かりの射す部屋の中で、花瓶を抜け出した花たちのダンスを目にするというお話。この童話の花たちは切花で、その中にシクラメンはいないけれども、シクラメンが軽やかに踊り出すのも楽しい。なるほどシクラメンの花の形は、スカートの裾を抓む少女のよう。読み手が空想を膨らませる余地を残しておいてくれる句。シクラメンはやはり春の花。
おとうとも四十路でありぬチューリップ 佐藤りえ
一生が果たして長いのか短いのかはわからないけれども、歳月が飛ぶように過ぎるのだけは確か。十代のある春の日の会話も、二十代に仰いだ桜もつい昨日のことのように思い出せる。花の中でもとりわけチューリップには無邪気な明るさがある。春が来れば咲き、夏の盛りにはもうあまり見かけないチューリップの花の一つ一つに年齢などないのかもしれないが、永遠に子どものままのような花だ。自分自身も四十代となり、それほど年の離れていない弟も四十代になったという。年を取るのもそれほど悪くないと思えるのは、親しい誰彼も同じように年齢を重ねてゆくからだろう。時間というものはこぼれ落ちるものではなく、降り積もるものなのかもしれない。それはさみしいことなのか、懐かしいことなのか。赤いチューリップ。黄色いチューリップ。白いチューリップ。ピンクのチューリップ。オレンジのチューリップ。どの色も春の色。
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2016-12-11
【週俳10月11月の俳句を読む】遠藤由樹子 学生特集号、前・後篇を読む
【週俳10月11月の俳句を読む】
学生特集号、前・後篇を読む
遠藤由樹子
私はたぶん年齢というものをあまり意識せず生きてきて、あれあれよと言う内に来年は六十歳になる。この特集の作者たちとは四十歳前後の年齢の開きがあるのだけれども、そういうことは特段、頭を過ぎらない。人は生まれたその時から等しく年をとる。つまり遥か彼方に過ぎ去った時代ではあるが、私もかつては若かった(凡庸な歌の歌詞みたいだけれども)。その頃と変わったかといえば、案外変わっていない。むろん、頭の中はだんだん錆びついてきているが、錆びついていない部分もある。作品鑑賞とは何ら関係のない個人的な呟きだが、せっかくだからせめて、自分のこの呑気さ加減が痛ましさを帯びるまで俳句を作り続けられたらと願っている。
話が脱線しそうなので、琴線に触れた点、触発された点について、拙い感想を書かせていただく。一見しなやかではあるが、学生である以上に作家であるという自負を持って詠まれた俳句の数々であろうから。
樫本由貴「確かなあはひ」
〈塔といふ涼しきものや原爆以後〉で始まり、〈木の実降る限りこの川原爆以後〉で終わる一連の作品。この十句に描かれているさまざまな場面の人のいとなみは、1945年8月6日以後、広島で刻まれ続けている時間の延長だ。それを作者は〈確かなあはひ〉という。〈あはひ〉とは文字通りに理解するなら、ものとものとの間、そして時と時の間である。今、私たちが生きているこの日常は、人智を越えたうねりのどこかの点景に過ぎないのだろう。そう思うと、〈空をして確かなあはひ雁の飛ぶ〉の句の中の、おそらく透きとおるように青いであろう雁渡る空の存在感が確かなものになってゆく。〈朝や僧まづかげろふを掃いてゆく〉〈火葬場のけふを紅葉の坂なりけり〉〈花カンナからりと生けて授乳室〉などに描かれているのは、生と死がないまぜにある日常だ。
この作品は一句一句を鑑賞するというより、五感を澄まして、十句全体から発せられるものを受けとめるべきという気がする。メッセージに陥ることを細心に避けた〈確かなあはひ〉 の描く世界は重層的だ。失い難いものは常に微かな危機をはらんでいる。
野名紅里「そつと鳥」
とてもよく使われる評言かもしれないが〈そつと鳥〉の作品はなべて瑞々しい。
それぞれの句から零れ落ちる等身大のビビッドな詩情に魅かれた。作者自身の現実の若さが瑞々しい句として結実している。そしてもちろん、作者自身が若いという事と、作品自体が若い詩情を蔵していることは似て非なることでもある。この瑞々しさはあくまでも作者個人の持って生まれた資質だろう。
その良質な個性がよく表れている〈月光に知る公園のかたちかな〉と表題の句でもある〈朝寒や植物園にそつと鳥〉の二句。立ち去りがたい気持ちになる作品だ。何をもって世界と呼ぶのかは人それぞれだろうが、この二句はある静かな世界のありようを確かに伝える。侵しがたいというほど大げさではなく、そこにい合わせた事を幸運に感じて、守りたいという気持ちにさせられる世界だ。
〈パレットの端に石榴のいろ作る〉〈消火器の剥き出しにある文化祭〉の二句。何気ないようだが、句の中に盛る内容に過不足がなく、それでいて独自の視点がある。〈切実な嘘なら許す柿たわわ〉にも惹かれた。句の鑑賞から逸れるけれども、嘘は許さないより、許せる方がよい。
福井拓也「冬が来るまでに」
〈冬が来るまでに〉の十句を読んで、連想の妙を感じた。先ず一句それぞれの中に意味性を絶つような飛躍、或いは言葉から言葉への連想がある。さらに、完全に独立している一句一句の間にも表立ってはいないがイメージの連鎖があり、集合体としての魅力があるのだ。おそらく言葉に対する感度を常に磨いている作者なのだろう。
例えば〈旅人はギリシヤの木槿銀時計〉〈とんばうとなりときどきは日の流れ〉〈燃ゆるならてのひら月の便りかな〉などは、法則を介在させない言葉のつながりが詩性を獲得していて魅力的だ。〈傾くと露とは軽き眠りかな〉〈秋風を誘へる笛の小さかり〉などの読み手に琴線にすっと届く句もまた、表現の精度が高い。そして思いがけないような優しさが滲む。
私が最も惹かれたのは、十句の掉尾に置かれた〈歩くほど砂漠へと冬隣かな〉。砂漠が何かを暗示しているなどと考える必要はないだろう。文字通り茫漠たる砂漠を思い描けばよいのだ。この句には説明のつかない良さがあると思う。言い換えれば、詩としての力があるのだ。
斉藤志歩「馬の貌」
屈折の無さが魅力的で、句柄が大きいと先ず感じた。句柄が大きいというのは何も気宇壮大なことを詠もうとしているとかではなく、十七文字の読み下し方に言い切る力強さがあるということだ。堅実に身の回りの出来事を題材にしながら、一句の世界は豊かで広い。俳句という詩形と相性がよい作家の句を読む時に抱く気持ちよさがあるのだ。大切に伸ばすべき個性だと思う。
〈朝寒やおとなの馬の貌をして〉〈蜻蛉に肉の貧しき躯かな〉の二句は、言われてみれば誰もがうなずきたくなる把握だが、類想感がない。鮮度がとてもよいのだ。対象を切り取る角度がこの作者独自のもので且つ、自然だ。馬の貌を思い浮かべてみた。馬齢に拘わらず、その顔立ちはほっそりと引き締まり、聡明そうだ。朝寒の大気の中に、仔馬から若駒になろうとする馬が立っている。〈おとなの馬の貌をして〉の一語に対象への愛情が宿る。蜻蛉の句には痛快感がある。言われてみれば本当に、肉など全くついてない貧しい躯だ。
〈肉入れて波の立つなり芋煮会〉〈かりがねや展望台の窓の罅〉〈籠を開ければこほろぎの匂ひ濃し〉の三句も確かな句で、この作者ならではの伸びやかさがある。
平井 湊「梨は惑星」
題材は多岐にわたり、一句一句の印象が鮮明である。作者の俳句を詠む若々しい勢いが、読み手に読む喜びを与えるとでもいえばよいのか、読後感が心地よい。この作者もまた、俳句の骨法との相性がよいのだ。若くして俳句のリズムが身についている。選ぶべくして俳句を選んだのだろう。
〈爽やかに号砲を撃ち直しけり〉〈星流る港と灯台のあひだ〉の二句には広やかな抒情性がある。真青な秋空の下、撃ち直した号砲が周囲に響く。爽やかな波動が句の中に広がってゆく。〈港と灯台のあひだ〉と詠んだことで、句の中におのずから夜の海の確かな存在感も感じられる。省略のきいた表現が生きている。
〈酔つてゐて惑星に似た梨を買ふ〉〈湯上がりの人の剝きたる林檎ぬくし〉の二句は、実感を伴った作者独自の発見である。特に二句目の、湯上がりの体温を林檎に感じるという把握にはオリジナリティ―があるのではないか。
〈秋霖や物書くにリハビリが要る〉〈火恋し画集の海のみな日暮れ〉のどこか陰翳を帯びた世界も魅力的であった。
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2016-07-03
10句作品テキスト 夏の空 遠藤由樹子
夏の空 遠藤由樹子
砂時計のくびれを落つる蛍かな
昼顔や孵りたてなる雛の嘴
みづうみに向く籐椅子の遺品めき
青柿も実梅もわれも雨の中
合歓の花ぽつんぽつんと夢滲む
目凝らせば梅雨の燕のかく高く
花鬼灯喪服の傘のとりどりに
眠る子にプールの匂ひかすかなり
揚羽蝶連れて飛び石渡りけり
シーソーに一人は静か夏の空
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