2017-09-10

【週俳8月の俳句を読む】隙間のような場所 小野裕三

【週俳8月の俳句を読む】
隙間のような場所

小野裕三


帰省子に真っ先に来る海老フライ  岡田耕治

理屈として考えるとかなりまっとうな句と言うか、いつもは親元を離れて住んでいる帰省子なのだろうから、帰省時に大切にされるのは頷ける。だがそれだけでなく、この句には何か明るさのようなものがある。ポイントは「真っ先に」にあって、それは何かのスピードの感覚を喚起する。そこに繋がる台所での躍動感も想起できるし、さらにはそこに帰省してきた子たちの移動距離・移動時間も想起できる。もちろん、その移動中における帰省子たちの気持ちの高揚感も感じられる。これらの諸要素が、「真っ先に」に表される一直線の動きに繋がる。その直線の先にあるのは、それを待ち受ける子どもたちの笑顔。ストレートな構成の中にいろんなダイナミズムが集約され、それが句の明るさに繋がっている。

白シャツやふくらんで風その匂ひ  樫本由貴

この連作は、原爆という難しいテーマに真摯に取り組んでいて、好感を持った。印象的な句が多いが、その中でもこの句に惹かれた。この句自体はもちろん、今の時代を詠んでいるわけだし、ここには原爆を仄めかす要素も直接的にはない。むしろ、シャツや風という要素からは、さわやかな句と言うことすらできる。しかしながら、ここでの白シャツは不思議と原爆直後の惨状もまた二重写しのように想起させる。焼け焦げ、切り裂かれ、あるいは血に染みて、異臭を放つようなシャツ。この句の白シャツはそのように、今の時代と「あの時」と、その二つを対照させる仕掛けのような役割を果たす。声高に反戦を叫ぶ句でもなくただひたすらに生理的な句だが、それゆえに印象深い。


宝物殿のような檸檬を手がえらぶ  三宅桃子

宝物殿のようなレモンとはどのようなレモンなのか。結局のところ、この比喩は明快な像を結ばないが、にも関わらずこの比喩にはなぜか説得力がある。宝物殿とは煌びやかだが古めかしくもある存在だ。一方で、レモンは小さくて瑞々しい。と考えると正反対の特徴を持つもののようでもあるが、なぜか納得させられる。このレモンは手(たぶん女性のやわらかい手)によって選ばれたわけだが、この手はまるでその人の意図を離れた独立物のようにも思え、川端康成の有名な短編なども想起させる。そして、ここでレモンが選ばれたという行為は、逆に言えばすべてのレモンが宝物殿のようなものであるわけではないことを示唆する。ひょっとすると、そんなレモンは世界にたったひとつかも知れない。そんなレモンと生き物めいた手との邂逅は、なんともセクシーでもある。


妻から指をつないで帰る墓参かな  山口優夢

この連作は興味深く読んだ。赤裸々な告白なのか、きわめて世俗的なテーマでもある。夫婦というテーマなら、もっと他にいろんな側面を持ちうる。美しいことも、幸せなことも、いくらでも探してくることができるだろう。なのにあえてこの側面を作者は素材として選んだ。もちろん、夫婦の人間関係にこのような面があることも厳然たる事実であり、作者はそのことに目を背けなかった。そんなこの連作の中で、この句だけはちょっとほっとする感がある。指は妻の指で、だから料理や洗濯をしたりもすることもある指だろう。そんな指は、頭や眼や口とは違う何かを見知っている存在かも知れない。その妻の指と夫の指という肉体的な触れあいは、墓参が示す血の繋がりのようなものも想起させる。特に帰り道なのが、この句ではいい。務めを果たしてほっとした心の隙間のような場所に、指が忍び込んできたようにも思える。


いまだ輪とならず踊の三曲目  矢野公雄

踊りって、なんだかいかにも俳句的ないい素材だなあと昔から思っていて、なんとか秀句をものにしてみたいと僕自身も何度も挑んできた。だが、踊りはだいたいどこの場所でも似たような状況で行われるし、だから独自性のある特徴をそこから抽出するのはどうも難しい。なので、句にするにはどうしても《コロンブスの卵》的な発見が要求される。この句もそんな句のひとつだが、ポイントはもちろん、三という数字だ。一曲目が輪にならないのはまあ当たり前だろう。だが、二曲目はそろそろ秩序らしきものができて、輪になっていてもいい頃だ。それが三曲目も輪にならないとなると、どうなのか。想像だが、反応は二極化するような気がする。相当いらいらしている人もいる一方で、その無秩序ぶりをかえって愉しんでいる人もいそうだ。そういうなんとも「トホホ」な感じをうまく捉えた、見事な発見の句だと思う。



第537号
岡田耕治 西瓜 10句 ≫読む
樫本由貴 緑陰 30句 ≫読む
三宅桃子 獏になり 10句 ≫読む
山口優夢 殴らねど 10句 ≫読む
矢野公雄 踊の輪 10句 ≫読む

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