俳句とは何だろう ……鴇田智哉
第7回 俳句における時間 7
初出『雲』2007年7月号(改稿)
「俳句一句が、一目で見通せる長さをもっている。」ということを、今回は、ちょっと違う角度から見てみよう。
たとえば句会で、
水馬の水面の色の変はりたる
という句が出されたとしよう。だれかがこの句をいいと思って選んだとする。ところがその選句者がうっかりして、
水馬に水面の色の変はりたる
と選句用紙に書いてしまったとする。「うっかり」はもちろん、よくないことではあるけれど、仮にそういうことがあったとしよう。
そして、句会が「披講」に移る。すると、披講する人がそれなりに俳句の経験がある者であれば、選句用紙を見て、「の」が「に」に間違っていることに気づき、原句に直して披講するだろう。或いは、もしその人がまた「うっかり」そのまま披講してしまったとしたなら、聞いていた誰かが「あれ、どこかおかしいぞ。」と感じたり、「それは『に』でなく『の』だったよ。」と、披講した人に教えてあげたりもする。
また、今度は別の選句者が同じ句を選び、うっかり下五を、
水馬の水面の色の変はりけり
と書いてしまうという場合もあるかもしれない。この場合もまた、きちんとした披講者ならば、原句に直して披講してくれるだろう。
ここでわかるのは、俳句一句につき、だいたい二ヶ所くらい、そういったチェックすべきポイントがあるということである。まず上五の「てにをは」、そして下五の結び方の二ヶ所である。場合によっては中七の「てにをは」や切れを含めてせいぜい三ヶ所、といったところだろうか。そして十七音のひと連なりの中では、この二、三ヶ所のポイントは一目で見渡すことができるのである。
これをうぐいすの声にたとえるなら、原句が、
「ほーうお、ほけきょ」
だとすれば、書き間違えられた二句は、
「ほおお、ほけきょ」とか、
「ほーうお、ほけっきょ」
のような感じだろうか。大筋では近いけれども、細かいところが違っている鳴き声。それぞれの鳴き声は、一目で見渡せる長さであるから、違いはぱっと意識される。違いを認識することが簡単なのである。
実際のうぐいすにも、いろいろいて「ほーヨロヨロ、ほけきょ」とか、「ほーお、ホ・ケ・キ・ヨッ」のように、いろいろとバラエティーがある。うぐいすの鳴き声である、という大筋は合っているのだけれど、細かいところが違い、それがうぐいすの個性になっている。
個性ということでは、俳句でも、その二、三ヶ所のポイントこそが、その一句の重要な個性になっているということがいえるだろう。
そしてその個性は、一目でぱっと意識されているのである。
いい方を変えるなら、この二、三ヶ所のポイントさえ押さえていれば、或る俳句一句を「正確に」覚えてしまうことは割と簡単である、ということになる。
更にいうなら、或る一度の句会で出されたすべての句を、その句会が開かれている間、ノートを見なくても、ポイントにおいて把握しているということは可能なのである。だいたい百句から二百句の間くらいであれば、各句について、二ヶ所程度のポイントを押さえていることはできるだろう。
百句とか二百句の、全句の一字一句を暗記しているということではない。その中の或る一句が披講されたときに、または誰かの口に出されたときに、もし間違いがあれば、それに気づくことができる程度にポイントを押さえているということである。
披講する人は、選句用紙に書かれた各句をはじめから、いちいち原句と照らし合わせたりはしない。けれども、間違いがあったときに気づくことができるのは、そのポイントを押さえているからである。
同時に、披講する人だけではなく、句会に参加している人々がみな、そのポイントを押さえている。これは、「句会」という形式が成り立つための重要な要素である。
「句会」というものが成り立っているのは、俳句の「長さ」の性質によるところが大きい。
句会では、トランプのカードを回すように、句が回ってくる。一句一句は一目で眺められる長さ。それを眺めながら回していくのである。
一句一句のポイント、つまり個性は、さっきもいったように、その句会の開かれている間くらいだったら大抵覚えていることができる。俳句がそうした「長さ」であるからこそ、選句で自分が選んだ句、人が選んだ句について、会話がはずむことになるのである。
句会で誰かが、或る一句を挙げた上で、
「この句はね、……」
と話し始めるとき。「この句」といわれた瞬間に、聞いている人々の頭の中にはその一句の全体が正確に浮かんでいるはずだ。
これは、たとえば、
「この小説はね、……」とか、
「この映画はね、……」
といわれた場合とは、明らかに違う。
一つの小説や一つの映画の全体を或る印象として把握していることは可能であるが、全体を正確に覚えていることは無理である。ところが俳句の場合は、一句全体が、各自の頭の中に正確に見え、把握されているのである。これは、俳句というものだけがもつ特徴ではないだろうか。
それがゆえの面白さが、「句会」というものの面白さにつながっている、と思うのである。
(続く)
第1回 俳句における時間 1 →読む
第2回 俳句における時間 2 →読む
第3回 俳句における時間 3 →読む
第4回 俳句における時間 4 →読む
第5回 俳句における時間 5 →読む
第6回 俳句における時間 6 →読む
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