【週俳8月の俳句を読む】
小林鮎美
取りこぼし
ナイターや二重予約はぬらりひよん すずきみのる
ぬらりひょんは気付いたら家に上がりこんでいる妖怪なので、二重予約は普通にしそう。いや、むしろ二重とはいえ予約しているだけいいかもしれない。しかし、ぬらりひょんという語感は本当に味わいがある。きっと、漫画にしたら「ぬらりひょん」という擬音を背負って、ナイターの席に座る「私」の後ろから現れるのだろう。
雁帰る水平線に海坊主 同上
ひどく懐かしく感じた一句。海辺に住んだこともないのになんでこんなに懐かしいのだろう。見たこともない海坊主の後頭部に、特に懐かしさを感じる。海坊主の顔はきっと無表情だ。だが、心優しい。会ったことはないけれどわかる。
皆誰かに電話してゐるビール飲む 松本てふこ
こういう何気ない一瞬が実はすごく大事なんじゃないか、と思う。
例えば恋愛小説でも、恋愛をしている本人の目線で書かれたものと、第三者の目線で書かれたものとでは全く違う。私はどちらかというと、第三者の目線で書かれたものの方が好きで、それは、恋愛に必死になっている本人の目線では取りこぼしてしまうような、どうでもいいような場面・情景等があって、その中に実はとても大切なものがあったりするんじゃないか、と思ってしまうからだ。
だから、こんな何気ない場面で飲んだビールの味を、なぜか長いこと覚えていたりするんじゃないだろうか。
その窓に揚羽ばかりが来て困る 小川楓子
少し突き放したような言い方なので、深刻に困っているのかそうでもないのか、どっちとでもとれると思った。ただ、改善策は模索していなさそうである。
高校の教科書にミロのヴィーナスについての評論が載っていた。清岡卓行さんの「手の変幻」という評論。確か、ミロのヴィーナスは、腕が失われてしまったがために、観る者が彼女が何をしていたかを自在に想像できるようになり、より魅力的になったのではないか、という内容が書かれていたはずだ(現在、手元に本がなく不確かな情報でごめんなさい)。
その評論に対して、友達が当時「いや、あれは単純に腕がないほうがバランスがいいから、きれいなんだと思う。腕がない形がきれいだから、腕を想像するとなんか萎える」としきりに主張していた。
高校生だった私は正直、どっちでも良かったが、「多分両方の要素がある」とか適当な返事をしたと思う。でも確かに、自分で具体的な腕の様相を想像すると、何かが損なわれる気はしたのだ。単純に私の想像力が乏しいからだと言われたら反論はできないのだけれど。
この句にも全く同じことが言えて、欠けている要素があることで魅力は増すのだけれど、前後の具体的な描写(その窓とはどの窓なのか)を想像すると何かが損なわれてしまう。欠けているように見えて、あまりにも過不足がない句なのだ。
■岡田一実 銀の粉 10句 ≫読む
■松本てふこ フジロックみやげ 12句 ≫読む
■小豆澤裕子 踏ん張る 10句 ≫読む
■小川楓子 その窓に 10句 ≫読む
■しなだしん なんとなく 10句 ≫読む
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■高山れおな 昨日の明日のレッスン 46句 ≫読む
〔ウラハイ〕
■松本てふこ コミケに行ってきました 10句 ≫読む
■藤幹子 あれを好く コミケ想望句群 10句 ≫読む
〔投句作品〕
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2010-09-12
【週俳8月の俳句を読む】小林鮎美
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