【週俳9月の俳句を読む】
週俳9月の俳句を読みつつ、
季語という「ルール」について又
…… 上田信治
このあいだ、ツイッター上で、自分も含めた何人かの間で、季語についてのやりとりがありました。
曰く、季語は「ルール」か「ツール」か。
季語が「ルール」だということは、自分が、四、五年前から、ぶつぶつ言っていることで、今回も、誰かがその文脈でとりあげてくれたかと思うのですが、五十嵐秀彦さんが「有季定型は「ルール」じゃなく、「ツール」だと言えば、「違反」という思いは消えるようにも思う」と、つぶやかれたことで、「ルール」or 「ツール」みたいな話になりました。
五十嵐さんがご自分のブログに書かれたのは、こちら(無門日記「レクイエム・フォー・ドリーム」)。
「ルール」という言葉は文芸になじまない、という話になるのは、わりといつものことなんですが、五十嵐さんが「古代希求」「太古からの目的」というふうに言われていて、ウムこれは、個人的信念の問題で他人が軽々に触れられないな、と思いました。
自分の考えは去年書いたこれ(胃のかたち「季語はやっぱりルール」)と、プラスアルファで、そのプラスアルファを、週刊俳句9月掲載の俳句を読みながら、書いてみようかと(できるかな)。
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季語は俳句のルールだというのが、自分の基本的な考えです。
芸術行為である俳句に、ルールがあるのは、俳句がゲームから派生した文芸だから。
出自は、歴史的偶然であって、理由や根拠を問うことはできません。ただし、季語という偶然は、俳句がその生命をながらえた決定的な要因だったかもしれない。
大きくて効果の薄き案山子かな 杉原祐之
「季語を入れて五七五で「詩」を作る」というゲームが私たちの与件でなければ、生まれない句。
なにか馬鹿に大きな案山子が「詩って、何それ、おいしいの?」という顔をして、立っている。そういう顔で、近代文学から身を引き剥がす身振りをする、それによって俳句独自の趣味と地位を主張することは、虚子以来のお家芸で、これは非常に洗練された表現です。掲句は、趣味というには、ちょっと寓意が強く出すぎているようでもありますが。
新婚の女の浮かぶプールかな 杉原祐之
ふつうに読めば、「新婚」に目が行くところですが、俳句読者にとって、一句の中心は「プール」である。女を膜のように包んで、話者との間をへだてる「プール」の存在感は、一句の中で季語を特権化して読むよう訓練された、俳句的視線によって生まれる。
「季語と複雑」で「季語という独立部分があることは、俳句という「文」の統辞を、ひどく複雑にする」と書きましたけど、いま考えると、季語が俳句を複雑にするというよりは、読者の「読み」が複雑になっているんですね。そのリテラシーの蓄積こそが、俳句の正体なんですよ、きっと。(前出「季語はやっぱりルール」)
プールが特権的な言葉であることが、読者に、視点を「プールと他の要素との関係」=「話者もふくめての客観」まで引っぱりあげることを要求し、そのことによって、一見平板な叙述が、立体性を獲得している。
この「ひとごと」感──酷薄なような、さびしいような、愛があるような。ホテルのプールでひとり泳ぐ妻を、上から撮った荒木経惟の写真を、思い出しました。
広告の少なき電車青田原 杉原祐之
ああ、とても、きもちがいい。この「青田原」を季語以外の情景描写(日差しとか海とか、なんとか)に置き換えてみると──たぶん、なにかが、減りますよね。何が減るかというと、景を人に手渡す力が減る。言葉が、私は見ました、という個人レベルの陳述になってしまう。
季語というのは、共同性に開かれている窓でもある。
それは、多くの人にとっての共通体験であるというだけでなく、季語それ自体がみんなのもの──私的使用が何重にも不可能な遺産、入会地(コモンズ Commons)である、と。
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おしろいに滅びし星の光(くわう)とどく 今村恵子
はるか遠くで放たれた星の光が届いて消える先として、白粉花が選ばれたのは、もともとその花が幼年時代の象徴で、同時に、秋の残暑の、夕べに咲いて、すぐしぼんでしまうという──つまり、かくれた本意が「今、失われつつあるもの」であるような花だから。〈白粉の花が其処には咲いてゐて 京極杞陽〉(この句で、泣けるっていうのは、そういうことでしょ?)
何万年も前かもしれない滅びと、ひとときの夕べの衰退が、触れ合っている。
季語には、先行作品によって「無意識に」蓄積された象徴性があって(例1 、例2、例3 )、極論すれば、俳句の可能性の1つは、そこにあるようにも思う。
以前、〈悉く全集にあり衣被 田中裕明〉について、髙柳克弘さんが「衣被は、月に供えるものですから」と言うのを聞いて、句がまったく変わって見えたことがあって、とか、杞陽の「白粉」の句はすごいな、とか、いろいろ。
ただこのような暗喩が、うかつに押し進めると、たいへん野暮なことになるというのは、川柳でも現代詩でも先例のあることなので、読みにおいて濫用しないという慎みも必要かと思う。
秋桜死なねば消えぬ影法師 下村志津子
菜の花は光、コスモスは影、というか「光と影のぶつかり合い」。〈晴天やコスモスの影撒きちらし 鈴木花蓑〉〈コスモスの花遊びをる虚空かな 高濱虚子〉。掲句、一見、暗いことを言っているようで、じつは秋霜烈日、強すぎる輪郭の影法師があり、乱反射する光線があり、という(死んだら消える影法師、の反転なのかもしれません)、目は笑いつつ、きっと口を結んで、意志強固なる1句。
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蓮實 それでちゃんとマット・ディモンが最後に絵になるような撮り方をしている。演技がうまいとかそんなことは関係ないわけで(笑)、私なりに言ってみると、あるショット──ショットというものがまた気味の悪いものとしてあるのですが──にその役者が鮮やかな輪郭でおさまるかおさまらないかということだと思う。それが映画における演出のカギだと言っても差し支えない。その意味で、いま最も見事に画面におさまる役者は、やはりトム・クルーズでしょう。
『現代アメリカ映画談義』(黒沢清+蓮實重彦 2010 青土社)という、対談本を楽しく読んでいたら、蓮實重彦がこんなことを言っていました。
そこで思いついたのは、季語が俳句に「鮮やかな輪郭でおさまる」ことが、俳句のキモかもしれない、ということ。
自分は、季語が、俳句のもっとも生産的なツールであることを、疑う気はないのです。季語を「直に」価値と通底させる言説はよろしくないので「季語がルールであること」を忘れないでね、と、半畳を入れますが、
季語は1句の中で「機能する」ことによって価値を生みだす。季語、あるいは季語体系を(道具だから大事にするのは当然ですが)、崇めたり、誉めあげることを俳句の目的のように言うのは違うだろう、と。
水澄むやふたつの言葉だけ持つて 宮本佳世乃
〈水澄むやこころの傷を詐(いつは)りて 石原八束〉と比べても、掲句の、中七下五の、「立ち尽くし感」「言いたいことの言えない」感は、ひけをとらない、というか勝ってると思う。
「水澄む」は岸本尚毅が好む季語で、〈水澄むや細かき穴が紫蘇の葉に〉〈水澄むや尻餅ついて女の子〉〈水の底突けば固しや水澄める〉などの句があります。ムードと具体の両方あって、往還するところが、よいのかもしれません。
そういえば、岸本氏が、師・波多野爽波の教えとして、第一に挙げる「季語の噛み砕き」は、季語の象徴性と具体性の往還である、と言えそうです(爽波も、岸本さんも、象徴性については、季語が勝手に働いてくれる、くらいの意識かもしれませんが)。
そういう意味で、佳世乃句は、しんしんと明るくさびしく、しかも水辺に立っているわけで、季語が鮮やかな輪郭でおさまっている1句と、言えるのではないでしょうか。
葛の花鋭利な喫茶店に雨 宮本佳世乃
これは、前句と違って、季語がひじょうに安定しない置かれ方をしているわけですが、こうしてみたら、
葛の花(鋭利な喫茶店)に雨
ちょっと分かるかも(お遊びご容赦)。
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先に「季語を入れて五七五で「詩」を作る、というゲームが私たちの与件」と書きました。
では、俳句は「所与」だと言ってもいいだろうか。自分は、俳句は「考える前に与えられ、すでに知っているもの」という意味で、所与と言っていいと思う。
文学や、芸術を所与として、つまり「すでに確立されたもの」として、扱うことは、制度的発想であり、不都合極まりないことです。作り手にとっても、受け手にとっても。だから「季語はルール」ということを言うと、不機嫌になる人が現れるのだろう、と思うのですが。
しかし、俳句は、文芸のサブジャンルのひとつなので、他のサブジャンルとの境界に、ジャンルの外縁を成立させる(あいまいな)判断基準がある。よく言う冗談で、ペラ1枚(200字)を越えたら、俳句じゃないかも、というような。
俳句は、俳句が何かを分かっていないと書けないが、それと同時に、俳句が何かを、すべて分かることはできない。例の「俳句に似たもの」問題とつながってくるわけですが、ああいう発言をされる方は、たいがい俳句の成立条件を狭く、あるいは雑に考えすぎです。
じゃあ、有季定型であればいいんですね、と、こうやって嬉々として、書いてくる人がいる。
ママ今日の松茸が大きすぎるよ 澤田和弥
月が好き俳句に似たるものが好き
爽籟や胸の谷間にボンジュール
澤田さんから、1句目と2句目のあいだを、2行開けるようにオーダーがあったのですが、開けてみたら、空白が「検閲済み〈censored〉」みたいになってしまったので、天気さんの工夫で、グレーの丸印(●)をふたつ挟みました。なにか、乳首みたいになってしまって、かえって良かったです。
「俳句に似たもの」といえば、むかし、フェイクジャズというものが、流行ったことがありました。要するに、lounge lizards っていう、ジョン・ルーリーのバンドのことなんですけど、ジャズのような、ジャズでないような、ジャズっぽくしてるんだけど、かえって違う……みたいな音楽でした(あ、そういえば日本にも「笑って許して」じゃなくて、なんだっけ、あ「勝手にしやがれ」とか、「Pe'z」というようなバンドあって、自分ではジャズって言ってるけど、ジャズではないよなー、みたいな音楽をやっています)。
桃太郎密かに桃の実を食し すずきみのる
貧乏はいやだと泣かれクリスマス さいばら天気
澤田さんのもふくめて、フェイク俳句か、と。でも、これを俳句じゃないという根拠はないし、勇気もない。「俳句に似たもの」って、けっきょく俳句なんですよね。〈麿、変? 高山れおな〉も、そう。
ちょっと現代仮名遣いにしたり、標準的口調、内容から外れると、俳句はすぐグラグラする。俳句はそういう、あやうい「俳句らしさ」に支えられた表現なんですが、一方、ジャンル自体を「問い」の対象にすることは、現代の芸術として避けられない。それこそが、20世紀の芸術というものであって──あ、もう21世紀だから、そんなこと気にせずにどんどんパージすればいい、っていうのが、俳人協会の考えなんでしょうか(たぶん違う)。
季語の話に戻れなくなったところで、終わりにします。長々とどうもすいません。
■今村恵子 水の構造式 10句 ≫読む
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■杉原祐之 新婚さん ≫10句
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〔投稿作品〕
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〔ウラハイ〕
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2010-10-03
【週俳9月の俳句を読む】週俳9月の俳句を読みつつ、 季語という「ルール」について又…… 上田信治
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補足:
> 季語を「直に」価値と通底させる言説はよろしくないので、
というのは、それをやると季語に対する「信仰」になってしまうから。
信仰が、なぜまずいかと言うと、
そうなると、作家は、信仰を共有していない人の眼に耐ええない「弱い」表現に、流れがちだから(理論先行の前衛芸術とか)。
(宗教美術とかは、全く逆で、自分の信仰心に釣り合うほどの、強い表現を希求して、美しいものが生まれることが、ありうると思う)
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