〔週俳1月の俳句を読む〕
凍った池で鯉は生き続けられるのだろうか
江渡華子
年越し蕎麦の蕎麦湯暗渠に合流す 池田澄子
眠りに落ちているにも関わらず、夜中にふと、自分という意識を認識することがある。ぼんやりと暗闇に浮かび、また、暗闇に溶け込むのだ。
その暗闇が本当にあったものなのか、現実ではなく、ただ夢を見ているだけなのかはわからない。長時間そうしているのか、短時間なのかもわからない。ただ、ぼんやりと自分という存在を認識する時間。
再び暗闇に溶け込むとき、その暗闇には何が含まれているのだろう。再び落ち行く意識を留めることもしたことがないため、その正体が何なのかは、未だに知らない。
暖かな家庭から流された麺のつゆが、暗渠に溶け込むときに感じるだろう恐怖を私は知っている気がする。
門松やどの服からも顔が出て 山田耕司
東京の電車に乗っていると、時々笑えてくる。
皆座ったまま一列に横に動いているその状態がたまらなく滑稽だ。関西の電車は、進行方向を向いている電車が多い。座っているのに自動的に運ばれる状態に変わりはないが、横向きであることが面白い。それは立っていても同じである。服から顔が出ているということを面白むことも、似たような感覚からではないだろうか。服から顔が出ているのは当たり前で、むしろ服から顔が出ていないことが人間にとって違和感だ。当たり前のことが面白く感じる時、自分がその情景の一部として存在していることが多い。
大叔母と祖母下りてきし蜜柑山 齋藤朝比古
去年今年血縁ふつと静かなり 齋藤朝比古
今年の始め、大叔母が他界した。あまりに前触れもなく、静かに亡くなったので、私はまだ自分の中にその事実をうまく落とせていない。
蜜柑山を下りる姿に姉妹らしさがあったのだろうか。姉妹が似ていることは結構普通のことでもあるが、それが自分の血縁だと似ていることに気づきにくい。そういえば、最近祖父の遺影を見て、父がそっくりであることに気づいた。私の妹もそのことに気づいたのが、私と全く同じタイミングで少し笑えた。
年末年始は血縁が集まり、賑やかにもなるものだが、こんな風に一人減ると、そこは去年と違う「音」の集まりだ。私もいつかこの血の集まりに静けさをもたらすのだろうか。
理髪灯三途の川にふと灯る 須藤徹
髪が欲の象徴だから、切って清らかになり川を渡るというのでは、つまらない。
旅行や新しい土地に行く前には、美容院に行く。きっと三途の川の先にも、新しい土地へ行くときと同じ気分で髪を切りたい人がいるだろう。結局は綺麗でいたいという人間の欲というか業による思いなのだが、地味な理髪店の明かりがぽつんとあるのは、少し現世を感じさせ、あの世への不安感を拭ってくれる。三途の川には季節はないのだろう。橙色の灯やトリコロールのくるくる回る看板。郷愁を感じさせて、現世を恋しがらせてはいけないだろうに、その矛盾がかえって、そこに理髪店を置いてくれたことに好感を覚える。みんな「あ!」と見つけては少し幸せな気持ちであの世へ行けるのだろう。
薄氷の底に丸太のやうな鯉 菊田一平
冬、北海道の五稜郭に訪れた際に、お堀の鯉が水面で凍っていて、それを烏がつついて悲惨な状態になっていた。凍った鯉というものを初めて見たので、すごく衝撃を受けたことを覚えている。実家が北国にあるのに、私は鯉が凍った姿をみたことがなかった。母の実家に小さな池があり、鯉が泳いでいる。冬は、藁を上に敷きつめ、池が凍ることを防いだ。鯉は人間から見て身近に存在している分、人間が守ろうとしていることが多い。
先日明治神宮を吟行した際に、池の端が凍っていた。鯉は凍っていない橋の下あたりを泳いでいた。適度に人間に守られる鯉は大きくなる。ただし、藁で守られないほどの大きな池にいれば、池が凍ることから逃げられない。じっと耐えている鯉の姿が丸太のように太く大きいのは、人間に対しての皮肉に思える。
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2011-02-20
〔週俳1月の俳句を読む〕江渡華子
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