2011-11-06

〔週俳10月の俳句を読む〕藤幹子

〔週俳10月の俳句を読む〕
逃げても逃げなくても

藤幹子


  でも僕が逃げても逃げなくても月夜  山口優夢

とりあえず身構える。気をしっかり持ち、明鏡止水を心がける。震災を題材にしたと思しき作品に触れるとき、どうしてもそんな態度をとってしまう。

百歩でも二百歩でも下がらなければならない。そこには、大いなる背景にばかり気をとられて作品自体を見失わぬようにという気持ち、と同時に、まるでその事象を経験しなかった自分が、安易に感情移入をすることへの罪悪感がある。(当時も今も、私は岡山に居住しており、映像と知識によってしかこの災害を知らないのだ。)

山口優夢「海」。

週刊俳句をひらき、いつも読むとおりに何気なくこの作品に目を通し、三句あたりで立ち止まる。四句めに「瓦礫」の文字を認識し、そろりと最初の一句に戻る。「こはれたもの」ああそうなのか、と思う、その瞬間、背景を強く意識し、またそこから離れる努力をし始める。一句一句を切り離して鑑賞しようと、ニュートラルに景を思い浮かべようとする、一方で、幾度となく見た被災地のニュースの映像がくるくると頭の隅を駆け回り、自分勝手に景に当てはまろうとする。本当は無駄な努力なのであろう。この現在に詠まれたものである、という(おそらく事実に近い)想定と、瓦礫、荒れ野、灯のない家という荒廃を結びつけたなら、最も近い災害を想起するのが自然というものだ。そしてタイトルが海。

それでも無理に悶々としながら、誰に対してかわからない平静を装って読み進めたところに、掲句がくる。こちらの抑制を崩すように、くる。

それまでの句はある程度淡々と、景を詠む事に徹している(六句め、「闇が手足に」で少し不穏になるが)。そこへ、ぼん、とむき出しの感情が投げ入れられる。むき出しといっても荒々しいものではない。見る人が見れば弱々しくも思われよう。そこにあるのは無力感だからだ。「逃げても月夜」ではない。「逃げても逃げなくても」、どちらの選択をしても変わらない、という。(そして、「人住むところ」へ「帰る」しかない。)

どうしてもこの一句に注目せざるを得なかった。感情移入を避けてすすめた読みを、引っぺがされた気がした。それが作者の本音であろうとなかろうと、この句の主体がまるで思わずつぶやいたかのような無防備な口語体に、実に手も無く揺さぶられてしまったのだ。平易で使い古された表現でも、抑えに抑えて読んでいたところに、単純簡潔にこの事象に対する心情、特に当事者でない人間の心情として強くうなずける内容をぶつけられ、同じ無力の思いを持って良いのだ、それを表現して良いのだ、むき出しの感傷を持っても良いのだと、勝手に許されたような気持ちになってしまったのだ。

一句の善し悪しでなく、この十句の中に置かれる意味がこの句にはあるのだろう、と少なくとも私は感じた。読み手が、同調の装置のように一句を位置づける事が許される事なのかと問われれば、うなだれるよりほかない。ただ、十句の中でこの句を読んだ時の心の動きをつらつらと考え追いかけてみたところが、どうもそのように着地してしまった。浅薄な、と我ながら呆れつつ、口語のあげる効果について、もう少し考えてみたいと思った。


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