【週俳5月の俳句を読む】
ふれることができないほどありふれたこと
阪西敦子
ありふれたことに喜び、それがあまりにありふれていることに感動するたちである。「週俳5月の俳句」の中から、例によって好きな句を拾い出して、並べて眺める。
少女怒れば少年の朧なる 竹岡一郎
「朧」は捉え方も詠み方も幅のある季題。事柄が即物的で季題は象徴的という句が結構あるのだけど、この句はその逆。出来事がわりと象徴的なのだけど、季題はあくまで即物的な話。その収束が楽しい。
点心に脈打つて蛭太りけり
これもまたそう。「点心に脈打つ」とは即物と象徴が半ばする表現なんだけれど、蛭がでてくると、なんとなく最後は具象の色が濃い。ああ、いいなと思う。
葉桜やひかりは闇をくり返し 沼田真知栖
いや、驚く。光がずっと光っていたら、光とはわからない。そうか、そうだったのか。「闇をくり返し」だなんて、強引な物言いだけれど、きちんと言われるよりもよっぽど身につまされる。
見上げては塔の存在柿若葉
見上げるのは塔か、塔の気配の空か、柿若葉か。「存在」などと、句に持ち込むと変に働いて厄介そうな言葉なのに、この句の中では素直にしている。柿若葉のいかつい存在が、景色の中の塔同様に、この言葉をうまく従えているのかもしれない。
くらがりに雉のおさまるお昼どき 佐藤文香
春深しみどりの池に木は倒れ
見たかもしれないと思う。むろん、どこで見たかは思い出せない。ただ、これまでにたった一度だけ見て、この先、同じ景色を見ても、前に見たことに気づかないし、認識もしないと思う。そんな、ありきたりなのだけれど、わかるわかると思えない景色。同感はしなくて、言い当てられたことにぎょっとする句。ああ、晩春である。
夕焼や襟の光を袖に移し
なんなんだろうか、もう、実景とも言えない。といって、実体を離れてしまったのではなくて、その逆であって、うまくいえないけれど、言葉が景色の実感を追い越してしまったようなかたち。描かれる景色や、記憶の力を借りずに、句自体が実感を持っている。
真にありふれたことこそ本当は手の届かないこと。それを読むのは、楽しい。
第264号
■竹岡一郎 比良坂變 153句 ≫読む
第265号
■佐藤文香 雉と花烏賊 10句 ≫読む
第266号
■沼田真知栖 存在 10句 ≫読む
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2012-06-10
【週俳5月の俳句を読む】阪西敦子
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