2012-08-19

〔週刊俳句時評68〕二十四節気改変論議に思うこと 五十嵐秀彦

〔週刊俳句時評68〕
二十四節気改変論議に思うこと

五十嵐秀彦



うかつなことだったが、昨年5月に日本気象協会が「日本版二十四節気」を提案したことを見逃していた。

こもろ日盛俳句祭実行委員会が、週刊俳句等をとおして「二十四節気アンケート」を実行したことから、その動きにようやく気がついたし、角川『俳句』2012年8月号でもその問題が「緊急座談会 どうなる!?二十四節気」として記事となってもいた。

こもろ日盛俳句祭では7月28日のシンポジウムでこのことについて気象協会の幹部職員を招き議論したようだ〔編註〕。その様子は「詩客」サイトに筑紫磐井による速報が発表されている。

そうした動きを追っていて、どこかピンとこないものを私は感じていた。なにがピンとこないのか。

「詩客」サイトの「季語・季題をめぐる緊急集中連載⑧ 24節気をめぐるシンポジウム発言/筑紫磐井」の中に《24節気問題は、暦の問題ではなくて、名前とその考え方の是非だ》との発言を見つけ、そのことだと気がついた。

しかし、暦の問題ではない、と思ったところで、二十四節気の春分や秋分も含め、国立天文台が暦としてそれを決めているのも事実であり、気象協会が今回節気改変を言いだした背景にもむろんそれがあるわけだ。

だから『俳句』8月号では冒頭いきなり「暦はお上(かみ)〈政府〉が決めるもの」というところから話が始まっているのである。

今回の問題になにかあやういものを感じるのは、あるいはこの点にあるようにも思う。


この問題の意味を考えているときに、私はふと和泉の聖神社のことを思い浮かべていた。聖神社の「聖」とは、「日知り」から来ており、そのことから「暦の神」であると言われ、7世紀に信太首(しのだのおびと)によって創建されたものと伝承されている。

この信太氏というのが陰陽師の家系であった。そうしたことからこの地は古くより「陰陽師の里」ということになっているらしい。

和泉の信太というとご存知のとおり、信太妻伝説の地でもある。

人に化けた狐「葛の葉」が安倍保名との間に子をもうけるが、正体がばれてしまって泣く泣く子の童子丸と別れ、信太の森へと帰ってゆく。

つまり「葛の葉子別れ」であり、

  恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉

という和歌でもよく知られた伝説だ。

これが説経節「信太妻」、瞽女唄「葛の葉子別れ」、人形浄瑠璃・歌舞伎の「蘆屋道満大内鑑」などの芸能作品を生み出すことになる。

で、この葛の葉の子・童子丸が成長して安倍晴明となるという出来過ぎたお話になっており、「伝説」というより現在の伝承内容については説経節「信太妻」がおおもとだったのではないかと私は推測している。

なぜなら、この地、信太を舞台とするのは葛の葉伝説だけではなく、聖神社の鳥居の今も面している道が熊野街道であり、またの名を小栗街道とも呼ばれていることが、信太と説経節の密接な関係をうかがわせるからだ。

「小栗」とは、説経節「小栗判官」のことである。計略で殺されながらも墓から餓鬼阿弥として再生した小栗を土車に乗せ、青墓の遊女・照手姫が熊野に向かって曳いた道が、この小栗街道であると言い伝えられている。

葛の葉にしても、餓鬼阿弥にしても、照手姫にしても、権力とは無縁の民間伝承だ。それがどうしてこの「陰陽師の里」を舞台としているのか。

そのことについて沖浦和光が「葛の葉子別れ」について書いており、参考になると思うので少々長くなるが以下に引用する。

《中世の時代から民衆説話として伝承されてきた、この物語の発祥と伝播は、『しのだづま』の故地、信田の森のすぐそばにあった旧南王子村と深い関係があったと思われる。つまり、この地に住んで街道筋を流し歩いていた説経師たちの〝語り〟によって、この物語の構想はしだいにふくらませられていったのだろう。そして陰陽師の頭領であった安倍晴明(921~1005)と結びつけられていくのである。なぜ安倍晴明が登場するのか。平安期に入って律令制度が実質的に解体してから、朝廷に抱えられている一握りの官人陰陽師を除いて、民間にいた下級陰陽師たちは不遇な生活を送るようになった。そして、民を惑わす呪術を使う者としてしだいに賤視されるようになった。彼らは古来からの道教に由来する吉凶の占や祈祷をおもな仕事にしていたが、もうひとつの仕事は、暦の発行だった。もちろん、朝廷お抱えの土御門家が承認した正規のものでなく、いわば民衆用に作成された廉価で簡便な暦だった》沖浦和光 『日本民衆文化の原郷』(文春文庫)p18-19
信太の地に安倍晴明伝説のひとつとして葛の葉伝説が生まれた理由がここから見えてくる。

暦は度量衡と同じく、権力者が支配のために絶対必要なものであった。それゆえに権力の構造の中からはみ出した民間陰陽師などはあってはならない存在であったが、それゆえに民衆にとっては権力と異なる自分たちの領分のものとして伝承し続けてきたし、権力者によって押し付けられる不条理な現実を不思議な神仏の力でひっくり返す内容の説経節を喜んだのであった。

この暦の記憶は平安から現代まで続いているのだ、ということを私は今回の二十四節気問題で考えさせられた。


権力は、陰暦を葬り去ったあと、さらに次に二十四節気をあらためることで、暦にまつわる民衆の「呪」を消し去り無力化させ、あらゆる権威が権力に直属する社会を強化しようとしている。

もちろん気象協会の職員たちがそんなことを意識的に考えているわけではないとも思う。

しかし、国交省の「支配下」にある法人としては、無意識のうちに長い長いこの国の権力の暗い思念を背後に持ち続けているのだろう。

土御門家のように、幕府天文方のように、明治5年の太政官達(たっし)のように。

それは、議会制民主主義などという「若い思想」による国家像とは異なる古くからの国家の素顔でもある。

結果的に二十四節気は変更せずに、解説的な言葉をさらに追加するという方向で落着するらしいが、だからといって『俳句』誌座談会の誰かさんのように安心してもいられない。

二十四節気も「彼ら」(政府、気象協会、お抱え学者、一部の俳人たち)から見れば暦の一部であり、リンク権力の論理の中にあるのだということ、そしていつも私たちのそばに着かず離れず変わらずに存在し続けると思い込んでいた二十四節気も政府関係機関職員の思いつきでいつでも変えられるものであるという事実を、私たちはつきつけられたのである。

ただ、そんなきな臭い気象協会アンケートに対抗する形で今回俳人によるアンケートが実施されたのは、なかなかとんがった対抗策であり、けっしてまるめこまれないという意思表示にもなっただろうと思い、私は感心したのだった。


〔編註〕当シンポジウムについては、小誌・以下の記事を参照。
上田信治・「いまどきの二十四節気」は企画中止へ?:第276号/2012年8月5日


1 comments:

曾呂利 さんのコメント...

五十嵐さま
こんにちは。御説拝読しました。
微妙な問題が多く僕自身も詳細に論じる能力はもちませんが、「民衆にとっては権力と異なる自分たち」とは、あまりに二項対立的ではないでしょうか。

官人陰陽師のほかに法師陰陽師と呼ばれるモグリが多くいたことは『今昔物語集』に見え、中級下級貴族たちの生活にも密着していますが、これを「民」とみるか「官」とみるか。官と民とを厳然と区別することができるとは思えません。単純に言って、民衆にも「棟梁」や「長者」、「庄屋さん」といった権力者がおり、そのうえに「国司」「奉行」「お代官さま」がおり、官と民とは無数の中間管理職をはさみながら全体で権力構造を維持していくわけです。
そもそも都の発した「暦」を正式なものと受け止めて享受し、自分たち用にアレンジしていくことで権力関係が肯定されているわけですし、いわゆる「無縁の輩」のほうが天皇とのつながりを意識していたことは網野善彦氏の研究があります。説教節にしたところで、否定されるのは目の前の権力者(悪代官)だけで、天皇を頂点とする権力構造自体を否定するようなものではなく、その点とても「水戸黄門」です。天皇の発する「暦」を相対化するような視点を民衆が得ていたとはとても思えないわけです。
長文乱文失礼しました。