【週俳8月の俳句を読む】
幸い住むと人のいふ
瀬戸正洋
別役実の「移動」(書下ろし新潮劇場・昭和46年9月10日刊)を興味深く読んだ。僕は、戯曲はほとんど読まないし演劇(「演劇」というのか「芝居」というのかもよくわからない程度の人間だが)もあまり観ない。その頃は時間もあったので戯曲を読むことと演劇を観ることの違いが知りたくて劇場へ出掛けてみた。僕のようなめんどくさがり屋の素人には「移動」に対しては戯曲を読むだけで十分だという気がした。
炎昼の鴉の羽根を踏みにけり 谷口摩耶
リュック降ろして取り敢へず氷水
鴉の羽根を踏んだのは不思議な意思によるものなのだ。踏む必要などなにもない。悲しかったからか。それとも、疲れていたからか。何故、踏む必要のない鴉の羽根をわざわざ踏んだのか。それは間違いなく炎昼のせいなのだ。降ろしたリュックに入っていたものは「煩わしさ」だけなのかも知れない。取り敢えず気分転換に氷水を。冷たさが身体中を染み渡っていく。
戯曲「移動」とは荷車に家財道具を満載して移動する五人家族のものがたりだ。僕は幸福を求めての移動だと思ったがそうでないのかも知れない。現在の生活を変えたいという思いが彼らを決心させたのだ。瑣末な出来事のたびに家財道具を捨てていく。その理由を彼らは真剣に確認し合う。溢れるほどあった夢を捨て続けていくことが人生そのものなのかも知れない。電信柱が目的地に向かって永遠に続く。
夜の汗日付が変わっても今日だ 福田若之
何かに苛立っている。「今日」だ「明日」だという言葉に対して。あるいは時間という恐ろし過ぎる現実に対して。考えてみれば僕らは「現在」しか体験できないのである。「過去」「未来」とは独立して存在するものではなく現在と繋がっている。歴史とは現代史のことなのだ。時間は継続している。途切れることはない。休憩したくても、やり直したくても続いていってしまうものなのである。何故、日付が変わるのはいつも決まって夜なのか。決心したことは日付が変わっても実行しなければならない。僕らには戻る場所などどこにもない。あると思うのは錯覚なのだ。「移動」のための「今日」は永遠に続くのである。決心したことは守らなければならないということに固執するのも人なのだ。
明易の岳父の訃報実父より 前北かおる
訃報というのは早朝の電話というイメージがある。幸福な訃報というのも変な話だが、早朝の訃報とは十分に看取ったということが裏付けられた結果のような気がする。だが、この作品、何か変なのである。岳父の訃報は実父へするのが普通のような気がする。伝達の順番が逆であることが、屈折とかアンバランスとかいうような。この作品のそこが面白いと思った。
終電へみんなは走る晩夏かな 村越 敦
終電へ乗ろうと走る人間の顔は男も女も異様である。不気味なくらい異様である。懸命に走る。躓いても転んでも諦めない。何がなんでも乗ると決心したのだ。何かに取り付かれた人間の目は怖い。何かを決意した人間の目は確かに怖いのだ。夏の終わりのとある駅の風景。
湾岸に音曳くバイク残暑なり 押野 裕
花火の上あがる花火やビルの間
夏の終わりに軽快な音を響かせて湾岸道路をオートバイが疾走する。既に、オートバイは見えなくなっている。オートバイとは偶然に出会ったのだ。たまたま、歩いていたら花火を見ることができた。続けて花火は揚がる。それもビルの間から。これも、作者は偶然に見ることができたのだ。僕らは理論的に説明できない出来事を偶然という。理論的に説明できることは必然という。偶然の対義語は必然である。最近、僕らは偶然と必然という言葉を同じ意味で使う。この二つの言葉は交差し入り乱れて訳がわからなくなってきている。嘘をつけと思う。
戯曲「移動」その三には「貼り屋」という仕事を持つ夫婦が登場する。電信柱にビラを貼りながら旅をしている。コンクリートの電信柱には個性がなくビラも貼り難い。それに比べるとコールタールをたっぷりと塗った電信柱には個性がありビラも貼り易いという。別役実いうところのビラとは「猫あげます」とか「小便無用」とか「貸間六畳格安電話乞う」とか「庶民金融山上商事」である。「貼り屋」の夫婦はこの仕事を三十年間も続けているのだが転職も考えている。僕らの仕事だってよくよく考えてみれば「猫あげます」のビラを貼る仕事と何も違わないのである。むしろ、「貼り屋」という仕事の方がよほど健康的で建設的な仕事だ。何てったって猫を差し上げるのだから。電信柱の前で小便はしてはいけないと言っているのだから。そんなこと、僕は誰にも言えないので背広を着てかばんを抱え爽やかな顔で通勤電車に一時間以上も揺られ都会へ向かう。僕だって三十年以上もくだらない仕事を続けているし転職だって考えている。
馬刺てふ看板ありて日の盛り 松本てふこ
青鷺の有明海へ飛びゆけり
「出社セズ」という題名に惹かれた。旅に出たのだから直帰したということではないだろう。この作品「九州篇」「アブダビ篇」「ロンドン篇」の二十五句からなっている。僕はアブダビもロンドンも知らないので「九州篇」から二句抜いた。僕らは自由(考えてみればよく解らない言葉だ。人生とでも言った方がいいのかも知れない)と金を交換して生活を営む。僕らの自由を買ってくれるのが会社だ。朝、起きて行く場所があるということは思っている以上に幸福なことなのだ。(どこにも行く場所がないということは恐怖なことなのだ。)「馬刺」という看板があれば誰でも入るに決まっている。日の盛りならばなおさらのことだ。生ビールもいいだろう。焼酎の水割りも悪くはない。なんてったって自由なのだから。有明海のことを僕は何も知らないが、そこはとてもよいところなのだろうか、それともとんでもないところなのだろうか。青鷺は有明海に向かって飛んでいってしまったのだ。作者も青鷺といっしょに、あるいは青鷺となり有明海に向かって飛んでいってしまったのだろう。だが、どこへ飛び立とうと飛び立つ前と後とではエネルギーが何倍も何十倍も違う。それだけのエネルギーを費やす覚悟がなければ飛び立ってもしかたがないのである。
牡丹やあなたはいつもややこしい 石原明
どんなにつまらない人でもよく眺めれば確かにひとりの人としてそれなりの味わいはある。牡丹を眺めながら作者はそう思っているのだ。「人類忌」とは自分自身に対する諧謔なのだ。愚かさも弱さも全て承知の上で自分自身を肯定している。向日葵を怒って降りてくる蟻も、たんたんと真桑売を喰うのも自分自身なのだ。「人類忌の献花のごとき時計草」「初桃のまだ強情な果肉なり」言葉を正しく語るのは言葉しかない。自分を正しく語るのも自分自身しかいない。当たり前のことなのだ。
戯曲「移動」その五では、下手(B地点)から家財道具を満載したリヤカーを引いて上手(A地点)へ向かう「男二・女二」が新たに登場する。父が死んでも決心を変えない家族は上手(A地点)から下手(B地点)へ向かって移動し続けている。新しい何かがあるはずの下手(B地点)から何もないと自分たちは思っている上手(A地点)に向かって同じように移動する「男二・女二」と出会うのである。家財道具を積んだ荷車とリヤカーは舞台の中央ですれ違う。どちらの「山のあなたにも『幸』など住んでいやしない」のである。そして、母も斃れる。男と女はそれでも下手(B地点)、即ち目的地に向かう。女は死んだ子供をおぶって。男は僅かに残った家財道具を積んだ荷車を曳きながら。これらの出来事は僕らの暮らしの中では何度となく繰り返されている。僕らはいつも決心をする。その度に心が揺れる。その時、僕らは何かを書き留めるのだ。人とは間違っていようといまいと決心したことは最後までやり通さなければ気の済まない変わった生き物なのである。幸いとは、いったいどこに住んでいるのだろう。
■谷口摩耶 蜥蜴 10句 ≫読む
■福田若之 さよなら、二十世紀。さよなら。 30句
≫読む ≫テキスト版(+2句)
■前北かおる 深悼 津垣武男 10句 ≫読む
■村越 敦 いきなりに 10句 ≫読む
■押野 裕 爽やかに 10句 ≫読む
■松本てふこ 帰社セズ 25句 ≫読む
■石原 明 人類忌 10句 ≫読む
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2012-09-09
【週俳8月の俳句を読む】幸い住むと人のいふ 瀬戸正洋
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