【週俳3月の俳句を読む】
ひかりとやみ
角南範子
シクラメンの根っこには毒があるらしいが、この句も少しばかり、痺れる感じがする。この作者はどこかで「シクラメン」が「シクラメン」であることを、植物であるということを、疑っているのではないか。わざわざ「背鰭あるもの」と言っているから、魚じゃないのかもしれない。もっと違う時代の、人間が動物で、あるいは植物が背鰭を持ち得た時代の、呼吸の深さ。
〈振つてみる明日蒔く種の種袋〉。そんなふうに、ひとつひとつ、命を、呼吸を確かめるような視点に透明なひかりを感じる。
春眠の覚めぎは我を呼べるこゑ 新延 拳
覚めぎはのこゑは、こちらとあちらの、どちらからやってくる声だろう。生きている限りは、この「春眠」を覚めざるを得ず、だけどもう少しこのあたたかくあやうい場所にいたいという気持ち。こちらとあちらの交わる場所は、少し淫らな感じがする。
〈水に傷つけて初蝶淫らなる〉もそう。空と水の交わるところ。「初蝶」の「淫ら」は、揚羽蝶や赤とんぼの淫らよりも、あわあわとしているだけに、よりエロティックな感じもする。そんな「初蝶」だからこそきっと、たゆたう「水に傷」をつけることができるのだ。
以下、「10句競作」より。
待春の鳥をつかめば骨のある 今村 豊
この触感の世界は、怖ろしくも惹かれる世界。手の中にある命は、ちょっとでも力を入れ間違えたら潰れてしまうようなはかないもの。でもその恐さのもとが、小ささと柔らかさから導かれるのではないということ。温かさと骨の固さを感じるときに、命を握っている重たさと怖さを感じるのだと知った。春にもし、骨があるとすればそれは、春春しい〈麗らか〉とか〈長閑〉とか〈春闌ける〉といったものではなくて、「待春」の思いなのではないだろうか。
〈胸に手を入れて猫の子受け取りぬ〉〈オムレツを開くナイフやらいてう忌〉にも同様の、はっとする触感がある。殊に「オムレツを開くナイフ」の、固く冷たいものが柔らかく開いていく世界に、「らいてう忌」が合わせられているのに驚いた。
鬼は外母へ通ずる闇のあり 柏柳明子
かつて私たちが、母の胎内から出たとき感じた光は、逆転すれば「母へ通ずる闇」となるのだろう。形は違えど、よきにつけあしきにつけ、母という存在の重さは誰もが抱えている。その闇はいつでもそこにあるのだと。私たちの命が、今となっても、母たちと繋がっているのだと。
そして、それはたぶん、〈くちびるのやはらかさにて花ひらく〉というほどの、眩むようなやわらかさの内にも存在するのだ。
黒兎抱かれシャンソンの中は雨 西川火尖
なめらかな毛皮に、ぴかぴか光る眼、言葉はもちろん声すら微かな「黒兎」。「シャンソンの中は雨」、そうだそれは、もちろんそうだ。光沢のある黒と遠くここちよい雨音のようなメロディ、それが、夜という記憶だ。
〈言ふことをきかない狐火はないか〉……たぶんいる。そして「言ふことをきかない狐火」は、雨と親和し過ぎていつか、夜にとけてしまうのだろう。
たくさんの空想を遊ばせてもらった句、だった。
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