【週俳7月の俳句を読む】
もはやちょっと怖い
村越敦
暦の上では秋なれどまだまだ暑いので、怖いと思った句をいくつか抜いてみたい。
紫陽花は家禽と思ふ撫でやすい 藤 幹子
かつて紫陽花はなべて残像であると言った人もいたが、この作者によれば家禽だということらしい。まぁ紫陽花の花弁のもっさりした感じとか、ずっしり重そうな感じとかはなんとなくそう見えないこともないが(それでも家禽っていう括りはちょっとあいまいすぎやしないか、という疑義は挟みたくなる。字面はいかつくて好きだけど)、いずれにせよ”AはBと思う”という型は俳句の手法としてもはや常套だろう。
だがおそらく、この句の真骨頂はそこにはない。(ややもすると強引な推論かもしれないが)紫陽花と家禽との間に”撫でやすい”という共通点を見出したことがこの句の手柄である、というあり得べき読みは違うのでないか。つまり、紫陽花の見た目やその他何かしらの触覚以外の要素(明示されていない)がまず作者に紫陽花を家禽だと思わせしめ、そして実際撫でてみたら想像した以上に撫でやすかったことで、紫陽花=家禽という危うい推論を作者はついに確からしいものにしてしまったのではないだろうか。だから、上五中七の確信的措辞に読者が疑義を挟む余地は、むしろダメ押し的に放たれた”撫でやすい”一語によって消し去されてしまっていて、この形式上の特異性にこそ読まれるべきポイントがあると感じる。そしてまたこのある種強引な説得的手法に、私は作者のさりげない狂気を垣間見る。
鍵盤を外せば青葡萄びっしり ペペ女
なんとなく丸尾和広の世界のような。人間を描いたものではないけれども。
我の目に映る鬼灯市を去る 岸本尚毅
構造的。視界のなかに鬼灯市を捉えながらも、さらにメタな視点から「鬼灯市を横目に見ながら離れようとしている」自身を想起している。「私」の視点と「神」の視点とがごく短い言葉のなかに共存しうるのは、奇跡というよりはもはやちょっと怖い。
ハッピーアイスクリームハッピーアイスクリームハッピーアイスクリン マイマイ
”ハッピー”も”アイスクリーム”も楽しくて明るいイメージを惹起する言葉である。しかし、魔法の呪文”ハッピーアイスクリーム”が2度ほど繰り返され、最後が”アイスクリン”と尻切れトンボになってしまった刹那、深夜君が代の音楽とともにテレビ放送が静止画面に切り替わる瞬間のあのゾクッ感に似た何かがこみあげてくる。
(…とまで書いたところでもしや、と思い検索にかけてみると、やはり。子供遊びの掛け言葉としてありふれているものであるならば、描かれている情景は確定的なれど、怖いという感覚はちょっと違うかもしれない。)
■マイマイ ハッピーアイスクリーム 10句 ≫読む
第325号 2013年7月14日
■小野富美子 亜流 10句 ≫読む
■岸本尚毅 ちよび髭 10句 ≫読む
第326号 2013年7月21日
■藤 幹子 やまをり線 10句 ≫読む
■ぺぺ女 遠 泳 11句 ≫読む
第327号2013年7月28日
■鳥居真里子 玉虫色 10句 ≫読む
■ことり わが舟 10句 ≫読む
0 comments:
コメントを投稿