2013-11-10

【週俳10月の俳句を読む】俳句の中の「秋」 ことり

【週俳10月の俳句を読む】
俳句の中の「秋」

ことり


十月の作品群を読んで、「嗚呼、秋だ」という実感に満たされた。その実感は、現実の生活や自然の中で感じる「秋」とは少し違う。俳句の中の言葉から立ちのぼる秋の世界、それを満喫した。


六道の辻にごろりと鯨の頭   高橋修宏

「六道の辻」とくれば、これはもう秋だ。私は「六道参り」を経験したことはないが、その時期はまだ夏の暑さで実感として秋の到来を感じるどころではないと思う。しかしその経験が無くても俳句の世界で「六道の辻」という言葉に触れると、自ずと「初秋」を感じるスイッチが入る。「六道の辻」は京都東山の珍皇寺本堂前。そこは現世と冥土の境と言われる場所らしい。ゾッと秋を感じる場所に相応しい。そんなところに鯨の頭がごろりと転がっているブラックでシュールな図。それはあの世への一里塚なのか。


金環食王子の巨根祀るべし   高橋修宏

この句は何だか凄い。秋とは関係ないかもしれないが、とにかく凄い。しいて言うなら「巨根祀る」に季節の節目を感じる。農村の中には田の神に豊穣を祈ったり、感謝するために巨根を祀る風習があるという。白州正子の『かくれ里』に出てくる甲賀油日神社の「ずずいこ様」を思い出す。この王子も「ずずいこ様」のように幼子なのかもしれない。私がこの句を凄い、と感じたのはこの句を上五で切らず、「金環食王子」と読んでしまったためだ。上五で切れるのが本当は正しい。上五で切れると金環食の幻想的な光景が浮かびあがり、一句は非日常性、呪術性を帯びてくる。だが「金環食王子」という読み方も楽しくて捨てられない。「金環食王子」の巨根を祀るとは、一体その豊穣の凄さたるや・・・。


西瓜はなぜ永世中立国なのか   西原天気

この句は秋ではないが、ドカンと眼に飛び込んできた。
西瓜=永世中立国、というナンセンスがすでに一句の中にある魅力。突拍子もないけれど、西瓜が永世中立国だという断定がすぐに納得できてしまうのは、それこそ何故なのだろう。西瓜の中いっぱいに溢れる瑞々しいほのかな甘み、優しげな紅色、それが永世中立国のイメージなのか。
世の中には説明困難のまま、その現実を受け入れるしかない事が沢山ある。「私はなぜ女なのか」「私はなぜ日本人なのか」・・・「西瓜はなぜ永世中立国なのか」・・・なぜ、と問われてもそれはもう動かしようのない現実なのだからそのまま受け入れるしかない。どう転んでも西瓜は永世中立国らしい。


風一片灰から灰へのりうつる   西原天気

たっぷりと、秋への移ろいを感じさせてくれる一句。季語らしきものは見あたらないのに、秋を感じるほかはない。
「灰」という言葉に染みこんでいる終末感と、「のりうつる」という妖しげで静かな動き。秋の風が来たときに感じるそこはかとない寂寞感が漂っている。この外連味のない潔さ。羨ましいと思う。いとも軽々と可笑しくて傑作な句を作られる天気さんだが、こういう心に染みるような繊細な句も西原天気さんの俳句の魅力ではないかと思う。句集『けむり』を読んだ時にもそう感じた。


千鳥酢の色立たせたる秋日かな   上田信治

全句に前書きとして前短歌が付く。こうした前書き付きの俳句は一つのスタイルとして定着しつつあるようだが、両者を併せて読むと一句単独の世界とは違う深みが出てくる。短歌と俳句の間の微妙な距離感を手探りで読んでいく。この句の前には塚本邦雄の「壮年のなみだはみだりがはしきを酢の壜の縦ひとすぢのきず」という一首がある。苦い一首だ。この一首と響き合って「千鳥酢の色立たせたる」の「色立つ」が生きてくる。しかしこの句の味は苦い酸っぱさではない。秋日と千鳥酢がしっくりとよく合い、どこか艶々とした鮮やかさが感じられる。


しぐるゝや海苔弁うすく醤油味   上田信治

この句の前には斉藤斎藤の「雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁」という一首が置かれている。言葉の仕掛けによって、この世の秩序を踏み外すような斉藤斎藤の短歌。それが背景となって、この一句には「一体何やってんだ、俺は」といった情けなさや、呆れ顔やら諦念の色が否応なく滲み出てくる。「しぐるゝや」に引っ張られ「海苔弁」の侘びしさが骨身に凍みる。


コスモスの中を進みて妊婦は船   山口優夢

妊婦となった妻と、まだ見ぬ子への思いを綴った俳句群。中でもこの一句に惹かれた。子宮の羊水の中に浮かぶ胎児。母親の胎内はしばしば海に喩えられるが、作者の眼には、コスモスの中を進む母親は胎児を乗せている船なのである。内部に海を抱えている母体が外の世界では船となってたゆたう反転の面白さ。コスモスという波をかき分けてゆっくりと進むその船に乗っているかぎり胎児は安らかでいられる。


光ばかりを記憶せし小鳥来る   山口優夢

浪音のあかるき小鳥来たりけり   生駒大祐

この二句は作者違いながら、偶然「小鳥来る」という季語で詠まれている。一羽は「光ばかりを記憶する小鳥」、もう一羽は「波音のあかるき小鳥」。俳句で「小鳥来る」と言えば、北方から渡ってくる小さい渡り鳥のことだから、前者は太陽の下をひたすら飛び続けてきた小鳥、後者は海に墜ちまいと必死に波の上を渡ってきた小鳥。実際のところ小鳥は満身創痍のはずだが、作者の眼を通過した小鳥はそうではない。どちらも命の輝きに満ちている。


秋空を痛さうな木がとほりけり   生駒大祐

「痛さうな木」とはどんな木だろう。痛々しい形をした老木か、それとも既に落葉して枝ばかりとなった木か。秋空を痛そうな木が通るとは、どういう状態なのか、いろいろな見方が生まれて気になる一句だった。木の下に寝そべって秋空を眺めたら、落葉した木が空を貫通しているように見えるかもしれない。だとしたら、痛そうに見えるのは木ではなく秋空だろう。秋空の青さはどことなく痛そうな青だが、そこを痛そうな木が通るのだから、秋の痛さを二重に感じてしまう。


をぢさんの話芸つるつるくわりんの実   村越 敦

榠樝の実はどこか可笑しい。少しいびつで、尻餅をついたような形状が微笑ましい。「をぢさんの話芸」が面白くて笑ってしまうこととどこか通じあう。感覚的な受け止め方だが、おじさんの話芸と榠樝の実がどこかで一致することを瞬間的に飲み込める人にはポンと膝を打てる一句だと思う。両者を繋げているオノマトペ「つるつる」が上手いと思った。話芸が上手くてつるつると引き込まれてしまうのか、榠樝の実がつるつるしているのか、おじさんの頭がつるつるしているのか。全部ひっくるめてつるつるっと面白い一句。


ハシビロコウ微動ぞそれを金風と   村越 敦


愛嬌が無いことも愛嬌のうち、と言うべきか、とにかく動かないハシビロコウ。そんなハシビロコウが少しでも動いてくれたら嬉しい。普段笑わない人が、ちらっとでも笑ってくれたらそれこそハッとするくらい嬉しい。それと同じ心理だ。ハシビロコウが動いた瞬間、「あっ動いた!」と思う。こころに漣がたつような一瞬だ。その瞬間が金風なのだろう。ハシビロコウの動きとそれを感知した心の動きが一緒になった瞬間の風。なんとも爽やかな秋の風だ。



第337号 2013年10月6日
高橋修宏 金環蝕 10句 ≫読む
第338号 2013年10月13日
西原天気 灰から灰へ 10句 ≫読む
上田信治 SD 8句 ≫読む
第339号 2013年10月20日
山口優夢 戸をたたく 10句 ≫読む
生駒大祐 あかるき 10句 ≫読む
村越 敦 秋の象 10句 ≫読む

第340号 2013年10月27日
鈴木牛後 露に置く 10句 ≫読む
荒川倉庫 豚の秋 10句 ≫読む
髙勢祥子 秋 声 10句 ≫読む


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