【週俳1月の俳句を読む】
軽し薄し
瀬戸正洋
梅の木の枝おろしをした。おろした枝は一ヶ月程度そのままにしておき、少し枯れてから、あらかた燃してしまった。風も無くおだやかな、そして、抜けるような青空の日に。あちこちの畑からも煙が上がっている。だが、この空が病んでいることは誰もが知っている。時には、不気味な表情を見せることもあるからだ。この地にも大勢の神様がいらっしゃる。神様は、おやさしいから何もおっしゃらずに私たちに付き合って下さっている。
祖父が関東大震災のあと建てた家に私は老妻とふたりで暮らしている。九十年近くたった家でも雨風は凌ぐことはできる。人と家との関係は不思議なものだ。人が住まなくなると数年にして廃屋となってしまう。家の神様は人がお好きなのだ。人がいなくなると神様は決まって人の住む他の家にお移りになってしまう。
大根に囲まれ警棒など要らぬ 佐怒賀正美
夜、巡回をしている。ふと、われに返ると、そこは一面の大根畑。当然のことながら大根に囲まれていることに気付いた。気付いたとたん夜警をしている自分が何かつまらない人間のように思えてきた。警棒を持って歩くということは「悪」について考えるということだ。「警棒など要らぬ」とは、そんな詰まらない事に思いを巡らしている自分自身を嫌だと感じているのだ。
三界に何はなくても置き炬燵 佐怒賀正美
三界とは迷いと欲望の世界。私たちの日常と置き換えてもいいのだろう。暖を取る方法はいくらでもあるが、誰でも、現在の方法が一番だと思っている。人は自分が一番必要なものに対して迷い、欲望が芽生えるのである。
夜回りを労ふ狐のかくし酒 佐怒賀正美
狐のかくし酒とは、いったい何なんだろう。そんな果実酒があるのかも知れない。それとも、日本酒、あるいは焼酎の銘柄なのか。作者は自治会の役員なのだろう。夜回りから帰ってきた人たちを「狐のかくし酒」で労うのだ。ただ、この行為には何か惚けたような、ほのぼのしたようなものが感じられる。平和な町なのだ。このお酒には、「BACCHUS」ではなく日本の神様が微笑んでいらっしゃる。
寒さうに未来を売りぬ暦売 川名将義
「寒さう」にカレンダーを売る。買った方も「寒さう」だと感じている。「寒さう」なのは、その商売の「場」だけではなく買った人の未来も「寒さう」なのだ。もちろん、私たち人類の未来も。
一枚の氷を天は地にあたへ 川名将義
天が一枚の氷を作り地にその氷を与える。だが、そのためには第三者である人の意志が必要なのである。氷が張っていると、ついつい、それを手に持ち地面に叩きつけたくなってしまうのは人の性であるよりも天の意思なのだ。
冬深しコーヒー豆の黒き溝 小野あらた
炒った珈琲豆には冬の季節がよく似合う。さらに、その黒い溝から「冬深し」と感じたことにより、一段と、その淹れた珈琲の味わいも深くなるような気がする。
裏路地の空のでこぼこ寒夕焼 小野あらた
空がでこぼこしているのは家並みのせいなのである。裏路地には、そんな民家が立ち並び、人びとは質素に、そして、堅実に暮らしている。さらに、寒夕焼けがそのことを、より相応しいものにしている。でこぼこした空の夕焼け。確かに裏路地には寒夕焼けが一番似合うのかも知れない。
セーターを脱げば眼鏡の引つ掛かる 小野あらた
何かをすれば何かが起こる。これは暮らしの中では当然のことなのである。もしも、何も起きなかったら、それは神様の行いなのである。この作品、正しくても間違っていても、自分のしたことは、必ず自分に返ってくるということを、誰にでも理解できるように単純に表現している。さらに、眼鏡がセーターに引っ掛かったあと作者には何が起こるのか。
洟垂れ子生き抜け星にならずとも 玉田憲子
実際に「洟垂れ子」がいたのかも知れないが、私はこのような作品に出会うと、作者は自分を鼓舞しているのだと思ってしまう。「洟垂れ子」とは、自分自身のことなのである。自由を売って金と交換する日々の暮らしの中に楽しさなどあるはずがないことは当たり前のことなのだ。誰も星になどなれるはずもないのだから、人生、どこで折り合いをつけるのかが、死ぬまで「洟垂れ子」である私たちには肝心なことなのである。
凍てし夜のG線上のアリアかな 玉田憲子
改めて「G線上のアリア」を聴いてみると、確かに、寒い夜にあたたかい暖房の効いた部屋で聴くことがふさわしいような錯覚に陥ってくる。音は下げた方がいい、もちろん、スコッチウヰスキーの水割も欲しい。錯覚なのだからお酒は絶対に必要なのである。
私がこの曲をはじめて聴いたのは休日の喫茶店のモーニングセットを食べていた時、珈琲とトーストとゆでたまごと少々のドレッシングのかかった野菜。マスターに曲名を尋ねると「G線上のアリア」と答えた。確か小説の中で読んだ記憶のあった曲名であり、これが「G線上のアリア」なのかと、その時、思った。窓からは朝のまぶしい太陽の光が差し込んでいた。
このような小品を聴いたりすると、自分が身動き取れない状況に陥っている時でも、少しずつ、心の中に隙間が生まれてくるような気がしてくる。少し離れた場所から自分を見詰め直すことができるのだ。
畑に出ていると通り掛かりの人は必ずといっていいくらい立ち止まり世間話をしていく。見知らぬ人が歩いて来たりするとそれは神様が山から下りてきたのだろうかなどと思ったりする。人が通り過ぎる気配を感じるだけの時もある。私は草刈をするだけで消毒もしなければ肥料などもやらない。この畑は蜜柑畑だったが害虫にあらかたやられてしまい、今では梅、柚子、金柑、柿が数本残っているだけだ。蜜柑畑をだめにしてしまったことについて気になっていることがある。私は体調が悪くなると医者に行き薬を処方してもらう。自分は薬に頼って何とか生きているのだ。それなのに蜜柑の木に対しては農薬を散布することもなく何もしないで全て枯らせてしまった。それでいて今年の夏は除草剤を撒いてみようかなどと考えている。私は軽薄なのである、何もかもがいい加減なのである。
日が暮れてきた。焚火の始末をして家に入ろうと思う。残り火は格別なものだ。夕闇の中、燃え尽きてしまう直前の炎は、何故、こんなにも美しいのかと思う。
第350号2014年1月5日
■新年詠 2014 ≫読む
第352号2014年1月19日
■佐怒賀正美 去年今年 10句 ≫読む
■川名将義 一枚の氷 10句 ≫読む
■小野あらた 戸袋 10句 ≫読む
第353号2014年1月26日
■玉田憲子 赤の突出 10句 ≫読む
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2014-02-09
【週俳1月の俳句を読む】軽し薄し 瀬戸正洋
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