〔今週号の表紙〕
第363号 あまい囁き
中嶋憲武
≫承前
武蔵境の駅から、どれくらい歩いただろう。
「不死鳥」という名のショッピングセンターの廃墟を眺めてからも、ぼくとヒノコさんは無言で歩いた。
ぽかぽかと暖かい日で、すこし汗ばむ感じ。
国際基督教大学の敷地に沿って道なりに行くと、「小鳥の樹」という小さなレストランがあった。
仕舞屋の一階部分を店にしたらしく、気をつけていないとふっと通り過ぎてしまい兼ねない佇まい。
ちょっと疲れていたし、喉も乾いていたので入ってみることにした。
テーブル席が四つほどの小さいけれど、居心地の良さがあった。
ヒノコさんはフルーツムースと紅茶、ぼくはガナッシュケーキとコーヒーをオーダー。
店内に低くパーシー・フェイスだかレーモン・ルフェーブルだかのイージー・リスニングが流れている。
「パローレパローレ」ヒノコさんは小さく口ずさんだ。曲のサビの部分の歌詞だ。
「この曲、もとはイタリアの歌だよね」
「そうなんだ。ダリダとアラン・ドロンのしか知らないにょ」ヒノコさんは、語尾に「にょ」を付けた。
「それはカバーで、もとはイタリアの、ええと、ミーナとアルベルト・ルーポだったっけかな」
「へえ、よくご存じで」
「日本では、中村晃子と細川俊之、金井克子と野沢那智がカバーしてる。他にもしてるけど、あとのはどうでもいいよ」
「ああ、そうか。知ってる。細川俊之の。すごい気障でしょ」
「ぼくは金井克子と野沢那智のカバーがいい。アラン・ドロンは野沢那智でしょ」
「ダリダとアラン・ドロンのが、有名だからねえ。イタリアの原曲はどっかへ飛んでいっちゃってるね」
「細川俊之のは、コントのネタに使えそうな、実際使われたりしてるけど、そういう隙を見せてるけど、野沢那智のはそういう隙がないにょ」ぼくはヒノコさんを真似て、語尾に「にょ」を付けて言ってみた。
「で、結局あなた野沢那智が好きなんでしょ」
「いや、アラン・ドロンの吹き替えの野沢那智の声かな」
ガナッシュケーキは甘く、コーヒーは苦かった。家族連れが入ってきて、店主と親しげに話している。この辺では結構流行っている店らしい。
店を出て通りに出ると、送電鉄塔が目に付いた。巨大なロボットが腕を振って歩いてくるようだ。きれいな月の晩には歩き出す。きっと。
パローレパローレパローレ。
ヒノコさんは小さく歌うと、さっきの店、また来てみたいねと独り言のように呟いた。
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