空蝉の部屋 飯島晴子を読む
〔 22 〕最終回
〔 22 〕最終回
小林苑を
『里』2013年6月号より転載
これ着ると梟が啼くめくら縞 『蕨手』
やはりこの句で終わろうと思う。
俳句を始めて間もない頃、この句に出会って、こんな一句を作りたいと思った。似ている句ということではもちろんないし、こんな傾向の、こんな作りのというのでもない。この句を目にした途端、私はとある場所に連れて行かれていた。こんな一句とは、人を攫ってしまう句としか言いようがない。
そういえば、人攫いとはゾクゾクする言葉だ。攫われるのは子供や若い娘が相応しい。それは可弱くて、無垢で、原初的なもの。それを絡め取るために巧みに騙し、ときには力ずくでガサッと連れ去る。
人攫いが優しい顔をして「ほら見てごらん」と鏡のようなもの取り出すと、そこにはこちら側のものたち、ときには自分自身が映っているようなのだ。思わず覗きこむと強引に引き摺り込まれ、或いは自ら鏡の中に入ってしまっていたりする。いま見たものは本当だったのかを吟味している暇はない。一瞬にしてワープする。
人は攫われたいのだ。そうでなければゾクゾクはしない。この現実を裏返してみたい。そこにいるのはもうひとりの私で、その私もまた現実を裏返してみたいと思っており、どちらが本当の私なのかわからなくなるのだが、そんなからくり鏡の魔力に晴子も捉まえられたのだと思う。
「俳句をつくる作業のなかで、言葉を扱っていていつからともなく、言葉というもののはたらきの不思議に気がついた。言葉の偶然の組合せから、言葉の意味以外の思いがけないものが顕ちのぼったり、顕ちのぼりかけたりすることを体験した。そこに顕ってくるのは、私から少しずれている私であり、私の予定出来ない、私の未見の世界であった。私の監督をうけずに自由にしている言葉たちの向うに、私の知らない私を見ることは、味をしめればやめられない面白いゲーム(狩猟)であった。」〔※1〕
「既成の秩序は、言葉における本意と置き換えられるだろう。私の生まれ育った環境は、しぜんに私を本意の側に固定していた。本意の側、即ち滅びる側である。言葉と物が、私のなかではっきりしたかたちをとるまでは、私はむしろ、本意を攻撃する側にいるつもりであった。京都という都会に生まれ育った私のまわりは、本意のうっとうしさに満ち満ちていたから、これに抵抗していると思っている間は爽やかに仕合わせであった。しかし、こういうことは、嫌だからといって向こう側へ鞍替え出来るものではない。運命自体を、どれだけ引き延ばせるかということである。運命を自覚し、腰を決めて居直れば、これは賭けてみるだけのことのある、なかなか面白い仕事である。」「本意の血の濃さを逆手に使わなければ、私には何も使うものがない ー略― 破調や自由律を使うより、五・七・五典型を使うほうが、定型的世界に対する報復が、私の私自身への報復が、二重のエネルギーをもって達成される。静かに、徹底的に、恨みが果たせる。自他への私の残酷さが完璧に満足させられる ―― 嗚呼、そんなことをしてみたいと熱望する」〔※1〕
ひとつの時代を生きた女性の言葉として、この生真面目さ、気負いをときには鬱陶しいと思ったりもする。晴子は母の世代だとはじめに書いた。母とは鬱陶しいものだ。それは、晴子が「うっとうしい」と書いた本意でもあるのだ。同時にこの頃の晴子の年齢を過ぎると、人はもう恨んだりするような体力・気力は失せ、よく言えば多少の達観か諦念とともに緩やかに自然体になっていくのだと、晴子句の変化にそれを重ね合わせて得心する。
めくら縞は細かい縦縞模様のことで、それも黒紺などの暗い色の縞なので遠目には無地に見える。木綿で織って普段着・野良着にするのが普通だろう。その闇のような色目からめくら縞と呼ばれ、そう思えば哀しい名だが、一方でそれは模様の名前に過ぎず、ことさら意識などせず使っていた言葉でもある。
めくらというのは差別語だというので禁忌になって、本当に差別語になってしまった。言葉にはそれ自体の持つ質感があり、その質感ごと葬り去られてしまったので、「これ」と指し示されたものが「めくら縞」であるとわかったときの暗さの質感も判りにくくなっているのかもしれない。暗いけれどよく見ればいろいろな色が見えてくるめくら縞には一条の光のようなものも織りこまれていて、梟が啼きはじめる胸の内はからっぼだけれど、それでも生きているから啼くのである。
無邪気や奔放や自堕落を幼さとするなら、大人とは運命を引き受ける覚悟のことだろう。晴子句の凜とした響きはこの覚悟に見合っている。空蝉も吹けばホーホーと音がするだろうが、吹くのは襖を閉めた誰にも知られない場所でなければならない。そんな大人が減ってきた。そのように生きろという時代でもない。
それでも、多くの人が晴子の句に魅了され、俳句が書けなくなると晴子を読むんですと話してくれた俳人もいる。晴子について書かれたものは多数あり、いまも語られる。時代が変わっても梟は啼くのだろう。
六月六日は晴子の命日である。
〔※1〕『飯島晴子読本』収録 「言葉の現われるとき」
〔※2〕『飯島晴子読本』収録 「わが俳句詩論」
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